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【生きることは考えること】(I think, therefore I am)
Why are we here? The answer is very simple. Because we think. In other words, if we don't 
think, we are the same animals which live and die there in the nature.

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生きるということは、どういう
ことなのか?

+++++++++++++++++

私たちは生きているというよりは、
生かされているだけ?

今朝、そんなことを考えた。

たとえば「見る」ということを考えてみる。

目の前には、コナラの木がある。
淡い黄緑色の葉をつけ始めた。
水色の空を背景に、春のそよ風の中で、
やさしく揺れている……。

で、「見る」ということは、コナラの木に
反射された「光」を、目が、感受している
からにほかならない。

そこで私は、ふと考える。

「どうして空気は見えないのか」と。
「窒素や酸素は、見えないのか」と。

物理学的に言えば、空気は、光をそのまま
通してしまうから、ということになる。

が、ほんとうに、そうだろうか。
そう考えてよいのだろうか。

そこで見えるということを、
こう考えなおしてみたらどうだろうか。

「もし空気を見ることができたとしたら、
人間の目は、どうなっていただろうか」と。

紫色なら紫色でもよい。
青色なら青色でもよい。
もし私たちが空気の色を見ることができた
とするなら、空気以外のものは、見えない
ことになる。

そこは紫色だけの世界。
青色だけの世界。

たとえて言うなら、土の中に住むミミズの
ようなもの。

ミミズは、土の中で、土しか見ていない。
土しか、見ることができない。
しかも光のない世界だから、そこは暗闇の
世界。

となると、ミミズの目が退化してしまった
ように、人間の目も退化してしまっていたに
ちがいない。

見えるものが空気だけでは、目としての意味はない。

が、そのままでは、困る。
空気にじゃまされて、その向こうのものが
見えないとしたら、人間は、そのつど、
種々の物体と、衝突を繰りかえすことになる。

あっちでゴツン、こっちでゴツンと……。
崖があれば、そのまま、まっさかさまに、落ちていく……。

そこで、もし、人間が空気を見ることができたとするなら、
(あるいは空気が見えるものであったとするなら)、
人間は(目)に代わるものを、進化させていたに
ちがいない。

深海に住むイルカは、超音波で、物体をさぐる
ことができるという。
あるいは、暗い洞窟に住むコウモリのようでもよい。
人間も、そういった能力を進化させたにちがいない。

しかしそうなったとするなら、今度は、コナラの木も、
ずいぶんとちがったものに見えているはず。

そこは白黒の世界? 
枝は黒い影、葉はうすい影……。

つまり「見る」ということをひとつ取りあげても、
人間にたいへんつごうよく、そのように、
できるようになったにすぎないということがわかる。

「見る」と言っても、そのように見させられて
いるだけ、ということ。

で、人間は、こう思う。

「気持ちいいな」
「やはり山の緑はいい」
「とくに春先の若葉の色がいい」
「水色の空も、美しい」と。

しかしこれについても、こう言える。

「そういうふうに思うのも、実はしくまれた
感動である」と。

というのも、太古の昔、人間は、猿に近い
動物であったという。

さらにその前は、魚に近い動物であったという。

緑が美しいと思うのは、私たちが猿であった時代の
名残かもしれない。

淡い水色の空を美しいと思うのは、私たちが
魚であった時代の名残かもしれない。

猿であった時代には、私たちは森の木々に
守られて生きた。

魚であった時代には、透明な水の中で、
餌をさがしながら生きた。

それがそのまま今、(感覚)として反映されている。

反対に、不毛の砂漠を見たり、大きな火を見たり
したとき、不安になることがある。

それも、進化の過程で、つくりあげられた(感覚)
ということになる。

つまりこうして考えていくと、(生きる)といっても、
私たちは、実は(生かされているだけ)という
ことがわかってくる。

中には、「私は生きている」「自分の力で生きている」と
思っている人もいるかもしれない。
が、実は(生かされているだけ)と。

そのことは、野原で遊ぶ小鳥たちを見ればわかる。

どの小鳥も、それぞれがてんでバラバラに、
好き勝手なことをしている。

しかし小鳥は小鳥。
その(ワク)の中でしか、生きていない。
つまり、そのワクの中で、生かされているだけ。

居心地がよいから、小鳥は、野原にいる。
餌があるから、そこで遊ぶ。

人間も、またしかり。
「私は私」と思っている人も多いが、実は、
内なる命令に、従っているだけ。
わかりやすく言えば、(ワク)の中で、
生かされているだけ。

食欲や生存欲、性欲については、今さら
説明するまでもない。

私たちの生活のほとんどは、そのバリエーションの
上に成り立っていると言っても過言ではない。

そこにレストランがあるのも、仕事をするのも、
また結婚するのも、そうだ。
もとを正せば、その向こうに、食欲があり、
生存欲があり、性欲があるからにほかならない。

となると、改めて、(生きる)とは何か、
考えてしまう。
あるいは(生きる)ということは、どういうことなのか、
考えてしまう。

……といっても、私の結論は、いつも同じ。

こうした(ワク)の外にあるものは何かと
問われれば、それは(考えること)に
ほかならない。

この(考える)ということだけは、だれにも
じゃまされない。
この(考える)という部分だけは、
(ワク)の外にある。

言いかえると、私たち人間は、考えることによって、
(ワク)の外に出ることができる。
(生きる)ということを、私たち自身のものとする
ことができる。

もっと端的に言えば、私たちは考えるからこそ、
人間ということになる。

裏を返していうと、考えない人というのは、
人間ではない、つまりそこらの動物と同じ
ということになる。
……というのは、少し言い過ぎということは
わかっている。

しかしこの視点を踏み外すと、では私たちは
何のために生きているか、それがわからなく
なってしまう。

あるいは「生きている」と思いこんで、
生きているだけということになってしまう。

朝起きて、毎日、同じことを繰りかえす。
そして同じように一日を終えて、床につく。

しかしそれでは、冒頭に書いたように、
ただ生かされているだけということになる。

それを避けるためのゆいいつの手段といえば、
(考えること)ということになる。

以前、「生きることは考えること」という題で、
こんな原稿を書いたことがある。

書いてから、すでに6、7年になるが、
今でも、その思いに変わりはない。

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●生きることは、考えること

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、ときどき、こんな意
地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうな
るか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代の子
育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。

しかし新聞にものを書くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者
の顔が見えない。反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなこ
とを書いて!」と怒っている人だっているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果てのない
荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でもあった。書く
たびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことが
多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは、「考え
る」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そ
してその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。し
かしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事があ
ると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあ
がる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま
読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。

「載ってる?」と。その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださ
り、ありがとうございました。」 

++++++++++++++++++++++

みなさんへ、

生きているって、すばらしいことですね。
これからも、そのすばらしさを、このマガジンを
とおして、追求していきたいと思います。
今回は、「おわび号」ということで、その
「生きる」について、書いてみました。

これからも、どうか、マガジンを、お読み
ください。


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同じような内容の原稿ですが、もう一作
添付します。

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●雑感

 六月に静岡市で講演会をもつ。私はどうしてもその講演会を、成功させたい。「成功」というの
は、心残りなく、自分を出しきるということ。講演をしていて、一番、つらいのは、終わったあと、
「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔すること。どこか中途半端なまま終わるこ
と。正直に告白するが、そういう意味では、私はいまだかって、一度とて成功したためしがな
い。

 それに「アメリカのある学者がこう言っています」などという、いいかげんな言い方はしたくな
い。言うとしても、きちんと、「マイアミ大学の、T・フィールド博士はこう言っています」という言い
方をしたい。そのためにも、下調べをしっかりとしておきたい。

 ここで「静岡市」にこだわるのは、静岡県の静岡市、つまり県庁所在地だからである。同じ静
岡県の中でも、浜松市で講演するのと、静岡市で講演するのとでは、意味が違う。それに私の
講演では、東は大井川を越えると、とたんに集まりが悪くなる。さらにその東にある静岡市とな
ると、もっと悪くなる。恐らく予定の半分も集まらないだろう。だからよけいに、成功させたい。

 しかし私はときどき、こう思う。講演のため、数百人もの人を前にしたときだ。「どうしてこの私
がこんなところにいるのだろう?」と。それは実におかしな気分だ。「この人たちは、何を求め
て、ここに来ているのだろう」と思うこともある。だから私は、来てくれた人には、思いっきり、役
にたつ話をすることにしている。私利私欲という言葉があるが、講演では、「私」そのものを捨
てる。かっこよくみせようとか、飾ろうという気持ちも捨てる。こういうとき政治家だったら、自分
をより高く売りつけて、票に結びつけようとするだろう。が、私には、そういった目的もない。

よく主催の方が本を売ってくれると申し出てくれることもあるが、ほとんどのばあい、私のほう
が、それを断っている。そういう場を利用して、本を売りつけるというのは、私のやり方ではな
い。

 ひとつ心配なことがある。それはこの数年、体力や気力が急速に衰えてきたこと。講演の途
中で、ふと自分でも何を話しているかわからなくなるときがある。あるいは頭の中がボーッとし
てきて、話し方そのものがいいかげんになることもある。言葉が浮かんでこなかったり、話そう
と思っていたことを忘れてしまうこともある。こうした傾向は、これから先、ますます強くなるので
は……?

 生きている証(あかし)として、私は講演活動をつづける。私にとって生きることは考えること。
考えるということは、書くこと。その結果として、私の意見に耳を傾けてくれる人がいるなら、私
は自分の経験と能力を、そういう人にささげる。本当のところ、「メリット」を考えても、それは、
あまりない。もちろん「仕事」にはならない。しかし以前のように、疑問をもつことは少なくなっ
た。

三〇代のころは、「なぜ講演をするのか」「なぜしているのか」ということを、よく考えた。が、今
は、それはない。そういうことは、ほとんど考えない。今は、やるべきことのひとつとして、講演
活動を考えている。

どうせやがて消えてなくなる体。心。そして命。死ねば、二度と見ることもないこの世界だが、そ
こに生きたという証になれば、私はそれでよい。

++++++++++++++++

●このマガジンの読者の方で、静岡市周辺に住んでおられる方がいらっしゃれば、どうか、講
演会においでください。まだ私が元気なうちに、私の話を聞いてください。一生懸命、みなさん
の子育てで役立つ話をします!
03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136

(03−1−22)記


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●情報と思考

++++++++++++++++++++

情報と思考は、別。
もの知りな子どもイコール、頭がよいということ
にはならない。

たとえば掛け算の九九をペラペラと言ったからと
いって、その子どもは、頭がよい子どもとは言わない。
いわんや、算数ができる子どもとは、言わない。

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 もちろんテレビ番組の影響だが、子どもたちの世界でも、「IQサプリ」「知能サプリ」という言葉
が、日常的に使われるようになった。昔でいう、「トンチ」、あるいは「ダジャレ」と考えればよい。
いわゆる、脳みその体操のようなものだが、英語でいう、クイズとか、リドルも、それに含まれ
る。

 かたくなった脳みそを刺激するには、よい。体でいえば、今まで使ったことのない筋肉を動か
すようなもの。しかし誤解してはいけないのは、そういうことができるからといって、頭がよいと
いうことには、ならない。またそういう問題で訓練をしたからといって、頭がよくなるということで
もない。頭のよさは、論理性と分析力によって決まる。もっと言えば、論理性と分析力は、一
応、ひらめき思考とは、区別して考える。

 そのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 中に、つぎからつぎへと、パッパッと、言動が変化していく子どもがいる。言うことなすこと、ま
さに天衣無縫。ひらめきというか、勘がよいから、何かクイズのようなものを出したりすると、そ
の場でスイスイと解いてみせたりする。

 が、そういう子どもが頭がよいかというと、そういうことはない。トンチや、ダジャレがうまい子
どもイコール、頭がよいということではない。(もちろん中には、その両者をかね備えた子どもも
いるが……。)

 むしろ現実には、いわゆる頭のよい子どもというのは、静かで、落ちついている。どっしりとし
ている。私はよく、『子どもの頭のよさは、目つきを見て判断したらいい』と言う。このタイプの子
どもは、目つきが鋭い。何か問題を出しても、食い入るようにそれをじっと見つめる。

 もちろんこのタイプの子どもは、知能サプリ的な問題でも、スイスイと解くことができる。が、そ
の解き方も、論理的。理由を聞くと、ちゃんとした説明が返ってくる。

 で、私も、そういった番組を、ときどき見る。たまたま昨日(11・19)は、こんな問題が出され
ていた(「IQサプリ」)。

 四角い紙の真中に、小さい文字で、「つ」と書いてある。これを「失格」とするなら、「合格」は、
どんな紙に、どう書けばよいか、と。

 四角い紙の真中に「つ」が書いてあるから、「四角の中に、つ」、だから、「し(つ)かく」と。

 この方法で、「合格」を表現しようとすると、五角形の中に、「う」を書けばよいということにな
る。「五角形の中に、(う)だから、ご(う)かく」と。

 「なるほど」と思いたいが、しかし、これは論理の問題というよりは、まさにダジャレ。こうした
問題が、論理性と結びつくためには、そこに法則性がなければならない。が、その法則性は、
どこにもない。その法則性がないから、こうした問題には、発展性がない。もちろん実益もな
い。

 たとえばこうした問題を土台にして、(形)と(最小の文字)で、言葉を表現できるようにすれ
ば、それが論理性ということになる。

 三角と、(あ)で、「錯覚」
 四角と、(い)で、「鹿」
 五角と、(う)で、「誤解」とかなど。(少し苦しいかな……。)

 つまり、ダジャレは、どこまでもダジャレ。が、それよりも恐ろしいと思うのは、こうした意味の
ないダジャレが、いくら娯楽番組とはいえ、全国津々浦々に、放送されているということ。その
ために、日本人の何割かが、くだらないダジャレにつきあい、時間をムダにする。言いかえる
と、それまでの巨大メディアを使ってまで、こんなことを全国に知らせしめる必要があるのかと
いうこと。

 ケバケバしい舞台。チャラチャラした出演者たち。その出演者たちが、意味もなく、ギャーギ
ャーと騒いだり、笑ったりしている。知恵をみがく番組というのなら、それなりに知性を感ずる番
組でなければならない。が、おかしなことに、その知性を感じない。

私は、今の今も、多くの子どもたちを見ている。そういう子どもたちと比較しても、この種の番組
は、質というか、レベルが、2つも、3つも低い。つまりそれが、こうした番組のもつ限界というこ
とになる。

【補足】

●情報と思考力

 もの知りイコール、賢い人ということにはならない。つまりその人がもつ情報量と、賢さは、必
ずしも一致しない。たとえば幼稚園児が、掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、そ
の子どもは、頭のよい子ということにはならない。もちろん算数のできる子ということにはならな
い。

 しかし長い間、この日本では、もの知りな子どもイコール、優秀な子と考えられてきた。受験
勉強の内容そのものが、そうなっていた。一昔前までは、受験勉強といえば、明けても暮れて
も暗記、暗記また暗記の連続だった。

 さらにそれで勉強がよくできるからといって、人格的にすぐれた人物ということにはならない。
もっとわかりやすく言えば、有名大学を出たからとって、人格的にすぐれた人物ということには
ならない。

 しかし私が子どものころは、そうではなかった。学級委員と言えば、勉強がよくできる子ども
から選ばれたりした。勉強のできない子どもが、まれに学級委員に選ばれたりすると、先生
が、その選挙のやりなおしを命じたりしていた。

 話がそれたが、その子どものもつ情報量と、その子どもがもつ思考力とは、関係はない。(も
ちろん、中には、その両方を兼ね備えている子どももいる。あるいはその両方ともに、欠ける
子どももいる。)

 そこでさらに一歩、情報と思考について、考えてみる。

 情報というのは、ただ単なる知識にすぎない。その情報が、思考と結びつくためには、その情
報を、選択→加工→連続化しなければならない。最後にその情報を、論理的に組みあわせ
て、実生活に応用していく。それが思考である。

 これをまとめると、つぎのようになる。

(1)情報量(情報そのものの量)
(2)情報の選択力(必要な情報と、そうでない情報の選択)
(3)情報の加工力(情報を別の情報に加工する力)
(4)情報の連続性(バラバラになった情報を、たがいに結びつける)
(5)情報の応用性(情報を、実用的なことに結びつける)

 (1)の情報量をベースとするなら、(2)〜(5)が、思考力の分野ということになる。

 言うなれば、「IQサプリ」にせよ、「知能サプリ」にせよ、(1)の段階だけで、停止してしまって
いる。「だからどうなの?」という部分が、まるでない。ムダだとは思わないが、しかしその繰り
かえしだけでは、意味がない。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。情報と思考のちがいがわかってもらえれ
ば、うれしい。

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●知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと
言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができ
るということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話
をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったとき
のこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」
と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にして
しまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというの
は、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなこ
とをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱その
ものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子
どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になって
いる。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロン
ドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で
考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断ので
きる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年・
田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含ま
れる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ (はやし浩司 家
庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 
education essayist writer Japanese essayist 思考 情報 生きる 生きるということは、考える
こと なぜ人は生きるか)








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●学力調査テスト(School Test in Japan)

++++++++++++++++++

昨日、全国で、一斉に学力テストが
実施された(4月22日)。

産経新聞の記事をそのまま紹介させて
もらう。

+++++++++++++以下、産経新聞+++++++++++++++

 「全然明るい」は正しい? 福沢諭吉の身長は? ……。小6と中3の児童生徒を対象に22
日に行われた全国学力テストでは、学力を実生活に活用する力を意識した出題傾向が強まっ
た。文部科学省は昨年と出題の領域や分量に大きな変更はないとしたが、基本的な知識を問
う「A問題」で、学校生活を題材にした出題が目立ち、PISA(OECDによる学習到達度調査)
型の学力を求める姿勢が一層浮き彫りになった。

 算数・数学では小6のA問題で、「約150平方センチ」の面積について(1)切手(2)年賀はが
き(3)教科書の表紙(4)教室の床−の選択肢から選ぶ四択問題を出題(正解は(2))。セン
チメートルという単位について肌身で理解しているかを調べた。

 中3のB問題(活用)では、「明治期の文豪、樋口一葉の身長が140センチ台であることが判
明した」との新聞記事を引き合いに、慶応義塾創設者の福沢諭吉の身長を出題。上腕骨の長
さから身長を推定する数式を活用させつつ、数学が意外な(謎)を解いてくれる一面をアピール
した。

 国語では、中3のB問題で、若者の間では肯定表現として使われることが多い「全然」の使い
方に関するリポートを出題。「全然明るい」という表現の賛否について、いずれかの立場に立た
せて理由を説明させる約100字の"ミニ小論文で言葉に対する感度をはかった。

 一方、前回誤答が多かった問題の類題も。昨年の小6算数では「底辺×高さ」の公式で求め
られる平行四辺形の面積について、斜辺の数値など不要な情報を加えつつ、別の長方形の面
積と比較させると、正答率が18%と低かった。今回は底辺、高さのほかに斜辺の数値を示す
単純な問題で、理解の正確さを調べた。

 文科省によると、四十数年前の全国調査や近年の抽出調査と同一の問題が全教科で計25
問出題されており、結果が注目されそうだ。

+++++++++++++以上、産経新聞+++++++++++++++

●もの知りから、考える子どもへ

教育全体の傾向としては、(もの知りな子ども)から、(考える子ども)と、
教育の目標そのものが、シフトしている。

しかしこれは(変化)ではなく、(欧米化)である。
もっと言えば、(世界に合わせた、標準化)ということ。
日本の教育は、あまりにもゆがんでいた。

今後、この傾向は加速されることはあっても、減速されることはない。
たいへんよいことだと歓迎する。

ところで「明治期の文豪、樋口一葉の身長が140センチ台であることが判明した」
(学力テスト)という。

低い?

「腕骨の長さから身長を推定する数式」ということだから、樋口一葉が、
死亡したときの身長ということになる。

しかしだれしも、老齢になると、身長が縮む。
見た感じ、3分の2程度になる人だって、いる。
そういう事実をさておいて、「では、福沢諭吉は……?」という計算をしても、
あまり意味はないのではないか。

もう一度、問題をよく読んでみよう。

++++++++++++++以下、問題より++++++++++++++

【中学3年B】
【問題1】

桃子さんは,樋口一葉ようのおよその身長が、 上
じょう腕わん骨こつ(肩とひじの間の骨)の長さから推定された
ことを新聞記事で知り、その内容を下のようにまとめました。

桃子さんのまとめ

一葉さんの身長は140cm 台
写真や絵から身長を算出できる

明治時代に活躍した作家・樋口一葉(1872 ?1896)
の身長は140 cm 台だったことを、解剖学と郷土史の
研究者が明らかにした。

この研究者らは,樋口一葉の写真を分析し、一葉が身につ
けていた和服から、一葉の上腕骨の長さを突き止めたそうだ。
そして、男女の身長と上腕骨の長さとの関係から求めた、
明治時代の頃の成人の身長を推定する式に当てはめて、
一葉の身長を推定した。

桃子さんは,明治時代の頃の成人の身長について調べたところ、上腕骨の
長さ(cm)から身長(cm)を推定する式があることが分かりました。そして、
その式をおよその数を使って、下のように表しました。

男性の身長= 2.8 ×(上腕骨の長さ)+ 73 
女性の身長= 2.5 ×(上腕骨の長さ)+ 79 

(問い)

前ページの式を使って,次の(1)から(3)までの各問いに答えなさい。

(1) 桃子さんは、一万円札の肖像になっている
福沢諭吉の身長を調べることにしました。
そこで、写真を分析して、 上腕骨の長さを
約36cm と求めました。

このとき, 前ページの式を使うと、
福沢諭吉の身長は約何cm と考えられますか。
下のアからオの中から1つ選びなさい。

ア 約164cm   イ 約169cm
ウ 約174cm   エ 約179cm
オ 約184cm

(2) 明治時代の成人の女性2人について、上腕骨の長さの差が4cm のとき、
この2人の身長の差は何cm と考えられますか。2人の身長の差を求めな
さい。

上腕骨の長さの差
上腕骨の
長さの差

(3) 明治時代の成人について、上腕骨の長さの差と身長の差の関係を考えます。
男性2人の上腕骨の長さの差と女性2人の上腕骨の長さの差が同じとき、
男性2人の身長の差と女性2人の身長の差では、どちらが大きいと考えら
れますか。下のア、イの中から1つ選びなさい。また,選んだ理由を説明
しなさい。

ア 男性2人の身長の差
イ 女性2人の身長の差

【問題2】

直樹さんは、2けたの自然数と、その数の十の位の数と一の位の数を
入れかえた数の和がどんな数になるかを考えています。

21 のとき  21+12 = 33
35 のとき  35+53 = 88
47 のとき  47+74 =121
82 のとき  (        )

上で調べたことから,直樹さんは,次のことを予想しました。

直樹さんの予想

2けたの自然数と,その数の十の位の数と一の位の数を入れかえた数の和は,
11の倍数になる。

次の(1)から(3)までの各問いに答えなさい。

(1) 上の( ) に当てはまる式を書きなさい。

33 = 11 × 3
88 = 11 × 8
121 = 11 × 11

いつでも11 の倍数に
なるのかな。

+++++++++++++以上、当日の問題より+++++++++++++++

あまりほめてばかりいてはつまらない。

この【問題1】での最大の問題点は、「写真を分析して、 上腕骨の長さを
約36cm と求めました」という部分。

写真を分析すれば、上腕骨の長さがわかるのだろうか?
またどの写真を使ったのだろうか?
どうやって上腕骨の長さを知ったのだろうか?

話はそれるが、映画『ベン・ハー』の中の、チャールストン・ヘストン
は巨大な男性に見えた。
が、実際には、それほど大きな人ではなかったようだ。
映画の中では、ヘストンを撮影するときだけは、いつもカメラを下にして
写していたそうだ。

そういう技法は、映画の世界ではよく用いられる。

となると、ますますわからなくなる。
「36センチ」という数字は、いったいどこからどのようにして出てきたのだろう。

【問題2】については、3〜4つの計算をして、それが11の倍数に
なったからといって、すべてがそうであると結論づけることはできない。
5つ目に、別の答が出てくるかもしれない。

5つ目も11の倍数になったからといって、6つ目はわからない……。

そこで文字式ということになるが、2けたの数字を、
(10xa+b)とおけば、簡単に証明できる。

問題そのものは、ごくありふれた問題である。
レベルとしては、(中学1年)程度。

++++++++++++++++++

こうして私は、今日もニュースを読んだ。
が、一言。

ニュースというのは、読むだけでは、
あまり意味がない。

読むだけだと、記憶に残らない。

そこで自分なりにコメントを書いてみると
よい。

そうすれば、脳みそに、ぐいと残る。
考える力も身につく。

++++++++++++++++++

(追記)

樋口一葉の上腕骨の長さは、
(140−79)÷2・5で、24・4センチということになる。

福沢諭吉は、男性だから、上腕骨の長さから、

男性の身長= 2.8 ×(上腕骨の長さ)+ 73 
の計算式を使って、

36x2・8+73=173・8センチ、ということになる。

当時としては、かなり大きな人だったらしい。
またひとつ新しいことを学んだ!







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【マザーコンプレックス】

●依存と愛情(Mother Complex)

+++++++++++++++++

「マザコン」というと、男性だけにある
特異な現象と思っている人は多い。

しかし女性にも、マザコンの人は
いくらでもいる。
同性というだけで、目立たない。

これについては、何度も書いてきた。
ここでは、さらにもう一歩、話を進めて
みたい。

これには男性も女性も関係ないが、
母親にベタベタと甘えているからといって、
それだけ、母親への愛情が深いかという
と、そういうことはない。

マザコン性というのは、母親への依存性を
いう。
依存性イコール、愛情の深さではない。

よくあるケースは、それまではマザコンで
あった女性が、母親が認知症になったとたん、
母親への虐待し始めるというもの。

依存できなくなったときが、縁の切れ目(?)
ということか。

もちろん、中には、そのままの状態で、見た目には
良好な(?)人間関係をつづける親子もいる。
しかしそういうケースは、少ない。

つまりマザコンタイプの人は、常に「理想の
女性像(マドンナ)」を、母親に求める。
母親は、常に、その理想の女性でなければ
ならない。

が、母親がその期待(?)に応えられなく
なったとき、マザコンタイプの人は、それを
すなおに受け入れることができない。
あるいはそれを許すことができない。

たいてい、その段階で、はげしく葛藤する。

ある女性(60歳くらい)は、自分の母親が
認知症になりつつある段階で、そのつど、
パニック状態になってしまった。

母親が、就寝中に尿を漏らしただけで、親戚中に
電話をかけたりした。

「お母さんが、オシッコを漏らしたア〜!」と。

が、先にも書いたように、依存性イコール、愛情の
深さではない。

たとえば夫婦についても、そうで、配偶者に
強い依存性があるからといって、つまり見た目には
ベタベタに仲のよい夫婦に見えたとしても、
たがいに深い愛情があるとはかぎらない。

言うまでもなく、「愛」というのは、どこまで
相手を「許して忘れるか」、その度量の深さで決まる。
つまりその分だけ、愛には、常に孤独と苦しみが
ともなう。

さらに言えば、愛には熟成期間が必要。
たがいに困苦を乗り越え、その結果として、
人は「愛」を自覚することができるようになる。

一方、依存性は、その人自身の情緒的欠陥、精神的
未熟性に起因する。
情緒的欠陥、精神的未熟性をカバーするために、
相手、つまり母親(父親、配偶者)に依存する。

「母親に依存する」ということと、「母親を愛する」
ということは、まったく異質なものである。

このことは子どもの世界を見れば、よくわかる。

親に依存している子どもは多いが、親を愛している
子どもというのは、皆無とみてよい。
あっても、「思いやり」程度。
たとえば病気になった親を、看病するとか、など。
年少の子どもであれば、なおさらである。

子どもが「愛」を自覚するのは、思春期前夜から
思春期にかけてである。

また話は少しそれるが、よく「マザコン男性ほど、
離婚率が高い」と、言われる。
それもそのはずで、つまりその分だけ、マザコン男性は、
配偶者に、理想の女性(マドンナ)像を求めすぎる。
あるいは押しつけすぎる。
それが夫婦の間に、キレツを入れる。

さらにマザコンタイプの人ほど、自分がマザコン的で
あることを正当化したり、ごまかすため、
母親を、ことさら美化する傾向が強い。

(ファザコンも同じように考えてよい。)

「私の親を批判したり、悪口言ったりするヤツは、
たとえ女房、子どもでも許せない」と息巻くのは、
たいていこのタイプの男性と考えてよい。
(男性にかぎらない。女性でもよい。)

話をもどす。

人間関係、とくに親子関係、夫婦関係を見るときは、
この(依存)と(愛情)に焦点をあてて考えて
みるとよい。

また別の人間関係が見えてくるはず。

+++++++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++

●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

++++++++++++++++

 子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のすき間を
埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うため
に、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。このタイプの親は、
自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。こうして
たがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴があ
る。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき愛ぶり
を、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロドロしてい
る。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。ある母親は、私にこ
う言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし概して言
えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいないかわから
ないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになる
よりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40歳の娘であったり
すると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見
逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザコン性も
また、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心のどこ
かで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、
自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。マザ
コンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心
の奥の内側の問題である。外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘した
りすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、
正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親は親で、子
どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、本尊
のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定するこ
とに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。マザ
コンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であってはならな
いのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すこ
とができない。

 そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこ
そ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。ある男性(映
画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、よいこ
とは、何もない。
(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。
(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘 (はや
し浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi 
Hayashi education essayist writer Japanese essayist 永遠のマドンナ 理想の女性像)

【父性】

子どもがマザコン化する背景には、「父性」の欠落がある。
本来なら、子どもがある年齢に達したら、濃密な母子関係の間に、
父親が割り込み、母子関係を是正しなければならない。

そのとき父親の存在が希薄であったりすると、子どもはマザコン化しやすい。

「ファザコン」は、逆の立場で、同じように考えてよい。








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●魔性と神性(God and Devil in Me)

私たちの心の中には、いつも、
魔性と神性が潜んでいる。
この2つが、たがいに、そのつど
戦っている。

神性はそれ自体、崇高なもの。
しかし問題は、魔性。

売られた喧嘩であるにせよ、
争いごとは、それに巻き込まれる
だけでも不愉快。

10数年前のことだが、私の生徒の
親たちから教材費を集め、そのまま
逃げてしまった業者がいた。

教材の販売の委託をしたのが、
まずかった。

電話をしても、逃げ回るだけ。
しかたないので、仮執行宣言付きの
支払い命令を裁判所で出してもらった。

しかしいくら法科の元学生とはいえ、
こうした行為をするということ自体、
気が滅入る。

内容証明付き郵便の手紙を書いているときでさえ、
体中が、カーッと熱くなったのを
覚えている。

で、今でも、ときどき、似たような
場面に出くわすことがある。

そういうとき、私は、こう考える。

「悪魔が喜ぶようなことはしない」
「悪魔がいやがるようなことをする」と。

「悪魔」といっても、宗教的な悪魔の
ことではない。
自分の中に潜む、邪悪な「私」という
意味である。
ここでは、「魔性」とした。

その悪魔は、私が困ったり、苦しんだり
するのを喜ぶ。
夫婦関係にせよ、親子関係にせよ、
親類関係にせよ、それが破壊されていくのを、
どこかで笑って見ている。

だったら、逆のことをする。
運命を受け入れる。
運命に逆らわない。
損をすることを、いとわない。
負けるが勝ちと決めこむ。
あとは笑ってすます。

とたん、悪魔は、シッポを巻いて、
退散していく。

とくに私たち日本人は、(私だけか?)、
金権教に毒されているから、
(損得)の計算に、敏感に反応しやすい。
何かのことで損をしたときには、
それが気になる。

だまされたとなると、なおさらである。
しかしそういうとき、悶々と悩めば、
それこそ、悪魔の思うツボ。

あちこちに触手を伸ばし、人間関係を
つぎつぎと破壊していく。

アドレナリンの分泌が過多になり、
とたん、血圧があがる。
健康を害する。

つい先日も、似たようなことがあった。
そのとき私は、こう考えた。

「○○万円ほどだったら、1か月、
がんばれば、取り返せる。
だったら、1か月、健康でがんばろう」と。

……というわけで、その日は、2単位の
運動をこなした。
悶々とした、あの不快感は、それで消えた。

私たちの心の中には、いつも、
魔性と神性が潜んでいる。
この2つが、たがいに、そのつど
戦っている。

けっして、魔性の餌食(えじき)に
なってはいけない。

どうあがいたところで、私たちの人生には
限界がある。

だったら、1日でも長く、心豊かに、
ほがらかに生きること。
それこそ重要。

今朝は、起きたとき、そんなことを
考えた。
(08年4月26日)







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【子育ての原点】

●田んぼの中の水鳥(A water bird in the rice field)
My mother often said to me, "I have raised up you", or "I have brought you into this world". 
But one day I rejected it, shouting, "When did I ask you to bring me up here?"

+++++++++++++++++

信号待ちで車を止めたとき、
田んぼの中に、大きな水鳥が
いるのを知った。

私がそちらを見ると、水鳥も、
こちらを見ていた。

サギの一種だと思う。
細い首をこちらに向けたまま、
じっとそこに立っていた。

+++++++++++++++++

私の母は、ことあるごとに、私に
こう言った。

「産んでやった」「育ててやった」と。

大学へ入ると、「学費を出してやっている」
「お父ちゃんに感謝しろよ」「J(=兄)に感謝しろよ」と。

それこそ耳にタコができるほど、それを
言って聞かされた。

それで私が、高校1年か、2年生になった
ときのこと。
私は、ついにキレた。
ある日、私は、こう叫んだ。

「だれが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

そう、だれが産んでくれと頼んだ?
たしかに私は生まれた。
が、だからといって、そのことで、
親に感謝しろと言われても困る。

親は親で、勝手に私を産んだだけではないのか。

……というようなことを、私は、水鳥を見ながら
思い出した。

水鳥は、そこにいる。
それほどよい環境に住んでいるとも思われない。
農薬の影響で、餌も、少なくなったにちがいない。

その水鳥のことは知らないが、
季節に応じて、極地方から東南アジアまで、
旅をするのも、いるそうだ。

水鳥にしてみれば、(生きること)イコール、
(苦労の連続)ということになる。

車が動き出したとき、私は、ワイフにこう言った。

私「あの水鳥たちは、何のために生きているのかねえ?」
ワ「そうねえ……」
私「生きていても、苦労の連続で、楽しみなんか、ほとんどないと思う」
ワ「空からの美しい景色を楽しむということは、ないのかしら?」
私「どうだろう? そんな余裕はないかもしれないよ」

ワ「だったら、自然の中で生かされているだけ?」
私「ぼくは、そう思う。ゆいいつの楽しみと言えば、交尾をして、
雛(ひな)を育てることかな?」
ワ「しかし、それだって、苦労のひとつよ」
私「そこなんだよな。本能の命ずるまま、交尾して、雛をかえしているだけ?」
ワ「でも、水鳥は水鳥で、それでハッピーなのかもしれないわよ」と。

この世に生まれたからといって、よいことなど、数えるほどもない。
一見華やかに見える恋愛にしても、それにつづく苦労のはじまりでしかない。
まさに生まれてから、死ぬまで、苦労の連続。
もっとはっきり言えば、私たち人間にしても、死ぬことができないから、
生きているだけ?
生かされているだけ?

水鳥と私たち人間は、どこがどうちがうというのか。

母は、「産んでやった、(だから私に感謝しろ)」と、私に言いたかったのだ。
「育ててやった、(だから私に感謝しろ)」と、私に言いたかったのだ。

戦後のあの混乱期ということもあった。
今になってみると、母の気持ちを理解できなくはない。
母は母なりに、苦労もあったのだろう。
しかしこと(私)について見れば、私は、望んでこの世に生まれたわけではない。
そもそも(私)という主体すら、なかった。

たまたま生まれてみたら、私が人間であったというに過ぎない。
はやし浩司という名前の、人間であったにすぎない。

言いかえると、その(私)が、水鳥であったとしても、何ら、おかしくない。
私と水鳥の間には、一見、越えがたい距離があるようで、その実、距離など、ない。

私「あの水鳥も、死ぬこともできず、ただ生かされているだけかもしれないね」
ワ「生まれた以上、生きていくしかないって、ことよね」
私「そう。とにかく、生きていくしかない。いつか、死ぬときがくるまで、ね」
ワ「子どもたちは、どうかしら? この世に生まれてきて、よかったと思っている
かしら?」
私「そういうふうに、思ってくれれば、うれしいけどね」と。

が、だからといって、生きることが無駄であるとか、生きていても、
虚(むな)しいだけとか、そんなことを言っているのではない。

大切なのは、生き方。
その生きざま。

私自身は、この世に生まれてきて、よかったと思っている。
とくにこれといって、よいことはあまりなかったが、しかし今日まで、
無事、こうして生きてこられただけでも、ありがたい。

ワ「結局は、あなたがいつも言っている、『私論』に行き着くのね」
私「そうなんだよな。あの水鳥は、自分では、『私は私』と思って
いるかもしれない。危険が迫れば、飛んで逃げる。しかしその実、
どこにも、『私』がない」
ワ「あの水鳥が、人間に向かって踊り始めたら、おもしろいわね」
私「そう。もしそんなことをすれば、全国のニュースになるよ」
ワ「そのとき、あの水鳥は、『私』をつかんだことになるのよね」と。

「私をつかんだ」というよりは、「私らしい生き方の第一歩を
踏み出した」というほうが、正しい。

ワ「でも、あなたのお母さんって、どうして、そういう言い方をしたのかしら?」
私「G県の人たちは、ほかの県の人たちと、少しちがうよ。Mという、親絶対教の発祥の
地にもなっている」
ワ「静岡県では、そんなことを口にする人は、少ないわよ」
私「ぼくも、聞いたことがない……。G県には、それだけ民族的な土着性が
残っているということかな。人の交流も少ないし……」と。

私も自分の息子たちに、同じような言葉を言いそうになったことはある。
息子たちが、私に生意気な態度を示したときだ。
しかし私は、言わなかった。

むしろ事実は逆で、私は息子たちに感謝している。
息子たちは、いつも私に生きる希望を与えてくれた。
生きる目標を作ってくれた。
私にとっては、生きがいそのものだった。
もし息子たちがいなければ、私は、こうまでがんばらなかったと思う。
がんばることもできなかった。

ついでに言えば、息子たちががんばっている姿を見ることで、
私は、自分の命を、つぎの世代にバトンタッチすることができる。
(死の恐怖)すら、それで和らげることができる。

そうそう私が、母にはじめて反発したとき、母は、狂った
ように泣き叫び、こう言った。

「バチ当たり! お前はだれのおかげで、ここまで
大きくなれたア! その恩を忘れるな!」と。

それは母の言葉というよりは、母自身も、そういう言葉を、
さんざん聞かされて育ったにちがいない。
そういう環境の中で生まれ、育った。
母にしてみれば、きわめて常識的な
言葉にすぎなかったということになる。

私「あの水鳥の親は、そんなバカなことは言わないね」
ワ「言わないわよ」
私「やるべきことをやって、雛たちを空へ放つ」
ワ「それが子育ての原点なのね」
私「ぼくは、そう思う。ハハハ」
ワ「ハハハ」と。

……それにしても、美しい水鳥だった。

++++++++++++++++

子育ての原点について
書いた原稿です。
(中日新聞経済済み)

++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。

「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所
の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。

いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてく
れるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ
とを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書
いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、そ
れでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。

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ついでに一言。

親風、叔父風、年長風、そのどれも、
吹かせば吹かすほど、
人間関係は疎遠になる。

親子であれば、そこに
大きなキレツを入れる。

以下、4年前(04年)に
書いた原稿です。

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【親・絶対教】

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「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

          6月27日

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●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩は、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。

 ……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、その人
が乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳の奥深くに、し
みこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。あるいはほんの
少しの指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。

 が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親は多
い。しかしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何かの姿で、親
の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそういうことはありえ
ない。

 少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれた」と
いう概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、親は子ども
に向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」「孝行」という概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もってのほか。
親自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲にな
っている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇
る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ
て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか
しくて、外も歩けない」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。親・絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し
く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの
を、自分のためととらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを
好きになれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私は思うが、
ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関係は、
それなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲にな
る子ども。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまく、いく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、
父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも
許さない』とです」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、
こう言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私
より、母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。

●親・絶対教の特徴

 親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も
りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信者たちは、
先祖という言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん
なことがあった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
粗末にしているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をして
いるようだが、即刻、そういった活動をやめなさい」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、
親・絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやる
からな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその息子
が、泣きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。

 「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親・絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容
易ではない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、
「あなたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。
ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができな
い……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、
私一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばさ
れてしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、
親・絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦
い」というのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども
たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと
はある。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長
することを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども
の友として」と。

 親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ
い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。子
どもを自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみる。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと
考えられる。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし
て出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか
し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこと。強
要してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)

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以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

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●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独
立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容
を、まとめると、こうなる。

 その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期まで
は、ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つよう
になった。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子
とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ
てきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、
おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい
ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ
から」という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。








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●言葉を反復する子ども(子どものひとり言)

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こちらの言ったことが、即座には
理解できず、いちいちそれを反復
する子どもがいる。

たとえば、

「りんごが3個ありました。
また4個、買ってきました。
あわせていくつですか?」と
質問すると、

「りんごが3個……。また4個
……」と。

そしてこちらの言った言葉を、あたかも
頭の中で反芻(はんすう)するかの
ように、少し考えた様子を見せた
あと、
「……3足す4で、7だあ」と
言ったりする。

様子を観察してみると、言葉そのものが、
即座には、大脳で処理されていかない
といったふう。

算数の問題にかぎらない。

何かの指示を与えても、同じように
反復する。

私「机の上の分度器を片づけて、
それを箱に入れてください」
子「分度器……、箱……」と。

高学年になるからといって、症状が
消えるわけではない。

私「1・5分というのは、何分と何秒の
ことかな」
子「1・5分……だからあ、ええと、……」と。

脳のどの部分に、どのような問題(失礼!)
があるのかは、私にはわからない。
しかし(音声で得た情報を処理する段階)で、
何か問題があるということは、推察される。

そのため、学習能力に影響が出る。
全体に反応が鈍く、その分だけ、時間が
かかる。

似たような症状に、何でも、ものごとを
音声化する子どもがいる。

それについては、以前に書いた原稿が
あるので、そのまま、紹介する。

++++++++++++++++++

●子どものひとり言(内言)

 「5歳の子ども(女児)のひとり言が多いです。意味のないひとり言です。どうしたらいいです
か」(滋賀県・Rさん)という相談をもらった。

 子ども(乳幼児)が発する言葉は、大きく、つぎの2つに分けて考える。

(1)自分の思考をまとめるために使う言葉。これを内言(ないげん)という。
(2)他人に、自分の考えや意思を表示するための言葉。これを外言(がいげん)という。

 たとえばクレヨンが、机の下に落ちたとき、「アッ、クレヨンが落ちた。ぼく、拾うよ」というの
が、内言。先生や、親に向かって、「落ちたから、拾って」と言うのが、外言ということになる。

 こうした内言は、おとなのばあいは、口に出さないで使うが、幼児のばあい、ある時期、それ
を音声として、口に出して言うことがある。一般的には4歳くらいがピークで、5、6歳で内言は、
無声化すると言われている。

 が、子どもによっては、内言の音声化が、その時期を過ぎても残ることがある。

 そこで5歳前後になってからも、無意味なひとり言が多いようであれば、「口を閉じて考えよう
ね」と、指導する。

 この音声化が残ると、子どものものの考え方に影響を与えることがある。子ども自身がその
言葉に左右されてしまい、瞬間的で、機敏な考え方ができなくなる。どこかまだるっこい、のん
びりとした、ものの考え方をするようになる。

 もしRさんの子どもが、つぎのような話し方をしていたら、「口を閉じて、考えようね」と、指導し
てみてほしい。

 「これからお食事。それが終わったら、私、これからお外に行こう」(行動の内言)
 「どちらの花がきれいかな。白かな、赤かな……?」(迷いの内言)
 「お花を、○○さんに、もっていくと、どうなるかな。喜ぶかな」(思考の内言)
 「風が吹いた……カーテンが揺れた……お日様が光っている……」(描写の内言)

 ピアジェは、こうした内言のうち、集団内で使うものを、「集団内独語」と呼んでいる。他人の
反応を気にしていないという点で、自己中心的なものととらえている。

 しかし実際には、言葉の発達の時期に、よく見られる現象で、内言イコール、自己中心性の
表れとは、私は思わない。

 Rさんの子どもは4歳ということだから、そろそろ、「口を閉じて考えようね」と指導すべきころ
かもしれない。この時期を過ぎて、クセとして定着すると、ここにも書いたように、思考力そのも
のが、影響を受けることがある。

 ほかにひとり言としては、つぎのようなものがある。

(1)自閉傾向のあるひとり言……こちらからの話しかけには、まったく応じない。1人2役、3役
のひとり言を言うこともある。

(2)ADHD児のひとり言……騒々しく、おさえがきかない。ひとり言というより、勝手に、かつ一
方的に、こちらに話しかけてくるといったふう。

(3)内閉児、萎縮児のひとり言……元気なく、ボソボソと、自分に話しかけるように言う。グズ
グズ言うこともある。

(はやし浩司 子どもの独り言、ひとり言 外言 内言 子供の独り言 子供 独り言 集団内
独語 ピアジェ ピアジエ はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 反復 反復
児)

++++++++++++++++++

言葉を反復する子どもは、内言という
幼児期のクセが、そのまま残ったとも
考えられる。

相手の言ったことを反復しながら、
自分の考えを、まとめようとする。

しかしさらによく観察してみると、
ひとり言をやめさせてしまうと、問題の
意味そのものが、理解できなくなって
しまう。

私「りんごが5個あって、2個食べました。
残りは、いくつかな?」
子「りんごがア……」
私「口を閉じて考えようね」
子「……? 5個でしょ……?」
私「口を閉じて、考えようね」
子「……? ……?」と。

全体としてみると、10人に1人前後の
割合で、見られる。
年齢には関係なく、小学生でも、中学生でも、
ほぼ同じ割合で、見られる。

で、指導法ということになるが、脳の
機能そのものに問題があるように推察される
ため、注意したり、叱ったりしても意味はない。
またそれで(なおる)という問題ではないように思う。

その子どもは、そういう子どもであると
認めた上で、つまりそういう前提で、指導
する。
軽く注意はしても、あとは子どものリズム
に任せるしかない。

その言葉が適切であるかどうかは知らないが、
私は、このタイプの子どもを、「反復児」
と呼んでいる。

同じような内容だが、以前書いた
記録を、そのまま掲載する。

++++++++++++++++++

●言葉を反復する子ども 

++++++++++++++

いちいちこちらの言った言葉を
反復する子どもがいる。

反復しないと、こちらの言った
ことが、理解できないといった
ふう。

原因は、脳の中で、情報の伝達が
適切になされないためではないか。

教えていると、そんな印象をもつ。

++++++++++++++

 そのつど、こちらの言った言葉を、いちいち言葉を反復する子どもがいる。年齢を問わない。
たとえば先生との間では、こんな会話をする。

私「うさぎさんが、6匹いました。そこで……」
子「うさぎさんが、6匹?」
私「そうだよ、6匹だよ」
子「6匹、ね」
私「そこで、みんなに、帽子を1個ずつあげることにしました」

子「みんなに……?」「帽子……?」
私「そうだよ。みんなに、帽子だよ」
子「何個ずつあげるの?」
私「1個ずつだよ」
子「1個ずつ?」と。

 もう少し年齢が大きくなると、言葉の混乱が起きることがある。

私「1リットルのガソリンで、10キロ走る車があります」
子「何んだったけ? 10リットルで、1キロ?」
私「そうじゃなくて、1リットルのガソリンで、10キロ走る車だよ」
子「1リットルの車で、10キロ走る、ガソリン?」
私「そうじゃなくて、1リットルで……」と。

 このタイプの子どもは、少なくない。私の経験では、10人中、1人前後、みられる。特徴として
は、つぎのような点が観察される。

(1)こちらの言ったことがすぐ言葉として、理解できない。
(2)そのためこちらの言ったことを、そのつど、オウム返しに反復する。
(3)こちらの言った言葉に、すぐ反応することができない。
(4)全体に、軽度もしくは、かなりの学習遅進性が見られることが多い、など。

 私の印象としては、音声として入った情報を、そのまま理解することができず、それを理解す
るため、もう一度、自分の言葉として反復しているかのように見える。あるいは音声として入っ
た情報が、脳の中の適切な部分で、適切に処理できず、そのままどこかへ消えてしまうかのよ
うに見えることもある。脳の中における情報の伝達に問題があるためと考えられる。

 このタイプの子どもは、もちろん叱ったり、注意したりして指導しても、意味がない。またその
症状は、幼児期からみられ、中学生になっても残ることが多い。脳の機能的な問題がからんで
いると考えるのが正しい。

 ほかに、こんな会話をしたこともある。相手は、小2の子どもである。

私「帰るとき、スリッパを並べておいてね」
子「帰るとき?」
私「そうだよ。帰るときだよ」
子「スリッパをどうするの?」
私「スリッパを並べるんだよ」
子「スリッパを並べるの?」
私「そうだよ」
子「帰るとき、スリッパを並べるんだね、わかった」と。

 このタイプの子どもは、今のところ、そういうタイプの子どもであると認めた上で、根気よく指
導するしかほかに、方法がないように思われる。

(はやし浩司 言葉を反復する子ども 言葉を反復する子供 言葉がすぐ理解できない子ども
 言葉の反復、反復児 内言 幼児の独り言 ひとり言 言葉を反復 はやし浩司)








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●論語(Why now is Rongo?)

++++++++++++++++

今度、小学校でも、論語の朗読を
するようになったという。

しかし、今、なぜ、論語なのか?

++++++++++++++++

 論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応神天
皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百科事典)。

 その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言えば、
官僚たちの教科書だった。

 その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論語なの
か? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わない。また
それまでは、私も否定しない。

 が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、どうしても、
それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和のために戦った人
たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本である。

 たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。それには抵
抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。

 フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。

+++++++++++++++++

1条
人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に基
づくのでなければ、存在することはできない。

2条 
すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保全であ
る。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。

3条 
あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明示的に
発せられていない権限を行使することはできない。

4条 
自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各人の自然権
の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保すること以外の限界
を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに過ぎない。

(以下、つづく)

+++++++++++++++++

 アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可侵、不
可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。

 この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまでもな
い。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。

『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即
チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノ
ナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ
満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革
シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナ
リ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディ
ア百科事典より抜粋)

 この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と
いう言葉が、生まれた。

 で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、アメリカ
型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たされてい
る。

 どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、しかしそ
の(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手につくることは、許
されない。

 しかし、どうして今、論語なのか?

【付記】

 日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、それを自信を
もっていえる人は少ない。

 天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにくい。ど
こか口ごもってしまう。

 が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と書
いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま読めば、
天皇制の否定とも解釈できる。

 そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭吉の
ような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。

 「人の上の人とは、だれのことか」と。

 で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。

 「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」という解釈
など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈などが生まれた。詳
しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は人の」で検索してみれ
ばよい。

 しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じていた。

 その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎのような
事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対する
アメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰も
ワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、
徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持って
いないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭
吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人
を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』
と。

++++++++++++++++++

もう一作、武士道について。

++++++++++++++++++

●明治の偉勲たち(Great People in Meiji Era)

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人である。教育家
でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。
その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運
動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日本は、本当に変わっ
たのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人たちまで現われた。
中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、おかしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反省すること
もなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時代という時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であったことを忘れ
てはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んでいる。た
とえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人となる
と、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神的バ
ックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し
てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ
り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人
には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて
しまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建
時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人々々の問題として、である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 権威主義 福沢諭吉 天は天の
上に 明六社 明治の偉勲 ワシントン)







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【カナダのプレスクール】

++++++++++++++++

少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。

そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。

++++++++++++++++

【GSさんより、はやし浩司へ】

カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。 

カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させていただ
きます。

私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグループ』(確
か州で運営)というものでした。

会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間になって
いて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講習、お稽古
などが催されています。

プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、人気
がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来ていて、午前中
の間開放されます。

その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置いていっ
ても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子どもは、数人
いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、誰かが抜けるま
で、入れず、外で待ちます。 

お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されていて、ど
れでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあって、最後
までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。

そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペとかで
カワイイ(笑)です。

本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月齢)、
PreSchoolの年齢の子までいます。 

そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経験でき
たように思います。 

1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、親、
先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。

もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子ども
の世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子どものとこ
ろへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞いたりといった感
じです。

息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前には涙
してサヨナラして来た程でした。

公園の違いについて。

小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2〜3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って行け
るほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。

また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にありま
す。

大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 なので
端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4〜5歳の子が大はしゃぎで走り
回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生でランチしてい
る家族が多く見られます。

高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具をぶ
ら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると笛をふき、
全員プールから出し水の消毒にかかります。 

毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、ま
だかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。

以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。 

私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと心
配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気がします
し、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。

もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変な思
いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、大変は
大変でしたけど(笑)。 
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。

小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いようです。
夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿がよく見られま
す。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。 

女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっとの週
末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、その家族の時
間も嬉しいと楽しんでいました。 

どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切にしている
というのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均的にそれに対
する比重はとても違うように感じます。

なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。

【はやし浩司より、GSさんへ】

カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。

私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていったよう
です。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。

どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。

またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育 カナ
ダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグループ play group はやし浩司
 カナダ 幼児教育 幼稚園 カナダ プレスクール プレ・スクール)







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教職者の性犯罪

●なぜ、性犯罪はなくならないか?(Sexual Crime by Teachers)

つい数日前、わいせつ行為容疑で、51歳の中学教師が、逮捕された。
その教師は、ニセの卒業旅行通知を親に出し、親を安心させた上、
女子生徒を連れ出し、ホテルに宿泊していたという。

が、それに驚いていたら、今日も、また!
毎日新聞は、つぎのように伝える。

今までは、実名を伏せて記事を書いてきたが、
これからは実名をそのまま、出させてもらう。

+++++++++++++以下、毎日新聞 5月13日++++++++++++++

 スキー合宿の宿泊先で小学6年の女子児童(11)にわいせつな行為をしたとして千葉県警S
K署は12日、千葉県船橋市、NPO法人「さくら子どもスポーツネットワーク」元理事長、宮下桂
治容疑者(72)を強制わいせつ容疑で逮捕した。宮下容疑者は「寝ていた女の子の体を触っ
た」と容疑を認めているといい、同署で余罪を追及している。

 調べでは、宮下容疑者は3月27日午前1時ごろ、NPOのスキー合宿で訪れた長野県上田
市内のホテルで、参加した千葉県内の女子児童の下半身に触るなどした疑い。宮下容疑者は
翌日、理事長を退任。4月上旬、児童の母親が同署に被害届を提出した。

 NPOは子供のためのスポーツクラブとして、順天堂元大学教授の宮下容疑者が中心となっ
て、03年2月に発足し、現在約60人の会員が在籍。運動の楽しさを教える乳幼児向けの教
室や、ツーリングなどの課外活動を実施している。

 NPO側は「被害児童への謝罪は済ませている。コメントを控えたい」とした。

++++++++++++以上、毎日新聞 5月13日+++++++++++++++

この記事の中で、とくに注目すべき点が、2点、ある。
1点は、「余罪」という言葉。
もう1点は、宮下桂治容疑者(72)が、順天堂大学元教授であったという点。

性犯罪者は、脳の中に特殊な受容体が形成されるという。
何らかの刺激が加わると、ドーパミンというホルモンが分泌される。
そのドーパミンが、線条体を刺激する。
結果、「条件付け反応」が起こり、それが猛烈な性衝動を引き起こし、性犯罪へとつながってい
く。

メカニズムは、アルコール依存症の患者や、喫煙者のそれと同じと考えてよい。
つまりアルコール依存症の患者や、喫煙者が、酒やタバコを、簡単には断つことができないの
と同じように、性犯罪者は、性犯罪を繰りかえすという特殊性がある。

今回、宮下桂治容疑者は、11歳の女子児童にわいせつな行為をしたという。
事件の性質上、当然のことながら、余罪があるとみるべき。
「たまたまこの1件だけ」ということは、こうした種類の性犯罪の性質上、ありえない。

さらにつけ加えるなら、宮下桂治容疑者が、順天堂大学の元教授であったということ。
さらに、人格の円熟期も過ぎた、72歳という年齢であったということ。
このことは、つまり線条体で起こる反応は、それほどまでに強力であるということを示す。

「大学の元教授だから……」「72歳の男性だから……」という『ダカラ論』は、こと性犯罪につい
ては、当てはまらない。
先に書いた、性衝動なるものは、理性や知性で、コントロールできるようなものではない……と
いうことになる。

では、どうするか?

2つの方法がある。

1つは、厳罰主義で臨む。
学校の教師によるハレンチ事件についても、たいていは、「すでに社会的制裁を受けている」
などという理由にもならない理由をつけられ、執行猶予になるケースが多い。
(社会的制裁を受けるのは、当然のことではないか。もしこんなバカげた論理がまかりとおるな
ら、失業者の人たちは、どうなのか? 彼らは社会的制裁とやらを、受けているということにな
るのか!)

アメリカのように、18歳未満の子どもに手を出したら、問答無用に、即、2年間程度の、刑務
所送りにする。
あるいは欧米のように、周辺の者にも、報告義務を課し、そうした行為を見聞きしながら、報告
義務を怠った者についても、同罪を適応する。
さらにアメリカのように、性犯罪者については、(先にも書いたように、反復性が強いので)、氏
名と住所を、インターネットで公開するという方法も考えられる。

2つは、システムそのものを、変える。
カナダでは、教師の住所、電話番号などは、いっさい、親や子どもには伝えない。
日本でいう、医療制度に似たシステムが、すでに完成している。
つまり教師は、自分の教室内での行為については、全責任を取るが、生徒が一歩、教室の外
に出たら、すべての責任から解放される。

具体的には、学校の外での、教師と生徒、教師と親との、1対1の接触を禁止する。
ほかにもいろいろ考えられるが、こうしたシステムを少しずつ、積みあげていく。

日本は、この分野では、かなりの後進国と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教師による性犯罪 性犯罪 ハ
レンチ行為 ハレンチ事件)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

8年前に書いた原稿を、紹介します。

最近では、学校ごとに、ここに書いたようなクラブ制度を
充実させているところもあります。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●学校神話(School Myth)
Most of the Japanese parents have strong myth toward schools, that children have no 
choice but should go to schools. But is this a common sense of the world? The answer is "
No!".

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。

しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。それを指導している
のが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」と
いう理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は
世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(L
IFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。

別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラ
リアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オ
ーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。

さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神
話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結
局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それは
まさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世
界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
 







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10
●社会に適応でいない子ども(Those Children who can not adapt themselves to the 
Society)
Each family has its own domestic problems and there are none that have no problems.

++++++++++++++++

NEET、引きこもり、対人恐怖症、
回避性障害など、子どもが、社会に
適応できなくなる例は、多い。

学校恐怖症、不登校なども、それに
含まれる。

こうしたケースには、かならず、そこに
到る、プロセスというものがある。
やむにやまれぬプロセスというものがある。
過去というより、その一世代前の過去を
背負った人も多い。

結果だけを見て、親の責任や子どもの
責任を追及してはいけない。

どの親も、それぞれの立場で、懸命に
生きてきた。
生きている。
その中で、子育てをしている。
懸命にしていても、そうなるときは、
そうなる。
多少の無知、無理解はあったかもしれ
ない。
が、だからといって、そんな親を責めても
意味はない。

子育てには、無知、無理解は、つきもの。
多かれ少なかれ、だれにだって、ある。

が、どこかでほんの少しだけ、歯車が
狂う。
狂ったまま、まさにどうしようもない
状態で、そのままつづいてしまう。

夫婦の問題、経済の問題。
事故や病気は、向こうからやってくる。

軽い失敗が、悪循環と重なることも
ある。
もがけばもがくほど、予期せぬほうへと、
ものごとが進んでしまうこともある。

その結果として、(今の状態)が生まれる。
つまりその結果だけを見て、「私の
子育てが失敗だった」とか、そんな
ふうに考えてはいけない。

大切なことは、(今を原点)として、
そこから前に向かって進むこと。

過去は過去。
今は今。
未来は未来として、(今を原点)として、
そこから前に向かって進むこと。

外から見ると、どこの家庭も、そして
どこの親子関係も、うまくいっている
ように見える。

しかしそんな家庭は、10に1つもない。
100に1つもない。
(ぜったいに、ないぞ!)

みな、同じような問題を抱えて、それぞれが、
それぞれの家庭で、苦しんでいる。
悩んでいる。

C県にお住まいの、T氏(父親)から、
息子(18歳)の引きこもりについての
相談があった。

高校に入学してからも、ほとんど学校には行かなかった。
そのため高校1年の終わりに、中退。
現在は、大検にも合格し、進学先をさがして
いるという状況だそうだ。

T氏としては、進学など、どうでもよいと
考えている。
しかし息子自身が、「進学しなければ」と
あせっているという。

そういう姿を見て、ときどき息子のほうから、
「つらい」「助けて」というメッセージが送られて
くるという。

そんな息子を見ながら、T氏も苦しんでいる。
だから「どうしたらよいか?」と。

私はT氏と、電話で40分ほど、話した。
そのやり取りの中で、何よりも救いを感じたのは、
T氏と息子の間に、良好なコミュニケーション
が取れているということ。
親子の会話も多く、T氏、つまり父親自身が、
息子の相談相手になっているということ。

こういうケースでは、たとえ(今の状態)が、
そうであっても、未来はきわめて明るい。
私の経験では、子どもが20歳を待たずして、
(今の状態)は、やがて親子の笑い話に
なるだろうということ。

「お前にもいろいろなことがあったなあ」
「ハハハ、おやじには苦労をかけてしまった」と。

たとえば同じ引きこもりでも、家族との会話
が途絶えると、その分だけ、(今の状況)は、
長引く。

さらにそこに家庭内暴力が加われば、
ことは、深刻になる。

私「親子の会話がしっかりしているだけでも、
感謝しなければいけませんよ」
T「そうですね」
私「私の知っている例では、もう10年以上、
親子で、会話らしい会話もしないケースもあります」
T「……10年も、ですか……?」
私「ときどきささいなことで、突発的に
暴れるため、その家庭では、家中のガラスと
いうガラスを取り外してしまったそうです」

T「ああ、私の知っている人にも、そういう
人がいます。25歳の息子だそうですが、酒を飲んで
暴れるのだそうです。包丁を振り回して、ね」
私「それはたいへんですね」
T「そういう人とくらべたら、……くらべるのも
失礼かもしれませんが、うちの息子など、
軽いものです」

私「そうですよ。私の息子の話では、アメリカ
では、麻薬の常習者になって、家人を、
ショットガンで追いかけまわす子どもも
いるそうです」
T「はあ〜?」

大切なことは、「どうして自分だけが……」と
思わないこと。
先にも書いたように、みな、似たような
問題を抱えている。
抱えながら、懸命に生きている。
子育てをしている。

私「ようし、十字架の1本や2本、背負って
やると、前向きに考えることですよ」
T「そうですよね」
私「何ごともなく過ぎていくのも、子育て
かもしれません。しかしそんな子育てからは、
何もドラマは生まれません。私たちがなぜ
生きているかと言えば、そのドラマの中に、
生きる価値を見出すからです」

T「先生の話を聞いて、気分が軽くなりました」
私「そうですよ。Tさんが今抱えている程度の
問題など、何でもありません。問題というような
問題ではないように思います」
T「……そうですね」
私「で、ひとつだけ条件があるとするなら、
子どもの進学はあきらめること。
つぎに親子のパイプだけは、切らないように
すること、です」

T「私は進学にはまったく、こだわって
いません。息子のほうが苦しんでいます。
『大学へ行かなければ』とです」
私「それについては、そっとしておいて
あげるしかないですね。息子さんのほうから
相談があったとき、あなたの考えを伝えれば
いいでしょう」と。

私も、T氏と電話で話すうち、気分が
楽になった。









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11
【日本人の依存性】

●孫から学んだこと(What I learnt from my G-son)

孫の誠司と接して、学んだことは多い。
たとえば、誠司は、こう言う。

(のどが渇いたとき)……「何か、飲み物をもっているか?」
(風呂に入るとき)……「足がやけどする」
(おなかがすいたとき)……「グレープフルーツを食べたい」と。

同じような場面のとき、日本の子どもなら、(だから、何とかしてくれ言葉)を使う。

たとえば、

(のどが渇いたとき)……「のどがかわいたア! (だから何とかしてくれ)」
(風呂に入るとき)……「熱い! (だから何とかしてくれ)」
(おなかがすいたとき)……「腹、減ったア! (だから何とかしてくれ)」と。

こうした日本人独特の依存性は、おとなになってからも、消えない。

私の叔母のひとりは、50代のころから、いつもこう言っていた。
電話で、話を始めるたびに、
「おばちゃん(=叔母自身)も、歳を取ったからねエ〜。(だから、何とかしてくれ)」と。

何も叔母を責めているのではない。
その地方では、そういう言い方が、ごくふつうの言い方となっている。
が、ときとして、イヤミに聞こえることもある。

たとえばしばらく実家に帰っていないでいたりすると、
「浩司君の家の横に、ゴミがたまっていたぞ。(だから何とかせよ)」、
「J君(=私の実兄)が、猛スピードで、坂を、自転車で走っていたぞ。(だから何とかせよ)」と。

「浩司君の夢を見たから」とか何とか、おかしな理由をつけて、電話をかけてくる。

一方、私が住んでいるこの浜松では、そうした言い方は、あまりしない。
とくにワイフの家族は、しない。
みな、独立心が旺盛で、それぞれが高次元な立場で、尊敬しあっている。

そんな私でも、誠司の言葉には、そのつど、驚く。
誠司は、日本語をほとんど話せない。
日本人というよりは、アメリカ人である。

いつもYES・NOをはっきりと言う。
会話は、そこから始まる。
だから何かほしいものがあったりすると、直接、「〜〜がほしい」などと言う。
わずか10日間ほどのつきあいだったが、そのつど、私は、こう思った。

「こんな5歳の子どもでも、日本人とは、ちがうなア〜」と。

その日本人の依存性については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、5年前(03年)に書いた原稿である。

++++++++++++++

●拉致(らち)問題

 昨日の記者会見で、官房長官のF氏は、さかんにこう言っていた。「日本の立場は、アメリカ
も韓国も、よくわかっていてくれるはずです」「日本の立場は、じゅうぶん説明してあるので、わ
かってくれているはずです」と。

 まさに日本という国家そのものが、依存国家とみてよい。こういう会話は、依存性の強い人ほ
ど、好む。

 少し前だが、こんな子ども(小五女児)がいた。「明日の遠足を休む」と言うので、「担任の先
生に連絡したのか?」と聞くと、「先生は、わかっていてくれるはず」と。

 「どうして?」と私。
 「だって、今日、おなかが痛いと、言ったから」と、子ども。
 「しかし休むなら休むで、しっかりと先生に言ったほうがいいのでは?」
 「いいの。先生は、わかっていてくれるはずだから」と。

 日本語には、「だから、何とかしてくれ言葉」というのがある。たとえばのどがかわいても、「水
がほしい」とは言わない。「のどがかわいたア〜」と言う。子どもだけではない。ある女性(五〇
歳)は、子どもや親類に電話をかけるたびに、「私も年をとったからネー」を口ぐせにしていた。
つまり、「だから、何とか、せよ」と。

 しかし国の「長」ともあろうF氏まで、そういう言い方をするとは! 「ハズ論」で動かないのが、
国際社会。少なくともアメリカ人には、通用しない。そう言えば、五、六年前、ときの外務大臣の
K氏が、あの北朝鮮に、百数十万トンもの米を援助したことがある。そのときも、K氏は、そう
言っていた。「日本も、これだけのことをしてあげたのだから、北朝鮮も、何か答えてくれるは
ず」と。

 が、結果は、ゼロ。K氏は、「これで北朝鮮が何もしてくれないなら、私は責任をとる」とまで言
い切ったが、その責任をとった形跡は、どこにもない。

 こうした依存性は、親子の間にもある。

 「これだけのことをしてあげたのだから、うちの子どもは、私に感謝しているはず」「親子の絆
(パイプ)は、太くなったはず」と。つまり日本の親たちは、まず子どもに、いい思いをさせる。つ
いで親としての優越性を、子どもに見せつける。「私に従えば、いいことがある」「私には、これ
だけの力がある」と。

 つまり外堀を埋めるような形で、子どもの周辺を、少しずつ、しばりあげていく。そして結果と
して、子どもに依存心をもたせ、ついで、自分も、子どもに依存していく。

 ついでに拉致問題について。

 本来なら、日本の軍隊が突入し、被害者を救出しても、おかしくない事件である。しかしこの
日本には、おかしな平和主義がはびこっている。「ことなかれ主義」を、平和主義と誤解してい
る人もいる。平和主義もよいが、相手が、日本を攻めてきたときには、どうするのか? あるい
はそんなときでも、日本は、「アメリカが何とかしてくれるはず」「世界が黙っていないはず」とで
も、主張するつもりなのだろうか。

 日本政府の考え方は、甘い。本当に、甘い。「大国」としての誇りも、自覚もない。現に今、北
朝鮮のあの金XXは、核兵器の開発をしている。もちろんターゲットは、日本。韓国やアメリカで
はない。この日本。本来なら、アメリカや韓国の先に立って、この問題を解決しなければならな
い。しかし「ハズ論」だけで、みなのうしろをついていく?

 しかしそれにしても、北朝鮮の小さいこと、小さいこと。小細工ばかりしている。先週も、拉致
被害者の子どもたちに、手紙まで書かせている。そんな些細なことにまで、気を配っている。あ
きれるより先に、ゾッとする。

私が金XXなら、拉致被害者の子どもたちを、すぐ日本へ返す。恥ずかしいか、恥ずかしくない
かということになれば、つぎからつぎへと脱北者が出ることのほうが、よほど、恥ずかしい。金X
Xよ、恥を知れ!

 で、近く、六か国協議が始まる。しかしそれを望むわけではないが、この協議は、失敗する。
理由は簡単。北朝鮮は、核査察など、絶対にさせない。そんなことをすれば、金XXの悪行の
数々が、白日のもとにさらされてしまう。一説によると、あの金XXは、すでに数十万人以上の
人を、殺害しているという。

 つぎにアメリカにしても、(安保理決議)→(経済制裁)→(金XX体制の崩壊)という図式を、す
でに描いている。中国やロシアを参加させるのは、「やれるだけのことはやってみなさい。どう
せダメだから」ということを、証明するためのものでしかない。

 日本にしても、あの金XX体制を経済援助するということは、隣の暴力団に、資金を手渡すよ
うなもの。そう簡単には、できない。してはならない。

 問題は中国とロシアだが、彼らにしても、日本のマネーがほしいだけ。日本に金を出させ、そ
の金で、中国やロシアのものを買わせる。あるいは今までの借金を、返済させる。ただこの力
が強ければ、皮肉なことに、六か国協議は、成功する可能性はある。しかしそのときは、日本
は、屋台骨を数本、抜くぐらいの覚悟はしなければならない。「東京で、核兵器が爆発するより
は、いいだろう」と。

 さらに中国人や韓国人の、反日感情には、ものすごいものがある。仲よくなりかけると、アホ
な政治家が、S国神社を参拝したり、「南京虐殺はウソ」などと言っては、相手を怒らせている。
S国神社を参拝するのに反対しているのではない。「何も、こういう時期に、あえてしなくてもい
い」ということだ。

 どちらにせよ、今度の六か国協議は、日本にとっては、戦後、最大の山場になる。決裂すれ
ば、この秋には、米朝戦争が始まるかもしれない。もしそうなれば、日本も未曾有の大惨事に
巻き込まれる。日本だけが無事ということは、絶対にありえない。

 六か国協議で日本がどのような主張をするか。また世界は、どのような反応を示すか。拉致
問題もあって、目が離せない。
(030805)

+++++++++++++++++++

もう1作、同じような内容の原稿です。
これは4年前(04年)に書いたものです。

+++++++++++++++++++

●「年だから……」という言い方

7月のはじめ、豪雨が、新潟県から福井県を襲った。

今は、その雨もやっと一息つき、各地で復旧作業が始まった。連日、その模様を、テレビが、
ニュースとして伝えている。

 その模様を見ていたときのこと。一つ、気になったことがあった。

 何人かの老人が出てきたが、たまたまどの老人も、こう言った。

 「私ら、年ですから……」
 「年ですからね……」
 「私も、この年ですから……」と。

 つまり老齢だから、こうした復旧作業は、きびしい、と。

 実は、無意識だったが、私も、ときどき、同じ言葉を使うようになってしまった。ワイフに向っ
て、「オレも、年だからなあ」とか、息子たちに向って、「パパも、年だからな」とか。

 つまりは、私はそう言いながら、ワイフや息子たちに、依存しようとしている。甘えようとしてい
る。自分でそう言いながら、ハッと我にかえって、「いやな言い方だ」と思ってしまう。

 もちろん復旧作業にあたっている老人たちには、きびしい作業だろう。やりなれた仕事ならま
だしも、こうした仕事は、使う筋肉もちがう。何よりもたいへんなのは、「ゴロリと横になって、体
を休める場所がない」(ある老人の言葉)ということだそうだ。

 だからそういう老人たちが、つい、「年だから……」と言いたくなる気持は、よく理解できる。し
かし……。

 この言葉は、どこか(だから何とかしてくれ言葉)に似ている?

 よく依存性の強い子どもは、「のどがかわいたア!」「おなかがすいたア!」「退屈ウ!」と言
う。その子どもは、そう言いながら、親に向って、「だから何とかしてほしい」と言っている。

 同じように、「年だから……」という言葉の裏で、こうした老人たちは、「だから、何とかしてほ
しい」と言っている? 私にはそう聞こえる。

 昔、私の伯母にも、そういう人がいた。電話をかけてくるたびに、「オバチャンも、年だからね
エ……」と。

 今から逆算してみると、そのときその伯母は、まだ、50歳になったばかり。今の私の年齢よ
り、若い。

 そこで私は、気がついた。人はともかくも、私は、死ぬまで、その言葉を使わないぞ、と。自信
はないが、そう心に決めた。

 このマガジンを書くときも、ときどき、似たような弱音を吐くことがある。しかし弱音は、弱音。
「もう、使わないぞ」と。

 年なんか、関係ない。体が弱くなり、頭の活動はにぶるかもしれない。しかしそれは当然のこ
とではないか。年のせいにしてはいけない。人間には、年はない。そんな数字にふりまわされ
て、自分をごまかしては、いけない。他人をあざむいては、いけない。

 なまけた心、たるんだ体……、それは年のせいではない。

 ……ということで、今日の教訓。私の辞書から、「年だから……」という、あのどこかずるい、
どこか甘えた言い方を、消す。

 そう言えば、私のワイフなどは、そういう言葉を使ったことがない。どうしてだろう。あとで、そ
の理由を聞いてみよう。

【ワイフの言葉】

 「私やね、年だなんて、思っていない」と、一言。ワイフの言うことは、いつも、単純、明快。

 今でも、20歳の娘のようなつもりでいる。……らしい。おもしろい心理だと思う。

 「それにもう一つは、だれかに何かしてほしいとか、してもらいたいとか、そういう気持ちには
ならない。自分のことは自分で何とかしようと、いつも、それしか考えていないから」と。

 ナルホド!

 「お前はいいダンナをもったな」と私が言うと、ワイフはヘラヘラと笑った。

 「そうじゃないか。オレが、苦労を全部、引き受けているからな」と私。

 ああ、これも依存性の変形か? ともかくも、私は、「年だから……」という言葉を使わないこ
とを、心に決めた。自信はないが……。

【追記】

 山荘の近くに、Kさんという男性がいる。いわゆる老人である。老人と書くのは、失礼な言い
方だが、年齢からすれば、老人ということになる。そのKさん。今年は、78歳になるが、今で
も、現役で、山の中で仕事をしている。

 畑もあちこちにもっている。会うたびに、ヒョイヒョイと、体を動かして、農作業をしている。

 一方、50歳になったばかりというのに、太った体をもてあまし、ハーハーと、息も苦しそうに
歩いている人もいる。Sさんという男性である。聞くと、毎日、1、2本のビールを飲み、ヒマさえ
あれば、ソファの上で、ゴロ寝をしているという。

 趣味は、テレビでプロ野球をみることだそうだ。

 この二人を頭の中で、単純に比較しても、やはり人間には、年はないということ。たしかにKさ
んは、この10年の間に、かなりの畑を減らした。ミカン栽培もやめた。しかしいつも、できる範
囲で、仕事をしているといった感じ。決して、「年だから……」という弱音を吐かない。

 一方、Sさんは、いつも、「年には勝てないよ」とか、「オレも、年をとってしまったよ」と言って
いる。どこか生きザマが、うしろ向き。しかしそういうSさんにしたのは、Sさん自身ではないの
か……と、考えて、この話はここまで。

 しばらくこのテーマについて、考えてみたい。
(040723)

+++++++++++++++++++++

こうした日本人の依存性を鋭く追及したのが、
土居健郎「甘えの構造」である。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++

●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするた
びに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何と
かしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「そのときになっ
たら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだ
け。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が
結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と
違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好ん
で使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的で
あればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくこと
は、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して
いない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の全体主
義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界からみて、日本
や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が国際人の仲
間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」の一
節)

+++++著作権BYはやし浩司++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++ 
  
●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人がそれ
に気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・リーブズが
主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら気づか
ない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おなかがす
いたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、もう50歳代の
ときから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかしてくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会も国民
も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海外へ移住
した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで生まれた子ども(二
世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼んでいる。依存性が強い分だけ、
新しい社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って嫌う。そ
してそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と依存し、
子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のところで話
すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日本人は、大
きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。年配の人が多い。もう
一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期にある
とみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさわしいほど
の転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎにやってくるの
かは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時代であることも事実の
ようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかしてくれ言
葉 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存性 日本人の依存性 土居
 甘えの構造 だから何とかしてくれ言葉 何とかしてくれ言葉 なんとかしてくれ言葉 はやし
浩司)







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12
●言葉が乱れる子ども

+++++++++++++++++++++

言葉が乱れる子どもというのは、少なくない。
言っていることは、わかるのだが、全体として、
文章になっていない……?

それを書く前に、こんなことは、よくある。
これは日本語の特徴なのかもしれないが、
たとえば、子どもたちは、こう言う。

「明日は、プールがない」と。

そこで私がすかさず、「プールがないって、
どういうこと?」と聞きかえす。

子「プールがないよ」
私「プールが、現れたり、消えたりするの?」
子「ううん、プールはあるけど、プールで、
泳がない」

私「泳げばいいでしょ。どうして泳がないの?」
子「だからア〜、体育の授業で、水泳をしないって
いうこと」
私「ああ、そう。だったら、はじめっから、そう
言えばいいのに……」と。

が、P君(小2男児)のケースは、ややちがう。
(Pさん、P君のことを書いて、ごめんなさい。
立ち話のつづきを書いてみます。)

P君は、こう言った。

「ぼく、携帯電話ない。かぎは、もってる。
お母さん、仕事で、ぼく、先に、中に入る……」と。

P君が言おうとしていることは、よくわかる。
こういうことらしい。

「ぼくは携帯電話はもっていない。しかし家のかぎは、
もっている。お母さんが仕事で帰りが遅くなったときは、
そのかぎを使って、ぼくは、先に、家の中に入る」と。

こういうケースでまず疑ってみるべきは、その
子どもの会話能力。
会話能力が貧弱だと、作文能力に、そのまま
大きな影響を与える。
作文能力が劣ると、あらゆる科目に影響がおよぶ。

その子どもの会話能力を決めるのは、母親である。
母親は、そのため、子どもには、正しい日本語で
話しかけなければならない。

たとえば、「ほら、カバン、カバン、ハンカチは?」
ではなく、
「あなたはカバンをもちましたか?」「ハンカチは
もっていますか?」と。

それについて書いた原稿は、このあとに添付して
おく。

が、P君のケースは、それともややちがう。
お母さんは知的な人で、かつP君には、愛情豊かに
接している。
もちろん言葉の使い方も、正しい。

似たようなケースは、バイリンガルの子どもにも
ときどき観察される。

たとえば父親が日本人で、母親が中国人であるような
ケースである。

0歳〜2歳期の、言語形成期にバイリンガルで育てる
と、子どもの言語能力は、大きく乱れることは、
よく知られている。

私の孫も、2歳半くらいのとき日本へ来たとき、
英語とも日本語ともわけのわからない英語を
話していた。

たとえば「私は家へ帰りたくない」というときも、
「No go home, bye, bye」と。

問題は、なぜP君の言語能力が、乱れているか、である。
P君の両親は、日本人である。
脳の言語中枢の問題など、いろいろ考えられるが、
教育の世界では、(原因)よりも、「この先、どうするか?」
を、優先して考える。

私「乱れた日本語は、そのつど、言いなおさせるしかありませんね」
母「私も、気になっていましたが……」
私「まだじゅうぶん間にあいますから、今日からでも、正しい
日本語で会話することに心がけてみてください」
母「わかりました」と。

++++++++++++++++

子どもの会話能力について書いた
原稿を、いくつか添付します。

++++++++++++++++

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう30年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の3つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小2)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい
うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。

たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞く
と、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコ
プター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小4)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。
もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。
「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。

私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(54歳)はこう言った。「そんなの
誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++++++

もう1作、携帯電話について書いた原稿です。
(最近、携帯電話が話題になることが、多く
なりましたので……。)

日付はわかりませんが、2000年ごろに
書いたものです。

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●子どもの携帯電話を考える法

 携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているの
で、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並
べると……

(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情
報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の
意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化す
る。

(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の
世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無
視する。

(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方
をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。

(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温
の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロー
ルしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。

(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が
「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわ
からない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりす
る。

(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話
に固執する。

(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけしか通用しない用語だけで会話をしよ
うとする。またそれを知らない人を、よそ者的に排斥しようとする。

(8)ワイアレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能
化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。

(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざそ
の人と直接対面すると、何も話せない。

(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層に浸透している。

(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考回路も軽くなる。
会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。

(12)親指人間、会話能力欠如、言葉の短文化、感情化、短絡化、文字のマンガ化、ムダ話
がなくなった分だけ、黙々と携帯に文字を打ち込んでいる。

通学電車の中。昔は高校生や中学生の笑い声やはしゃぐ声が聞こえた。が、今は違う。誰も
が黙々と携帯電話のボタンを押している。携帯電話をもっていない子どもも、もっている子ども
に遠慮して何も話しかけない。静かだ。しかしおかしい……?

今では中学生の約60%、高校生の約80%が携帯電話をもっている(2000年、筆者調査)。
すでに「持ち物」という範囲を超え、携帯電話は子どもたちの間では必需品にすらなりつつあ
る。

「携帯電話がないと、仲間ハズレにされる」「友だちができない」と言った中校生すらいる。もち
ろんそれが子どもたちに与える影響は大きい。今どき、テレクラ・ナンパ・援助交際を問題にす
るほうがおかしい。有害な性情報は、容赦なく子どもたちの世界に降り注ぐ。知識や行動だけ
ではない。この携帯電話が子どもたちの心まで蝕み始めている。

++++++++++++++++

P君のケースとは関係ありませんが、
たとえばアスペルガー児のばあい、
言語能力が乱れることは、よく
知られています。

つぎの原稿は、6〜7年前に書いた
原稿です。

++++++++++++++++

●心にキズをもった子ども

【大阪府T市在住の母親より】

幼稚園で不登園になって以来、小学校に 入学してから今まで 毎日 学校でつき添って登校
しています。

最近 「ぼくは、死んだほうがいいんだ。」「お母さんは、僕が嫌いなんだ。」「どうせ何をやって
もうまくできない」と、毎日言います。

幼稚園に行かなくなったときに 私が、死にたいほど辛く 本人にもかなりひどいことを言ってし
まったのを、思い出しているのかも知れません。最近になって、アスペルガ−症候群だといわ
れました。

子供に 自己に自信をつけてあげるには、どのように接してあげれば、いいでしょう?毎日 楽
しく生活できるようにと 思っているのですが、毎日 あまりにもしつこく言われ 私も いらいら
してしまいます。
(大阪府T市、CFより)

+++++++++++++++++

 アスペルガー症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは、簡単に説明だけして
おく。

 自閉症的な症状を示しながら、知的な発達障害の見られない子どもが見せる症候群を、アス
ペルガー症候群という。ふつう自閉症というときは、言語能力などの分野で、知的発達障害を
ともなくことが多い。が、アスペルガー児には、そういった発達障害は、見られない。むしろ、数
学や算数の分野などで、特異な能力を見せることが多い。

 正確には、自閉症の中でも、正常レベルに近い子どもを、「高機能自閉症児」という。その中
でも、さらに正常に近い子どもを、「アスペルガー児」という。高機能自閉症児と、アスペルガー
障害児をまとめて、「高機能広汎性発達障害児」と呼ぶ。

 しかし名前だけはぎょうぎょうしいが、要するに、対人関係に問題がある子どもというだけで、
それ以上に問題はない。「個性」と位置づける研究者も多いし、実際、教育現場では、そういう
方向で、指導をしている。

++++++++++++++++

 この相談のばあい、その子どもが、アスペルガー児であるかどうかは、不随的な問題と考え
てよい。アスペルガー児だから、「死んだほうがいい」という言葉を口にするわけではない。た
だ、対人関係の調整が、きわめて苦手な子どもなので、ささいなことで、キズつきやすいという
こと。

 で、気になるのは、母親自身が、「私が、死にたいほど辛く、本人にもかなりひどいことを言っ
てしまったのを、思い出しているのかも知れません」と告白している部分である。

 恐らくそういった接し方を、その母親は、一度とか、二度とかではなく、ごく日常的に、態度を
とおして、していたのかもしれない。

 そのため、子どもの心は、キズついた。アスペルガー児であるというなら、なおさら、デリケー
トな心をもっていた。子どもの年齢は書いてないので、よくわからないが、低学年児であるな
ら、この言葉は、痛々しい。

【CFさんへ……】

 CFさんも、当時は、いろいろ混乱していたのだと思います。子どもの様子が、少し変わってい
るということで、いろいろ悩んだのだと思います。そして、(ひどいこと)を口にしてしまった。

 この問題は、CFさんの子どもが、アスペルガー児であるとかないとかいうこととは、一度、切
り離して考えてみたほうが、よいのでははいないかと思います。そして過去の失敗は、いまさ
ら、悔やんでもしかたのないこと。

 問題は、これから先、どうするか、ですね。

 幸いなことに、CFさんは、今、そういう自分を深く、後悔しています。そして自分やあなたの子
どもを、冷静に見つめています。ここがとても重要な点です。というのも、世の中には、そういう
子どもをもちながら、その子どもの心を知らないまま、子どもを叱りつづける親も多いからで
す。

 ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、自分を改めようとする前に、「子どもをなお
そう」と考えます。しかしこれほど、身勝手な考え方はありません。

 実のところ、私自身も、「アスペルガー症候群」という言葉を、ほんの5年前にさえ知りません
でした。当時、ある母親から、子育て相談会の席で相談され、そういう症状があることを知りま
した。今から思うと、それがアスペルガー症候群でした。

(この名称が一般的になったのは、ここ数年のことではないでしょうか。私の勉強不足かもしれ
ません。

 対人関係が結べず、その子どもの母親も、深刻に悩んでいました。「完ぺき主義で、だれか
にまちがいを指摘されたりすると、錯乱状態になる」と。

 で、その子どもは、小学3年生になるまで、私は指導しました。その子どもについては、また
別の機会に詳しく書くとして、そんなわけで、私は、「死にたいほどつらく思い、子どもにひどい
ことを言った」あなたを、責めることができません。

 で、その結果、あなたの子どもの心は、ひどくキズついてしまったというわけです。

 ただ、一つ、誤解してはいけないのは、こうした対人関係がうまく結べない子どものばあい、と
きとして、相手に同情を求めながら、相手の心を試すということは、よくあることということです。

 「死」という言葉にしても、言葉として、そう言うかもしれませんが、あまり本気にしてもいけま
せん。「死ぬ」「死ぬ」と言って、死んだ子どもはいません。子どもが死を選ぶのは、あくまでも、
何かのことで行きづまった、その結果です。……といっても、やはり痛々しい言葉ですね。本来
なら、絶対、子どもには口にしてほしくない言葉です。

 こういうケースでは、まさにあなたの親としての、愛の資質が試されます。どんなことがあって
も、「許して、忘れる」です。あとは、暖かい無視を繰りかえし、子どもが、何かのスキンシップや
愛情表現を求めてきたら、すかさず、いとわず、ていねいにそれに答えてあげるということで
す。

 あとは、時の流れに任せましょう。コツは、そういったテーマや問題には、触れないことです。
うまく、聞き流すことです。「暖かい無視」という言葉がありますが、私も好きな言葉です。うま
く、応用してみてください。

 ただとても残念なことですが、一度ついた心のキズは、簡単には消えません。忘れることはで
きますが、消えません。

 しかしだれしも、そうしたキズを無数にもちながら、つまりキズまるけになりながら、成長し、生
きていくものです。ですから、CFさんの子どもが、こうしたキズをもっているとしても、それはそ
れとして、前向きに生きていくしかありません。

 コツは、その問題にふれないように。話題にしないように。あまり気にしないように。

 なお、こんな指導法もありますから、参考にしてください。

 ある中学生の男子ですが、何かにつけて、ゆううつな話題をもちかけてきます。……きまし
た。

 たとえば、こうです。

 「ぼく、今度のテストで、悪い点を取るような気がする」
 「高校へ入っても、また勉強するなんて、いやだ」
 「昨日、友だちが、ぼくを無視した」と。

 最初のうちは、その中学生に相談に、そのつどあれこれ答えていましたが、そのうち、私の
ほうもいやになり(本音!)、やがて、こう答えるようにしました。すぐ、話題を、切りかえるので
す。

 その子どもが憂うつそうな顔をして、話しかけてきたら、すかさず、「ほほう、君は、いい趣味
しているねえ。このサイフ、かっこいいね。もらったの? 買ったの?」と。

 あるいは、「もうすぐ運動会だね。君は、何に出場するの? 子どものころから、君は、走る
のは速かったんだろ?」と。

 つまりその瞬間、瞬間に、明るい話題に、こちらからもちこんでいきます。この方法は、たい
へん効果的ですから、ぜひ、CFさんのご家庭でも、応用してみてください。

 なお、いただきましたメールですが、マガジン用に、転載することを、どうかお許しください。不
都合な点があれば、改めます。どうか、至急、ご連絡ください。勝手なお願いですみません。
(はやし浩司 高機能自閉症児 アスペルガー アスペルガー症候群 子どもの心 子供 キ
ズ はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子どもの言語能力 言葉の乱れ
る子ども 会話能力 言語能力)

++++++++++++++++++

原稿をさがしてみたら、6年前(02年)
にも、同じようなことを書いていたのが
わかった。

++++++++++++++++++

●子どもの言葉(乱れる言葉)

+++++++++++++++++

昨日、生徒たちと、こんな会話をした。
だれかが、「先生、トイレ!」と言ったときのこと。

私は、「もう少し、言葉を、ていねいに話そう」と
指導した。そしていろいろな例をあげて、
日本語のおかしさを、指摘した。

つぎの原稿は、そうした視点から書いたもの。

+++++++++++++++++

ある夏の暑い日、1人の女の子(小2)がこう言った。「私、今日、プール、ない!」と。ほかの子
どもが、「今日、私、プール、あった」と言った言葉に対してそう言った。私はそのときふと、「こ
ういうとき、IBMの翻訳ソフトなら、こういう会話をどう翻訳するだろうか」と考えた。ちなみに、
私がもっているソフトで、実際、翻訳してみた。つぎのがそれである。

 「私、今日、プール、ない!」……"Pool and there is nothing me and today." (プール、私と
今日、何もない)
「今日、私、プール、あった」……"today and me -- a pool -- "(今日と私……プール)

 仮にもう少し原文に忠実に翻訳して、たとえばアメリカ人に、「Me, today, pool, no!」「Today 
me, pool, yes」と言っても、多分その意味は通じないだろう。

 そこで私はその女の子に、つぎのように質問しながら、正しい言葉で言いなおさせた。

私「あなたはプールをもっていないの?」
女「私が、もってるんじゃ、ない」
私「プールがどうしたの?」
女「プールがなかった」
私「どこになかったの?」
女「そうじゃなくて、プールはあるけど、プールのレッスンはなかったということ」

私「プールがレッスンするの?」
女「あのねえ、私がプールへ行かなかったということ」
私「どうして?」
女「だからさあ、プールがなかったの」
私「プールがなくなってしまったの?」

女「そうじゃなくてエ〜、今日は水泳のレッスンはなかったということ」
私「だったら、最初から、そう言ってね」と。

 こういうとき英語では、「私は今日、スイミングのレッスンには行かなかった」というような言い
方をする。IBMの翻訳ソフトで、翻訳させると、今度はちゃんと、「"I did not go to the lesson 
of swimming today."」と翻訳できた。

今、書店へ行くと、日本語についての本がたくさん並んでいる。その理由が、少しは理解できた
ような気がした。
(02−7−25)








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13
【謎のキトラ古墳】(改)

(注)昨日(5月25日)に書いた原稿に、一部、まちがいが
ありましたので、訂正して、送信します。

+++++++++++++++++++++++++++++

●百済(くだら)王子

今朝の新聞によると、例のキトラ古墳の内部は、
もぬけのカラだったという(08年5月24日)。
わずかな人骨が、散乱していたにすぎなかったという。
新聞記事によれば、「盗掘によってそうなった」と。
しかし、どこのだれが、人骨など、盗掘するだろうか?

これについては、こんな説がある。
その前に、当時の歴史について、説明しておかねば
ならない。

みなさんも、「壬申(じんしん)の乱」という言葉を、
学校の社会科の授業で、聞いたことがあると思う。
当時としては、たいへんな大事件であったらしい。
日本書紀も、この事件について詳しく書いている。

で、その壬申の乱というのは、天智天皇(てんじてんのう)の子
である、大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟である、大海人皇子
(おおあまのみこ)の間で起きた、皇位争奪戦のことをいう。

つまり天智天皇なきあと、天智天皇の子と、天智天皇の
弟が、皇位を争って、「乱」を起こした。
結果、天智天皇の弟の大海人皇子が、皇位を継承する。
名を「天武天皇」と改める。

そこでもう一度、キトラ古墳が発掘された当時(02年)に
私が書いた原稿を、ここに再掲載してみる。

この中で、とくに注意してほしいことは、キトラ
古墳の内部が、百済王室の模様で、飾られていた
ということ。
だからキトラ古墳が発掘された当時、新聞記事の
見出しは、こうなっていた。

「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」(毎日新聞)
と。

弓削(ゆげ)皇子というのは、天武天皇の子を
さす。

もう一度、系譜を整理してみる。

天智天皇―大友皇子(おおとものみこ)
天武天皇―弓削(ゆげ)皇子

天智天皇と天武天皇は、兄弟。

++++++++++++++++++++++

●驚天動地の発見!

 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは
私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年の
はじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。

これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研
究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。

明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。

詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削
(ゆげ)皇子か」と。

京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる
『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。こ

これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族
か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうな
るか。

弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出
しを載せた。

++++++++++++++++++++++

先に書いた壬申の乱の前に、朝鮮半島で、「白村江
(はくそんこう)の戦い」というのが起きている。
西暦663年のことである。

この白村江の戦いというのは、わかりやすく言えば、
滅びつつあった百済が、百済再興をかけて、唐と
新羅(しらぎ)に、最後の一線を挑んだ戦いということになる。

その白村江の戦いに、天皇家は、百済にたいして、
援軍を送っている。
その中心的人物が、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
と言われているが、確かではない。

それはそれとして日本の天皇家と、百済は、きわめて近い関係に
あった。

が、ご存知のように、白村江の戦いでは、百済が敗退。
同時に日本の天皇家は、手痛い打撃を受ける。

ここから先は、関裕二氏の書いた「古代史の秘密を握る
人たち」(PHP)を引用させてもらう。

関裕二氏の書いた本の中には、こうある。

「(日本書紀によれば)、中臣鎌足が出現する直前、
百済の皇子の豊璋(ほうしょう)が、人質として、
来日している」(同、P83)と。

以下、同書には、つぎのようにある。

「豊璋は、西暦631年に来日、660年に百済がいったん滅亡したのち、王朝復興の機運の高
まりの中で、百済の名将、鬼室福信に呼び戻され、擁立される。しかし(豊璋は)、鬼室福信の
手腕と名声をねたみ、これを殺し、首を塩漬けにして、自ら王朝の衰弱を招いてしまう。白村江
の戦いで百済王朝は、永遠にこの世から姿を消し、豊璋は行方をくらましたままだった」と。

年代を整理してみよう。

631年・・・豊璋、来日
660年・・・百済滅亡
663年・・・白村江の戦い(百済、永遠に滅亡)
672年・・・壬申の乱が起きる。
673年・・・天武天皇(大海人皇子)即位

キトラ古墳は、こうした歴史を背景として、作られた。
ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。

「壁画などにみられる唐の文化的影響が、高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が
日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られて
いる」(ウィキペディア百科事典)と。

つまり西暦600年の末から、西暦700年のはじめである、と。
この時期は、白村江の戦い〜壬申の乱と、ピタリと重なる。

さらにつけ加えるなら、壬申の乱は、天智天皇の子と、
天智天皇の弟との間の皇位争奪戦だったということに
なっているが、関裕二氏の見解は、少しちがう。

それまでの百済派だった大友皇子(天智天皇の子)と、
新羅派になりつつあった大海人皇子(天智天皇の弟、
のちの天武天皇)との間の戦いだった、と。

わかりやすく言えば、百済派の天智天皇の子と、
新羅派の天武天皇の戦いだった、と。
これを裏づける資料としては、つぎのような
ものがある。

「天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から
新羅使が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への
遣新羅使も頻繁に派遣されており、
その数は天武治世だけで14回に上る」(ウィキペディア百科事典)と。

が、最大の謎は、なぜ天智天皇は、それほどまでに百済に
肩入れをしたかということ。
天智天皇は、ウィキペディア百科事典によれば、3派に分けて、
計4万人という兵力を送っている。

(当時の4万人だぞ!)

事実、白村江の戦いで百済は滅亡し、そのあと天皇家も滅亡の
危機を迎える。

が、こうした事実と、キトラ古墳を重ね合わせてみると、
答は自然と出てくるのでは?

壬申の乱で政権を継承した大海人皇子(=天武天皇)は、新羅への
忠誠をたてる必要性からも、キトラ古墳をつぶさなければ
ならなかった(?)。

その結果が、今朝の新聞ということになる。

なお、こうした歴史観というのは、日本の外では常識で、
「そうではない」「まちがっている」と、かたくなに、
「日本史」にこだわっているのは、日本の歴史家たち
だけと考えてよい。

日本史も、実は、東洋史の一部でしかない。
またそういう視点で、日本の歴史をながめて、はじめて、
日本人は、日本のルーツを正しく知ることができる。
これは余計なことかも知れないが・・・。

なおさらにつけ加えるなら、ここに出てくる、「豊璋」
という人物は、中臣鎌足ではなかったかという説も
ある(前述、関裕二氏)。


+++++++++++++++++++++++

ここまで書いて、あの「ニセ石器事件」を
思い出した。
日本人の私たちにしてみれば、思い出したくもない
不愉快な事件かもしれない。
が、なぜ、日本の考古学者たちが、
あのニセの石器に飛びついたか。
その心理的背景を知るのには、たいへん象徴的な事件
ということになる。

+++++++++++++++++++++++

●日本史にこだわる日本人

【ニセ石器事件】

●藤木Sの捏造事件

 一方こんなこともある。藤木Sという、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘し
たという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そうい
うインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまったというから、これまた
すごい。

たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年
終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議
員をしている。

その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国人は
皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国の
マスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻
撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

+++++++++++++++++++

その韓国で、私は、交換学生だった当時、
金素雲氏という人から、こんな話を、直接
聞いた。

当時の韓国を代表する、文学者兼歴史学者
であった。

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【民族の誇りとは……】

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2002年の1月に、つぎのような原稿を
私はこんな原稿を書いた。

今、改めて、それを読みなおしている。

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●私はユネスコの交換学生だった

 1967年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡った。日
韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎えられた。が、
歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学者であ
る。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、しかしすべてを
教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話してくれた。

●奈良は韓国人が建てた?

 「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈落の果て
にある国(ナラ)」という意味で、「奈良」になった、と。

昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。現在の今でも、韓国語で「ナ
ラ」と言えば、「国」を意味する。

もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言え
ば、日本史が日本史にこだわっている限り、日本史はいつまでたっても、世界の、あるいはア
ジアの異端児でしかない。日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本史を見る
必要があるのではないのか。

ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオーストラリ
アでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本はその一部でしか
ない。

●藤木新一の捏造事件(先にあげた原稿と重複します)

 一方こんなこともある。藤木S一という、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発
掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そ
ういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまった人たちがいるとい
うから、これまたすごい。

たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年
終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議
員をしている。その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれ
た。

「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当
時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本を
はげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

●常識と非常識

 私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見、金素雲氏が話してくれた奈良の話と、
この捏造事件はまったく異質のように見える。奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもな
い風説に過ぎない。

いや、一度、私が金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の
中にあるでしょう」と笑ったのを思えている。しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎ
ない。これに対して、石器捏造事件のほうは、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石
器」という証拠が出てきたのだから、これはたまらない。

事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。が、よく考えてみると、
これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏の話してくれたことは、
日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用しない世界の非常識。
世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく態度も、基本的には同じと
みてよい。

●お前は日本人のくせに!

 ……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。事
実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。

しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれれば、
私は100%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本という国土、
文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。

このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意識は、ゆ
がんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのものをゆがめ
る。これは危険な思想といってもよい。

仮に百歩譲って、「日本民族は誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくとも中国
の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代から5500年の
歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中国からきたものだ。

その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人を「下」
に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義というのは、もともと
そのレベルのものでしかない。

●驚天動地の発見!

 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは
私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年の
はじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。

これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研
究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。

明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。
詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削
(ゆげ)皇子か」と。

京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる
『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。これはどうやらふつうの発掘
ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分
を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。弓削皇子は、天武天皇の
皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。

●人間を原点に

 話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚かな
い。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。先日愛知万博の
会議に出たとき、東大の松井T典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から見たら、地球には
人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(2000年1月16日、東京)と。

これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じことが言え
る。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、笑いものになる
だけだ。

いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものになるだ
け。日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおかしい。
私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるからということでは
なく、人間であることによる。もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」
ことによる。松井教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。

●非常識と常識

 いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日
がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いていることが正しい
と証明されるだろう。

そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。「なぜ日本の考古学者は、藤木S一の捏造と
いう非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史学者は、東洋史という常識に背を向けたの
か」と。繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついてい
る。(以上、2002年1月記)

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 今朝(05年12月2日)の朝刊によれば、またまた奈良県の明日香村のカヅマヤマで、石積
み石室古墳が見つかったという。

 中日新聞は、「百済王族?」と「クエスチョンマーク」をつけて報道している。「時期は7世紀後
半、40〜50代の男性埋蔵か」と。

 「被葬者は渡来系か」と題して、前園・奈良芸術短大の教授は、つぎのように語っている。

 「土を焼いて作った朝鮮半島の「せん」を使った石室を意識した構造で、被葬者は天武天皇
の客人だった、百済王昌成(こうだらのこきししょうじょう)ら、渡来人の人物がふさわしいので
は。丘陵の斜面を削り墳丘を築造する立地条件は、高松塚古墳など、ほかの終末期古墳と一
致するが、規模が大きく、「せき(=石へんに、専の文字)」を積んだ、特殊な石室をもつ点が特
徴だ」と。

 奈良県の明日香村の西南部には、7〜8世紀の終末期古墳が密集している。大半が天皇家
に関係があるとされる。

 中でも、天武、持統天皇陵は藤原京の中軸、朱雀(すざく)大路の延長線上にあり、そこから
南約3キロのエリアを天武天皇一族が、「聖なるライン」として築いた墓域とみる説が有力(同、
新聞)。

 この周辺に、あの高松古墳、キトラ古墳もある。(カヅマヤマと、キトラは、距離にして、1・5キ
ロほど。)今回発見された古墳も、まさに百済や高句麗の様式をまねたもの……というより、百
済や高句麗の様式そのもの。そこで前園教授は、「被葬者は渡来人か?」と。日本人の墓とす
るには、あまりにも無理があるからである。

 日本の天皇は、「ゆかり」という言葉を使って、当時は、大問題になった。しかしこの事実ひと
つだけを見ても、日本の天皇家と、朝鮮半島は、密接に結びついている。どうして日本の聖域
の中に、百済からやってきたと思われる渡来人の墓が、こうまであるのか。また天皇陵の様式
にしても、どうしてこうまで百済、高句麗の様式と酷似しているのか。

 この先のことは私にはわからないが、再び、私は、あの金素雲氏が言った言葉を思い出す。

 「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と。仁徳天皇の墓の中には、何かしら、巨大な謎
が隠されているらしい。
(はやし浩司 カヅマヤマ古墳、キトラ古墳 百済 高句麗 弓削王子 金素雲 (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 
education essayist writer Japanese essayist キトラ古墳 豊璋 天智天皇 天武天皇 百済 
新羅 天皇家のルーツ はやし浩司 壬申の乱)

(あとがき)

朝鮮半島と日本は、古来より、密接に関係しあっていた。
朝鮮語と日本語は、発音こそちがうが、同じ言語である。
日本語が朝鮮半島に伝わったということは、ありえない。
朝鮮語が、日本に伝わったと考えるのが、自然である。

私はこのことを、佐賀県の唐津へ講演で行ったときに知った。
あのあたりまで行くと、会話の抑揚そのものが、韓国語に
そっくり。
そこでそのことを話題にすると、付き添ってくれた佐賀県の
教育委員会の方が、こう説明してくれた。

「天気のいい日には、近くの山に登ると、朝鮮半島が見えますよ」と。

日本から朝鮮半島が見えるということは、向こうからも日本が見える
ということ。
朝鮮半島に生まれた強大な国家が、日本制服をもくろんだとしても、
何もおかしくない。








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14
●アルツハイマー病(Alzheimer's Disease)

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昨日、書店で、『アルツハイマー病にならない!』
という本を買ってきた。
井原康夫・荒井啓行著、朝日新聞社刊、定価1100円
+税、という本である。

仕事の合間に、一気に読んだ。
読んで、いろいろ考えさせられた。

そのひとつ。
「アルツハイマー病も、生活習慣病のひとつと考えて
よいのではないか」ということ。
つまり日々の生活の過ごし方で、ある程度、予防できる
ということ。
もう少し正確には、仮にアルツハイマー病になったと
しても、発症、進行を、遅らせることができるという
こと。

本書の中では、「アルツハイマー病にならない生活」として、
つぎのようなことをあげている。
そのまま箇条書きにさせてもらう。

(1)多量の飲酒は、脳萎縮を起こす。(アルツハイマー病につながるということではない。)
(2)魚を食べると、アルツハイマー病になりにくい。
(3)抗酸化物質を多く含む食事に心がける。
(4)抗酸化ビタミンを含むサプリメントを摂取する。(ビタミンC、Eなど。)
(5)ビタミン12と葉酸の欠乏を防ぐ。
(6)地中海料理がよい。
(7)カレーを食べるとよい?
(8)緑茶は、アルツハイマー病を予防する?
(9)教育歴は高い方がよい。
(10)社会的なつながりをもつ。
(11)有酸素運動が望ましい。
(12)昼寝をする。
(13)ストレスを減らす。

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本書の中では、いくつかの症例が紹介されている。
それを読みながら、「あの人もそうだった」
「あの人の現在の様子に似ている」と思った。

つまり、それくらい、読んでいて切実感があった。

私もそろそろ危険年齢。
本書によれば、加齢とともに、Aβ42(老人斑)が
でき始め、やがて神経原繊維変化が起こり、神経細胞の
脱落が始まるそうだ。

そのあと、軽度認知障害が始まり、アルツハイマー病へと
つながっていく。

「80歳で臨床的に認知症になるとすると、50歳くらいから、
老人斑ができ始めている考えられる」(P23)とある。

アルツハイマー病というのは、ある日突然なるという病気ではない。
20〜30年という長い時間をかけて、徐々に、そうなっていく。
つまり生活習慣病のひとつと考えてよいということらしい。

なお本書によって、いくつか誤解していたこともわかった。

(1)喫煙とアルツハイマー病

喫煙が、パーキンソン病の抗危険因子(つまり、タバコを吸うと、
パーキンソン病になりにくい)ということはよく知られている。
が、アルツハイマー病については、危険因子だ、そうだ。
(つまり、タバコを吸うと、アルツハイマー病になりやすいということ。)

(2)アルミニウムは危険因子ではない?

以前、「アルミニウムはアルツハイマー病の危険因子である」という
説が、巷(ちまた)に流布したことがあった。
私もそのとき、その説を信じ、アルミニウム製の調理器具を処分してしまった。
しかしアルミニウムとアルツハイマー病とは、直接的には関係が
ないということらしい。

だからといってアルミニウムが安全というのではない。
ウサギの脳に、塩化アルミニウムを接種した学者がいた。
で、そのあとウサギの脳を調べてみたら、「とぐろを巻いた
繊維構造がいっぱいつまっていた」(同書)という。
そこでその学者は、「神経原繊維変化」の原因物質をつきとめた
と思ってしまったらしい。

それが「アルツハイマー病、アルミニウム原因説」へとつながっていった。

が、やがてこの現象は、アルツハイマー病による神経原繊維変化とは
別のものとわかったそうだ。
で、現在、アルミニウムによるこの現象は、「アルミニウム脳症」
と呼ばれ、アルツハイマー病とは区別されているという。

なお、本書の巻末には、アルツハイマー病の診断テストがついていた。
MMSEテスト法というのが、それだが、「今日の曜日が言えるか」
とか、「季節がわかるか」といった程度のもの。

で、そのあと、私は、子どもたちと、こんなゲームをした。
称して、「逆唱ゲーム」。
MMSEテスト法の応用というか、もう少しレベルをあげたもの。

(テスト1)

ランダムに、5つの数字を言い、相手に、それを逆唱させる。
たとえば「3・8・6・3・9」を、「9・3・6・8・3」と。

(テスト2)

5文字程度の言葉、たとえば「ゆ・き・だ・る・ま」と言い、相手に、
「ま・る・だ・き・ゆ」と、それを逆唱させる。

これがスラスラとできるようなら、問題はないということらしい。

【症例】

私の知っている人に、こんな人がいた。
当時、年齢は55歳。
女性である。
なおアルツハイマー病では、女性患者のほうが、男性患者より多いそうだ。

で、ある日、突然、その女性から、電話がかかってきた。
話を聞くと、孫(当時6歳)が、ゲーム機器に買ってあげたという。
で、「どんなゲーム(ソフト)を買い与えたらいいか?」と。

私はゲームには、詳しくなかった。
「あとで調べて報告します」ということで、その電話は切った。
私はその足で、近くにあるソフト専門店に足を運んだ。

数日後、その女性に教室で会ったので、「何か、買いましたか?」と
聞くと、「ハア〜?」と。

私「ゲームは、どんなものにしましたか」
女「孫が、ほしいと言ったものにしました」
私「どんなゲームですか?」
女「知りません。孫が勝手に決めましたから」と。

が、私が驚いたのは、その1、2週間あとのこと。
私が再び、その女性に、「先日、電話をいただいたあと、どんなゲームが
いいか、それをレポートに、まとめてみました」と話しかけると、その女性は、
こう言った。

「私、先生に、いつ、電話をしましたか。電話などした覚えはありません!」と。

かなりきつい言い方だった。

似たような症例が、「アルツハイマー病にならない!」(前述)の中にもある。

『……(その女性は)本が好きで、毎晩、寝る前に本を読んでいた。
しかし「おかしい」と気づいたのは、65歳のとき。
寝る前に読んでいた本だったが、どこまで読んだか、忘れてしまった。
前の晩まで読んだ本の内容を忘れてしまった。

また息子の妻から、税金の申告に必要な書類を渡され、つぎの日に、
「書類はすみましたか」と聞かれたが、何のことかわからず、
書類を渡されたこと、その書類をどこにしまったかということ、
何を書き込んだかということを忘れてしまった……」(同書より、要約)と。

アルツハイマー病による(もの忘れ)は、ふつうの(もの忘れ)とは、
中身がちがうようだ。
(忘れる)というよりは、(記憶の断片そのものが、欠落する)と
いった感じになる。

で、先の女性の話にもどる。

その女性は、周期的に、私に電話をかけてきた。
「孫の相談で……」ということだったが、内容は、夫や、息子、息子の嫁
にまで及んだ。
が、そのつど、一方的に話すだけ。
アルツハイマー病の患者は、話し方が、かったるくなるというが、
その女性は、早口だった。
相談といっても、綿々とつづく、グチ、またグチ。
私が何かアドバイス的な意見を口にすると、ときに、それに激怒する。

「先生は、私の話を何も聞いていないのですね!」「ちゃんと、人の話は
聞いてください!」「この前、ちゃんと、説明したでしょ!」と。

が、次回の電話では、前回の電話の内容を、まったく覚えていない。
私が「あの件は、どうなりましたか?」と聞いても、「ああ、あれね。
解決しました」で、終わってしまう。

話の内容に、連続性がないばかりか、一貫性がない。
で、事件が起きた。

その女性の孫が通っている幼稚園で、何かの会費を預かったのだが、その会費を
紛失してしまったというのだ。
で、息子の嫁がそれを問いただすと、「私は、受け取っていない」の
一点張り。
そこで家族そろって、病院へ……ということになったという。

「アルツハイマー病にならない!」の中の女性についても、こうある。

『……夫からは、「最近、考えることや行動が貧困化している。以前は通院の
帰りにデパートで買い物などしていたが、今は、それがない」と。

また息子の嫁からは、「もの忘れが進んでいる。それを指摘すると、
顔色を変えて、怒り出す。食事の支度を頼んでも、味噌汁をつくってくれる
くらい」と……』(同書より、要約)と。

(1)連続性の欠落(話の内容が飛躍し、つながりをもたない)
(2)一貫性のなさ(「OK」と言っていたことが、突然「NO」になる)にあわせて、
(3)生活態度の貧困化
(4)突然の激怒、混乱も、アルツハイマー病の特徴に加えてもよいのでは?

こうした様子が、その人に見られたら、まず専門医に相談、ということになる。

それにしても、私は、この本を、ハラハラ、ドキドキしながら読んだ。
「明日は、我が身」という内容の本だった。








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15
教育の原点

【子どもの中の子ども】

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子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

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●乳幼児の記憶

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子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

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「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。

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わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

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●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。

++++++++++++++++++++

では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

++++++++++++++++++++

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

++++++++++++++++

では、いよいよ核心?

「私」とは何か。
また教育の世界では、「私」をどう考えたら
よいのか。

私は、ひとつの仮説を考えた。

++++++++++++++++

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. 
Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal 
part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)

++++++++++++++++

教育の世界では、表面的な子どもだけを
見て、教育してはいけない。

教師のひとつひとつの行動、言動が、
どのように子どもの中に形成されていくか。
それを観察しながら、教育する。

あるいは反対に、その子どもが、その
子ども自身の中の、どのような「私」に
コントロールされているか、それを
的確に判断しながら、教育する。

それが教育の原点ということになる。

++++++++++++++++

【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have 
found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 
慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 教育の原点)








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言語能力

 ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ
ることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる
と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適
切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで
きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ
ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの
ではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評
論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer 
Japanese essayist メルツオフ メルツォフ 乳幼児の記憶 視床下部 辺縁系 扁桃核 扁桃
体 カテコールアミン はやし浩司)









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17
日本の教育(Education in Japan)
A Korean survey organization has surveyed the consciousness of the pupils of 4 countries, 
France, Britain, Japan and Korea.

+++++++++++++++

韓国の新聞を読んでいると、日本との
比較記事が、よく目にとまる。

これもそのひとつ。
こうした記事を読んでいると、日本の現状が
かえって客観的によくわかって、おもしろい。

ソウル・聯合の記事をそのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++++

【ソウル2008年5月2日・聯合】

韓国の小学生の授業に対する興味は、フランス、英国、日本の小学生に比べ大きく劣ることが
わかった。

教室での規則順守、教師や友達など他人の尊重度も低い。韓国教育課程評価院のチョン・ヒ
ョソン研究チームが、4か国の小学4〜5年生234人を対象に、国内73校・日英仏の10校で
実施した調査から明らかになった。

それによると、「授業が面白い」と回答した生徒はフランスが55.0%、英国が48.0%、日本が
42.6%で、韓国は35.2%と最も少なかった。

「授業で学ぶ内容をきちんと理解している」との回答は日本が41.7%、フランスが34.0%、英
国が32.3%だったのに対し、韓国は19.9%にとどまった。

また、「勉強が好き」と回答した生徒は英国が48.0%、フランスが42.0%、日本が19.1%、韓
国が18.3%、「教室で勉強するとき幸せだ」との回答もフランスが53.0%、英国が42.5%、日
本が20.9%、韓国が20.8%と、いずれも韓国は最下位だった。

あわせて、学校での他人への配慮・尊重度、教室の規則順守度合いなどについても調査され
た。「教室で社会生活に必要な秩序と規則を学び、実践する」との回答はフランスが63.0%で
最も多く、英国が54.3%、日本が20.0%と続き、韓国は18.4%にとどまった。「教室で他人を
理解し尊重することを学び、実践する」との回答も韓国が15.9%と低かったのに対し、英国と
フランスは約60%に上った。

こうした結果は、増加の一途をたどる校内暴力、教師への敬意低下といった問題とも関係して
いるものとみられる。

チョン研究委員は「国内外の学校を視察したところ、外国は規則や秩序の順守、他人への配
慮、教師への敬意などの面で非常に厳しい一方、韓国の生徒は相当に不足しているようだ」と
指摘している。

+++++++++++以上、聯合ニュースより転載++++++++++++++

数字を、少し整理してみる。

「授業が面白い」と回答した生徒(those pupils who answer "Yes", to the question, "Do you 
find your lessons at schools interesting?")

フランス 55・0%、
英国   48・0%
日本   42・6%
韓国   35・2%

「授業で学ぶ内容をきちんと理解している」との回答した生徒(those pupils who answer "Yes", 
to the question, "Do you think you fully understand the lessons at schools?")

日本   41・7%
フランス 34・0%
英国   32・3%
韓国   19・9%

「勉強が好き」と回答した生徒(those pupils who answer "Yes", to the question, "Do you like 
studying?")

英国  48・0%
フランス42・0%
日本  19・1%
韓国  18・3%

「教室で勉強するとき幸せだ」との回答した生徒'those students who answer "Yes", to the 
question, "Do you feel happy when you study at schools?")

フランス 53・0%
英国   42・5%
日本   20・9%
韓国   20・8%

「教室で社会生活に必要な秩序と規則を学び、実践する」と回答した生徒

フランス 63・0%
英国   54・3%
日本   20・0%
韓国   18・4%

「教室で他人を理解し尊重することを学び、実践する」との回答した生徒

韓国       15・9%
英国とフランス   約69%

++++++++++++++++++++++++++++++++++

日本では、「勉強が好き」「勉強が楽しい」と答えた子どもが、20%前後だという。
私の印象でも、おおむね、そんなものだと思う。

このあたりの中学生でも、約60%の子どもは、「ほとんど勉強していない」とみてよい。
高校受験についても、「部活でがんばって・・・」と考える。
中には、「勉強したくないから、進学校へは行きたくない」と答える子どももいる。

一方、欧米では、「社会に出てから役に立つ知識や技術を身につけるため」と考える
子どもが多い。
こうした傾向は、先の調査結果をみても、よくわかる。

「教室で社会生活に必要な秩序と規則を学び、実践する」と回答した生徒が、フランスで63・
0%、英国で、54・3%、日本で、20・0%というのが、それ。

日本の教育は、総合的にみると、将来、学者になるためには、きわめてすぐれた体系をもって
いる。
英語教育を例にあげるまでもない。
それもそのはず。
その道の学者が、体系を、つくったからである。

だから、おもしろくない。
役に立たない。

一方、アメリカなどでは、「実用」ということを、大切に考える。
たとえば中学の数学でも、「中古車の買い方」というテーマをとおして、子どもたちは学習を進
める(プレンティス版、中学代数)。
つまり中古車の買い方を通して、少数計算、金利計算などを学ぶ。
ついでに小切手の切り方、使い方も学ぶ。

こうしたちがいが、今回の調査結果に、強く反映されている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 日本の子どもの意識調査 意識
調査 勉強が好き 嫌い 韓国の調査 はやし浩司 学習意欲)








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18
介護問題(Care for an End)

+++++++++++++++++++

厚生労働省は、在宅死の割合を、
2025年までに、4割に引きあげるという
目標を上げた(08年)。

その根拠として、「国民の6割が、
病院以外での看取りを希望しているから」と。

+++++++++++++++++++

厚生労働省は、在宅死の割合を、2025年までに、4割に引きあげるという目標をあげた。
その根拠として、「国民の6割が、病院以外での看取りを希望しているから」と。

しかし本当に、そうか?
その一方で、こんな調査結果もある。

神奈川県保険医協会が実施した県民意識調査では、「最期まで自宅を望む」と答えた人が、1
割程度にすぎなかったという(「医療介護情報CBニュース」・6月6日」)。
「青森県保険医協会が昨年行った調査でも、同様の結果が示されており、終末期医療の在り
方が問われそうだ」(同、ニュース)とも。

どちらが正しいのだろう?

厚生労働省は、「6割」という。
神奈川県での県民意識調査では、「1割」という。

私自身のことで言うなら、

(1)老後になっても、自分の息子たちには、めんどうをかけたくない。
(2)実際問題として、親の最期を、自宅で看取るというのは、不可能。

もう少し、「医療介護情報CBニュース」を詳しく読んでみよう。

+++++++++++以下、医療介護情報CBニュースより++++++++++

神奈川県保険医協会では、脳血管疾患の終末期医療に関して、県民がどう考え、どのような
不安を持っているかなどを把握するため、60歳以上を対象に意識調査を実施。3月からの約
1か月間に回収できた143件を集計した。

脳血管疾患や認知症などで入院中、退院を勧告された場合に希望する療養場所については、
「別のリハビリテーション病院」が39・8%、「長期療養できる医療施設」が14・6%と、医療系の
施設が過半数を占めた。これに「介護施設」の12・5%を合わせると、自宅外を望む人が66・
9%となった。

 一方、「自宅」と答えた人は21・6%。このうち3分の1以上の人が「現在は(自宅で療養する)
条件がない」とした。

 また、自宅で療養中に肺炎などの疾患を併発した場合の療養場所については、「(必要な治
療を受けるために)病院に入院を希望する」が、58・7%、「介護施設」が15・3%で、「(医療や介
護を受けながら)最期まで自宅を望む」は12・5%にとどまった。この「最期まで自宅」という希望
に関連して、実際に「自宅で看取ってくれる」と答えた人は、ゼロだった。

 病院に入院することを望む人に、その理由(複数回答)を尋ねたところ、「回復の可能性があ
るなら、治療を受けたい」が53・5%、「自宅や施設での治療内容が不安」が45・2%に上った。

 さらに、家族による自宅での看取りについては、「無理」が45・9%で、「看取ってくれる」は9%
にすぎなかった。

 自宅で最期まで療養する場合の課題(同)については、「家族の負担が大きすぎる」が55・
9%、「(容態の)急変時の対応に不安」が49・6%、「家族の高齢化」が43・3%などだった。

 在宅死については、青森県保険医協会が590人の県民を対象に実施した調査でも、脳血管
疾患や認知症などで入院中、退院を勧告された場合に希望する療養場所について、「リハビリ
テーションができる病院」が47%、「長期療養できる医療施設」が14%と、医療系の施設が60%
を超えており、「自宅」は11%だった。

+++++++++++++以上、医療介護情報CBニュース+++++++++++

数字を、少し、整理してみる。
最後の青森県保険医協会での調査結果が、わかりやすい。
それによれば、在宅死について……。

「リハビリテーションができる病院」……47%、
「長期療養できる医療施設」……14%
「自宅」……11%

となると、厚生労働省の「60%」という数字は、どこから出てきたのか。
「終末期医療に関する調査等検討会・04年度」が根拠になっているらしいが、それにしても、
おかしい。

まさか、ねつ造?

ただここで注意しなければならないことがある。

(1)老人自身の立場で考えた終末医療と、その周辺の家族の立場で考えた終末医療とは、ま
ったく別ものであるということ。

(2)老人自身の立場で考えると、「できれば自宅で……」と思っても、「現実には無理」というこ
とが多いということ。(希望)と(現実)の間には、大きなギャップがある。

現実の話をしよう。

京都新聞の記事をそのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、京都新聞、08年5月18日+++++++

 京都府保険医協会はこのほど、終末期医療と医療制度改革について高齢者を対象に行っ
たアンケートの結果をまとめた。半数のお年寄りが「自宅で最期を迎えるのは無理」と回答し、
理由には家族の介護負担などを挙げた。また75歳以上対象の後期高齢者医療制度に対し
「死ねと言われているようだ」と怒りの声が目立った。 

 アンケートは今年3月中旬までに、京都市内の老人福祉センター17カ所の利用者ら約130
0人に配布。719人から回答があった。 

 「脳血管障害や認知症で入院し、日常生活が難しいまま自宅に帰るように進められた場合、
どこで暮らしたいのか」との問いに、45%の人が「リハビリができる病院」と回答。「自宅に戻
る」と答えた人は10%だった。 

 自宅以外と回答した人は、理由として「回復する可能性があるならきちんと治療がしたい」(3
02人)「家族に迷惑を掛けたくない」(266人)を選択した。 

 また家族が自宅でみとってくれると答えた人はわずか11%で、半数の人が「自宅では無理」
と答えた。 

 アンケートの自由記述では、後期高齢者医療制度への批判が目立った。「後期高齢者という
名のもとに負担を強いられることに怒りを覚える。好んで病気になるのではないのに(脳こうそ
くで治療中)、治療に専念することが不安でならない」との声や、配偶者や親を介護した体験か
ら、病院を数カ月ごとに転々とすることへの不安、大病院と医院との医療の格差から在宅医療
態勢への不安を訴える声などが多かった。 

 ほかにも、「戦争で10年も損をして、自分の親やしゅうとめは自分を犠牲にして最後まで面
倒をみたけど、このごろは長生きは悪いみたい。楽に死ねる薬を国が下さい」「必要以上の人
工的処置での延命は望まない。しかし、政府の医療費削減のための方針は、人間の生きる望
みを断ち切る施策で容認できない」などの記述があった。

+++++++++++以上、京都新聞、08年5月18日+++++++

要約すると、「実際問題として、自宅で最期を迎えるのは無理」ということ。
このことは、私自身も、経験している。

現在、私の母と兄は、それぞれ別々の施設で、「今後、延命処置はしません」と言われるような
状態にある。

母にしても、兄にしても、(とくに兄は)、生きているのも、苦しそうといったふう。
果たしてそういう状態のまま、無理に生かしておくということが、よいことなのか、悪いことなの
か、私にはよくわからない。

母についても、そうで、今では、寝たきり。
寝返りもうてない状態にある。
母は、流動食を、兄は、腹部にパイプを通して、そこから食物を流し込んでいる。
しかし母にしても、兄にしても、「おとなしくて静か」という点で、まだよいほう。
中には、(そういう老人のほうが、多いそうだが……)、夜中じゅう、泣き叫んだり、わめいたり
する老人もいる。
暴力をふるう老人もいる。

また「親子」といっても、内容は、さまざま。
それまで良好な関係を保ちつづける親子というのは、そうはいない。
中には、この40年間、一度も顔を合わせていないという親子もいる。
(この話は、本当だぞ! 私の知りあいの中に、そういう親子がいる。)

こういうケースのばあい、「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』を、そのまま当ては
めることは、できない。
その『ダカラ論』によって、苦しんでいる親子も、多い。

それはともかくも、老人の世話となると、たいへん。
気が抜けないというか、心の上に、重石を置いたような状態になる。
便臭と悪臭、それとも闘わねばならない。

風通しのよい家ならまだしも、高層のマンションでは、その苦労は、倍加する。
さらに施設にいるからといっても、安心できない。
いつなんどき、緊急の電話がかかってくるか、わからない。
この私だって、一泊旅行となると、かなり気が引ける。
日帰り旅行にしても、母の容体を、そのつどたしかめてから出かけるようにしている。

そういう自分を知っているから、「実際問題として、自宅で最期を迎えるのは無理」ということに
なる。
またそういう苦労を知っているから、「家で最期を迎えたい」という気持ちはあっても、「子どもた
ちには、迷惑をかけたくない」という思いから、「最期は、病院で」となる。

なお、アメリカでは、自宅で最期を迎える人は多い。
そういう制度そのものが、整っている。
オーストラリアでは、ほとんどの人が、最期の時は、施設で迎えている。
そういう制度そのものが、整っている。

そういう制度を整えないまま、はっきり言えば、国の医療費を軽減する目的だけで、「在宅死の
割合をあげる」というのであれば、私は、反対する。

なお厚生労働省は、つぎのように説明している。

「終末期医療については、厚労省の「終末期医療に関する調査等検討会」が04年にまとめた
報告書で、「(看取りについて)自宅を希望している国民が約6割」と発表。これを受け、厚労省
は「患者の意思を尊重した適切な終末期医療を提供する」として、25年までに自宅等での死
亡割合を現在の2割から4割に引き上げることを目標に掲げている」(医療介護情報CBニュー
ス)と。

フ〜ン?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 在宅介護 介護問題 在宅死 
終末期医療 後期高齢者 医療 後期高齢者医療 はやし浩司)









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19
「最高の人生の見つけ方」(The Bucket List)

++++++++++++++++++++++++++++++

ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン
主演の、『最高の人生の見つけ方』を見てきた。

よかった。

星は4つの、★★★★。

一語ずつ、セリフに、重みが感じられた。
その(重み)が、ズシリ、ズシリと、
心に響いた。

「余命、6か月、一生分、笑う」という
サブタイトルもよい。

++++++++++++++++++++++++++++++

ともに「余命、6か月」と宣告された2人の老人。
ジャック・ニコルソンは、80数歳、
モーガン・フリーマンは、66歳という役ではなかったか?
(記憶による数字なので、まちがっているかもしれない。)

その2人が、意気投合。
最後にしたいこと、し残したことをするため、旅に出る……。

スカイダイビングをしたり、カーチェイスをしたり……。
ピラミッドにも登る、タージマハールも見る、エベレストにも登る……。
で、最後は、一番大切なことをして、この世を去る……。

超億万長者だが、いつも孤独という、ジャック・ニコルソン。
貧しいが、暖かい家族に恵まれている、モーガン・フリーマン。
そのあたりの設定は、(できすぎ)といった感じがしないでもなかった。

が、何といっても、セリフがよかった。
それぞれのセリフに重みがあった。
その(重み)が、そのつど、ズシリ、ズシリと、私の心に響いた。

何度も書いてきたが、「老後になったら、すべきことをさがして、
そのすべきことをする」。
「したいことをする」のではない。
「すべきことをする」。

が、いよいよ末期になったら……。
そのヒントは、モーガン・フリーマンが演じて見せてくれた。
最後の最後まで、誠実さを貫き、家族を大切にする。
結局は、私たちは、そこへ行き着くのではないか。

劇場から出てくるとき、ワイフにこう言った。
「今度、DVDが出たら、また、見よう」と。

劇場では、セリフをメモすることはできない。
DVDなら、それができる。
それで、ワイフにそう言った。

なお映画の中に、「キューブラー・ロスの死の受容段階論」が出てきた。
その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試
みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)

私はまだ幸いにも、「死を受容する」というような大病を患ったことがない。
ないので、軽々に、「死の受容段階論」を論ずることはできない。

しかし反対の立場で、こんな経験をしている。

若いころ、たいへん仲のよい友人がいた。Mさん(男性)といって、当時31歳だった。
そのMさんだが、ある日、ショッピングセンターの中で、ばったりと出会った。
そのときのこと。
私は、Mさんの、あまりにもよそよそしい態度に驚いた。
声をかけても、半ば、私を無視するような態度をしてみせた。
瞬間、私は、「何か、悪いことでもしたのかな?」と、自分を疑った。

あとで聞いたら、そのときMさんは、すでに、末期ガンで、ホスピスに入院していたという。

同じようなことを、最近、別の友人(享年、60歳、男性)でも、経験した。
その友人は、ごく最近、亡くなったが、その友人と出会ったときも、そうだった。
その友人も、同じように、よそよそしい態度をしてみせた。
そして同じように、瞬間、私は、「何か、悪いことでもしたのかな?」と自分を疑った。

こうした(よそよそしさ)は、末期にある人に共通して見られる現象なのかもしれない。
キューブラー・ロスの「段階論」による、第2期の(怒りの段階)?
(怒りの段階)になると、「健康に人に対する怒りが現れる」(同書)とある。
それが転じて、(よそよそしくなる)?

私にはよくわからないが、そういうふうにも解釈できなくはない。
あるいは、死の恐怖と闘うだけで精一杯という状態になるのかもしれない。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論・補足

私は今まで、身近で、何人かの人たちの末期を見てきた。
そういう人たちが私に見せた様子を、ここに書きとめておきたい。

(第1期)否認……たとえばガンと宣告されたり、ガンの手術を受けたりすると、たいていの人
は、「私のは軽かった」「まだ小さいうちに切り取ったから、安心」「本当に、がんだったかどう
か、あやしいものだ」とか言う。

(第2期)怒り……病院へ通いながらも、「あの医師は、不親切だ」「あの病院は、ちゃんと検査
してくれない」「看護士の対応のし方が悪い」などと、不平、不満を並べる。

(第3期)取り引き……この時期、それまで休んでいた信仰を再開したり、教会や寺を回るよう
になる人が多い。私の知人の中には、それまで、まったくの無神論者だったが、カトリックのク
リスチャンになった人もいる。

(第4期)抑うつ……第4期に抑うつ状態になるというよりは、全体として、抑うつ状態になるの
では? 見舞いに行ったりすると、妙に元気で、明るく振る舞う人も少なくない。これは抑うつ状
態を隠そうとするための、演技ではないか。

(第5期)受容……このころになると、「私はガンです。余命は、あまりありません」と、手紙に書
いてきたりする。数年前だが、35年ほどつきあった医師の友人から、「正月まで生きているか
どうかわかりませんから、年賀状を今のうちに出しておきます」という手紙をもらったことがあ
る。私の義父も、死の直前は、毎日ベッドの上で正座して、瞑想にふけっていた。死を受容す
るということは、そういうことか。

私も、やがてすぐ、死を迎えるようになる。
映画『最高の人生の見つけ方』の中では、どこか茶化しながら、「お前は、怒りの段階だ」など
と言っていたセリフがあったように思う。
私も、同じ人間だから、同じような段階を経て、やがて死を迎えることになるだろう。
ただ願わくは、そのとき、後悔するような生き方だけは、今、したくない。
できれば、(第1期)〜(第4期)はできるだけ早くすまして、(第5期)の状態になりたい。
それができるかどうか、今のところ、まったく自信はないが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist キューブラー・ロス 死の受容段
階論 死の受容 受容段階論 否認 怒り 受容 死への段階論 はやし浩司)








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20
S君の生き方(Immunocyte & Cytokine)
A cytokine brings the effect that multiple functions, that is, a single cytokine varies in the 
condition of the target cell.

+++++++++++++++

昨夜、T県T市に住んでいる、S君と
電話で、1時間ほど、話す。

大学の同窓生である。

彼も、4、5年前、内臓にガンを患い、
現在も、「闘病生活をしている」(同君)
とのこと。

「毎月、いろいろな検査を受けている」
「毎週、リハビリに通っている」
「毎日、いろいろな薬をのんでいる」と。

しかし生き方が、すばらしい。
何ごとにつけ、前向き。

「ぼくはクラシック音楽が好きだから、
チケットはいつも、何枚ももっている」と。

心配して電話をかけたつもりだったが、
かえって私の方が、教えられた。

「なあ、林君、ガンなんて、治せば
いいんだよ。すぐ死ぬというわけでも
ないからね。ていねいに検査を受けていれば、
転移も、それでわかる。わかったとき、対処
すれば、まにあうよ。これで最初のガンから
5年になるから、あと10年は生きられるよ。
これからの10年は、(もうけもの)と
思って生きるよ」と。

「悪いのは、ストレスだよ。ストレスが、
ガンを引き起こすと考えていいよ。
ぼくの周囲でガンになった人を見てもね、
何らかのストレスが引き金になったと
思われるのが、多い。ストレスが免疫細胞の
力を弱めてしまうんだよ。ガン細胞なんて
ものはね、みな、もっているんだよ」とも。

次回の同窓会には出ることを約束して、
電話を切る」

++++++++++++++++

●ストレス

++++++++++++++++

以前、ストレスについて書いた原稿を
さがしてみた。

++++++++++++++++

●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、どん
なにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶものは、その(わず
らわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人間が、
原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何
かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は「うつ
病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

そこで人間は、自分の心を調整するため、(1)攻撃、(2)防衛のほか、つぎの3つの心理的反
応を示す。(3)同情(弱々しい自分をことさら強調して、同情を求めようとする)、(4)依存(ベタ
ベタと甘えたり、幼児ぽくして、相手の関心をひく)、(5)服従(集団の長などに、徹底的に服従
することで、居心地のよい世界をつくる)、ほか。。

(1)攻撃というのは、自分の周囲に攻撃的に接することにより、居心地のよい世界をつくろうと
するもの。具体的には、つっぱる子どもが、それに当たる。「ウッセー、テメエ、この野郎!」と、
相手に恐怖心をもたせたりする。(自虐的に、自分を攻撃するタイプもある。たとえば運動を猛
練習したり、ガリ勉になったりする。)

(2)防衛というのは、自分の周囲にカラをつくり、その中に閉じこもることをいう。がんこになっ
たり、さらには、行動が自閉的になったりする。症状がひどくなると、他人との接触を避けるよう
になったり、引きこもったり(回避性障害)、家庭内暴力に発展することもある。

大切なことは、こうした心の変化を、できるだけその前兆段階でとらえ、適切に対処するという
こと。無理をすれば、「まだ、前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、症状は、一気に
悪化する。症状としては、心身症※がある。

こうした心身症による症状がみられたら、家庭は、心をいやす場所と考えて、(1)暖かい無視
と、(2)「求めてきたときが与え時」と考えて対処する。「暖かい無視」という言葉は、自然動物
愛護団体の人が使っている言葉だが、子どもの側から見て、「監視されていない」という状態を
いう。また「求めてきたときが与え時」というのは、子どもが自分の心をいやすために、何か親
に向かって求めてきたら、それにはていねいに答えてあげることをいう。

++++++++++++++++++++

●心身症診断シート

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、心身症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。ふつう子どもの心身症は、(1)精
神面、(2)身体面、(3)行動面の三つの分野に分けて考える。

 精神面の心身症……精神面で起こる心身症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での心身症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の心身症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での心身症に先だって、身体面で
の心身症が現われることが多い。

 行動面の心身症……心身症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。

こうして書き出したら、キリがない。要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この心身症を疑ってみる。

ただし一言。こうした症状が現われたときには、子どもの立場で考える。子どもを叱ってはいけ
ない。叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。心身症は、ますますひどくな
る。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

+++++++++++++++++++++

●母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭
をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中
で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうAさんを、夫は「だらしな
い」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさん
に任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょう
か」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(5)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(6)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(7)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(8)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(9)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(10)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見ら
れたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子ども
が間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。

++++++++++++++++++

この原稿の中で、とくに重要なのは、つぎの部分。

「……しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、その人の処理能力を超えたようなときは、
免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こ
すとされる」と。

そこでもう一度、免疫細胞とサイトカインについて、調べてみる。

●免疫細胞

+++++++++++++以下、「免疫プラザ」HPより+++++++++++

免疫細胞の戦いの流れ

免疫細胞には役割分担があり、互いに連絡を取り合ってチームプレーで戦っています。侵略
者の敵を見つける者、敵襲来の情報を伝達する者、攻撃開始を命令する者、武器を作る者、
攻撃する者、攻撃の始まりや終わりを告げる者、それらの者を元気づける者など、それぞれが
独自の役割を持って、実に多彩な連携のもと敵をやっつけます。

+++++++++++++以上、「免疫プラザ」HPより+++++++++++
+++++++++++++以下、「瀬田クリニック」HPより+++++++++

●Tリンパ球

  がん細胞を直接、攻撃、排除する免疫反応の中心となる細胞はTリンパ球です。血液中の
主にTリンパ球を体外で培養しながら活性化し、数も大幅に増やし、その上で元の患者さんの
体内に戻すと いうことを主眼とした治療法を活性化自己リンパ球療法といいます。
 
  試験管内ではTリンパ球を極めて強く活性化することが出来、かつ活性化に使用する薬剤
の副作用を蒙ることなく治療を行うことが出来ます。活性化や刺激の方法についてもいろいろ
な変法が考案され、実施されています。 

●樹状細胞

  樹状細胞とはがん細胞の目印である抗原をリンパ球に伝えて、攻撃を司令する細胞です。
Tリンパ球が敵と戦う兵隊とすると、樹状細胞は司令官のような役目を担っています。

血液中の単球を体外で処理して、樹状細胞に分化させることが可能で、さらに、抗原としてが
ん細胞から抽出した蛋白質や合成したペプチド(小さい蛋白)を貪食させ、細胞表面に提示さ
せます。このようにして抗原を提示した樹状細胞を、体に注射することで、生体内にがん細胞
を攻撃する細胞傷害性Tリンパ球(CTL)を誘導することができ、樹状細胞療法といいます。

++++++++++++++以上、「瀬田クリニック」HPより+++++++++++

●サイトカイン

++++++++++++++以下、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

サイトカインは細胞表面の膜上にある受容体(それ自体がチロシンキナーゼまたはチロシンキ
ナーゼと共役するものが多い)に結合して働き、それぞれに特有の細胞内シグナル伝達経路
の引き金を引き、結果的には細胞に生化学的あるいは形態的な変化をもたらす。

サイトカインは多機能的、つまり単一のサイトカインが標的細胞の状態によって異なる効果を
もたらす。例えば免疫応答に対して促進と抑制の両作用をもつサイトカインがいくつか知られ
ている。

またサイトカインは他のサイトカインの発現を調節する働きをもち、連鎖的反応(サイトカインカ
スケード)を起こすことが多い。このカスケードに含まれるサイトカインとそれを産生する細胞は
相互作用して複雑なサイトカインネットワークを作る。

たとえば炎症応答では白血球がサイトカインを放出しそれがリンパ球を誘引して血管壁を透過
させ、炎症部位に誘導する。またサイトカインの遊離により、創傷治癒カスケードの引き金が引
かれる。

サイトカインはまた脳卒中における血液の再還流による組織へのダメージにも関与する。さら
に臨床的にはサイトカインの精神症状への影響(抑鬱)も指摘されている。

サイトカインの過剰産生(サイトカイン・ストームと呼ばれる)は致死的であり、スペイン風邪やト
リインフルエンザによる死亡原因と考えられている。この場合サイトカインは免疫系による感染
症への防御反応として産生されるのだが、それが過剰なレベルになると気道閉塞や多臓器不
全を引き起こす(アレルギー反応と似ている)。

これらの疾患では免疫系の活発な反応がサイトカインの過剰産生につながるため、若くて健康
な人がかえって罹患しやすいと考えられる。

++++++++++++++以上、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

サイトカインといっても、いろいろあるようだ。
大切なことは、前向きに、生き生きと生きることによって、
免疫細胞を活性化させるということ。

悪玉ストレスは、極力、避けるということ。

S君はこうも言っていた。

「運命は、受け入れるしかない。運命をのろっても
しかたない。どうにもならない。受け入れて前向きに
生きれば、自然と免疫細胞も活性化されて、ガンも
治るよ」と。

たいへんすばらしい教訓を受けた。
電話を切ったあと、そう感じた。

S君、ありがとう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 免疫細胞 サイトカイン)








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21
【児童虐待】

●児童虐待のうち、7割あまりが、核家族世帯で起きている?(Children Abuses)
(70% of Children Abuse cases are occurred so-called "Nuclear Families", or "Families eith 
only parents and children". But is this true?

++++++++++++++++++

児童虐待のうち、7割あまりが、「核家族」
で起きているという。

また虐待といっても、「ネグレクト」が、
約39%。
身体虐待の31%より多かったという。

このほど、奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」
が、そんな調査結果をまとめた。
(産経新聞・08年6月10日)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

+++++++++++以下、産経新聞より抜粋+++++++++++++++++

児童虐待の防止策などを協議する県の「児童虐待等調査対策委員会」(委員長=加藤曜子・
流通科学大教授)は9日、昨年度に奈良県と市町村が受理した児童虐待事案を対象にした、
初の調査結果を報告した。

全1228件のうち、7割あまりが父母以外の同居者のない「核家族」で起き、親が養育を怠慢
したり拒否する「ネグレクト」も全体の4割弱を占める実態が判明。県は「調査結果から、児童
虐待を早期発見することの困難さが浮き彫りになった」と深刻に受け止めている。

児童虐待に関し、県内では今年度初めて、県と市町村が統一の調査票に基づいて記録するシ
ステムを導入。昨年度は統一調査票がなかったが、同委員会では、深刻化する児童虐待の実
態をより詳しく分析する必要があるとして、昨年度分の事案も統一調査票の設問にのっとる形
で再精査した。

その結果、父母以外の同居者がいるかどうかを問う設問では、899件(73・2%)で核家族に
あたる「なし」と回答。無回答や不明を除く「あり」の回答は221件(18%)に過ぎなかった。

また、種類別では「ネグレクト」が477件(38・8%)と最も多く、「身体的虐待」の383件(31・
2%)を上回っていた。

+++++++++++++以上、産経新聞より抜粋+++++++++++++++


●この調査結果は、おかしい?

児童虐待を調べたら、73%が、核家族世帯の子どもであったという。

だれしもこの数字だけを見たら、児童虐待のほとんどは、核家族で起きていると思うだろう。
中には、「核家族では児童虐待が起きやすい」と思う人もいるかもしれない。
「73%」という数字は、そういう数字である。

しかし、待ったア!

この調査結果を読んで、「?」と思った人はいるだろうか。
が、私は、一読して、「?」と思った。
奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」という公的な機関がまとめた調査だから、「まさか?」
とは思いたいが、おかしいものは、おかしい。

この調査でも、「万引きした子どもを調べたら、50%が、女子だった。(だから女子は万引きし
やすい)」式の、きわめて初歩的なミスを犯している(?)。

よく読んでみてほしい。産経新聞の記事には、こうある。

「(虐待)全1228件のうち、7割(73%)あまりが父母以外の同居者のない「核家族」で起き
た」(だから児童虐待は、核家族世帯で、起きやすい)と。

しかしもし、核家族が、全体の7割だったとしたら、この「7割」という数字には、まったく意味が
ない。

ちなみに奈良県のばあい、

「核家族世帯の割合は64・01で(全国)3位である。いずれの指標も上位10都道府県のほと
んどを東京・名古屋・大阪及びその周辺の府県が占めており、大都市及び周辺地域の特性と
見られる」(2000年10月・奈良自治体問題研究所)とのこと。

つまり、64%が、核家族である、と。

この64%をもとにすれば、つぎのようなことは、調査しなくても言える。

「私立高校へ通う子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
「ゲームをしている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
ついでに、もうひとつ。
「黒い靴を履いている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」と。

「64%」と「73%」の(差)こそが、問題ということになるが、その差は、たったの9%。
誤差の範囲とは言い切れないが、それに近い。

とくに祖父母同居の家庭では、ここでいうネグレクトという虐待は少ないはず。
両親が衣食などの世話をしないばあいには、祖父母がする。
となると、「ネグレクトが39%」という数字を、どう処理したらよいのか?

つまりこの調査によって奈良県は、「核家族世帯では、児童虐待が起きやすく、たとえば祖父
母同居家庭世帯では、児童虐待は置きにくい」ということを裏づけたかったのだろう。
それはわかるが、私は、つぎの一文を読んで、思わず、吹き出してしまった。
(「児童虐待」そのものを笑ったのではない。どうか、誤解のないように!)

「県は『調査結果から、(児童虐待の73%は、核家族世帯で起きているから)、児童虐待を早
期発見することの困難さが浮き彫りになった』と深刻に受け止めている」と。

では、これらの数字を、どう読んだらよいのか?
今一度、数字を整理してみよう。

(1)奈良県の核家族世帯の割合      ……64%
(2)児童虐待の中に占める核家族世帯の割合……73%
(3)児童虐待の中のネグレクトの割合   ……39%
(4)児童虐待の中の身体的虐待の割合   ……31%
(祖父母同居世帯では、ネグレクトの割合は、当然、少ないはず。)

話をわかりやすくするために、具体的に数字を置いて考えてみよう。

今、ここに、虐待を受けている子どもが、100人いたとする。

(1)そのうち、73人は、核家族世帯の子ども。27人は、そうでない、たとえば3世代〜同居世
帯の子ども。
(2)100人のうち、39人は、ネグレクトを受けている子ども。31人は、人体的虐待を受けてい
る子ども。もちろんその両方の虐待を受けている子どももいる。
(3)しかし奈良県のばあい、核家族世帯は、64%。繰りかえすが、もし虐待を受けている100
人の子どものうち、64人が、核家族世帯の子どもであったという結果だったら、この調査は、
まったく意味のない調査だったということになる。

ウ〜〜〜〜〜ン。

これらの数字を並べてみると、「核家族世帯でのほうが、そうでない世帯よりも、児童虐待が、
やや多いかな」という程度のことでしかない。
しかも「3世代〜同居世帯では、ネグレクトが起きにくい」ということを考慮に入れるなら、ネグ
レクトは、比較的、核家族世帯で起きやすく、身体的虐待は、比較的、そうでない世帯で起き
やすいという程度のことでしかない。
つまり児童虐待、とくに身体的虐待と核家族世帯を、無理に結びつけることはできないのでは
ないかとさえ思われる。

身体的虐待についていえば、核家族世帯であろうとなかろうと、そういうことに関係なく、起き
る。

で、結論。
「73%」という数字に、だまされてはいけない!

+++++++++++++++++

ついでに、社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」
のした調査結果を、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の5人に1人は、「子
育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、3倍になっていることがわかった(有効回答500
人・2000年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」
「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待な
し」が、61%であった。この結果からみると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行
為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、1998年までの8
年間だけでも、約6倍強にふえていることがわかった。(2000年度には、1万7725件、前年
度の1・5倍。この10年間で16倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた6932件のうち、身体的暴行が3674件(53%)でもっ
とも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、2109件(30・4%)、差別的、攻撃的言動によ
る心理的虐待が650件など。

虐待を与える親は、実父が1910件、実母が3821件で、全体の82・7%。また虐待を受けた
のは小学生がもっとも多く、2537件。3歳から就学前までが、1867件、3歳未満が1235件
で、全体の81・3%となっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 児童虐待 核家族 核家族と児
童虐待 ネグレクト)








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22
【幼児の不登園】(Children who refuse to go to kindargartens)

●赤ちゃん返り

++++++++++++++++

下の子が生まれたあと、
上の子が、おかしくなってしまうという
ケースは、たいへん、多い。

本能的な部分で嫉妬するため、上の子は、
そのまま、心をゆがめてしまう。

症状は、私は攻撃性をともなう(プラス型)と、
退行性が見られる(マイナス型)に分けて
考えている。

その双方が、交互に出ることもある。

赤ちゃん返りを、けっして甘く考えてはいけない。
軽く考えてはいけない。
ばあいによっては、それが情緒障害の引き金を
引いてしまうことになりかねない。

大阪府にお住まいの、UNさん(母親、35歳)から、
こんな相談が届いている。

++++++++++++++++

初めて相談させて頂きます。
先生のHPを見て、もっとはやく読んでいたらよかったのに・・・と思ってしまいます。

相談させて頂きたいのは長男(5歳)のことです。現在年長児で、2週間前から不登校になりま
した。原因は多々あるかと思います。

長男の性格は臆病で神経質です。生後8か月目から保育園に通っていましたが、友達とのか
かわりも少なく、自分の世界に入って遊ぶことが多かったです。友達とのトラブルも少なかった
です。先を読むことが得意なのか、公園の遊具でさえも怖がって遊ぶことはなかったです。

現在は電車オタクのようにものすごい知識を持っていて、そのせいか漢字もよく読んでいます。
幼稚園ではそのような話についていける友達もなく、元気な男の子の輪には入っていけていな
いようです。むしろ「優等生」のように注意したりしているようです。

私はもっと男の子なら泥だらけになるくらい遊んで、たくましくなって欲しかったです。食べるの
が好きで年長と思えないくらいの体重があり(28キロ)、運動が苦手です。幼稚園では、子ども
たちに逆上がりさせたり、組体操させたりと体育活動が活発なので、息子は劣等感を抱いてい
るようです。

休み始めた頃は、「赤ちゃん返り」ともいう行動がありました。「おもらししていいか」とおもらしし
たり、オムツ履いたりおまるで排泄してみたり・・・。以前からよく「抱っこして〜おっぱい飲ませ
て」と言っていました。私はできるだけ受け止めていたので、心は大丈夫かと思っていました。

今週に入り、顔色もよくなってきたのですが、まだ幼稚園のことは口にしません。どのタイミング
で言ったらいいかよくわかりません。

また、周囲からは「子供をそのまま受け止めてあげて」といいますが、私はできるだけそうして
いるつもりです。でも今回のことで自分の育児が否定され、子供のどこをみていいのか、どう受
け止めればいいのか、また、どうしたら「愛しているんだよ」と伝えられるのかわかりません。

長女(3歳)はとても無邪気でかわいく思えるのですが、長男は可愛いとは思えないのが本音で
す。

主人の両親からは生まれる前から、「男の子を生め」といわれ、生んだ後は子育てをチェックさ
れ、主人と息子を比べられ、私は必死になっていたのかもしれません。自分の子供というより、
主人の実家のために生んだような感じです。

きっと私がそう思っている以上は、どんなに息子に「愛しいてる」と言っても通じないのかもしれ
ません。でも、言わないといけないと思うのです。他に方法がわからないからです。どうか教え
てください。

+++++++++++++++

【はやし浩司からUNさんへ】

気負いや、心配、不安が先行すると、子育ては、どうしてもどこかぎくしゃくしたものになりがち
です。
とくに最初の子どもについては、そうです。
またそうであるからといって、自分を責めてはいけません。
みな、そうだから、です。

子どもに何か問題(?)が起きると、たいていの親は、「どうして、うちの子が?」とか、「そんな
はずはない!」とか、思ったりします。
しかしやがて、他人の子どもの問題を知るにつけ、「ああ、みんな、がんばっているんだな」と知
ります。

さらに言えば、子どもの問題は、より深刻な状態になって、「以前のほうが軽かった」ということ
がわかります。
あるいは、自分の子どもより、さらに深刻な問題をかかえている子どもをみて、自分の子ども
の問題が何でもなかったことに気づきます。

UNさんのケースでは、

(1)赤ちゃん返りがこじれ、
(2)それが情緒不安の引き金を引いてしまったケースと考えられます。

UNさんは、『休み始めた頃は、「赤ちゃん返り」ともいう行動がありました』と、一時的に終わっ
たようなことを書いていますが、この問題は、一時的で、終わるはずはありません。
現在も、つづいています。

『長女(3歳)はとても無邪気でかわいく思えるのですが、長男は可愛いとは思えないのが本音
です』という部分が、それです。
あなたのお子さん(長男)は、あなたの心を、敏感に読み取っています。
そしてそれがあなたのお子さんを、自閉傾向(自閉症ではありません)へと、導いています。
『現在は電車オタクのようにものすごい知識を持っていて、そのせいか漢字もよく読んでいま
す』という部分が、それです。

また不登園、つまり対人恐怖症、さらには回避性障害的な部分も、そのあたりに起因している
ものと考えられます。
心を開いて、周囲の人たちと溶けこむことができない……、それがUNさんの目から見ると、
『友達とのかかわりも少なく、自分の世界に入って遊ぶことが多かったです。友達とのトラブル
も少なかったです』という部分につながっていると、お考えください。

で、こうした問題に直面すると、ほとんどの親は、「子どもに問題がある」と考え、「子どもを直そ
う」とか、「子どもを治そう」と考えます。
しかしこれは、まちがった考え方です。

現在では、「子どもは、家族の代表者にすぎない」と考えるのが、ふつうです。つまり子ども自
身に問題があるのではなく、家族全体のもろもろの問題が、子どもに集約されていると考えま
す。
とくに子どもが、乳幼児〜幼児のときは、そうです。

が、親は身勝手なもので、(失礼!)、自分の問題や家族の問題を棚にあげ、「どうしたらいい
でしょう?」と相談してきます。
しかし、問題は、UNさん、あなた、もしくはあなたの家族にあるのです。
まず、謙虚にそれを認めてください。

では、どうするか?
もっとも重要なポイントは、

(1)どこまで、あなた自身が、子ども(長男)に心を開けるか、です。

あなた自身が、子どもに心を閉じた状態で、どうして子どもに向かって、「心を開きなさい」と言
うことができるでしょうか。

『長女(3歳)はとても無邪気でかわいく思えるのですが、長男は可愛いとは思えないのが本音
です』という部分ですが、それはそれとして、納得しなさい。
それでよいのです。
現に、10%の母親は、UNさんと、同じ問題をかかえて、人知れず(?)、悩んでいます。

そこで大切なことは、『許して、忘れる』です。
つまり「愛」ほど、実感しにくい感情もありません。
だから「愛を感ずる」とか、「感じない」とか、おおげさに考える必要はありません。
ただひたすら『許して、忘れる』のです。
それだけを念じながら、子どもと接してみてください。

(2)不登園など、何でもない、問題!

私が幼稚園の世界に入ったときには、1年保育が当たり前。
2年保育が、そろそろ、ふつうになりかけてきたなという状況でした。
約5%前後の子どもは、幼稚園へは通わず、そのまま小学校へと入園していきました。
それが今では、3年保育?
4年保育?
さらには、0歳から保育園?

まず、こうした状況が、子どもの世界では、異常であることを知るべきです。
もっともみなさん、家庭の状況もあり、やむをえず、そうせざるをえないわけですが、そういう状
況を一方的に子どもに押しつけておきながら、「どうしたらいいでしょう?」は、ないと思います。

つまり今の状況で、UNさんが、あせればあせるほど、子どもは、悪循環の中で、ますます現在
の症状を、悪化させるだろうということです。

一見、あなたから見ると、あなたの子どもは、わがままを言っているかのように見えるかもしれ
ませんが、(わがままな子どもにしたのも、結局は環境ということになりますが……)、
それ以上に、心に、おおきなわだかまりというか、キズをもっています。
「今日、何かをしたから、明日、なおる」という問題では、けっして、ありません。
こうした問題の解決には、1年単位、ひょっとしたら、自己管理能力がじゅうぶん育ってくる、小
3前後(満10歳)くらいまでつづきます。

幼稚園へ行かないなら行かないで、こういう機会を利用して、親子で、遊びまくればよいので
す。
どうしてUNさん、あなた自身が、先生になってはいけないのですか?

この先のことですが、(心を開けない)分だけ、あなたの子どもは、(集団)が苦手になるでしょ
う。
集団の中に入ったとたん、神経疲れを起こしてしまいます。
しかしひょっとしたら、UNさん、あなた自身も、そうであるかもしれません。
だったら、なおさら、あなたは子どもの心が、よく理解できるはずです。
つまり、だれにも欠点のひとつやふたつは、あるもの。
今、そういう欠点(?)が、顔を出したからといって、あわてないこと。

また今どき、『私はもっと男の子なら泥だらけになるくらい遊んで、たくましくなって欲しかったで
す』式の『ダカラ論』は、おかしいですよ。
いったい、どういう子ども観をもっておられるのですか?
どこか、権威主義的、封建主義的、古典的?(失礼!)
「男のだから……」という言い方は、こと幼児〜小学1、2年生では、通用しません。

UNさん、あなた自身が、かなり権威主義的な家庭に育っている。
それをあなたは無意識のうちに、子どもに押しつけている……。
私には、そんな感じがしてなりません。
いかがですか?

幼稚園についても、そうです。
「幼稚園(学校)とは、行かねばならないところ」という固定観念から、一歩も抜け出せないでい
る(?)。
それでは子どもが、かわいそうです。

オタクならオタクでよいではないですか。
大切なことは、そういう子どもであることを認めてあげた上で、(というのも、今、子どもの世界
から、たとえば電車を取りあげたら、たいへんなことになりますよ)、あなたが、子どもといっしょ
に、電車を見に出かけたりすればよいのです。

「〜〜電車博物館へいっしょに、行ってみない?」とか、何とか言って……。

「オタクはだめだ」
「男のらしくない」
「みなの輪に入れないからダメだ」では、子どもが、かわいそうです。
つまりこうした親の否定的育児姿勢は、子どもの心をゆがめてしまう危険性すら、あるというこ
とです。

つまりあなたは、(従来の、自分自身の中の常識)と、(子どもの様子)との間で、葛藤を繰りか
えしていることになります。
しかし、この問題とて、みな、そうなのですから、あまり深刻に考えないように。

みな、外から見ると、うまくいっているように見えますが、どこの家庭も、同じような問題をかか
えて、四苦八苦しています。
だからこう思うのです。

「ようし、十字架のひとつや、ふたつ、背負ってやる!」と。
(十字架というほど、おおげさなものでは、ありませんが……。)

不登園に関しては、「あきらめなさい!」。
子どもには、「行きたいときに行けばいい」「小学校は、楽しいところだから」というような言い方
で、接します。
あとは、『暖かい無視』です。

あなたはあなたで、好きなことをして、その中に、子どもを巻きこんでいきます。
2度目の人生を楽しむつもりで……。
あなたが子どものとき、したこと。
したかったこと。
できなかったこと。
それをします。
童心に返って!、ね。

なお、神経質という部分については、「敏感児」と理解してよいのでしょうか?
あるいは、神経症による症状がでているということなのでしょうか。

一度、私の「子どもチェックテスト」を受けてみてください。
すべて無料できるようになっています。

「はやし浩司のHP」→「ここが子育て最前線」から、入っていただけます。

なお、赤ちゃん返りの部分については、最大限、もう一度、スキンシップを、子どもに戻します。
添い寝、だっこ、手つなぎなど。
『求めてきたときが与えどき』と考えて、子どもが求めてきたら、すかさず、与えます。
「待ってね」「あとでね」は、禁句です。
その瞬間、子どもは、あなたの心を読んでしまいます。

またそれでも情緒が不安定(=心の緊張感が取れない)というのであれば、海産物中心の献
立に切り替えてみてください。
カルシウム、マグネシウム、カリウムの多い、食生活です。
この時期、錠剤も、効果的です。
薬剤師によく相談して、服用してみてください。
(甘い、白砂糖食品は、遠ざけます。)

体重も、それで改善できるはずです。

いくつか、参考になりそうな原稿を添付しておきます。

++++++++++++++++++++++++++

●砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメ
リカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を
大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロト
ニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量は
イチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶
暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すよう
なら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考
え、砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着
く。

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処する。

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。


++++++++++++++++++++++

●恐怖症は心の発熱

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして文
を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。
夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じ
たのだ。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった
……。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」というド
ラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出した。これは単
なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐怖症だ
が、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかによって、ふつう、次の三つに分
けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度の
警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力
が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、はじめて行ったような場所
でも、我が物顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出
ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわく
て行けなくなる(不登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗れな
い(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、暗いトイレが
こわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、今でもトンネルなどに
入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑惑
症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけに死を極端
にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、しかっても
意味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子ども
の視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブー。無理をすればする
ほど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、で
きるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。

症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私の場合も、その事故から数日間は、車の速
度が五十キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とは分か
っていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。恐怖症というのはそういう
もので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症に対処す
る。







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23
●子どもの心

●茨城県のWさんより……

 茨城県のWさん(現在四〇歳、母親)から、娘のかん黙についての、相談をもらった。それに
ついて、考えてみたい。

「現在八月で満六歳になった、一人娘のいる四〇歳の主婦です。

数年前、私の母の介護のため 娘(当時、三歳)を保育園に入園させました。
三か月間泣き、四か月間給食を、一切食べませんでした。

そのうち嫌がらず行けるようになりましたが、約半年後くらいから、あまりにも
嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。
で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました。

そのうち様子がおかしくなり(長くなるので内容は省略します)、 
そのあと、保育園から幼稚園に、転園しました。

ここでも三日目から嫌がり 休ませ 小児精神科に連れて行くと、「場面かん黙」との診断。
その時から、各週に箱庭療法と、二か月に一度カウンセリングを受けています。

ドクターは、私と娘との三人のカウンセリングでは 「娘の話す内容、態度を見る限
り、私との適度な距離がとれているので、私から離れられない、幼稚園に行けないと
は考えられない」と言っています。

昨年は休園させましたが、幼稚園の先生の協力と理解のもと、行事など、本人
の興味のある時だけ、私と一緒に参加させてもらい、今年の四月に、年長組になったの
をきっかけに、本人が「毎日行く」と言って、登園するようになりました。
(ほかの子どもたちとは一切話さず、関わりも、なかなかもてないようです)

お弁当は持っていけず、基本的には昼までに、降園していますが、出席シールだけ
貼って帰ったりと、その日に応じて臨機応変にしています。
最近は、部屋の前の靴箱から、なかなか教室に入れません。

私は本人の納得するまで、つまり子どもが、
帰っていいよと言うまで、その場で待っています。
時には降園までそこで待つときもあります。 
私はこれでいいと思っていますが、これでいいのでしょうか?
昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています。

今一番困っているのが、田舎なので年配の方との関わりが多く、なかなか理解されず
「この子は、おかしな子やな」、と娘に聞こえるように言われます。
その時の対処法に困っています。

かばうようなことを言うと私が責められ、それを見て、娘は大泣きします。
こっそり、「何にも悪いことはないよ。今で充分ですよ」と言っても大泣き。
かといって、知らぬ顔で済ますと、傷ついてしまうようで、それも心配です。

みなにからかわれることもあるようです。

絵日記を見ると、 

『いちりんしゃにのれるようになったよ 
いっしょうけんめいれんしゅうして 
のれるようになったよ 
でも どうして あのこはのれないんだろう』

と書いていました。

そんな、心のやさしい子です。
何かアドバイス頂ければ幸いです。

    茨城県M町、Wより」

●Wさんの問題

 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚
園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。

Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないの
か」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならな
い。

あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようにな
るのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。

 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」
という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。

 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考
えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家
庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。

 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全
員、女性。男は、私一人だけだった。

 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、
ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。

 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家
庭で、母親が教えればいいことです」と。

 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。

●小学校の問題が、幼稚園で 

 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず
連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。

 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子ども
が、どういう子どもであるか、知っているだろうか?

 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子ど
もを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この
部分で、いたたまれない気持になった。

 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母
の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よ
かれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。

 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。

 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内
でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。

 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身し
ている。

 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようにな
った。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさ
んの問題は、まさにその一つということになる。

●もっと、おおらかに! 
 
 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まっ
たく、ない。

 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」と
か、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。

 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、
保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?

 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子ども
は、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。

 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあ
い、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめ
て、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。

 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものご
とは、常識で考えてほしい。

 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育とし
て、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコン
の切り方を教えるのが、幼児教育ではない。

 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回
のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預
かりあいながら、保育をしているところもある。

 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」
がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。

●かん黙児?

Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提と
して、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。

 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張し
ていただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。

 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断するこ
とくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじ
めてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクター
は、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。

 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団
恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐
怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。

 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、
何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分が
キズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。

 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじ
れ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。

 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞
こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点につ
いては、よくわからない。

 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。

●かん黙児

(1)ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙っ
てしまう。

(2)気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに
会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。


(3)かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくな
る。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。

(4)かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみるこ
とにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、
立ちなおりは、早い。

 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。

 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと
認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、
数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小
学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。

 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一
度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかっ
た。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。

 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、
幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」
などと言う。私も、何度か、経験している。

 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意
味はない。

 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時
期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そ
して自分で自分を、コントロールするようになる。

 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であること
が多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が
停止していると考えるのは、まちがいである。

 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あと
は「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どう
にもならない問題なのである。
 
●Wさんへ

 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私
は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。

 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、
入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれし
いです。

 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。
その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。
もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。

 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピ
ード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わ
ることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になっ
たり、「高所」になったりするというわけです。

 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症
状も考えられます。

 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決して
いるのではないかと思います。

●最後に……

 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。

 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今
度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人
と悪人に分かれるのに、似ています。

 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自
分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。

 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉か
らも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあ
げてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪い
ことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。

 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そ
ういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛
情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいる
わけです。

 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、あ
りえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許し
て、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。

 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろ
つらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このこ
とは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに
気づくはずです。

 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、も
っておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待
っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。

 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理
解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここに
も書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いか
がでしょうか?

 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善すると
は、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。

 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、
大半のかん黙症は、なおっていきます。

 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじ
らせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたです
よ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識
は、まったくないのですから。

 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みなが
ら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のな
い子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。

 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしその
ようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行け
ばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。

 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれませ
ん。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてくだ
さい。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物
園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風
穴をあけます。

 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不
思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答え
てあげてください。

 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。

 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるの
が、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少し
ずつ、できるだけ長くしていきます。

 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそ
れを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、
何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえていま
す。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だと
いうことです。どうか、私の言葉を信じてください。

 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無
料です。
(031017)

++++++++++++++++++

●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書い
た。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識とい
う。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々……」とか
何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、十代目になったとする。が、大
きな問題が起きた。一人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」と言い出し
たのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろうか。父
親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう意味で、
家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉家族意
識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちがってい
るとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日本人は、江戸
時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(特定の考え方の型)をもってい
る。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それは多分に
宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプの人に、「家制
度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった江戸時
代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代であってはい
けない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショックを受け
た経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボルンの校
外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つぎつぎと、新し
い家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。これが三番目の家
だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカニみたいだ」
と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショックを受
けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できないだろう
と思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだが、だいたい
において、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私のばあいも、そうい
うことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、最後に
遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。つまり彼ら
にしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこもちがわ
ない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念と同じ。どこも
ちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。田舎
のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。私が最初に
「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、親戚の人
たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気にしては
だめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中に入
りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、色濃く、
残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよりは、家どうし
の結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れを始め
る。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを発達心理学の
世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民族とい
うことになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜け
出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボーエン)。
(040225)(はやし浩司 個人化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、60人
近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」にこだわる人も
いれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方的に、
そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君は、そうすべ
きだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもっていな
い。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自らを否定し
てしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うようなものであ
る。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体的成
長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内面化を
はばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親もいる。親に少
し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀打ち
できない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化を、さら
にはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか弱き
人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫ってく
る。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのではない。たいてい
の人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン(脳なし)。)

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。いろい
ろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、ここに書い
た、「鮮明なちがい」ということになる。

+++++++++++++++++

●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(040229)(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)

+++++++++++++++++

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 不登園 赤ちゃん返り)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

【はじめの一歩】

●MKさんからの相談より

+++++++++++++++

幼稚園、登園初日でつまずいて(?)、
子どもが、「幼稚園へ行きたくない」と
言っている。

「そのため、どうしたらよいか」という相談を、
N市にお住まいの、MKさんという方から
いただきました。

みなさんといっしょに、この問題を
考えてみたいと思います。

一部、文字化けしていましたので、
メールを要約させていただきます。

+++++++++++++++

【MKさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。
よろしくお願いいたします。

アイルランドで出産し、子どもが2歳半の頃帰国しました。
4月から幼稚園に入れました。
初日、明るく涙もなく元気に手を振って登園しました。
帰ってきた時も、全部食べたお弁当を私に見せ、ありがとう! おいしかったよ!と、笑顔でし
た。

が、よく見ると、顔に大きな傷があり、お尻にも大きなあざがありました。
どうしたの?、と聞くと、ケンカをしたとのこと。

連絡帳にも何もないので園に電話して経緯を確認したところ、そのようなことがあったことも知
らず、その経緯もわからないとのことでした。

初日、雨で一日教室の中、約20名の年少組。
私としては、ケンカした怪我をしたという事ではなく、経緯がわからないほど、目が行き届かな
い?
初日で?、と、腑に落ちませんでした。

息子は、明日も幼稚園楽しみだと主人にも話していたのですが、ベッドで明かりを消した途端、
突然布団にもぐりシクシク泣き出しました。
どうしたの?、と聞くと「本当は幼稚園に行きたくない!」と泣きだしました。
初めて私から離れ、新しい経験をしてきたのだからと思い、「偉かったね。頑張ったね」と抱っ
こしましたが、行きたくないと、何度も訴えるので、何があったのか尋ねると、「逃げるところも、
隠れるところもないから、いやだ」と。

ふだんは、しっかりしていて手のかからない子です。
幼稚園のほうからは、「ただ、誰かに叩かれたとか、泣いて痛いと言って訴えてこないのでわか
りませんでした」と言われました。
納得がいかず、私のほうでは、すっかり不信感がつのるばかりでした。
その夜に今までした事がない夜鳴きがあり、歯ぎしりを始めました。
次の日も、行きたくないと泣き喚きバスに乗れないので、園まで送りましたが、無理矢理引き離
される状態でした。

悩みましたが、その後すぐにそこを辞めました。しばらくの間、情緒不安定が見られました。
2歳から通っていた、ほかの教室でも活発で他の子の手を取っていくようだったですが、今は、
私にべったりくっつき、前に出ていかなくなってしまいました。
まだ私と離れる事に強い抵抗を示しますが、やっと落ち着き少しずつ以前と同じように戻ってき
ました。

お友達と遊ぶ環境は必要だと思っています。
他の幼稚園を探していますが、年内に早くから入れたほうがいいか、2年保育にして、来年か
らが良いか迷っています。
息子はずっと幼稚園は行きたくない、ママと一緒にいると言い張っています。
母子分離ができていないのかとも思いますが、私に来ないでと言い、一人でお使いに行ったり
もします。
甘えているだけなのでしょうか?

4月には私もすっかり疲れきってしまいましたが、今、入園時期、また幼稚園選びでまた悩んで
います。

息子に対する接し方も含め、良きアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、MKさんへ】

入園初日に、集団(対人)恐怖症になる子どもは、珍しくありません。
幼児どうしの世界は、動物園でいえば、猿の世界のようなものです。
とくにそれまで、(ものわかりのよい世界)に住んでいた子どもほど、そのショックは、大きいと
お考えください。

MKさんのお子さんは、そのショックが高じて、恐怖症になったと考えられます。
分離不安との大きなちがいは、分離不安のばあいには、親の姿が見えなくなったとたん、パニ
ック(錯乱)状態になるところです。
「ギャーッ」と泣き叫んで、親のあとをおいかけたりします。

「恐怖症」については、あちこちで書いてきましたので、「はやし浩司 恐怖症」で検索してみてく
ださい。

子どもの恐怖症は、(1)「それを忘れさせる環境に置く」が、鉄則です。
説教したり、諭しても、無駄です。
今の状況からすると、(2)しばらく集団教育からは遠ざかり、のんびりさせることが最善かと思
います。

そして様子を見て、(3)小さな集団があれば、少しずつ慣れさせる目的で、その中で遊ばせた
りします。
このばあいも、(4)けっして、無理をしないが、鉄則です。

私の教室でも、半年近く、机の下でレッスンをしていた子ども(当時、年中児)がいました。
その子どもは、いつも机の脚にしがみついていました。
それを「悪いこと」と決めてかかるのではなく、「そういうレッスンの受け方もある」という前提で、
接してあげます。

またこれは日本の幼児教育の最大の欠陥と言ってもよいかもしれませんが、この日本では、
(集団教育)を重んじるあまり、(個)の尊重を軽んじる傾向があります。
「集団になじめない子ども」イコール、「問題児」と、です。
ですから幼稚園を休んだりすると、幼稚園の先生は、よくこう言いますね。
「遅れますから、よこしてください」と。

「遅れる?」「後れる?」……いやな言葉ですね。

どちらでもよいですが、何から、遅れるというのでしょうか?

アイルランドからお帰りということですから、このあたりのことは、MKさんも、すでに感じておら
れることと思います。

オーストラリアでは、そのため、とくにはじめて集団教育を受ける幼児などは、月・水・金の週3
回というところが多いです。
またアメリカでは、プリ・スクールは、子どもにとくに慎重に対処しています。
(そのため、700〜900ドル/月額と、月謝も高額ですが……。)

この問題は、「どこの幼稚園にするか」ではなく、
集団恐怖症の子どもを、どう、集団に慣れさせていくかという問題です。

一度、集団から離れて、2年保育でじゅうぶんですから、それまでに、少しずつ、集団に慣れさ
せていくという方法をとってみられたら、いかがでしょうか。

幼稚園の園長にていねいに相談すれば、ときどき、園の中で遊ばせてくれるはずです。
コツは、「子どもの恐怖症を軽くみない」です。
中には、「気のせいだ」「わがままだ」「甘えだ」と、強引なやり方を試みる人もいますが、そうい
う方法では、かえって、子どもの心をこじらせてしまいます。
(私自身が、いくつかの恐怖症をかかえていますから、子どもの気持ちがよくわかります。)

ま、この時期は、何かと親のほうも、神経質になりがちです。
「不信」などと、大げさに構えないで、もう少し肩の力を抜いたほうが、よいかと思います。
幼稚園の教師の忙しさは、それを経験したものでないとわからないでしょう。
まるで戦場です。
20人でも、多すぎるほどです。

以上ですが、参考になれば、うれしいです。
メールの転載許可を、お願いできますか。
記録として、このまま残しますが、不都合な点があれば、訂正します。
よろしくご指示ください。

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●3年保育が、主流?(The Japanese prefer "Pattern", so does too about their education)
When a mother (or a father) is told by her son's or daughter's teacher to drop out him or 
her to a lower class, the mother would become crazy or mad, or in Japan no children drop 
out of the course. From where does this difference come?

++++++++++++++++++

現在、どこの私立幼稚園も、経営がきびしい。
とくに、市中の幼稚園ほどそうで、園児減少に、
歯止めがかからない状態がつづいている。

一般論として、私立幼稚園のばあい、「200人」
というのが、ひとつの目安になっている。
園児数が、200人を切ると、とたんに経営が
きびしくなる。

だからどこの幼稚園も、園児数を確保するため、
3年保育、4年保育と年数を延ばすことで、対処している。
さらに最近では、幼保一元化の波(?)にのって、
夕方5時前後までの、長時間保育をするところが
ふえている。

それとて、その必要があって、そうしているのではない。
経営を成り立たせるために、そうしている。

そんな中、N県に住んでいる1人の母親が、
こんな相談を寄せてくれた。
「2年保育にすべきか、3年保育にすべきかで、
悩んでいる」と。

で、幼稚園の園長に相談すると、「うちは3年保育
が主流だから……」と言われたとか。

主流?

そんな話は聞いたことがない。
また何をもって、「主流」というのか?

+++++++++++++++++

【N県にお住まいの、TMさん(母親)より】

……昨日、R幼稚園へ見学のお電話をしたところ、
園長からあれこれと、事情を聞かれました。

「うちは3年保育が主流の昨今です。
2年保育で入ってくる子は、通常転勤なさってきた子どもで、
幼稚園通園の経験もある子どもたちです。

2年保育から初めてとなると、1年間の経験のブランクは、
かなり大きく4歳になると物ごとがはっきりと
わかるるようになるので、溶け込むのがなかなか難しいと
思われますので、できるだけ早くに通わせてあげるのが、
子どものためだと思いますよ」と言われました。

1年間の経験のブランクと言われると不安です。 
子供はもっと柔軟だと考えるのは甘いのでしょうか。
いわゆる「遅れる、後れる」ということなのでしょうか?

2年保育で十分と考えているものの、
このような話を聞かされたり、周囲からも、
度々同様のことを言われることで、
正直、私が間違っているのかしら・・・と、
不安になり、わからなくなってしまうことの繰りかえしです。

++++++++++++++++++

●異常な集団教育

日本も、一度、幼児教育のあり方を、基本的な部分から
考えなおしたほうが、よいのではないか。

日本では、(集団教育)をもって、「教育」と誤解している。
また子どもにしても、(集団)から、はみ出ることを、許さない。
(集団)になじむ子どもイコール、「いい子」。
そうでない子どもイコール、「問題児」と。
「遅れる(後れる)」という、あのイヤ〜ナ言葉も、
そこから生まれた。

いったい、何から、遅れるというのか。

たまたま今日、カナダに住んでおられる、Mさん(母親)から、こんな
メールが届いている。

いわく、「日本と海外とは、かなり状況が異なります。
カナダでは、今住んでいるところは、ローカルですが、
(幼稚園といっても)、本当に公園に遊びにいくかのような状態から、
徐々に始まり、15人以下の幼児を2人の先生で、見てくれます。
保育時間も本当に短いです。

実際、公園・公共の場での状況もかなり違います。
公園では、見ず知らずの子どもたちどうしでも、
笑顔で受け答えしながらんでいるといったふうです」と。

私の孫(アメリカ在住)も、プレ・スクールに通い始めたが、
最初の1年間は、週に、数度、ときどき通ったにすぎない。
(現在は、日本でいう年長児で、月〜金までのフルタイムで
通園している。)

オーストラリアでは、最初は、たとえば、月、水、金……というように、
週3回保育というのが、ふつうになっている。
もちろん保育時間も短い。

で、日本の(異常さ)は、海外へ出てみないとわからない。
(もちろんよい面もあるが……。)
が、何が異常かといって、日本独特の集団教育偏重主義ほど、
異常なものはない。

集団教育を否定しているのではない。
一方で、「個の尊重」「個の確立」あってこその、(集団教育)
である。
「個の尊重」「個の確立」をしないまま、一方的に(集団教育)を
押しつけながら、「押しつけている」という意識すらない。
日本の教育のもつ悲劇は、すべて、この一点に集約される。

●日本の「型」

日本には、あらゆる場面に、「型」がある。
「型」が好きな国民で、その「型」を作らないと、安心できない。
冠婚葬祭は言うに及ばず、日本でいう「伝統文化」というのは、
すべて、その「型」をいう。

教育についても同じで、まず「子どもの型」を想定する。
そしてその「型」に、子どもを、当てはめようとする。

「型に当てはめる」というのは、即、「個の否定」を意味する。
もちろん日本の子どもにも、個性はある。
しかし「個性の幅」ということになったら、日本人は、とても
欧米人には、かなわない。
かなわないことは、これも、外国へ出てみて、はじめて、わかる。

言いかえると、日本人は、それだけ、個性を認めないということになる。
もっと言えば、個性的な生き方を認めない。

幼児教育から、そうなっている。
そのひとつが、N県に住んでいる1人の母親のメールに表現されている。
「遅れる(後れる)」と。

こうした欧米との違いが、もっとも顕著に現われるのが、
「落第」の問題である。

アメリカでは、先生が、「あなたの子どもを1年、落第させます」と
告げると、親は、喜んで、それに従う。
「喜んで」だぞ!

オーストラリアでも、似たようなものだが、少し事情がちがう。
「落第」について、親も子どもも、かなり心理的に抵抗するようだ。
「喜んでという雰囲気ではない」(友人の弁)とのこと。
しかし現実に、その友人の兄弟のばあいも、5人中、2人が、小学生時代に
落第を経験している。
もう1人は、高校生のときに、落第を経験している。

つまり「落第」というのが、ごくふつうのこととして、なされている。

が、この日本では、ちがう。
先生が「落第させます」と告げたら、それだけで親は、半狂乱になる。
不登校にしても、そうだ。

日本人は、コース(型)から、自分の子どもがはずれることを、
極端に警戒する。
冒頭に書いた園長は、こう言っている。

「2年保育から初めてとなると、1年間の経験のブランクは、
かなり大きく、4歳になると物ごとがはっきりと
わかるるようになるので、溶け込むのがなかなか難しいと
思われますので、できるだけ早くに通わせてあげるのが、
子どものためだと思いますよ」と。

私は、この文章を読んで、本当に声を出して笑った。
「1年間のブランク」だと?
しかも幼児期に?

本当は、自分の幼稚園の経営しか考えていないのでは
ないのか?

仮にそうであるとしても、では、その園長は、園児たちを
どういう子どもにしようとしているのか?
……すでに将来の、高校受験、大学受験を想定している?

むしろ事実は逆で、この時期は、濃密な親子関係を大切に
したほうがよい。
「早く幼稚園へ入れれば、それだけ頭のよい子ども(=勉強が
できる子ども)になる」と考えるのは、幻想でしかない。

かなりきびしい意見を並べたが、「日本も、一度、
幼児教育のあり方を、基本的な部分から考えなおしたほうが、
よいのではないか」というのは、そういう意味である。

親の事情が許すなら、幼稚園は、2年保育で、じゅうぶん!
それがわからなければ、40年前の日本を思い出してみる
ことだ。

当時は、1〜2年保育が主流で、3年保育など、ほとんどなかった。
約5%の子どもは、幼稚園(もちろん保育園も)へ通わないまま、
小学校に入学していた。

「型」について書いた原稿を、2作、さがしてみた。

++++++++++++++++++++

●「型」

もともと「学ぶ」は、「マネブ(まねをする)」に、由来するという。つまり日本では、「先人のマネを
する」が、「学ぶ」の基本になっている。そのひとつが、日本独特の「型」教育。日本人は、子ど
もを、型にあてはめることを教育と思い込んでいる。少なくとも、その傾向は、外国と比べても、
はるかに強い。そのよい例が、英語の書き順。

 たとえば「U」は、まず左半半分を上から下へ書き、つぎに右半分を上から下に書いて、底の
部分でつなげる。つまり二画だそうだ。同じように、「M」「W」は、四画だそうだ。こういう英語国
にもない書き順が、日本にはある! 驚くというより、あきれる。ホント!

 そのため、日本では、今でも、先生は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進める。アメ
リカやオーストラリアでは、先生は、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と授業を進める。こ
の違いは、大きい。またその根は、深い。

 もうトメ、ハネ、ハライなど、もうなくしたらよい。それを守りたいという人に任せて、少なくとも、
学校教育の場からは、なくしたらよい。(もう二〇年前から、私は、そう主張しているのだが…
…。)書き順にしても、それにこだわらなければならない理由など、もう、ない。守りたい人が守
ればよい。守りたくない人は、守らなくてもよい。それよりももっと大切なことがある。その「大切
な部分」を、教えるのが教育ということになる。この「ワンポイントアドバイス」の中では、それを
書いた。

 ただこういう私の意見に対して、「日本語の美しさを君は否定するのか?」という反論もある
のも、事実。とくに書道教育関係者からの反論が、ものすごい。

しかしこのアドバイスの中にも書いたように、「美しい」とか、「美しくない」とか思うのは、その人
の勝手。それを他人、なかんずく子どもに押しつけるのは、どうか。私は、トメ、ハネ、ハライが
あるから文字が美しいとか、ないから美しくないとか、そういうふうには、思わない。みなさん
は、この問題を、どう考えるだろうか?


●国語の勉強は、読書に始まり、読書に終わる。アメリカの小中学校へ行って驚くのは、どの
学校にも、図書室が、学校の中心部にあること。(たいていは玄関を入ると、そのすぐ近くにあ
る。)そして小学校の場合、週一回は、「ライブラリー」という勉強がある。これはまさに読書指
導の時間と思えばよい。

さらに驚くべきことは、この読書指導をする教師は、ふつうの教師よりもワンランク上の、「修士
号取得者」があたることになっている。このあたりにも、日本とアメリカの教育に対する考え方
の違いが、大きく出ている。もちろん、アメリカには、英語の書き順などない。(また書き順と構
えなければならないほど、文字の数そのものがない。)※


+++++++++++++++++

【意識について】

●絶対的な意識は、ない

 人間のもつ「意識」ほど、いいかげんなものはない。意識には、絶対的なものもなければ、普
遍的なものもない。いろいろな例がある。

 私が、それに最初に気づいたのは、オーストラリアで留学生活をしていたときのことだった。
私には、何も自慢するものがなかった。それで、ことあるごとに、私は、「ぼくは、日本へ帰った
ら、M物産という会社に入社する。日本でナンバーワンの会社だ」と、そう言っていた。

 が、ある日、一番、仲のよかったD君(オーストラリア人)が、こう言った。「ヒロシ、もうそんな
こと言うのは、よせ。君は、知らないかもしれないが、日本人のビジネスマン(商社マン)は、こ
こ、オーストラリアでは、軽蔑されている」と。

 私は、大学四年生になると、何も迷わず、商社マンの道を選んだ。それが私にとって、正しい
道だと信じていた。しかしその商社マンが、オーストラリアでは、軽蔑されていた!

 当時の日本は、高度成長期のまっただ中。新幹線を走らせ、東京オリンピックを成功させ、
大阪万博を開いていた。そういう時代である。同級生たちのほとんどは、銀行マンや証券マン
の道を選んだ。

有名な企業であればあるほど、よかった。大きな企業であればあるほど、よかった。が、そうい
った意識は、実は、そのときの日本という、大きな社会で、作られたものだった。

 D君のこの言葉は、私の一生に関するものだっただけに、私に大きな衝撃を与えた。私は自
分のもっている意識を、そのとき、こなごなに、破壊された。が、同時に、私は未来への展望
を、見失ってしまった。

 それはそれとして、こうした意識を、私たちは、生活のあらゆる部分でもっている。人生観、
哲学観、宗教観にはじまって、好み、嗜好(しこう)、夢や希望などなど。が、どれ一つとて、絶
対的なものは、ない。普遍的なものも、ない。

 たとえば私は、中学一年生のとき、ある女の子が好きになった。好きで好きで、たまらなかっ
た。で、そのときは、その女の子ほど、すばらしい女性は、いないと思った。だから生涯にわた
って、その女の子を好きなままだろうと思った。思っただけではなく、そういうふうに信じてい
た。

 しかしその恋は、やがてシャボン玉がはじけるように消えた。そしてそれにかわって、「どうし
てあんな女の子が好きだったのだろう」と思うようになった。

●子育て観も、同じ
 
 もちろん、子どもに対する親の意識にも、絶対的なものもなければ、普遍的なものもない。そ
のことを思い知らされたのは、こんなことを知ったときだ。

 アメリカでは、学校の先生が、親を呼びつけて、「お宅の子を、落第させます」と言うと、親は、
それに喜んで従う。「喜んで」だ。

 あるいは自分の子どもの成績がさがったりすると、反対に、親のほうから、学校へ落第を頼
みにいくケースもある。

 これはウソでも、誇張でもない。事実だ。アメリカの親たちは、そのほうが、子どものためにな
ると考える。が、この日本では、そうはいかない。そうはいかないことは、あなた自身が、いち
ばん、よく知っている。

 意識というのは、そういうもの。

 そこで、いくつかの教訓がある。一つは、今、自分がもっている意識を、絶対的であるとか、
普遍的なものであるとか、そういうふうに、思ってはいけないということ。

 つぎに、意識というのは、変わりうるものだという点で、自分の意識には、謙虚になること。自
分の意識を、他人や家族に、押しつけてはいけない。

 もう一つは、意識というのは、どんどんと変えていかねばならないということ。変わることを恐
れてはいけない。また一つの意識に、固執してはいけない。

●そのときどきの、「懸命」さ

 こう書くと、意識というのは、流動的ということになる。そういう前提に立つなら、「では、何を信
じたらいいのか」という問題が起きてくる。

 その答は、ただひとつ。「そのときどきで、懸命に生きればいい」ということ。

 よく若い人が、こう言う。「あとになって後悔するよりも、ぼくは、今、自分が信じていることをし
たい」と。

 それはそのとおりで、他人の意見というのは、あくまでも参考にしかならない。仮にその意識
が変化しうるものであっても、そのときは、そのときで、懸命に生きればよい。その結果がどう
なろうとも、それは、そのあとに、考えればよい。

 たとえばわかりやすい例で、考えてみよう。

 だれか女の子に恋をしたとする。そのとき、その女の子が好きだったら、とことん好きになれ
ばよい。その意識が変わるとか、そういうことは考えなくてもよい。その「懸命さ」の中に、重大
な意味がある。

 そして、その女の子と、結婚したとする。が、しばらくは、ラブラブのハネムーンがつづいた
が、そこで意識が変化したとする。落胆と幻滅が、結婚生活をおおうようになり、やがて小さな
すきま風が吹くようになったとする。しかしここで大切なことは、だからといって、結婚したのが
まちがっていたとか、失敗だったとか、そういうふうには考えていけない。

 仮に離婚ということになったとしても、「懸命にその女の子を愛し、結婚にこぎつけた」という事
実は、消えない。またその事実があれば、「失敗」ということは、ありえない。

 むしろ恥ずべきは、合理と打算で、懸命でない人生を送ること。いくら表面的に、うまくいって
いても、あるいはそう見えても、そういう人生には、価値はない。

●懸命に生きるから、結果が生まれる

 そのときは、そのときの意思を信じて、真正面からものごとに、ぶつかっていく。たとえその意
識が、だれかに批判されても、気にすることはない。あなたは、どこまでいっても、あなた。その
あなたを決めるのは、あなたをおいて、ほかにない。

 私も、M物産という会社をやめ、幼稚園の講師になると母に告げたとき、母や、電話口の向
こうで、泣き崩れてしまった。「浩ちゃん、あんたは、道を誤ったア!」と。

 だからといって、母を責めているのではない。母は母で、その当時の常識の中でつくられた
意識に従っていただけである。

 で、その肝心の私はどうかというと、「誤った」とは、まったく思っていない。道をまちがえたと
も思っていない。そのあとの生活は、たしかに苦しかったが、しかし、私は、一度だって、後悔し
たことはない。

 なぜ、後悔しないかといえば、私は私で、そのときどきにおいて、懸命に考え、懸命に結論を
だし、懸命に行動したからにほかならない。つまり、その「懸命」さが、私を救った。むしろ今、
あのとき、M物産をやめてよかったと思うことが多い。

 ときどきワイフは、こう言う。「あのまま、M物産にいれば、あなたは、もう少し、楽な道を歩む
ことができたかもしれないわね」と。

 しかし、もし今ごろ、M物産にいたら、都会のオフィスで、お金の計算ばかりしているだろうと
思う。あるいは私のことだから、出世競争に巻きこまれて、とっくの昔に死んでいるかもしれな
い。死なないまでも、廃人のようになっているかもしれない。

●そして運命

 懸命に生きていくと、そのつど、その先に、進むべき、道が見えてくる。もちろんそれまでに歩
んできた道もあるが、それが運命である。

 もう少しわかりやすく言うと、最大限、つまり懸命に生きていると、そのつど、そこに「限界」が
現れてくる。その限界状況の中で作られていくのが、その人の運命である。

 たとえばこれは極端な例だが、魚はいくらがんばっても、陸にはあがれない。もちろん空も飛
べないし、宇宙へ飛び出すこともできない。

 こうした「限界」は、あらゆる生物にあり、人間もまた、その限界の中で、生きている。もちろ
ん、私も、あなたも、である。それはあるが、しかし、その限界が、運命を決めるわけでもない。
「限界」という、大きなワクは決まっているかもしれないが、その中で、どう生きていくかというこ
とは、その人自身が、決める。

 また、よく誤解されるが、運命というのは、あらかじめ決まっているものでもない。

もしあらかじめ決まっているものなら、懸命に生きても、またそうでなくても、進むべき道は、同
じということになる。しかし、そんなことは、ありえない。さらに一歩、譲って、仮に、運命というも
のがあるとしても、最後の最後のところで、ふんばって生きる。そこに、懸命に生きる人間の価
値がある。意味がある。

 「意識」のことを書いていたら、いつの間にか、「運命」の話になってしまった。どうしてかわか
らないが、そうなってしまった。ひょっとしたら、「意識」と、「運命」は、どこかで関係しあっている
のかもしれない。(あるいはただの脱線かもしれない?)

 しかしこれだけは言える。意識にせよ、運命にせよ、自らのたゆまない努力によって、変えら
れるものであるということ。大切なことは、そのときどきにおいて、懸命に考えること。生きるこ
と。そのあとのことは、そのあとに任せればよい。どんな意識になろうとも、またその結果、どん
な運命になろうとも、それは、そのとき。

 私たちは、ただひたすら、「今の自分」を信じて、前に進めばよい。
(031208)




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24
●幼児の緩慢行動(Dull Movement of Children)

 心理的抑圧状態(欲求不満を含む)が、日常的につづくと、子どもはさまざまな、心身症によ
る症状を示すことがある。が、その症状は、子どもによって、千差万別。定型がない。

 「どうもうちの子、おかしい?」と感じたら、その心身症を疑ってみる。

 その中のいくつかが、緩慢行動(動作)であったり、吃音(どもり)であったりする。神奈川県に
住む、Uさん(母親)から、多分、緩慢行動ではないか(?)と思われる相談をもらった。

 ここでは、それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

【Uさんより、はやし浩司へ】

私には、4歳(年少)の娘、M子(姉)と、1歳8ヶ月の息子S夫(弟)がいます。
先日、娘の幼稚園の個人懇談がありました。

そこで、先生に言われたのが

「M子(姉)ちゃんはいつもマイペースで、マイペースすぎてもうちょっとスピードアップして欲しい
んですけどね」でした。

「急がないと行けない時にもマイペースでね、今(年少)はあまりする事も少なくて、他の子と差
は出てこないと思いますけど、これから先、年中、年長となるにつれてその差は広がっていき
ますからね」

「急がないといけない時に、急げるようなボタンがあればいいんですけどねー(笑)。そこを押せ
ば、急いでくれるっていう風に・・・・(笑)」と冗談まじりではあったのですが、最後に夏休み中に
お母さんから、M子ちゃんに急ぐって事を教えてあげておいてくださいと言われました。

「急ぐという事を教えるといわれても・・・・先生どうしたらいいんでしょう?」って聞いたのです
が、イマイチよく分かる回答がなかったような気がします。

怒って「急いで!急いで!急いで!」とまくし立てるのも良くないと思いますし、言った所で出来
るわけでもないですし。

普段、出来るだけ怒らないように大声をあげないように、出来たら大げさに誉めてあげて、を
心がけているのですが今の私のやり方では、夏休みあけても同じだろうし・・・・どうしたらいい
のだろう?、と考えこんでしまいます。

何がどうマイペースか具体的に言うと、給食の時間になって先生が、「後に給食の袋を取りに
いって準備して下さい」って言っても、上の方を見てボーッと椅子に座っていることが時々あっ
て、「M子ちゃん、準備よー急いでー!」って言っても、とりわけ急ぐ様子もなくゆっくりらしいで
す。

又、今メロディオンの練習をしているようなのですが、M子(姉)は指でドレミファソを弾く事は出
来るみたいなのですが、ホースを口にあてて息を吹く事が分からなかったみたいで、一人だけ
音が出なかったみたいです。

先生が側で、「M子ちゃん吹くんですよー」って言っても分からなくて、挙句の果てには、ホース
に口をあててホースに向かって、ドレミファソを言いながら、けん盤を弾いていたようです。

先生も??、だったみたいで、「違うよM子ちゃん! 吹くのよ!!」って言うと今度は、何でそ
んなに先生は私に怒ってるの?、っていう反応だったようです。

あと、空想にふけっていたりするみたいです。

他にも日々の行動で色々あるようです。

M子(姉)は私に似ているのか、よく言えばおっとりで悪く言えば、どこかのろい所があって入園
の際、私もそれが少し気にはなっていました。

のびのび保育の幼稚園を選べば、そんな事を考えなくて良かったのかもしれませんが、私的に
は、小学校でお勉強を始めるより、幼稚園で少しでも触れていれば気遅れなく、M子(姉)もや
っていけるのではと考えたのですが、やはりその分要求される事も多いんですね・・・。

今は、本人は幼稚園が大好きでお歌の時間もプリントの時間も体操の時間も楽しいとは話して
います。

楽しく通ってくれれば、私はそれで大満足なのですが年中、年長になった時、まわりの早さにつ
いて行けなくなって幼稚園が楽しくなくなったら、やはり園を変えた方がいいんでしょうか?

また、もっとスピードアップさせるにはどうしたらいいのでしょうか?

また、M子(姉)には、時々どもりがあります。ほとんど指摘しないように聞きながしているので
すが、ちょっと気になっています。

はっきりとした原因は分かりませんが、下の子を出産する際引き裂かれるように、私と離れ離
れになってしまって、10日間ほど離れて暮らしていたのが悪かったのかな?、と反省していま
す。

長々と下手な文章で好きな事を綴ってしまいましたが、アドバイス頂けますようお願い申し上げ
ます。

これからもまぐまぐプレミアをずっと購読していこと思っています。毎日暑いですが、どうぞお体
にお気をつけ下さい。


【はやし浩司より、Uさんへ】

 まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。感謝しています。

 ご相談の件ですが、最初に疑ってみるべきは、緩慢行動(動作)です。原因の多くは、親の過
干渉、過関心です。子どもの側から見て、過負担。それが重なって、子どもは、気うつ症的な症
状を見せるようになり、緩慢行動を引き起こします。

 ほかに日常的な欲求不満が、脳の活動に変調をきたすことがあります。私は、下の子どもが
生まれたことによる、赤ちゃんがえり(欲求不満)の変形したものではないかと思っています。

 逆算すると、M子さんが、2歳4か月のときに、下のS夫君が生まれたことになります。年齢
的には、赤ちゃんがえりが起きても、まったく、おかしくない時期です。とくに「下の子を出産す
る際引き裂かれるように、私と離れ離れになってしまって、10日間ほど離れて暮らしていたの
が悪かったのかな?」と書いているところが気になります。

 たった数日で、別人のようにおかしくなってしまう子どもすらいます。たった一度、母親に強く
叱られたことが原因で、自閉傾向(一人二役のひとり言)を示すようになってしまった子ども(2
歳・女児)もいます。決して、安易に考えてはいけません。

 で、その緩慢行動ですが、4歳児でも、ときどき見られます。症状の軽重もありますが、10〜
20人に1人くらいには、その傾向がみられます。どこか動作がノロノロし、緊急な場面で、とっ
さの行動ができないのが、特徴です。

 こうした症状が見られたら、(1)まず家庭環境を猛省する、です。

 幸いなことに、Uさんの子育てには、問題はないように思います。そこで一般の赤ちゃんがえ
りの症状に準じて、濃密な愛情表現を、もう一度、M子さんにしてみてください。

 手つなぎ、抱っこ、添い寝、いっしょの入浴など。少し下のS夫君には、がまんしてもらいま
す。

 つぎに(2)こうした症状で重要なことは、「今の症状を、今以上に悪化させないことだけを考
えながら、半年単位で様子をみる」です。

 あせってなおそう(?)とすればするほど、逆効果で、かえって深みにはまってしまいます。子
どもの心というのは、そういうものです。

 とくに気をつけなければいけないのは、子どもに対する否定的育児姿勢が、子どもの自信を
うばってしまうことです。何がなんだかわけがわからないまま、いつも、「遅い」「早く」と叱れてい
ると、子どもは、自分の行動に自信がもてなくなってしまいます。

 自信喪失から、自己否定。さらには役割混乱を起こす子どももいます。そうなると、子どもの
心はいつも緊張状態におかれ、情緒も、きわめて不安定になります。そのまま無気力になって
いく子どももいます。

 「私はダメ人間だ」という、レッテルを、自ら張るようになってしまいます。もしそうなれば、それ
こそ、教育の大失敗というものです。

 そこで(3)子どもの自己意識が育つのを静かに見守りながら、前向きの暗示をかけていきま
す。

 「遅い」ではなく、「あら、あなた、この前より早くなったわね」「じょうずにできるようになったわ
ね」と。最初は、ウソでよいですから、それだけを繰りかえします。

 「先生もほめていたよ」「お母さん、うれしいわよ」と言うのも、よいでしょう。

 ここでいう「自己意識」というのは、自分で自分を客観的にみつめ、自分の置かれた立場を、
第三者の目で判断する意識というふうに考えてください。

 しかし4歳児では、無理です。こうした意識が育ってくるのは、小学2、3年生以後。ですから、
それまでに、今以上に、症状をこじらせないことだけを考えてください。

 とても残念なことですが、幼稚園の先生は、せっかちですね。その子どものリズムに合わせ
て、子どもをみるという、保育者に一番大切な教育姿勢をもっていないような気がします。

 おまけに、「年長になったら……」と、親をおどしている? ある一定の理想的(?)な子ども
像を頭の中に描き、それにあわせて子どもをつくるという、教育観をもっているようです。旧来
型の保育者が、そういうものの考え方を、よくします。(今は、もうそういう時代ではないのです
が……。)

 M子さんに、ほかに心身症による症状(「はやし浩司 神経症」で、グーグルで検索してみてく
ださい。ヒットするはずです。
あるいは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html)が出てくれば、この時期は、がま
んしてその幼稚園にいる必要は、まったくありません。

 子どもの心に与える重大性を考えるなら、転園も、解決策の一つとして、考えてください。

 そして(4)「うちの子を守るのは、私しかいない」と、あなたが子どもの盾(たて)になります。
先生から苦情があれば、「すみません」と一応は謙虚に出ながらも、子どもに向かっては、「あ
なたはよくがんばっているのよ」「すばらしい子なのよ」と言います。そういう形で子どもの心を
守ります。

 まちがっても、そこらの保育者(失礼!)がもっている理想像(?)に合わせた子どもづくりを、
してはいけません。

 子育てもいつか終わりになるときがやってきます。そういうとき、あなたの子育ての思い出
を、光り輝かせるものは、「私は、子どもを守りきった」「私は、子どもを信じきった」という、親と
しての達成感です。

 今が、そのときです。その第一歩です。

 最後に(5)M子さんに合わせた、行動形態にすることです。「のろい」と感ずるなら、あなた
も、もう一歩、自分の歩く早さを、のろくすればよいのです。どこかに子育てリズム論を書いて
おきましたので、また参考にしてください。

 とても幸いなことに、Uさんは、たいへん愛情豊かな方だと思います。それに自分の子育てを
客観的にみつめておられる。とてもすばらしいことです。(プラス、私のマガジンを読んでい
る!)

 子どもといっしょに、子どもの友として、子どもの横を歩いてみてください。楽しいですよ。セカ
セカと歩いていたときには気づかなかったものが、たくさん見えてきますよ。

 そうそう、最後に一言。

 こうした緩慢行動(動作)は、子どもの自己意識が育ってくると、自然に消えていくものです。
子どもが自分で判断して、自分で行動をコントロールするようになるからです。どうか、安心して
ください。

 私の経験でも、乳幼児期の緩慢行動(動作)が、そのまま、小学5、6年生まで残ったというケ
ースを知りません。小学3、4年生ごろには消えます。(ただしこじらせると、回復が遅れます
が、そのときは、もっと別の、ある意味で深刻な、心身症、神経症による症状が出てきます。

 また親は「のろい」「のろい」と心配しますが、第三者から見ると、そうでないというケースも、
たいへん多いです。これは親子のリズムがあっていないだけと考えます。)

 吃音(どもり)については、ここ1〜3年は、症状が残るかもしれません。環境が大きく変わっ
ても、クセとして定着することもあるからです。吃音については、あきらめて、濃密な愛情をそそ
いであげてください。これも時期がくれば、症状は消えます。

 どんな子どもでも、一つや二つ、三つや四つ、そうした問題をかかえています。全体としてみ
れば、マイナーな、何でもない問題です。

 あまり深刻にならず、ここは、おおらかに! なお先取り教育は、失敗しますので、注意してく
ださい。それについては、またマガジンのほうで取りあげてみます。

 なおこの原稿は、(いただいたメールの転載も含めて)、8月13日号で掲載する予定です。ど
うか転載のご承諾をお願いします。不都合な点があれば、書き改めます。至急、お知らせくだ
さい。

 まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

                                  はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子供の緩慢行動 緩慢動作 の
ろい子供 のろい動作 のろい子ども)







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25
●自己達成感

●自己効力感(Self Achievement)

 「自分でできた」「自分でやった」という達成感が、子どもを伸ばす。これを自己効力感という。

 子どもを伸ばすコツは、この自己効力感をうまく利用すること。

 反対に、この自己効力感を、阻害(じゃま)するようなことがあると、子どもは(1)それに大きく
反発するようになり、(2)ついで、心が極度の緊張状態におかれるようになることが知られてい
る。

 それを阻害するものに対して、反抗するようになる。

 が、それだけではない。子どもは、ますます、そのものに固執するようになる。こんなことがあ
る。

 A君(小4)は、サッカークラブで、やっとレギュラー選手になることができた。A君はA君なり
に、努力をした。

 が、小5になるとき、母親は、A君を、進学塾へ入れた。そしてそれまで週3回だったサッカー
の練習を、週2回に減らすように言った。当然、そうなると、A君は、レギュラー選手からはずさ
れる。

 A君は、猛烈にそれに反発した。が、やがてその反発は、母親への反抗となって現れた。す
さんだ目つき、母親への突発的な暴力行為など。

 もうそうなると、進学塾どころではなくなってしまう。あわてた母親は、進学塾をやめ、再び、
サッカークラブにA君をもどした。が、今度は、A君は、そのサッカーにすら、興味を示さなくなっ
てしまった。母親はこう言う。

 「あれほど、毎晩、サッカーをさせろと暴れていたのに、サッカークラブへ再び入ったとたん、
サッカーへの興味をなくすなんて……」と。

 子どもの心理というのは、そういうもの。A君の母親は、それを知らなかっただけである。A君
が母親に反抗したのは、サッカーをしたいからではなかった。自分の自己効力感(達成感)を、
阻害されたからである。そのことに対して、A君は、反抗したのである。

 少し話がちがうかもしれないが、こんな例もある。

 若い男女が、恋愛をした。しかし周囲のものが、猛反対。そこでその男女は、お決まりの駆け
おち。そして子どもをもうけた。

 やがて周囲のものが、あきらめ、それを受け入れた。とたん、たがいの恋愛感情が消えてし
まった。

 この例でも、若い男女が駆けおちしたのは、それだけたがいの恋愛感情が強かったからで
はない。周囲のものに反対されることによって、より結婚に固執したからである。だから、結婚
を認められたとたん、恋愛感情が消えてしまった。

【教訓】

 子どもの得意芸、生きがいは、聖域と考えて、決して、土足で踏み荒らすようなことはしては
いけない。へたに阻害したりすると、かえって子どもは、それに固執するようになる。最悪のば
あいには、親子関係も、それで破壊される。
(はやし浩司 自己効力感 自己達成感 一芸論)


●高度な欲求不満

 欲求不満といっても、決して一様ではない。心理学の世界には、欲求不満段階説(マズロー
ほか)さえある。このことは、子どもの発達過程を観察していると、わかる。

【原始的欲求不満】

 愛情飢餓、愛情不足など。飢餓感や不足感が、欲求不満につながる。この欲求不満感が、
子どもの心をゆがめる。よく知られているのは、赤ちゃんがえり。下の子どもが生まれたことな
どにより、飢餓感をもち、それが上の子どもの心をゆがめる。

 生命におよぶ危機感、安心感の欠如から生まれる欲求不満も、これに含まれる。

【人間的欲求不満】

 人に認められたい、人より優位に立ちたい、目立ちたいという欲求が、満たされないとき、そ
れがそのまま欲求不満へとつながる。「自尊の欲求」(マズロー)ともいう。この人間的欲求は、
自分がよりすぐれた人間であろうとする欲求であると同時に、それ自体が、社会全体を、前向
きに引っ張っていく原動力になることがある。

 が、子どもの世界では、こうした人間的欲求は、変質しやすい。

 ある子ども(中2男子)は、私にある日、こう言った。「ぼくは、スーパーマンになれるなら、30
歳で死んでもいい。世の中の悪人をすべて退治してから死ぬ」と。

 こうした人間的欲求は、幼児にも見られる。みなの前でその子どもをほめたりすると、その子
どもは、さも誇らしそうな顔をして、母親のほうを見たりする。

 子どもの中に、そうした人間的欲求を感じたら、静かにそれをはぐくむようにする。これは子
育ての大鉄則の一つと考えてよい。
(はやし浩司 マズロー 自尊欲求 自尊の欲求 人間的欲求 はやし浩司 家庭教育 育児
 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist 
writer Japanese essayist 自己効力感 欲求不満 子供を伸ばす 伸ばし方 子供の伸ばし
方)







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26
【がんこな子ども】(高機能自閉症スペクトラム・コクーン症候群)
Children who live in Cocoons

(症例1)

私が、その子ども(年長女児)に、こう話しかけたときのこと。
「今日は、いい天気だね」と。
その女の子は、こう言った。
「今日は、いい天気ではない!」と。

私「でも、いい天気でしょ」
子「あそこに、雲があるから、いい天気ではない!」
私「少しくらいあっても、いいじゃない。いい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気ではない!」
私「でも、気持ち、いいでしょ。いい天気だから……」
子「雲があるから、いい天気ではない!」と。

(症例2)

学校の先生が、帰りのしたくのとき、子どもたちにこう告げた。
「今日は、みんなで、いっしょに帰ってください」と。
そこで小学校2年生のA子さんは、帰りの支度をすますと、靴箱の前に並んだ。
が、ほかの子どもたちは、数人ずつ、連れだって帰ってしまった。

A子さんは、そのまま靴箱の前で立っていた。
それを見つけた別の教師が、「どうして帰らないの?」と声をかけると、A子さんは、
こう言った。

「だって、みんなと帰る」と。
A子さんは、みながそこに集まるのを待っていた。

教師「もう帰らないと、真っ暗になってしまうよ」
A子「先生が、みんなといっしょに、帰りなさいと言った」と。

(症例3)

B氏は、妻Cさんの運転する車で、ドライブをしていた。
そのとき妻Cさんが、道をまちがえた。

B氏「おいおい、その角を右へ回るんだよ」
妻C「道がよく似ていたから……」
B氏「いつもは、その角を回っていたじゃない……」
妻C「あなたがしゃべっていたから、道をまちがえたのよ」
B氏「しゃべっていたって?」
妻C「運転しているときは、黙っていてよ」と。

B氏は、そんな妻Cについて、こう言う。

「ぼくの妻は、言われたことはきちんとする。
しかしそれ以上のことは、まったく、しない。
居間が汚れているから、『掃除機をかけてよ』と言うと、
掃除機をかけて、それでおしまい。
つぎに「散らかっているものを、集めてよ」と言うと、
散らかっているのを集めて、それでおしまい。

気になるのは、言葉の冗談が通じないこと。

大きなケーキを食べているとき、『そんなに食べると、
ブタになってしまうよ』などと言おうものなら、本気で
怒り出してしまう」と。

●アスペルガー症候群

自閉症は、自閉症と高機能自閉症に分けて考える。
さらに高機能自閉症とアスペルガー症候群は、分けて考える。

高機能自閉症の子どもは、日常的な会話に困難を示す。
これに対してアスペルガー症候群の子どもは、日常的な会話には、目立った困難さを示さな
い。

アスペルガー障害児の専門HP「コクーン」には、つぎのようにある。

+++++++++++++++以下、「コクーン」より++++++++

『……しかしながらアスペルガー症候群の子どもたちにも、よくコミュニケーション上の課題が
認められます。語彙は豊富で、単語や知識を熟知していても、文脈や全体的な状況の中で、
言葉を理解することが苦手です。比喩的表現、関係の中で意味が変わる抽象的表現、言外の
意味や言葉の背後にある意味を伝える表現は、理解しにくく、他人の意図を取り違えることが
多いのです。

具体的に、短く、明確に説明してもらわないと意味が理解しにくいことも多いのです。

 また、言葉の使い方(語用)に課題が多く、すぐれた言語表現能力をもっていいても、「今日
はどうだった。」 「どうしょうか?」などの自由回答型で概括的な質問には、適切にこたえること
ができないことがあります。会話の根底にあるメッセージをうまく感じ取ることができにくいから
です。一方論理的に回答がひとつ導かれる質問や自分に関心のあるテーマに応えることは得
意です。
 
 またアスペルガー症候群、高機能自閉症共通の特徴として、表情、身振り、視線などの非言
語的なサインで、メッセージを読みとったり、逆に相手に自分の気持ち伝えたりする非言語的
コミュニケーションも、できにくいという。

 これらの特徴のために、相手と距離感がとれず人に近づきすぎたり、あるいは無視したり、
避けたりしているようにみえることがあります。また時に一方的な饒舌にみえたり、場面緘黙の
ように見えたり、することもあります。人によってコミュニケーションの問題は形をかえて表現さ
れるのです。

しかしいずれも相手の意図や文脈、状況がうまく読み取れないことは共通しています』(以上、
「コクーン」より)と。

+++++++++++以上、「コクーン(cocoon club)」より++++++++++++

●がんこな子ども

高機能自閉症とか、アスペルガー症候群とかいう言葉が、一般的になったのは、
ここ10年ほどのこと。
それまでは、「がんこな子ども」と評され、その範囲で、位置づけされてきた。

このタイプの子どもは、あたかも「殻(から)」にこもってしまったかのように、
ときとして、異常なまでに、がんこになる。
ふつうの子どもなら、何かのミスをし、「あら、ごめん!」ですむような場面でも、
「私はまちがっていない」という立場で、どこまでも自分を主張する。
反対に、叱ったほうを、逆に攻撃することもある。

私、不注意で、花瓶を割った子どもに、「だめじゃないか、こんなことしたら!」
子、すかさず、「先生が、こんなところに花瓶を置いておくから、悪い!」
私「悪いって、ここがみんなからよく見えるところだからだよ」
子「先生だって、この前、粘土で作った私の工作をこわしたでしょ」
私「いつ……?」
子「うちで見たら、こわれていた」と。

一度、殻にはいってしまうと、そこから抜け出るのが容易ではない。
そのことだけに強い、こだわりを示すようになる。
そして一度、そうなると、融通性をなくし、ますますかたくなな態度を示すようになる。
こうした症状を総合して、「コクーン症候群」と呼ぶ人もいる。

●対処のし方

このタイプの子どもと、(おとなも、そうだが)、本気で対峙すると、
(怒り)がそのまま増幅されて、こちらのほうが、かえって気がおかしくなってしまう
ことがある。

たとえば、最後には、こんな会話になる。

私「あのね、花瓶を割ったら、すなおにごめんねと言えばいいの」
子「どうして、ごめんと言わなければならないの?」
私「花瓶を割ったからだよ」
子「私は割っていない。落ちたから、割れた」
私「わざとでなくても、不注意で割ったのだから」
子「どうせ、謝っても、許してくれないでしょ」
私「あのね、一言、『ごめんなさい』と言えば、それですむ話だよ」
子「だれだって、花瓶を割ることくらい、あるでしょ」と。

一度、その子どもが殻に入ったのを感じたら、先に、こちらのほうが、引きさがる。
引きさがって、それですます。
この子どものばあい、「私は悪いことをしていない」という殻の中に、入ってしまっている!

そのため説教したり、言葉で説明したりしても、意味はない。
言い方をまちがえると、かえってその子どもを、さらにがんこにしてしまう。
しばらく時間をおくか、一呼吸おいてから、その話題に触れる。
(そのときでも、殻に入ってしまうことが多いが……。)

言うべきことは言って、それですます。
もちろん症状にも個人差があり、軽重がある。
「他人とのコミュニケーションが、うまくとれない」というようなばあいには、
一度、各地にある、「発達障害センター」などの窓口に相談してみるとよい。

なお、年齢的には、もちまえの(がんこさ)は残るものの、思春期前後から、
症状は改善し、おとなになるころには、見た目には、わからなくなる。
それまでに大切なことは、症状を、こじらせないこと。
無理に強制したり、はげしく叱ったりするのは、タブーと心得ること。
とくに乳幼児期には、タブーと心得ること。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自閉症スペクトラム コクーン症
候群 アスペルガー児 アスペルガー障害児 がんこな子ども はやし浩司 高機能自閉症 
高機能自閉症スペクトラム)



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●隔離する人格

【分離する人格】

●トラウマが引き金となる、人格の分離

+++++++++++++++++

激怒した瞬間、別人格になってしまう
子どもがいる。

+++++++++++++++++

激怒した瞬間、別人格になってしまう子どもがいる。
あたかも人格が分離、もしくは遊離してしまうといった感じになる。

(平静時における子ども)と、(激怒したときの子ども)に、連続性がない。
たとえば激怒した瞬間、人格そのものが、変化してしまう。
見た感じは、まるで別人。
それまでの子どもとは、まったく別の価値観、人生観をもつ。
性格そのものまで、変化する。

多重人格障害と異なる点は、(記憶の連続性)はあるということ。
(平静時における子ども)は、(激怒したときの自分)を、よく覚えている。
(あまりそのことには触れたがらないが……。)
一方、(激怒したときの子ども)は、(平静時における自分)を、よく覚えている。

だからこんな会話をする。

私、激怒した状態の子どもに向かって、「君は、先ほど、
明日はみなといっしょに、図書館へ行くと言ったではないか」
子「行きたくない!」
私「本当に、行きたくないのか」
子「行きたくない」
私「昨日は、行きたいと言ったではないか」
子「本当は、行きたくない」と。

しかし再び平静時になると、「本当は、行きたい」などと言ったりする。

●Y君(小2男児)のケース

Y君は、ふだんは、おだやかで、多少の多弁性はあるものの、
冗談もよく通じ、明るく、さわやかな感じの子どもである。
さみしがり屋で、頭もよい。

この状態のY君を、Y君(A)とする。

そのY君は、ふとしたきっかけで、別人のように変身する。
気分をそこねるというか、自分の思い通りにならなかったその瞬間、
突発的に顔をゆがめ始める。
何を言っても、道理そのものが通じなくなる。

ささいなことで怒り、怒鳴り散らす。
恐ろしいほどの(心の冷たさ)を感ずることもある。
子どもどうしの喧嘩に発展することもあるが、相手に対して、手加減をしない。
スパッスパッと、まるでカミソリで切り込むような動きになる。
感情、動作ともに、抑制命令がきかなくなる。
年長の、体格のより大きな子どもに向かっても、攻撃をしかけていく。

この状態のY君を、Y君(B)とする。

(1)破滅的な言動

一度、Y君(B)になると、ものの考え方が、破滅的になる。
みなで決めたことや、先生と取り決めたことを、すべて破壊しようとする。
言動がはげしいため、それまでの人間関係が、破壊されてしまうこともある。
(実際には、相手の子どもが、Y君(B)を遠ざけるようになる。)

が、しばらくすると、(それもほんのささいなきっかけが原因となって)、
再び、もとのY君(A)にもどる。

そうしたY君を観察してみると、Y君の中に、あたかも2人のY君が
いるように感ずる。
ふつうの(激怒)とちがう点は、恐らく本人自身も、「怒っている」という
意識はなく、「どちらが本当の自分かわからない」といった状態になるということ。
ふつうの(怒り)には、段階的な連続性がある。
また感情的になっても、もとの自分をもち崩すということはない。

が、このタイプの子どもの(激怒)には、その段階的な連続性がない。
錯乱状態になることもある。
あるいは激怒することはないにしても、異常なまでにすねたり、ぐずったり、
いじけたりすることもある。

●原因

このタイプの子どもには、共通した経験(環境)がある。
様態はさまざまだが、家庭生活の中で、極度の恐怖体験を、一度、あるいは
習慣的にしている。

この恐怖が、脳の中に、別の記憶をつくるようになる。
これを心理学では「隔離」と呼んでいる。
その隔離が進むと、人格の分離が始まる。
防衛機制のひとつである。

数年前だが、M君(当時、小1男児)という子どもがいた。

彼の母親は、いつも口癖のようにこう言っていた。
「『内弁慶、外幽霊』いう言葉がありますが、うちのM男は、逆です。
うちのM男は、『内幽霊、外弁慶』です」と。

つまり家の中では、別人のように、静かでおとなしく、やさしい、と。
理由をたずねると、父親が、「めちゃめちゃ怖い人」(母親の弁)ということで、
M君が何か口答えしただけで、パシッと、顔や頭をたたかれたという。

もう1人、印象に残っている子どもに、Nさん(当時、小5女児)という子どももいた。

Nさんも似たような症状を示していたが、原因は、母親との相談で、わかった。

Nさんの父親は、アルコール依存症で、酒が入ると、別人のようになって
家の中で暴れるという。
そのたびにNさんは、家の中で父親を避けて、逃げ回っていた。

原因は、極度の恐怖体験と考えてよい。
その恐怖体験が、「トラウマ(心的外傷)」となって、その子どもの中に、別人格をつくる。
人格の遊離を誘発する。

そしてそのトラウマが、何らかのきっかけで、その子どもを別人にしたてる。

●特徴

思いつくまま、いくつかの特徴をあげてみる。

(1)人格の連続性がない。……たがいに、たがいの人格を否定する。そのため、本人自身
は、「どちらが本当の自分なのか、わからない」といったようなことを口にする。

(2)人格の基盤そのものが、変化する。……たとえば平静時には、「ママ……」と甘ったるい言
い方をしていたのが、別人格になったとたん、「ママなんか、嫌い」と言ったりする。ただ口先で
そう言うだけではなく、心底、憎しみをこめた言い方で、そう言う。

(3)記憶の連続性はある。……どちらの状態であるにせよ、別人格になったときのことを、よく
記憶している。ただそのことに触れるのをいやがり、そのことを追及したりすると、とたんに、別
人格になることがある。

(4)別人格になる前後、頭痛、吐き気、気分の悪さを訴えることがある。……R君(当時、小学
生男児)の母親は、こう言っていた。「風邪ぽくなったとき、とくに気分を損ねやすくなりました」
と。体調の変化が、引き金になることもあるらしい。

(5)別人格になる期間(時間)は、それほど長くなく、たいてい1〜2日、あるいは半日前後で、
またもとの人格に戻る。……もとの人格にもどるのも、ふとしたきっかけでそうなることが多い。

(6)別人格になったとき、もう1人の自分を自覚している。……こんな例がある。S君(当時、小
5男児)という子どもがいた。で、あるとき、いつもは仲がよかったJ君がもってきたコミック雑誌
を破って、ゴミ箱に捨ててしまった。理由はともかくも、あとになって私にこう言った。「そのとき、
そんなことをしてはだめだと、自分にもわかっていた……」と。別人格になったとき、子どもの内
部に、2人の子どもがいたことがわかる。その2人の自分が、たがいに内部で葛藤する。

(7)一線を越えない。別人格になっても、いつも一線を心得ている。……たいていは暴力的な
言動をともなうが、その暴力にしても、「それ以上のことをしたら、取り返しがつかなくなる」と思
われる、その一歩手前で、やめる。この点、家庭内暴力を起こす子どもと似ている。家庭内暴
力を起こす子どもも、家庭の中で暴れながらも、一線を越えることはない。

(8)ふだんはやさしく、気が小さい。……先にも書いたが、ふだんの(平静時における子ども)
は、やさしく、気が小さい。他人を思いやる気持ちも、強い。が、別人格になったとたん、表情
がこわばり、目つきが鋭くなる。言動も大胆になり、妄想的な被害者意識も強くなる。「こんなオ
レにしたのは、お前だ」式の攻撃を、親に向かってしかけるときもある。そのため、親のみなら
ず、家族、近隣の人たちも、「わけのわからない子ども(人)」と評価されることが多い。

●対処のし方

一度、傷ついた心は、生涯にわたって修復不可能と考える。
その子ども(人)自身が、何らかの形で自分を知り、自分の傷に気がつくしかない。
が、そういう立場(教育者、心理学者、精神医学者)にないと、それもむずかしい。
たいていは、そういう自分であることにさえ気がつかず、同じ失敗を繰りかえす。
結婚したあと、夫婦の関係で、再現されることが多い。

自分で、そうであると気がついたからといって、即、問題が解決するというわけではない。
ないが、自分で自分をコントロールすることはできるようになる。

で、相手が子どもであれば、叱れば叱るほど、逆効果。
叱っても意味はないし、叱ってなおるような問題ではない。
そのことを親自身が自覚し、根気よく、かつ忍耐強く対処するしかない。
そのときどんなばあいも、愛情の絆(きずな)を切ることがないよう、注意する。
脅し(「もうあなたなんか、家から追い出す」と言う)、脅迫的行為(ゲームを
壊すなど)、あるいは暴力は、タブーと心得ること。

対処のし方をまちがえると、人格の分離はますます進み、その傷は、さらに深くなり、
障害となって、生涯にわたって、その子ども(人)の心を、
裏から操るようになることもある。

(後記)

親というのは身勝手なもので(失礼!)、子どもに問題を作っておきながら、
その問題が表に出てくると、「子どもをなおそう」とする。
しかしなおすべきは、親自身の育児姿勢であり、家庭環境である。
子どもはあくまでも、その(代表)にすぎない。

そうした視点から、まず、自分自身を、そして家庭教育のあり方を猛省する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子どもの人格 人格の分離 遊
離 剥離 はく離 二重人格性 多重人格 多重人格性)

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今までに書いた原稿をいくつか
紹介します。

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【フォールス・メモリー】

●悲しきウソ

 父親に虐待さてた子ども(小四男児)がいた。その子どもをは、いつも体中、アザだらけだっ
た。で、その子どもを担当した、小学校の校長が、私にこう話してくれた。

「子どもというのは悲しいですね。そういうアザでも、決して父親にそうされたと言わないのです
ね。自分でころんでそうなったとか、自分が悪いから、そうなったとか言うのですね」と。

 心理学的には、これはウソではない。子ども自身が、本気でそう思い込んでいる。つまり子ど
もは、自分にとって不愉快な記憶を消すために、「偽の記憶」(フォールスメモリー)を別につく
り、その中に自分を追いこむ。これを心理学では、防衛機制という。

 子どもの立場で考えてみると、それがわかる。

 子どもにとっていくら虐待する父親であっても、その父親しかいない。父親に嫌われたら、自
分の居場所すらない。そこで子どもとしては、自分の父親を悪く言うことはできない。だから自
分の記憶の中に、別の記憶をつくり、その中に自分を追いこむ。この追いこむことを、心理学
では「隔離」という。

 しかし問題は、ここで終わるわけではない。隔離がひどくなると、そこで人格の分離が始ま
る。心理学でも、やはり「人格の分離」という。もっとわかりやすく言えば、二重人格性、さらに
は多重人格性をもつようになる。同じ一人の人間の中に、もう一人別の人格をもった自分をつ
くる。

 ふつうこういう別の人格は、本来の人格とは、別の人格をもつことが多い。性格そのものが
違う。ある男性(五〇歳)はこう言った。「別人格になったとき、どちらの自分が、本当の自分か
わからなくなります」と。その男性のばあい、何かのことでカッと頭に血がのぼると、別人格にな
るという。「ふだんの私はさみしがり屋ですが、怒ったとたん、自信家に変身します」と。

 冒頭にあげた小学生も、このままでは人格の分離が始まる可能性が、きわめて高い。そして
生涯にわたって、その後遺症に苦しむ可能性が、きわめて高い。つまり「ウソ」と片づけてよい
ほど、決して簡単な問題ではない。子どもの虐待の問題には、こうした問題も隠されている。
(030525)※(2003年作品)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人格の隔離 偽の記憶 防衛機
制 フォールスメモリー フォールス・メモリー)

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もう2作、同時期に書いた原稿を
添付します。

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●基本的信頼関係

 親子といえども、その信頼関係は、たがいの(さらけ出し)と、(全幅の受け入れ)が基本にあ
って、はじめてその上で結ばれます。つまり(さらけ出し)と、(全幅の受け入れ)は、信頼関係
の、必要絶対条件というわけです。そのうちのどちらかでも欠けると、信頼関係が結ばれない
ばかりか、反対に不信関係となって、そのあと、ずっと(恐らく一生)、尾を引くことになります。

 しかし親側に、たとえばここでいう権威主義(親風を吹かす)があると、子どもの側が、心を開
けなくなります。そしてほとんどのケースでは、子どもが親に迎合する形で、親の前では仮面を
かぶるようになります。つまりいい子ぶるわけです。

 OTさんのケースでも、OTさんは、「これらの習い事は、親が『やる?』と聞くので、気を引きた
い私は、『うん。』と答えます。この一言で決定です。あとは、どんなことがあっても引きずられ
て、連れて行かれました」と書いておられます。これが、ここでいう仮面です。あなたは仮面を
かぶることで、親の期待にこたえようとしたわけです。もっと言えば、いい子ぶることにより、親
の関心をひき、自分にとって居心地のよい世界を作ろうとしたわけです。

 仮面のこわいところは、信頼関係をそこなうばかりか、それが原因となって、心が遊離した
り、分離したりするようになることです。さらに二重人格性をもったり、何かのショックが原因で、
二重人格や、多重人格へと進むこともあります。私がよく、『親の権威は、百害あって一利な
し』という理由は、ここにあります。

 さらに大きな悲劇は、実は、親側にあります。子どもが仮面をかぶっていることにも気づか
ず、「自分はできた親だ」「すばらしい親だ」と思う一方、仮面をかぶる子どもを見ながら、「よく
できた子だ」「子どものことは私が一番、よく知っている」と錯覚します。親子関係が、完全に破
壊されているにも、かかわらずです。

 まだ、あります。こうした権威主義的な親をもったばあい、子どもの選択は、つぎの二つに大
きく分けることができます。

 一つは、こうした親に反発するケース。もう一つは、その権威主義を受け入れ、自分も、その
権威を振りかざすようになるケース。ある教育評論家は、自分の父親を振りかえりながら、こう
書いています。「私の父には、ゼウスのような威厳があった。私が父のひざの上で、風邪をひ
いて嘔吐したとき、『無礼者!』と私を叱った。今の父親に求められるのは、そういう親としての
威厳である」(雑誌「F」)と。

 どちらにせよ、これからはもう、そういう権威や、権力で相手をしばって動かす時代ではあり
ませんね。また、そうであってはいけないということです。それはともかくも、OTさん、あなたの
ばあいは、この二つのハザマで、ゆれ動いているのがわかります。(親の権威に反発するあな
た)と、(親の権威に恋慕するあなた)です。

 その根底にあるのが、依存性の問題です。

●依存性の問題

 もともと権威主義の親というのは、権威をふりかざすことによって、子どもに依存しようとしま
す。人間関係をうまく結べない人は、その孤独と戦うため、(1)攻撃型になる、(2)依存型にな
る、(3)同情型になる、(4)服従的になるなどが、よく知られています。これを防衛機制といい
ますが、権威主義というのは、このうちの依存型に分類できます。

 つまりさみしいから、親の権威で子どもをしばり、自分にとって、居心地のよい世界をつくろう
とするわけです。それがときどき、ここでいう攻撃型になることもあります。日ごろはやさしい親
が、(これは子どもに対する仮面)、何かのことでその権威にキズがつけられると、突然、「親に
向かって、何だ、その態度は!」と叫ぶのが、それです。

 親が子どもに依存的になることについて、「おやっ!」と思われるかもしれませんが、このタイ
プの親ほど、子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せます。あなたの父
親がそうですね。「オレが小遣い減らしてまでやらせてやってるのに、何だ!」というのが、その
言葉です。

 が、問題は、実は、親というより、あなた自身にあります。親が依存性のあるケースでは、(そ
れが権威主義であれ、何であれ)、子どもにも、それが伝播(でんぱ)しやすいということです。
子育てというのは、そういう意味で、世代連鎖をします。親から、子へと、です。つまりあなた自
身が、今度は、親に対して依存性をもつのみならず、自分の子どもに対しても、(それは薄めら
れた形かもしれませんが)、権威主義的であったり、依存的であったりするようになります。

 あなたがメールの中で、最後のところで、「両親の所に行かないときは本当に楽しく過ごせま
す。でも、何故か、足が向いてしまうんです」と書いているのは、そのためです。あなたの心が、
(反発)と(依存)の間で、揺れ動いているのが、あなたにはわかるでしょうか?

 では、どうするか?

 もうお気づきかと思いますが、これはあなたの親の問題ではありません。あなた自身の問題
です。つまりあなたは自分の中に潜む、権威主義と無意識のうちに戦っている。そしてそういう
自分の権威主義を、あなたの父親に投影させている。その結果として、あなたは今、自分で、
自ら混乱している。

 ここで「投影」という言葉を使いましたが、たとえばケチな人が、他人のケチが気になり、「あ
の人はケチだ」と批判するようなことを言います。つまり自分の姿を、他人に投影しながら、自
分の姿を見るようなことを言います。よく知られたケースとしては、『泥棒の家ほど、戸締まりが
厳重』とか、『女遊びばかりしている父親ほど、娘にきびしい』というのがあります。これらも、結
局は、投影のなせるわざということになります。

 幸いにも、あなたは自分の二人の子ども(娘さんたち)について、よき友でいようと心がけてい
ます。それはすばらしいことです。方法としては、この部分をふくらませ、そしてあなたが両親か
ら受けついだ負の親像を、子どもには伝えないことです。権威主義など、「クソ食らえ!」(尾崎
豊)です。

 もう一つは、あなた自身の中に潜む、「依存性」を断ち切ることです。そのためには、遠慮しな
くてもよいですから、あなたの親を、とことんうらみ、嫌い、そして批判しなさい。遠慮せずに、し
ます。そしてその結果として、あなたは、親に対する依存性を断ち切ることができます。あなた
が「親を批判するなんて……」と思っている間は、あなたはそれを断ち切ることができません。

 しかし断ち切ってみると、あなたは親よりも、一歩も、二歩も、先へ抜き出ることができます。
そういう視点に立つと、今の状況が一変するはずです。それまで憎んでいた親が、あわれで小
さな人間に見えてきます。そうなれば、今の問題は、自然に解消します。約束します。

 そう、憎しみを、あわれみに変えたとき、あなたは、その人間を超えられるのです。そしてそこ
を原点として、新しい人間関係が始めることができます。つまりは、新しい親子関係になるので
す。そしてあなた自身も、あなたの子どもに対して、すばらしい親になることができます。そうい
うあなたをめざしてください。

 ただ一つだけ気になるのは、最後の、この部分です。「こんな話し、誰にも相談できませんよ
ね。主人にもです」というところです。

 今のあなた自身が、ひょっとしたら、あなたの夫に対して、全幅に心を開いていない心配があ
ります。もしそうなら、これはたいへんまずいことです。夫にすら心を開けないあなたが、どうし
て子どもに心を開けますか。もしそうなら、あなたの夫のみならず、あなたの子どもは、あなた
に対して、たいへんさみしい思いをしているはずです。私はそれを心配します。

 ですから、「主人にもです」などと言っていないで、思い切って、あなたの夫にすべてを話しな
さい。それがまず第一歩です。信頼関係は、やってくるものではなく、長い苦しみと、失敗を繰
りかえしながら、おたがいに作りあげるものです。一つの方法として、この私の手紙を、あなた
の夫に見せてみてはどうでしょうか。

 長い返事になってしまいましたが、あなたがかかえている問題は、子育ての根幹にかかわる
問題であると同時に、今の日本の社会が構造的にかかえる問題でもあります。それをわかっ
てほしかったです。

 では、これで失礼します。講演会においでくださったことに感謝します。ありがとうございまし
た。これからもよろしくお願いします。
(030724)




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●破壊的行動障害

 その子どもの破壊的、挑戦的、突発的、衝動的、否定的、拒否的な行動が、一定の秩序あ
る環境になじまない状態にあること、「破壊的行動障害」という。多くは多弁性や、多動性をとも
なう(DSM−Wの診断基準を参考)。

 ADHD児についての関心は大きくなり、各方面で研究がなされ始めているが、この「破壊的
行動障害児」についての研究は、今、日本でも始まったばかりといってよい。軽重の問題もあ
るが、私の経験でも、二〇〜三〇人に一人前後の割合で経験する。U君(小五)という子ども
がそうだった。

 U君は、私が何を注意しても、すべてをギャク化してしまった。まじめな会話ができないばかり
か、私が、まじめか、そうでないかも、判断できなかった。瞬間的なひらめきは鋭いため、学習
面での遅れはそれほど目立たなかった。が、少し目を離すと、周囲の子どもたちを巻きこん
で、騒いでばかりいた。

私「U君、静かにしなさい! 先生は、怒っているんだぞ!」
U「怒ってる、怒ってる、タコみたい」
私「あのな、先生は、今、まじめに怒っているんだぞ!」
U「ははは、怒れば、脳の血管、破れて、先生は、あの世行き」
私「静かに、私の話を聞きなさい!」
U「聞いてる、聞いてる、きいてるのは、肩の湿布薬」と。

 このタイプの子どもの指導のむずかしいのは、叱っても、一時的な効果しかないこと。つぎに
教室という「場」がもつ秩序を、破壊してしまうこと。それにたいていは、家庭できびしいしつけを
受けているため、家庭では、それなりに「いい子」ぶっていていること。そのため親にその認識
がないことなどがある。

 原因については、いろいろいわれているが、性格や性質というより、もっと機質的な部分に原
因がるような印象を受ける。脳の微細障害説を唱える学者(福島章氏ほか)もいるが、じゅうぶ
ん疑ってみる価値はある。

 このタイプの子どもの、もう一つの特徴としては、自己意識によるコントロールができないこと
がある。ふつう、小学三、四年生を境として、自己意識が発達し、子どもは自らをコントロール
するようになる。そして外からは、その症状がわかりにくくなる。が、このタイプの子どもには、
それがない。あたかも意図的に、自ら騒々しくしているといった印象を受ける。

 本来なら、親の協力が不可欠なのだが、ここにも書いたように、たいていは家庭でのきびし
いしつけが日常化していて、家では、それなりに「いい子」であることが多い。(むしろ明るく、活
発な子どもと誤解するケースが多い。)

またこうした行動障害は、集団教育の場で現れることが多く、そのため、家庭では、ほとんど目
立たない。しかし家庭でのしつけがきびしければきびしいほど、その反動として、外の世界で、
強く、その症状が現れる。

 対処方法としては、まず親の理解と協力を得るしかない。つぎに、家庭でのきびしいしつけ
を、軽減してもらう。頭ごなしの説教や、威圧、暴力がよくないことは、言うまでもない。このタイ
プの子どもは、「叱られる」ことについて、かなりの免疫力をつけていることが多い。

つまりそういう免疫力をつけさせないようにする。たとえばこのタイプの子どもは、ふつうの叱り
方では、効果がない。そこで勢い、大声を張りあげて……ということになるが、それは集団教育
の場では、できるだけ避けなければならない。

 いろいろ問題はある。私のばあい、もう少し若ければ、こうした子どもと直接対峙して、マンツ
ーマンの教育をしてみるだろうが、このところ、その体力の限界を感ずるようになった。これか
らの若い先生方に、解決の方法を考えてもらいたい。
(030724)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist  破滅的行為障害 行動障害児
 行為障害児)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●内気、依存的な子ども

 内気、依存的な子どもについて、それは「性格」だとか、「性質」だとかと、誤解している人は
多い。しかし誤解は、誤解。

 人間の心的エネルギー(リピドー)は、みな、共通である。その心的エネルギーを、前向きに
出すか、あるいは反対にブレーキをかけるかで、積極的な子どもと、消極的な子どもに分かれ
る。

 もう少しわかりやすい例で考えよう。

 ここに100CCのバイクがある。良質な燃料をつんで、それなりの道で走れば、軽く150キ
ロ・時のスピードが出る。しかしそのバイクでも、もし車輪にヒモやロープがからんでいると、車
輪は回らない。回らない分だけ、スピードは遅くなる。ばあいによっては、止まってしまう。

 この車輪にからむヒモやロープが、子どもを、内気にしたり、依存的にしたりする。思いつい
たままで恐縮だが、そのヒモやロープになるものを、ざっと書いてみる。

●過干渉……子どもの意思的な活動を阻害する。強度の過干渉は、子どものやる気を奪うの
みならず、自我を軟弱にする。

●設計図……「こうあるべき」という親の設計図が、子どもの自我をつぶす。子どもは、自信の
ない、ハキのない子どもになる。

●過保護、溺愛……子どもから社会性をうばう。社会を生きるために必要な問題解決の技法
を、身につけられなくなる。

●威圧、暴力……親への恐怖心は、子どもの住む世界を、かぎりなく小さくする。とくに親の情
緒不安ほど、子どもの心に悪影響を与えるものはない。

●過関心……子どもの心を射抜くような視線、過関心は、子どもからハツラツとした「子どもら
しさ」を奪う。

●マイナスのストローク……「あなたはやはりダメな子」式の暗示がかかってしまうと、子どもは
その暗示の呪縛から抜け出られなくなる。

もちろん子ども自身の問題もある。いろいろな恐怖症、強迫観念など。同じ過干渉でも、それ
を受け取る側の子どもによっては、過干渉になったり、しないこともある。たとえばデリケートな
子ども(例、過敏児、敏感児など)ほど、同じ刺激でも、より大きく反応する。

 ほとんどの親は、「どうしてうちの子は、内気なのでしょう。もっとハキハキさせる方法はない
のでしょうか」という。しかしその原因のほとんどは、家庭教育の失敗(失礼!)である。だから
子どもだけをみて、子どもをなおそうとしても意味がないばかりか、かえって症状を悪化させて
しまう。

 改めるべきは、親の育児姿勢、育児態度、それに家庭環境である。……こう言い切るのは
危険なことだが、しかしそれくらいの覚悟を、今の若い母親たちはもってほしい。
(030724)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 権威主義 親の権威主義)