(3)

書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●教師の心理検査法(チェック・テスト)(はやし浩司方式)

+++++++++++++++++++

TBS・News−iは、つぎのように
伝える。

『ホームページに事故で死亡した子どもの写真を無断で載せ、有罪判決を受けた元小学校教
師の男が、……執行猶予中に今度は盗撮目的で学校に侵入、これについて渡部被告は「立ち
入り自体が禁止されているとは思わなかった」と弁解し、無罪を主張しました』(8月15日)と。

この種の事件は、後を絶たないが、では、そういう
教師は、どうすれば事前にチェックすることが
できるかということ。

ひとつの方法として、心理テスト法がある。
が、最大の問題は、チェックを受ける教師が、ウソを
回答したら、意味がないということ。

たとえば、

【チェック・テスト】(1)

(Yesのときは(  )に○、Noのときは( )に×をつけてください。)

(  )あなたは子どもの裸体に興味がありますか。
(  )あなたは子どもに性欲を覚えたことがありますか。
(  )あなたは子どものスカートの下をのぞきたいと思ったことがありますか。
(  )あなたは子どものトイレをのぞきたいと思ったことがありますか。
(  )あなたは小児性愛者ですか。

しかしこんなテストで、(○)をつける教師はいない。
その傾向のある教師なら、なおさらである。

そこで質問の内容を微妙に変えてみる。

【チェック・テスト】(2)

(  )あなたは子ども(生徒)といっしょに遊ぶ夢をよくみますか。
(  )あなたは子どもを清らかで、美しい存在だと思うことがありますか。
(  )あなたは子どもでも、男は男、女は女と思ったことがありますか。
(  )あなたは子どもが漏らしたようなとき、平気で始末できますか。
(  )あなたはおとなより子ども(生徒)といっしょにいたほうが楽しいと感ずることがあります
か。

しかしこのテストでも、それを受ける教師が「テストされている」と感じたとたん、意味がなくな
る。
当然、ウソの回答をする。

そこでこのテストをさらに強固にするため、間に、1問ずつ、ダミーの質問項目を入れてみる。
つぎのテストで、※印をつけたのが、ダミーの質問項目である。

++++++++++++++++

【チェック・テスト】(3)

(  )あなたは子ども(生徒)といっしょに遊ぶ夢をよくみますか。
(  )あなたは結婚生活において、性生活は重要と考えますか。※
(  )あなたは子どもを清らかで、美しい存在だと思うことがありますか。
(  )しばらく性交渉がなかったようなとき、性的に欲求不満を感ずることがありますか、※
(  )あなたは子どもでも、男は男、女は女と思ったことがありますか。
(  )性的嗜好には、さまざまな形があり、標準とか平均的という言葉は当てはまらないと思っ
たことがありますか。※
(  )あなたは子どもが漏らしたようなとき、下着などを平気で交換できますか。
(  )あなたは自慰は、健康な男女ならだれでもする、自然な行為と思いますか。※
(  )あなたはおとなより子ども(生徒)といっしょにいたほうが楽しいと感ずることがあります
か。
(  )あなたは男女の性交渉の目的は、種族を存続させるためのものと考えたことがあります
か。※

++++++++++++

以上の質問項目の中で、(※)印のついたダミーの質問は、すべて(○)のはず。
(※)印のついた質問項目の中で、(×)が目立つようであれば、その教師は、全体としてウソ
の回答していると判断してよい。

つまりこうしてチェック・テストの信頼性を確保すると同時に、あやしい(?)教師を選び出すこと
ができる。
(さらに信頼性を確保するために、食べ物やスポーツなどの分野の質問を、やはりダミーとして
混ぜるという方法もある。)

あなたが家庭の妻なら、一度、このテストを、夫に対してしてみたらよい。
(ただし※印は消しておくこと。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教師のチェック チェックテスト 
教師の性的嗜好テスト 性的志向性テスト 教師の心理テスト はやし浩司 教師の性的チェ
ックテスト チェック・テスト 教師によるハレンチ事件 ハレンチ事件防止 ダミー ダミーの質
問項目)








書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●母親像

●掲示板への投稿より

++++++++++++++++++++++

久しぶりに私の掲示板をのぞいたら、
こんな書き込みがありました。

私の書いた返事が少しは役にたったようです。
うれしかったです。

そのまま転載させてもらいます。

++++++++++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

7月18日の投稿に対し回答を頂き、心から感謝いたします。
はやし先生の原稿も読ませていただきました。
心の整理がつくまで時間がかかりましたが、何故でしょう、今は心静かに投稿させていただい
ています。

「不安」の原因は0〜2才前後と言うご指摘に震えました。私の母は2才の時に母親(私からす
ると祖母)と死に別れていたからです。
私の中にも私の母の中にも母親像が無かった・・・。
幼い頃の私の記憶では、酒に酔った父と母はしょっちゅう包丁を持ち出して夫婦喧嘩をしてい
て、母は、私が小学校に上がると同時に家でしていた内職の仕事を辞め、外に働きに出るよう
になり、夜遅くならないと帰って来ませんでした。
私は自分の食事を自分で作って食べ、お弁当も自分で詰めていました。
そんな家庭が当たり前と思っていた部分が今日までありました。

はやし先生のおっしゃるとおり私の心の中には母親像が無かったのです。
そう気がついた今、両親を恨んでも自分の運命を嘆いても仕方が無い。運命を受け入れようと
心に決めました。
私が日本人であるように、女に生まれたように、この性格は自分の運命。受け入れるしかな
い。覚悟しました。

はやし先生が「治そう」とか「直そう」と思う必要はない、うまく付き合え、と言ってくださったので
何だか心が楽になりました。

娘の事も"元気で生きていてくれればそれで十分"と思うようにし、「求めてきたときが、与えど
き」と気楽に考えるようにしてゆきます。

何だか気負いが嘘のように抜けてゆきました。訳も無く涙があふれてたまりません。気持ちが
すごく楽になりました。

はやし先生、本当にありがとうございました。
(08年7月23日)

++++++++++++++++++H.Hayashi

以下、そのときの掲示板への相談を、
そのまま添付します。

+++++++++++++++

掲示板のほうへ、
こんな相談がありました。
毎日子育てをしながら、
不安でならない……。
そんな内容の投稿です。

+++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

小学一年生(6歳)の娘と、私自身のことで毎日、戸惑っています。

私自身も自分の心に問題、(わがまま、恩着せがましい依存性など、幼児的願望が強い)を抱
えていることを自覚しています。まだ、それを克服することができず心の中で、のた打ち回って
いるのが現状です。

そのこともあり、娘には三歳まで私の母や姉、主人の手を借りて何とか一切怒ることはもちろ
ん、叱ることもせず過ごしました。(娘を出産した病院の院長先生に、三歳までは何があっても
怒ってはいけないと忠告されたためです。)

けれど、娘が四歳を過ぎてからそれまでのがまんが限界にきたのか、自分でもどうしようもなく
ヒステリックに娘に怒ることが多くなり、このままでは娘が壊れてしまうような危機感を感じてい
たところ、はやし先生のこのリンクに出会い、近ごろは娘と距離を置くようにしています。

ただ、そうすればそうするほど娘が私に、絡んでくるのです。例えば、ひらがなの『や』が、「これ
は『か』に見えるから直しなさい。」と言うと、「やだ、これでいい。」とか、「お母さんがこんな風に
教えた」とか、そこから始まり、その後の食事もお風呂もそれ以後ずっと機嫌が悪くなり、手が
つけられなくなるのです。

また、娘がふてくされていたり、つまらなそうな顔をしていても、その心をうまく汲み取れず、い
つもどおりに「帽子もちゃんと片付けなさい」など言ってしまい、それでもぐずぐずしている娘に、
「はやくしなさい」などと、追い討ちをかけてしまうのです。そうなると、その日はそれでもう何も
かも動かなくなるのです。

今朝娘が、「今日もお父さんは夜遅いから嫌だな、怒りんぼ母さんと一緒は嫌だ」と涙をためて
言う姿を見ると、私は私自身を蹴飛ばしてやりたい気持ちで一杯になりました。何故でしょう
か。気負いが強すぎるのでしょうか。

『1日1回、娘をゲラゲラ笑わせてやる』という私自身の目標も、全然実現しないし、本当に私は
娘に優しくないんです。いつも何かに追いかけられているような気がして、(ゆっくり)ができない
のです。

夕方娘と庭に水をまき、ゆっくり娘が育てているアサガを見ながら、冗談でも言ってゲラゲラ笑
いたいのに、「さ、早く手と足を洗って部屋に入ろう」などと言ってしまうのです。何か、いつも自
分がガツガツ急き立てられていて、心にゆとりがもてない。こんなことしていたら娘もそうなる。
だから「急き立てたり、『早くしなさい』を言わずにいよう」と、そう毎日心で唱えていても、極端な
話、口が勝手に言ってしまう感じで・・・その後、自己嫌悪で胸が苦しくなります。その繰り返しで
す。

娘に優しくゆったり接することができない私と、一度こじれたら修復できない娘のぐずぐず・・・。
『こんな母親死んでしまえ』と心で自分に怒鳴りつけているのですが、どうしていいのかわかりま
せん。

林先生がおっしゃる「一貫性」は本当に難しい、と言うより苦しいです。毎日、朝と学校から帰っ
てきたら、娘を抱きしめています。けれど、娘にしていることはそれだけです。私の心のどこを
どう整理をしたら、優しい母親、娘に優しく接することができる母親になるのか、私自身がわが
ままで、甘えているのは重々わっているのですが、何か一筋のくもの糸でもかまいません。何
か助言がありましたらどうか教えて下さい。お願いします。

【はやし浩司より、Uさんへ】

あなたを、Uさんとしておきます。
Uさん自身も、不幸にして不幸な家庭環境で、育っているとみてください。
「不安」の原因は何かわかりませんが、恐らくUさんが0〜2歳前後ごろ、その(種)ができたも
のと思われます。

Uさんからみて、安心して、のんびりと過ごせる家庭環境になかった。
とくに母子関係(Uさんと、Uさんの母親の関係)を疑ってみてください。
Uさんの母親もいつも不安で、その不安を、Uさんにぶつけていたと思います。
それが今の、Uさんのパニック障害(少し前まで、「不安神経症」と呼ばれていました)につなが
っていると考えられます。

(心の緊張感が取れないことを、以前は、不安神経症と呼んでいました。
いつも心は緊張状態にあって、その状態のところへ何らかの不安や心配が重なると、一気に、
緊張状態が加速され、そこでパニック状態になるというわけです。)

ショッキングなことを書きましたが、まずUさん自身の過去と、真正面から向き合うことが大切で
す。
Uさん自身の心の奥深くを、自分でのぞいてみることです。
この問題は、そういった問題があるということではなく、Uさん自身が、自分の過去に気づくこと
なく、その過去に振り回されるところに問題があります。

Uさんは、心豊かで、愛情に満ちた乳幼児期を過ごしましたか?
全幅の(さらけ出し)をしながら、幼児期を過ごしましたか?
恐らく、そうではなかったと思います。
Uさんは、親の前で、いつも(いい子)でいた(?)。

もっとはっきり言えば、あなた自身の中に、(母親像)が育っていないということです。
あるいはUさんは、いつも母親を拒絶してきたというケースも考えられます。
その結果が、「今」ということです。

この問題は、子どもの問題ではありません。
Uさん自身の中の、(不安)の問題です。
この(不安)がなくならないかぎり、Uさんは、つきからつぎへと自分で問題をつくり、それに振り
回されることになります。
取り越し苦労とぬか喜びの繰りかえし……というわけです。

で、さらに問題をほりさげると、何が、今、Uさんを不安にさせているかということになります。
もちろん子育てについての不安もあるでしょう。
家庭問題? 夫婦問題? 経済問題? 家族の問題?

こういうケースでは、夫の協力が不可欠です。
しかしUさんは、その協力をじゅうぶん、得られず、それ故にさらに悶々と悩んでしまっていま
す。
袋小路に入ってしまっているのかもしれません。

実のところ私にも似たようなところがありますので、Uさんの精神状態がよく理解できます。
で、私のばあい、できるだけ食生活で、自分の心を安定させるようにしています。
海産物中心の献立にするなど。
Ca、Mg、Kが効果的です。
私の友人は、精神が不安定になると、いつもポケットからカルシウム剤を取り出して、ボリボリ
と口の中で、それをかんでいます。

あとは薬局で売っているハーブ系の安定剤を、よく口にします。
内科でも、副作用の少ない安定剤を処方してくれますので、一度、そういうところで相談なさっ
てみられたらどうでしょうか。
薬名はここでは書けませんが、私はときどき、それを2つに割って、口の中で溶かしながら、服
用することもあります。
(本当は1錠なのだそうですが、こうした精神薬は、いつも半分にして、口の中で溶かして服用
することにしています。
このあたりのことは、医師とよく相談して決めてください。)

Uさんにはつらいでしょうが、この問題は、これから先、一生つづきます。
たまたま今は、それが小1の子どもに向かっているだけ、ということです。
ではどうするか?

あとはそういう自分とうまくつきあうだけです。
「治そう」とか、「直そう」と思う必要はありません。
うまくつきあうのです。
みんな、どんな人でも、その程度のキズというか、トラウマというか、そういうものをもっていま
す。
Uさんだけが特別というわけではありません。
Uさんが言っておられるように、Uさんは、心配先行型、不安先行型の子育てをしています。
ちゃんとした(母親像)が入っていないため、どうしても気負いが強くなります。
「いい母親でいよう」という思いが強すぎるため、かえってそれが重荷になってしまうというわけ
です。
それが今のような、どこかギクシャクとした子育てにつながっている。

そういうときは、肩の力を抜くことです。
(本当は、Uさんが子育てから離れて、自分の好きなことをし、その結果として、子育てから離
れられるようにするのが、よいですが……。)

「ほどよい親」「暖かい無視」を繰りかえしながら、あなたはあなたで、好きなことをすればよい
のです。
仮に子どもを愛せないなら、愛せないでも構わないのです。
実際、約10%の母親たちは、(10%ですよ!)、子どもを愛せないということも、わかっていま
す。
万事、自然体で、子育てをすればよいのです。
頭の中で、「こうでなくてはいけない」とか、「そうであってはいけない」とか、思う必要はないので
す。
「子どもを愛せないから、私は失格人間」と思う必要もありません。

あなたはあなた。
子どもは子ども。

毎日、学校から帰ってきた子どもを抱く……それだけでじゅうぶん、Uさんは、すばらしい母親
です。
私など、一度も、そういうことはありませんでした。
あとは「求めてきたときが、与えどき」と心得てください。
Uさんの子どもが何かを求めてきたら、すかさず、与える。
それでよいのです。

それから投稿にありました、子どもの反抗ですが、この時期の子どもに、ごくふつうに見られる
反抗ですから、気にしてはいけません。
いわゆる(口答え)です。
(幼児期から、少年少女期への移行期に見られる、ふつうの口答えです。)
いちいち本気にするから、おおげさになってしまいます。
(このあたりにも、あなた自身の母親像のなさが、見受けられます。)

私の書いた原稿で参考になるようなものとしては、(好意の返報性)(親像)(育児ノイローゼ)
(悪玉親意識)(気負い先行型)などがあります。
ヤフーなどの検索エンジンを使って、「はやし浩司 好意の返報性」というように検索してみてく
ださい。記事をいくつかヒットできるはずです。

Uさん、あなたはすばらしい母親ですよ。
これほどまでに、自分をみつめ、真剣に悩む母親は、そうはいない。
まず、そういうあなた自身に自信をもってください。
その自信が、あなたの子どもに伝わったとき、あなたの子どももまた、安心感をあたなにもつよ
うになるでしょう。

どのみち、あと2、3年で、あなたの子どもは、親離れを始めます。
今はがまんのとき。
じょうずに子どもが親離れできるように、子どもをし向けます。

繰りかえしますが、Uさんが今経験しているような、親子騒動(?)は、珍しくも何ともありませ
ん。
ごくふつうの、一般の親たちが経験する、何でもない問題です。
(みんな、外から見ると、うまくやっているように見えますが、そう見えるだけです。)
できれば小学2、3年の子どもをもつ親に相談してみることです。
「うちもそうですよ」というようなアドバイスをもらって、たいていそれで解決するはずです。

そしてここが大切ですが、Uさんも子どもが親離れするのに合わせて、自分のしたいことを追求
します。
あなたにはあなたの人生があります。
子どものために犠牲になるのは、美徳でも何でもありません。
そういう姿を見て、あなたの子どももまた、たくましく成長していきます。

子どもの機嫌など、取らないこと。
嫌われてもいいじゃないですか。
中学生でも、約60%の子どもは、「親のようになりたくない」「尊敬できない」と答えていますよ。

それでよいのです。
子育てに幻想をいだかないこと。
子どもに尊敬されようとか、好きになってもらおうとか、思わないこと。
それともあなたは、自分の母親や父親を尊敬していますか。
好きですか。
文面を読むかぎり、答は「ノー」のはずです。

ついでに「はやし浩司 レット・イット・ビー」という原稿も読んでみてください。
参考になると思います。
(たった今、自分で検索してみたら、18件、ヒットしました。)

「レット・イット・ビー」というのは、「あるがままに……」という意味です。
では、また……。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++

掲示板へは、(はやし浩司のHPのトップページ)より、(メール)→(掲示板)へと、おいでくださ
い。)

++++++++++++++

Uさんへ

読むのが遅くなり、失礼しました。
今日は8月22日です。








書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●偽善

聖書(RYRIE版)を、ひもとく。

John(8:34)には、こうある。

Jesus replies:
I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin.
Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever.
So if the Son sets you free, you will be free indeed.

イエスは、こう答えた。 
あなたに真実を話そう。罪ある人は、罪の奴隷である。
(罪の)奴隷には、家族の中に安住の場所はなく、息子が、永遠にそこにとりつく。
もし、その息子が、あなたを自由にするなら、あなたは本当に、自由になるだろう。

++++++++++++++++

 キリスト教でいう(sin=罪)という言葉には、独特のものがある。昔、オーストラリアの友人
に、一度、その意味を聞いたことがあるが、彼は、こう言った。「キリスト教徒でないと、理解で
きないだろうね」と。

 しかしニュアンスとしては、私にも、理解できるような気がする。

 邪悪な思想をもっている人は、いつもその邪悪な思想に振りまわされてしまう。そして自分が
邪悪なことをしていることにすら、気がつかなくなってしまう。つまり、邪悪な思想の奴隷にな
る。

 こんな勝手な解釈をすると、息子は怒るかもしれないが、私なりの解釈によれば、そうなる。

 つまり邪悪な思想に一度、とりつかれると、その時点で、自分の人生をムダにすることにな
る。一時の快楽を得ることはできるかもしれないが、一度キズついた人間性を取りもどすこと
は、容易なことではない。

 人生を、(真理への旅)にたとえるなら、その旅で、遠回りすることになる。あるいは道からは
ずれてしまう。だから、永遠に、その(真理)に、たどりつけなくなる。

 息子は、「真理を知れば、罪の奴隷から解放される」と言う。つまり罪の奴隷から、自らを解
放することが、自由である、と。

 しかし私の心の中には、邪悪なゴミがいっぱいある。ゴミだらけ。

 私は、平気で、人をうらむし、ねたむし、バカにするし、嫌うし、さげすむ。お金もほしいし、若
くて美しい女性を見れば、性的魅力を感じてしまう。まさに私は、(罪の奴隷、a slave of si
n)ということになる。

 私は、決して、善人でもないし、聖人でもない。

 だから私のような人間は、その臨終のとき、無間の孤独地獄の中で、もがき、苦しむ。失意と
悔恨。恐怖と不安。絶望と苦痛。そのどん底で、もがき、苦しむ。

 ……それがわかっているから、正直に告白するが、死ぬのが、こわい。こわくてならない。

 他人から見れば、私は、懸命にがんばっている人間に見えるかもしれない。一応、まじめだ
し、社会のルールは守っている。ウソはつかないし、健康にも注意している。いつも家族には、
誠実に接している。

 しかしそれとて、(自分がよい人間)だから、そうしているのではなく、臨終のときの自分が、こ
わいから、そうしているだけ。それはたとえて言うなら、借金取りに追いたてられるのがいやだ
から、仕事をしているようなもの。

 ほかに、私は、過去40年以上にわたって、人からお金を借りたことがない。それは私に何か
の哲学があって、それで借金をするのがいやだからではなく、頭をさげて、借りるのがいやだ
からにほかならない。根拠となる思想があって、そうしているのではない。

 同じように、本当に、同じように、私がいくら「私は自由だ」と叫んでも、そう叫んでいるだけ
で、本当に自由かどうかということになると、自分でも、まったく自信がない。

 やはり息子が言うように、本当に自由になるためには、自分の中にある、邪悪さから解放さ
れなければならない。お金がほしいくせいに、さもお金など興味はありませんというような顔をし
てみせる。それでは、真の自由を手にいれることはできない。

 しかしそれこそ、まさに偽善。その偽善のかたまりでは、真理には、到達できないということ。

 が、残された時間は、あまりにも、短い。今は、57歳。そのうち、兄のように頭もボケるだろ
う。そうなったら、おしまい。私は、何としても急がなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 偽善)







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●男女論

●男は仕事、女は家庭?(Men work outside and Women work inside?)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほどの間、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                                ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに対
して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

これらの数字をまとめると、こうなる。

「結婚したほうがよい」と考える人がふえる一方で、旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結
婚観をもっている人は、約3割にすぎないということ。

3割だぞ!

問題はこうした変化もさることながら、こうした変化についていけない人も、多いということ。
あるいはこうした意識変化が起きつつあることにすら、気がついていない。
とくに世代間の(ちがい)が、大きい。

「男は仕事、女は家庭」と、旧来型の固定観念にしばられる旧世代。
「今どき、そんなバカなことを言っていると相手にされない」と反発する新世代。

先日も兄の葬儀でのこと。
裏方で、お茶や食事の用意をしていたのは、すべて女性。
広間で、でんと座って、それを待っていたのは、すべて男性(プラス、一部の女性)。
私が裏方で、味噌汁を作っていたら、逆に、私のほうが追い出されてしまった!

こういうバカげた段村社会が残っている国は、そうはない。
またそういう男女観をもっている人ほど、今回の読売新聞社の公表した意識調査結果を、
一度、真剣に読んでみる必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 男は仕事 女は家庭 男女観 
結婚観 サイレント革命)

+++++++++++++

7年前に書いた原稿を
紹介します。

+++++++++++++

●親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 
日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から
追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし
今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってき
ている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つ
に分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、
単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、12%
もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。「い
ろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。30年前のよう
に、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに「サイ
レント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのも
のが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型 
            ……15%、だそうだ。
●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist フリーター撲滅論 まともな仕事
論)








書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●子どものやる気

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯状回と
いう組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思考システム」)。
脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無気力になるという。もっ
とも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを念頭におきながら、子どもの心を
みるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUさんより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がなく、そ
れ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家で教えていて
も、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっているだけのようで
す。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、ゲームや絵を描いたりして
いて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロしています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のんびりし
すぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、異常
もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意しても、なおり
ません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわからず、悩んでいま
す。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて頂き
たいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意                               
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、つまり
「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底という。が、それ
で終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎの底をめ
ざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭教師をつける)→(さ
らにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、その悪循環をどこかで感じたら、
鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と思い、あきらめる。こういうケースで
は、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、ますます状態が悪く
なる。

●リズムの乱れ
 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリズムが
まったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それを表している。
つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩いているのがわか
る。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。そういうYUさんだが、
子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」「子
どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズムのなか
にあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そのリズムの乱れに
気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ
 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? だか
らといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さだけが、目
立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケースで
は、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こう
いう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学歴信仰が
疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、カルト。脳のC
PU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。以前、「勉強にこだわっ
てはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言った。「他人の子どものことだと
思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省
 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべきは、親
のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。しかし学校か
ら帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロしていてはいけないのか。
学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。そこで一日を過ごすというこ
とが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、よく知っているはず。そんな子ども
に向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そ
う言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」という
生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて疲れる』生
き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子どもはいつまでたっ
ても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽になったと思ったら、人生も
終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない
 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師の、
よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつなげる。し
かしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、冷水を浴びせか
けるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りするだけ。その場だけを何
とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、必ず、いつか、こういう子育
て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊す
る。

●ふつうの子ども論
 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからないでもな
いが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。そればかりか、
さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターンを子ど
もに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそれ以上に大切
なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけること。しかし心のどこか
に、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればするほど、親は、子どものもつ
「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑になる。このYUさんのケースで言うな
ら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、子どもにその自覚がない以上、なおるはずも
ない。またそれだけの自意識がければ、自分でなおすこともできない。小学六年生といえば、
すでに言葉の問題をうんぬんする時期を過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもな
るというのなら話は別だが、そうでないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした
親の姿勢が、文字嫌い、本嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているというこ
と。そうでないことを望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?
 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならないこと
は、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多分、絵といっても、
アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。しかしそれとて伸ばせば、一芸
になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ばしたらよい。今の段階で、絵やゲ
ームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、それはま
さにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。「もっと勉強
しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなければ、勉強をしようとし
ない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は山のようにあるのだろうが、その
失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。その責任をおおい隠し、子どもに押しつけ
ても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの立場で、
子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解いてみようね」
と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、悩む。そういう姿勢が、子
どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおるころに
は、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、YUさんは、もっ
と早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何とかなる」「何とかし
よう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年生なのだ。が、ここでまた「何
とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛
 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないとみてよい。
私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そういう私の意図がわ
かれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことをよくも、言うものだ!」と怒
るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかま
りがあるかもしれない。望まない結婚だった。望まない子どもだった。あるいは生活が不安定
だった。夫に、大きな不満があったなど。そういうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへ
の過干渉や過関心になる。その背景には、親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一人の友と
して受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護
者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。この三つ目は、実は日本
人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、子どもの横を歩いてみる。これ
は今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが絵を描いていたら、YUさん、あなたも
いっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲームをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲ
ームをすればよい。そういう姿勢が子どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったと
き、あなたが「勉強しようね」と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一
方で子どもの世界を否定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができる
というのか。こういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……
 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう考え方
もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えることは、私はYUさん
との間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私との間に、遠い距離を感じた
ことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、その価値
に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇跡なのだ。そうい
う視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

+++++++++++++++++

●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、ここに
書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。掲載予定日は、
二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、連絡ください。連絡が
なければ、了解していただいたものを判断させていただきます。よろしいでしょうか。はやし浩

(03−1−28)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが見
出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのものでし
た。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が悔やま
れ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよいのかわかりま
せん。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思いま
す。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。
 
これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?
 
はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

++++++++++++++++++

●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 
 
ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++

●子どものやる気

+++++++++++++++++++

心というのは、それほど器用にはできていない。
ひとつのことで(やる気)を失うと、別のところでも、
(やる気)を失う。

もともと(やる気)には、脳の中でも、帯状回という
組織が関係しているそうだ。

しかしその帯状回は、(やる気)の中身まで、チェックする
ことはできない。
「この分野は、やる気を出してやろう」とか、
「あの分野は、やる気を出すのをやめよう」とか、
そういう器用なことはできない。

一事のことで(やる気)を失うと、ほかの部分でもやる気を
失う。

たとえばよくある例として、「受験期にさしかかったから、それまで
していたサッカーをやめさせよう」と考える親がいる。

親は、「サッカーに振り向けていた時間を、今度は勉強に
向けさせよう」と考えてそうするが、そういうやり方は、かえって
逆効果。

サッカーをやめさせられたことで(やる気)を失った子どもは、
そのままあらゆる面で、(やる気)を失う。

勉強など、するようになるわけがない。

++++++++++++++++++

兄が死んだあと、いろいろな事務手続きが重なった。
たとえば兄名義の貯金にしても、銀行のほうで、即、
出金停止ということになった。

引き出すことはもちろん、その通帳から支払われていた
電気代やガス代まで、自動引き落としができなくなって
しまった。

しかも兄の財産は、一度、母のものとなる。
が、その母は、現在、脳梗塞も重なって、ほとんど口を
きくこともできない。

さらに母の現住所は、この浜松市。
しかし本籍地は、岐阜県のM町……。
母のものとなった財産を、今度は、私が代理人となって、
引き出さなければならない。

その上、葬儀費用として使用するためには、葬儀社の
領収書を添えて、1か月以内に、それをすまさねば
ならない。

ということで、わずか数十万円の貯金の解約手続きのため、
浜松とM町の間を行ったり、来たり……。

私はこういうめんどうな手続きが、苦手。
大嫌い。

とたん、私は、それが苦になって、全面的に(やる気)を
失ってしまった。
いろいろ小さな仕事が重なったが、何かにつけて
(やる気)がわいてこない。
そしてそれがさらに積み重なって、何をするにも、おっくうに
なってしまった。
ワイフと旅行するのも、いやになってしまった。

が、これではいけない。
……ということで、一気にこの問題を片づけることにした。

まずあちこちに電話をかけ、必要書類を聞く。
必要書類をそろえる。
そろえたら、それでよいかどうか、あちこちに確認する。
「OK」が出たところで、当該銀行に足を運んで、一気に
事務手続き終了!

それが終わったとき、大仕事をしたような満足感はあった。
あったが、しかし私が何らかの利益を得たわけではない。
そうして引き出したお金は、葬儀費用の一部になっただけ。

……で、それから約1か月。
(やる気)が戻ってきたのは、その手続きがすんでから、
3、4日後のことだった。
脳というのは、そう簡単には、復元されないものらしい。

話を戻すが、子どものばあいでも、では、サッカーをまたやらせれば、
やる気が戻るかといえば、そうはいかない。
子どもどうしの人間関係も、からんでくる。
一度、退会すれば、レギュラーに戻ることも難しい。
ということで、たいていのばあい、子ども自身が、クラブに
戻ることをそのものを、拒否する。

こうして子どもは、ますます(やる気)を失っていく。
ご注意!






書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●人生の密度

【人生の充実感】I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)

+++++++++++++++++++

自分の今までの10年間を振り返りながら、
(もちろん20年でも、30年でもよいが……)、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く人がいる。
反対に、「もう10年もたってしまったのか!」と驚く人もいる。

充実した人生を送っている人は、「まだ……」という言葉を
使って、自分の過去を振り返る。
そうでない人は、「もう……」と言って、自分の過去を振り返る。

++++++++++++++++++

●年齢は、ただの数字

懸命に何かに向かって生きている人は、それだけで美しい。
輝いている。
そうでない人は、そうでない。

大切なのは、「中身」。
「年齢」という数字ではない。
仮に90歳まで生きたとしても、長生きしたということにはならない。
仮に40歳で死ぬことになっても、若くして死ぬということにはならない。
あの

『無益に100年生きるよりは、一瞬のうちに自分を燃焼させる』。
それが(生きる)ということではないのか。

そのことは養護センターの老人たちを見ればわかる。
一日中、つけっぱなしにしてあるテレビの前で、何かをするでもなし、
何もしないでもなしという状態で、日々を過ごしている。
そういう人たちを見て、本当に生きていると言えるだろうか。

(もちろんそういう人生が、無駄だとか、そこにいる老人たちには、
価値がないと言っているのではない。
もし私たちが健康で元気なら、何もあわてて、そういう老人たちの
仲間入りをする必要はない。
けっしてそういう老人たちを手本としてはいけない。
たとえば日本では、老後というと、孫の世話と庭いじりと考える人は多い。
しかしその延長線上に、養護センターの老人たちがいる。
そういう意味で、「本当に生きていると言えるだろうか」と、私はここで
問いかけてみた。)

●密度

で、生きる価値は、その(密度)によって決まる。
密度の濃い人は、自分の人生を振り返りながら、「まだ……」と言う。
そうでない人は、「もう……」と言う。

が、その密度は、あくまでも相対的なもの。
「相対的」というのは、「他人と比較して……」ということになる。
が、実のところ、比較しても、意味はない。
この問題だけは、どこまでいっても、個人的なもの。
その人がそれでよいと思っているなら、それでよい。
他人の私たちが、とやかく言う必要はない。

たとえば仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。
たまの休みには、魚釣り。
雨の日にはパチンコ……という人も、いないわけではない。
が、その人がそれでよいとしているなら、それでよい。

しかし密度の濃い人生を送っている人からみると、そうでない人がよくわかる。
反対に密度の薄い人生を送っている人からは、密度の濃い人生を送っている人がわからな
い。
そのことも、養護センターの老人たちを見ればわかる。

●密度といっても、相対的なもの

先日もある女性(65歳くらい)と、こんな会話をした。
その女性は、どこか認知症的なところがある。
どうでもよい話を、長々と私に説明した。
そこで私が、「私は、(あなたが思っているような)バカではないと思うのですが……」と
言うと、その女性は突然、ヒステリックな声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

利口な人からは、バカな人がよくわかる。
しかしバカな人からは、利口な人がわからない。

で、「相対的」ということには、もうひとつの意味が含まれる。
たとえばある人は、20歳〜40歳まで、密度の薄い人生を送ってきたとする。
平凡な、これといって変化のない人生だった。
しかし満40歳になったとき、人生の転機が訪れ、何かの目標に向かって、
猛烈に突進し始めた。
朝起きるとすぐ(やるべきこと)を始め、寸陰を惜しんで、それに没頭した。

そして満50歳になったとき、それまでの10年間を振り返りながら、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く。
しかしそれとて、20歳〜40歳までの自分自身の人生と比較してはじめて、わかること。
もしその人が40歳を過ぎても、それまでと同じような人生を歩んでいたら、
密度の変化そのものに、気がつかないだろう。
「相対的」というのには、そういう意味も含まれる。

●密度の濃い人生

ただ加齢とともに、人生の密度は、相対的に薄くなる。
体力、知力が衰え、ついでに気力も衰える。
脳が、あたかも穴のあいたバケツのようになる。
せっかく得た知識や知恵にしても、どんどんと下へと、こぼれ落ちていく。

つまり放っておいたら、人生の密度は、どんどんと低下していく。
実際、「歳をとればとるほど、1年は早く過ぎる」と言う人は多い。
が、それを当然と思ってはいけない。
またそうであってはいけない。

バケツに穴があいた状態になったら、さらに多くの知識や知恵を詰め込めばよい。
いつも新しいことに興味をもち、それに向かって、前向きに進んでいけばよい。
(すべきこと)を発見して、それに向かって進むということであれば、年齢は関係ない。
年齢という「数字」にだまされてはいけない。
「数字」に、遠慮する必要もない。
1年が早く過ぎると感じたら、2年分、生きればよい。

こんなことがあった。
前回のワールドカップの代表選手に選ばれたTK氏と、こんな会話をしたことがある。
別れ際、「すばらしい人生を送っておられますね」と声をかけると、TK氏は、
少しはにかみながら、「私はサッカーしかできませんから」と。
その少し前、TK氏は、アジアカップ杯のすべてに出場し、日本を優勝に導いている。

TK氏のような人は例外としても、TK氏にとっての一瞬は、私たち凡人の10年分、
あるいは100年分より、密度が濃いはず。
そのときTK氏は、まだ30歳そこそこ。
60歳に近い私でさえ、TK氏の前では、タジタジになってしまった。

●空しさとの闘い

話を戻す。

人生は楽しむためにあるのではない。
(生きる)ためにある。

それがわからなければ、そのつど、自分にこう問いかけてみたらよい。
「だから、それがどうしたの?」と。

すばらしい車を買った……だから、それがどうしたの?
すばらしい家を買った……だから、それがどうしたの?
おいしいごちそうを食べた……だから、それがどうしたの、と。

若いときはそれがわからないかもしれないが、人生に天井が見えてくると、
そこに残るのは、(空しさ)だけ。
(楽しみ)のあとを、すぐ(空しさ)が追いかけてくる。
そんな状態になる。

そこで大切なことは、「今」というこの「時」を、いかに充実させるかということ。
そのひとつの方法として、私は(考えること)をあげる。

人間がなぜ人間かと言えば、考えるからである。
あのパスカルも、「パンセ」の中で、そう書いている。
『人間は考える葦(あし)である』という言葉も、そういうところから生まれた。
もし考えなかったら、人間もただの動物。
「生きた」というだけの人生で、終わってしまう。

それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(一部、中日新聞発表済み)。

++++++++++++++++++

●生きることは、考えること

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと
言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができ
るということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話
をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったとき
のこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」
と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にして
しまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというの
は、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなこ
とをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱その
ものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子
どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になって
いる。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロン
ドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で
考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断ので
きる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年・
田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含ま
れる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ (はやし浩司 家
庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 
education essayist writer Japanese essayist 思考 情報 生きる 生きるということは、考える
こと なぜ人は生きるか)

++++++++++++++++++

『I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)』
と言ったのは、あのデカルト(Descartes)だが、その言葉を、
もう一度、かみしめてみたい。
(ただし「think」を「思う」と訳したのは、誤訳と考えてよい。
「think」は、「考える」という意味に近い。
実際、日常では、そういう使い方をしている。)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 08++++++++++はやし浩司

●「健康論」(2002年に書いた原稿です。)

 何か体の不調が表れると、私はまず第一に、「この症状は以前にもあったか?」と自問する。
そして以前にもあった症状なら、それで安心し、そうでなければ不安になる。いや、ときどき以
前にもあったはずなのに、それを思い出せないときがある。

先日も昼になって鏡を見たら、目の眼白がまっかだった。理由はわからないが、結膜出血であ
る。とたん、言いようのない不安感が私を包む。遠い昔、同じような症状があったはずだが、ど
うも思い出せない。女房に聞くと、「ほら、前にもあったでしょ」と笑ったが、私は笑えない。

 賢明な人は、健康の価値を、それをなくす前に気づく。愚かな人はその価値を、なくしてから
気づく。「健康は第一の富である」と言ったのは、あのエマーソンだが、たしかに健康はすべて
の財産にまさる。

いや、中には金銭的な財産をなくして、自ら命を断つ人もいる。が、しかしこういうことは言え
る。「死を前にしたら、すべての財産が無価値になる」と。健康あっての財産である。健康あっ
ての生活であり、健康あっての仕事である。……というようなことは頭の中でもわかっている。
問題はこのことではなく、その先である。では、健康であればよいのかというと、そうでもない。

健康というのは、何かの目的のために有意義に使ってはじめて価値がでる。極端な言い方だ
が、ただ無益に生きても、意味はない。むしろ生きるということを考えるなら、死の恐怖を目前
に感じていたほうが、生きる意味が鮮明にわかる。もっとはっきり言えば、健康と「生きる」こと
は別物である。健康だから生きていることにはならないし、死が近いから生きていないことには
ならない。実はここが重要な点だ。

私の家の近くに、小さな空き地がある。そこは老人たちのかっこうの溜まり場になっている。う
ららかな春の日ともなると、いつも七〜八人の老人たちが、何かをするでもなし、しないでもな
し、一日中何やら話し込んでいる。のどかな光景だが、しかしそれがあるべき老人の姿なの
か。竹の子の季節になると、交替で見張り番をしている。昨年も私が不用意にその竹やぶに
入ったら、いきなり一人の老人が飛び出してきて、「お前は、どこのばかだ!」と叫んだ。そうし
た老人たちが健康なのかどうかは、外からはわからないが、生きているかどうかという視点で
みると、それは疑わしい。

生きるということは、日々の生活の中で前進することだ。もし今日が昨日と同じ。明日は今日と
同じということになったら、その人はもう「生きていない」ということになる。健康であるとかないと
かいうことは、関係ない。若いとか老人であるとかいうことも関係ない。

言い方を換えるなら、若い人でも「生きていない」人はいくらでもいる。老人でも、あるいは重病
人でも「生きている」人はいくらでもいる。もちろん健康であることにこしたことはないが、しかし
健康は「生きること」の前提ではない。いわば健康は、その人が当然大切にすべきものである
のに対して、「生きること」は、その人の心の問題である。わかりやすく言えば、健康はハード、
生きることはソフトということになる。いくらすばらしいハードをもっていても、ソフトがなければ、
パソコンにたとえて言うなら、ただの「箱」。少なくとも私はそういう人生には耐えられない。

……と書いて、私のことだが、私はもう二〇代の後半から自転車通勤を欠かしたことがない。
真冬の寒い夜でも、あるいは多少小雨がパラつくときも、自転車通勤を欠かしたことがない。
健康のためという意識はあまりなかったが、それを欠かすと、とたんに体の調子が悪くなる。一
方、同年齢と思われる男たちが、乗用車で私を追い越したりすると、「いいのかなあ」と思った
りする。健康というのは、それがしっかりとある間から守ってはじめて守れる。病気になってか
ら健康を考えても遅い。老人に近づいてから健康を考えても遅い。そういう意味で、「もっと運
動をしなくてもいいのかなあ」と思った。

で、今、おかげでというか、多少の持病はあるにはあるが、しかし成人病とは無縁だし、生涯に
おいて、病院のベッドで眠ったことは一度もない。しかしそれでも不安はある。冒頭に書いたよ
うに、今までに経験したことがない症状が出たりすると、「ハッ」と思う。とくに私は不安神経症
のところがある。いちどそれが気になると、ずっとそれが気になる。「このまま失明したらどうし
ょう」とか、「もっと悪い病気で、眼球摘出ということにでもなったらどうしよう」とか。が、内心の
どこかで、「そんなはずはない。お前は健康には気を配ってきたではないか」と思いなおして、
それを打ち消す。……打ち消すことができる。そのために二六年間も自転車通勤を続けてき
たのだ!

と、書いて、しかしそこにそれでは満足できない自分を知る。健康でない人には、たいへんぜい
たくな話かもしれないが、「だからどうなのか?」という問題に、そこでぶつかってしまう。たとえ
ば今私は、最新型のパソコンをもっている。ペンチアム四の一・五ギガヘルツのすごいパソコ
ンだ。しかしワープロで使う程度なら、実のところこんなすごいパソコンはいらない。一昔前の
中古パソコンでも、じゅうぶんだ。もちろん最新型であることはすばらしいことだが、健康もそれ
に似ている。「だからどうなのか?」という部分を煮詰めないと、健康論もただの健康論で終わ
ってしまう。

話が繰り返しになってきたので、ここで私の健康論はやめる。ただ私にもわかっている。今あ
る健康にしても、それは薄い氷の上に建つ城のようなものだということ、を。また健康をなくせ
ば、当然心も影響を受けて、まともに考えられなくなるということ、をも。

そういう意味で、私にとっては「健康である」ことと、「生きる」ことは競争のようなものだ。時間と
の勝負といってもよい。この「健康な」状態はいつまで続くかわからない。五年か、一〇年か。
それとも一年か。私はその間に生きなければならない。一歩でも二歩でも、前に進まねばなら
ない。まだまだ知りたいことは山のようにある。少なくとも空き地にたむろして、竹の子の見張り
番をするようなことだけはしたくない。そしてとてもぜいたくな言い方に聞こえるかもしれない
が、そのための健康であるとするなら、私は健康なんかいらない。(02・2・14)







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●負けるが勝ち

●負けるが勝ち(Don't be afraid of losing in order to win)

++++++++++++++++

『負けるが勝ち』という言葉がある。
これについては今までに、何度も書いてきた。
しかし『負けるが勝ち』には、
さらにすばらしい意味が隠されている。

++++++++++++++++

何かのことで、悶々と悩んだり、苦しんだりしたら、
思い切って負けてしまう。
負けて、自ら、まな板の上に乗ってしまう。
「さあ、どうでも、好きなようにしろ」と。

とたん、心が軽くなる。

大切なことは、今、ここで私たちが生きているという(事実)。
それにまさる価値はない。
つまりその価値さえ確保できるなら、そのほかのことは、
どうでもよい。
取るに足りない、ささいなこと。

さらに言えば、今、あなたが健康で、自由に動くことができるなら、
それ以上、あなたは何を望むのか。

息ができる。
歩くことができる。
見える。
聞こえる。

だからこちらから負けてしまう。
どうせ相手は、小さな、小さな、どこまでも小さな人間。
あなたがまともに相手にしなければならないような人間ではない。
つまり『負けるが勝ち』とあなたが覚悟した瞬間、あなたは
相手を、呑み込むことができる。
数段、その相手より上に出ることができる。

が、もちろん、負けてはいけないケースもある。
どんなに攻撃されても譲ってはいけないものがある。
それが「正義」。
わかりやすく言えば、「生きるための名分」。
それは最後の最後まで、死守する。

しかしその正義というのは、国家、民族、宗教、人類、地球、さらには
宇宙に対してするものであって、個人に対してするものではない。
こと個人に対して正義など貫いても、意味はない。
相手がそれなりの人物ならともかくも、(そういう人物というのは、
めったにいないが……)、相手にしても、意味はない。

あなたがその人を相手にするというのであれば、あなたもまた、
その程度の人間ということになる。

こんなことがあった。

その村では、村の人たちが自分の土地を少しずつ供出して、道を
作ることになった。
で、その計画を村役場に提出すると、「村道」として昇格してくれる
ことになった。
土地を村が買いあげてくれる。
造成のための補助金も支給される。

その補助金の取り合いで、村の人たちの心が四分五裂。
それからすでに20年になるというが、いまだにその(しこり)が残っているという。

対処の仕方をまちがえると、自分自身が、とんでもないほど低位に落ちてしまう。
「20年もゴタゴタするなら、あきらめるものはあきらめて、サッサとつぎの
行動に移ればいい」と私は考えるが、同じ騒動でも、「お金(マネー)」がからむと、
そうはいかない。

人間関係も、ドロドロになる。

あるいはこんなことも。
私は以前、いろいろなカルト教団を攻撃する記事を書いた。
雑誌や月刊誌にも書いた。
書籍も5冊出した。
そのこともあって、いまだに、私の家をさがしあて、抗議してくる人がいる。
玄関先で、押し問答をする。
しかしそういう個人を相手にしても、意味はない。
その人がそれで幸せなら、それでよい。
とやかく言う必要はない。
だから私のほうが逃げる。
相手がこわいから逃げるのではない。
どうでもよいから、逃げる。

だから『負けるが勝ち』。

仮に今日負けたら、明日、楽しく元気に仕事ができるようにすればよい。
今月負けたら、来月、楽しく元気に仕事ができるようにすればよい。
そのために、明日、あるいは来月、楽しく仕事ができるように、
心と体を、今日、あるいは今月、鍛えればよい。

私は自分で負けを感じたときは、その日は、運動の量をふやすようにしている。
運動をすることによって、不愉快なことを忘れることもできる。

「今年がんばれば、来月、楽しく仕事ができるだろ」と。

つまらないことでは、負けて負けて、ボロボロになる。
ボロボロになったところで、失うものは何もない。









書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●戒名論


【戒名】(Buddah's Name given by Priests)
In Japan we have to pay at least around 300 thousands yen (abt 3000 US dollars) to 
priests who give us the Buddha's name when someone dies in your home. The price depends 
on the name given by them. Some people pay 1 million yen (or more), to one simple name. 
This is funny and strange!

●「戒名」って、何だ?

+++++++++++++++++

戒名…「僧が死者につける名前。真宗では
『法名(ほうみょう)』、日蓮宗では
『法号』という」(「日本語大辞典」)とある。

しかし、これはウソ!

+++++++++++++++++

●日本だけの奇習

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「戒名(かいみょう)は、仏教において、仏門に入った証し、戒律を守るしるしとして与えられる
名前。上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒
の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、そ
の意味で法名と呼ぶ。
またそこから転じて、死後に浄土で出家して最終的には仏となる浄土思想にもとづき、死者に
戒名を与える風習が生れた。死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている」【ウィキ
ペディア百科事典】と。

つまりもともと「戒名」というのは、「出家修道者に対して受戒の師僧によってあたえられる名
前」をいう。

話はそれるが、平安時代、鎌倉時代の昔には、「僧」というのは、今で言う、医師、教授をかね
た、たいへんな知識階級を構成していた。
最終的には、水戸、奈良(東大寺)、太宰府にあった、国立の三大戒壇の道場のどれかで、認
定を受けて、僧は晴れて一人前の僧になることができた。

したがって「当初は、出家・得度し、受戒(仏の定めた戒律を守ると誓うこと)を済ませて、仏道
修行の途上にある人だけに与えられるのが戒名であった」(「葬式に坊主は不要と釈迦は言っ
た」・北川絋洋・はまの出版)というのが正しい。

しかもだ、「死者に戒名をつける」という風習、(これはもう「奇習」と呼んでさしつかえないと思う
が)、そういった風習があるのは、この日本だけだそうだ(同書)。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「事実、日本以外の仏教国、たとえばスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナム、中
国、韓国では、戒名というのは存在しない」(同書、P32)とある。

ウィキペディア百科事典にも、つぎのようにある。

「戒名は仏教が中国に伝わった際、号の風習を取入れて生れたものであるといわれる。道教
の道号などと同様、号の一種として考えることができるだろう。戒律の規定では、初めて沙弥
戒(十戒)を受ける時に、師より戒名(法名)を授かり、それと同時に従前の俗名を捨てるとされ
る。

現代の日本では、各宗派独自に、法要や儀式を受けたり、ある一定の講習に参加したりした
人に対しても授けるようになっている。また、死者に対しても戒名を与える慣習があるため、生
前の俗名に対する死者の名前であると誤解されている面もある」と。

わかりやすく言えば、出家者が、それまでの俗名を捨てて、そのかわりに師僧から受け取る名
前が、「戒名」ということになる。

ウィキペディア百科事典にもあるように、「生前の俗名に対する死者の名前」というのは、「誤
解」なのである。
誤解が誤解とも認識されず、そのまま日本の社会の中に定着してしまった。

●宗派によって異なる戒名

この戒名は、宗派によって、みな違う。

ウィキペディア百科事典を参考に、それをまとめてみると、つぎのようになる。

"浄土宗鎮西派では、男女の別なく「誉」号をつける。西山派では「空」号を用いる。位号は用い
ない。 

"浄土真宗では、「戒名」ではなく「法名」を用いる。「釋」号を冠して2字の法名が付く。位号は用
いない。 

"時宗では、古くは「阿弥陀仏」号を付けた。観阿弥、世阿弥はその崩れである。現在では男性
にその略である「阿」号、女性には「弌」(いち)号をつけるのが原則である。阿弥陀仏号は重源
が「南無阿弥陀仏」と自称したことを起源とし、成仏したことを意味する。女性も当初は阿弥陀
仏号であったが、一遍は「一房」号や「仏房」号を与えた。「一仏乗」からとったという。弌号はそ
の名残りである。 

"日蓮宗では、法華経信者は霊鷲山の浄土に生まれるとされるため、「戒名」ではなく「法号」と
呼ぶ。「日」号、「妙」号などが使われる。 
o日蓮正宗では、「戒名」。 

"律宗では、戒名の下に「菩薩」の2字が付く。 

(注:以上の特徴の説明は、地域・寺院などの慣習によって異なる場合がある。)

こうして並べただけでも、戒名というのが、いかにいいかげんなものかがわかる。
本当にそれだけ重要なものであるなら、宗派ごとに、こうまで考え方やつけ方が、異なるはず
がない。

もう少し広い視野で、ものを考えてみよう。
アジア大陸全体を、宇宙から見ている自分を想像してみればよい。

そのアジア大陸の中心に、インドやネパールがある。
釈迦仏教はそこで誕生した。

で、日本は、その右隅にある小さな島国。
その島国には、死者に戒名を授けるというおかしな風習が残っている。
しかも宗派によって、考え方もつけ方も異なる。

そういう視点で見ただけでも、戒名があるから成仏できるとか、ないからできないとか、そんな
ふうに考えること自体、まちがっていることがわかる。
北川絋洋氏は、同書のどこかで、「霊感商法と同じ」というようなことを書いているが、まさに霊
感商法。
無知で、無学な人たちにつけこんだ、霊感商法。

●実名で、なぜ悪い?

死者に戒名なるものが与えられるのが、日本だけにある奇習の一つであるとするなら、仮にあ
なたが熱心な仏教徒であるとしても、戒名などなくても、恐れることは何もない。
あなたには、あなたの実名がある。
実名のまま、死ねばよい。
実名のまま、あの世へ行けばよい。
どうしてその実名ではいけないのか?

百歩譲って、「戒名がなければ成仏できない」というのなら、それを言うほうがおかしい。
まちがっている。
一度、市内にある、ある寺の住職に、私はこう聞いたことがある。
「どうして戒名が必要なのですか?」と。
それに対して、その住職はピンと背筋を伸ばして、こう言った。

「俗名には、世間のしがらみが、ごみのようにまとわりついています。
そのしがらみを断ち切り、清廉潔白な気持ちで、極楽浄土に行くために必要です」と。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「僧侶の中には、戒名についてきちんと説明してくれる人もいる。その場合も『仏の教えに従っ
て生きていこうとする人に与えられる名前』という内容がほとんどである」(同書、P31)と。

だいたい、釈迦のもとに行くのに、「漢字の戒名」ということ自体、おかしい。
サンスクリット語、もしくはせめてヒンズー語でなければならない。
それを僧侶は、葬儀の席で、たとえばこう言って説明したりする。

「釋浩然信士……というのは、広く洋々たる海(=浩)のごとく(=然)、極楽浄土に向かうことが
できるという意味です」とか?

嘘八百!
まさに言いたい放題!

それを聞いて、信者や遺族は、ハハ〜と、ありがたくも、頭をさげる。

●おかしいものは、おかしいと皆で、声をあげよう!

あなたが仏教徒であっても、またなくても、(たいていは名ばかりの仏教徒だが)、おかしいもの
は、「おかしい」と、皆で、声をあげよう。

葬儀になると、葬儀社のほうから、勝手に遺族と僧侶を仲介しながら、「戒名はどうしますか」と
聞いてくる。
もちろん戒名の内容によって、「布施」の額も変わってくる。
下は20〜30万円から、上は80〜100万円。
寺の格式(?)に応じて、上にはキリなし!
近くには、300万円も払った人がいる。

○○院
○○居士(こじ)
○○釈尼
○○信士
○○大姉
○○信女、ほか。

布施の額もちがえば、読経する僧侶の数も変わる。
読経の仕方も変わる。

そこで遺族が、「戒名は不要です」などと言おうものなら、僧侶のほうが、読経を断ってくる。
葬儀社の担当者も、こう言う。
「戒名なしでは、僧侶は来てくれませんよ」と。
が、日本人は、「葬儀には僧侶による読経は絶対必要」と、骨のズイのズイまで、叩き込まれて
いる。
(実際には、僧侶抜きの葬儀をする人もふえているが……。)
だから否応なしに、遺族は、戒名をつけざるをえないという状態に追い込まれる。
ゆっくりと考えて暇もない。

が、しかし、もしそうなら、僧侶なしの葬儀であっても、何ら、おかしくない。
「戒名なしで葬儀はできない」と言うのなら、僧侶に来てもらう必要はない。
こちらから願いさげればよい。

●葬式仏教からビジネス仏教へ

葬儀そのものが、葬儀社と僧侶によって、形骸化してしまっている。
もっとはっきり言えば、ビジネス化してしまっている。
が、その責任は、「私たち檀徒にもある」と、北川絋洋氏は説く。

私たち自身が、あまりにも無知、無学というわけである。
まったく同感である。

「……つまり、戒名(料)については、どうも一般の人たちの間に、値段が高いほうがいい戒
名、安いのは悪い戒名という認識があるようなのである。
どこのだれがそんな妄説(もうせつ)を唱えたのか定かではないが、日本人の心には最近とみ
に、なんでもお金で解決できるという考え方が根づいてしまっているようなのだ。
それで喜ぶのは、どうやら寺と僧侶だけだということには、まったく気づいていないのである」
(同書、P41)と。

しかしあえて一言。

寺の住職たちよ、こんなバカげた奇習を守りつづけて、好き勝手なことをしていると、日本の仏
教は、ほんとうに死滅するぞ!
一般庶民にしても、檀徒にしても、君たちが思っているほど、馬鹿ではないし、それに気づき始
めている。

すでに都会地域では、「直送(ちょくそう)」「自然葬」という言葉が、日常的な会話の中で語られ
るようになってきている。
「直送」については、東京都だけでも、約30%の人が、それをしている。

葬儀にせよ、大切なのは、「心」。
日本の仏教は、その「心」を忘れてしまっている。

((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 葬儀 戒名 戒名論 はやし浩
司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 戒名 戒名論)
参考文献:北川絋洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」・はまの出版


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2823)

●和式仏教の終焉(しゅうえん)
(What is the Japanese Buddhism? Everything is funny and strange.)

+++++++++++++++++++

浜名湖に面して、小さな漁村がある。
「その昔は、漁村だった」というべきか。
その昔は、浜名湖に生える天然の海苔が、
主な収入源だったという。

全体で、30世帯ほど。
最近まで、半分ほどがミカン農家だったが、
営農者の高齢化とともに、減反につづく減反。
今は、農業を営む人も、ほとんどいない。

その村での法事に行ったときのこと。
ワイフの母の実家が、そこにある。

「今年は、13軒も初盆がありましてね」と、
ワイフの従兄弟にあたる、Kさんがそう言った。
「でもね、初盆をする家は、半分くらいです。
あとの半分は、しません」と。

都会地域でならまだしも、そんな村でも、
今、初盆さえしない家がふえている。
Kさん自身も、「できればうちも、やめたかった」と。

「このあたりでは、13、14、15、16日と、
4日間もするのです。たいへんです」とも。

今、日本の仏教は、大きな曲がり角に来ている。
転機と言うべきか、それとも、終わりの始まりと
言うべきか。
称して、「和式仏教の終焉(しゅうえん)」。
このままでは、日本の仏教は、ほんとうに死滅する。

+++++++++++++++++++

日本の仏教は、おかしい。
何からなにまで、おかしい。
戒名に例を見るまでもない。

「宗教心」と、「信仰心」は分けて考える。
「どこがどう違うのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし宗教心をもつということと、信仰心をもつということは、別。
もっとわかりやすく言えば、「宗教」と「信仰」とは、別。

宗教それ自体は、哲学と考えてよい。
「宗教哲学」という言葉もある。
「教え」に従い、その教えを日々の生活の中で生かすことで、より豊かな人生(=心)を
めざす。
しかし信仰というのは、「信ずること」。
『イワシの頭も信心から』ともいう。
哲学というところの「学」は、ない。
なくても、一向に構わない。

そこでこの日本。
信仰心のある人は多いが、宗教心のある人は少ない。
仏教徒と言いながら、仏教の勉強をしたことがある人は、ほとんどいない。
中に経典をスラスラと読む人もいるが、その意味まで把握している人となると、少ない。

それもそのはず。
日本の仏教は、釈迦が説いた仏教というよりは、チベット密教の流れをくむ中国仏教。
信仰によって病気を治したり、国を治めたりする。
「教え」らしきものはあるにはあるが、もととなる経典にしても、そのほとんどは、
釈迦滅後、500〜600年もたってからインドで作られたもの。
日本で偽作された経典すら、ある。
「初七日から四十九日の法要など十仏事」の根拠になっている『地蔵十王経』も、
そのひとつ。
「鎌倉初期に日本において偽造されたことが、証明されている」(北川高揚)。

だから日本の仏教では、ルーツをたどられること自体を、嫌う傾向が強い。
あるいは日蓮、親鸞などの説いた仏教を、その始点とする。
中には、「日蓮は釈迦の生まれ変わりだから、日蓮仏法のほうが本物」と説明する人もいる。

たとえば観音様が女性であっても、(もともとは男性)、かまわない?
日本の仏像が、古代インドの衣装ではなく、古代ギリシアの衣装を身につけていても、
かまわない?
アフガニスタンの「ウラバン」が、「盂蘭盆(うらぼん)」になり、盂蘭盆会(え)に
なってもかまわない?

しかしいくら信仰をしても、盲目になってはいけない。
「おかしい」と思う心を失ってはいけない。
でないと、それこそイワシの頭を信じながら、それにすら気づかなくなる。
あるいはカルト教団の餌食となって、貴重な人生そのものを、棒に振ることになる。

では、宗教とは何か。

一言で言えば、「身の回りの不可思議さについての、哲学的体系」ということになる。
哲学の一部ということになるが、哲学とは視点が逆。

哲学は、実証された(事実)をもとに、思想を体系化していくが、宗教は逆に、
そこにある(不可思議さ)の中から、(事実)を引き出していく。
わかりやすい例で考えてみよう。

たとえば実存主義と呼ばれる哲学がある。
その実存主義では、(認識)を大切にする。
「私が生まれてみたら、そこに親がいた。社会があった。国があった」と。
この宇宙にしても、人間が認識するから、そこにあると考える。
そこで「神も仏も、人間がつくった」と考える。

一方、宗教では、(存在)の不可思議さに驚き、おののく。
「なぜ、山があり、海があるのか。人間がいるのか」と。
この宇宙にしても、まず不可思議な力によって、そこにつくられたと考える。
そこで「神が、人間をつくった」と考える。

さらにかみくだいて言えば、「生きている存在」として考えるのが哲学、
「生かされている存在」として考えるのが宗教ということになる。
つきつめて言えば、私たちは生きているのか、
それとも生かされているのか。
「私は生きている」という視点で、自分の生き様を確立していくのが哲学。
「私は生かされている」という視点で、自分の生き様を確立していくのが宗教。

どちらにせよ、こと(考える)という視点では、哲学も宗教も、方向性こそ逆でも、
中身は同じということになる。
ともに体系化されうるものだし、現に体系化されている。

が、信仰する人の多くは、(信仰)することだけをもって、それが「宗教」と
思いこんでしまっている。
さらに信仰的儀式を忠実に守ることだけをもって、それが「信仰」と思いこんで
しまっている。
はっきり言えば、ノー・ブレイン。
考える力どころか、批判力すら、喪失してしまっている。
それが集約されているのが、現在のこの日本に見る、葬儀ということになる。

もちろん中には、私たちが見えないところで仏道の修行に励んでいる行者も
いるかもしれない。
一歩退いて、どこの寺の住職でも、頼んだり質問したりすれば、それなりのことをしたり、
言ったりする。
しかしそういったものが、表に出てこない。
私たちに伝わってこない。

たとえば私の周辺でも、寺の住職が率先して、貧しい人や、苦しんでいる人を
救済したという話は、聞いたことがない。
耳に入ってくるのは、おどろおどろしい話ばかり。
金(マネー)にまつわる話ばかり。
ある遺族が、「うちにはお金がない。戒名料を払うお金がない」と言うと、その
僧侶は、読経もせず、寺に帰ってしまったという。
さらに日本では、高額所得者というと、医師、弁護士ということになっている。
が、実際には、寺の住職たちは、それ以上の収入をあげている。
一度税務署は、そういう実態を公表してみては、どうか。

こんなことをつづけていたら、日本の仏教は、どうなるか?
改めて私が、ここに書くまでもない。

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生
浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また
道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅
罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府
大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であった
としても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点が、「十
王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻
首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯
がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達
の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。また、訳経の体裁を借りな
かった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、はじめ、礼讃文や儀軌の類
として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経とい
うこと。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」
が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)、初江王
(十四日)、宋帝王(二十一日)、五官王(二十八日)、閻魔王(三十五日)、変成王(四十二
日)、泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生してい
く事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判とな
り、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の
語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)、都
市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいず
れかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生
道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組み
となっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすため
の受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化して
いる。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引
導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィキペディ
ア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄
へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらあ
る。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀とい
うその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ち
る」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっている。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではないだ
ろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十九日
 法要 偽経)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●和式仏教の終焉(2)

+++++++++++++++++

日本の仏教は、何からなにまで、おかしい。
これについては、このところ毎日のように
考えている。

「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるように
なってから久しいが、さらに最近では、
それが「ビジネス仏教」になっている。
金儲けの道具として、仏教が利用されている。
人の死が、利用されている。

+++++++++++++++++

「私はカルトを信じていない」と豪語する人でも、そのカルトを信じて
いる人は、いくらでもいる。

葬儀に始まって、盆供養にしても、〜回忌という法事にしても、カルトそのもの。
「葬儀には僧侶は、必要」
「僧侶の読経がなければ、死者は成仏できない」
「戒名がなければ、成仏できない」などということを信じているのは、
立派なカルト。

最近私も知って驚いたが、同じ宗派でも、別の寺で葬儀をしたら、ほかの寺では、
それを受け入れてくれないそうだ。
たとえば私の母は、現在、静岡県の浜松市にいる。
おそらく最期は、この浜松市で迎えることになるだろう。
で、私は葬儀はこの浜松市で、そして49日の法要は、郷里のG県のM市でと、
考えていた。

が、それができない、と。

どういうしくみになっているのか、私にはよくわからないが、こういうケースのばあい、
郷里の寺は、母の遺骨を受け取ってくれないという。
もちろん郷里にある墓の中へも、入ることができないという。
地元の葬儀社の責任者の人が、そう教えてくれた。

ヘ〜〜〜エ?

これひとつとっても、日本の宗教は、「型」のかたまりということがわかる。
「作法」「作法」「作法」……。
作法ばかり。

どうしてこういう馬鹿げた仏教になってしまったのか?

今朝私は、法要の原点となっている「地蔵十王経」が、鎌倉時代にできた、
偽経であるということについて書いた。
が、寺の住職で、それを教えてくれた人はだれもいない。
おそらくみな、偽経であることを百も承知の上で、過去700年以上にわたって、
信者をだましつづけている。

もちろん、金儲けのためである。
「地蔵十王経」は、寺の金儲けの方便としては、まことにもって、都合がよい。
死者を成仏させるためと言いながら、49日まで、1週間ごとに、信者から布施を
取ることができる。

もしこの日本に、誠意があって、勇気がある僧侶がいたら、こう言ってほしい。
「戒名などというものは、日本だけにある奇習です」
「葬儀に僧侶による読経がなければ、成仏できないというのは、嘘です」
「初七日だの、49日だの、そんなものは、鎌倉時代にできた偽経がもとになっている、
インチキです」
「盆の供養などというのは、アフガニスタンの奇習が伝わっただけです」と。

もしそんなことを言ったら、日本の仏教は、総崩れになってしまうだろう。
しかしそれはそれで仕方のないことではないか。
世界的に見れば、大乗仏教(北伝仏教)がかろうじて残っている国は、
この日本だけ。
アフガニスタンにもない。
中国ではごく一部。
韓国でも、キリスト教が主流。
もちろん本家のインドには、ほとんど何も残っていない。
(仏陀は、クリシュナの弟子というふうに、位置づけられている。)

しかも日本の仏教は、どこかオカルト的。
(教え)によるというよりは、儀式が中心。
が、これでは、日本の仏教に、未来はない。
それともこれから先も、ずっと、僧侶たちは、私たち日本人をだましつづけると
でもいうのだろうか。

今、多くの日本人が、日本の仏教のもつ(おかしさ)に気がつき始めている。
その(おかしさ)を、日本の僧侶たちも、謙虚に反省してほしい。
門構え、建築物だけをいくら立派にとりつくろっても、中身がなければ、
ソッポを向かれるだけ。
あるいは原点にもう一度立ち返って、仏教がどうあるべきか、再構築してほしい。
鎌倉時代の昔ならいざ知らず、現在の庶民は、あなたがたが考えているほど、
馬鹿ではない。
少なくとも、人の(死)を、もっともらしい嘘でくるみながら、もてあそぶことだけは、
もうやめてほしい。

(付記)
もし釈迦が生きていて、この日本の現状を見たら、釈迦だって怒るだろう。
戒名なるものがあるのはまだ許せるとしても、その戒名には値段があって、
その戒名に応じて、葬儀の仕方もちがう?

このひとつをとっても、釈迦が説いた仏法の精神と違背していることは、
明らか。

「葬儀に僧侶を呼ばなければ、成仏できませんよ」とか、「3代先まで、たたりがでますよ」
とか言って、信者を脅す。
その手法は、まさにカルト。
そこらのカルト教団がとっている手法と、どこもちがわない。

もしそこに地獄に落ちるような人を見かけたら、その人のために救済の手を
さしのべてやることこそが、仏道の本来の精神というものではないのか。

(妻へ、息子たちへ)

私が死んでも、ぜったいに僧侶を呼ぶな。
読経などあげさせるな。
みなで、お別れ会をすればよい。
もし晃子がさみしがっているようなら、どうか、晃子を支えてやってほしい。
話し相手になってやってほしい。

2008年9月14日、しかと記す。






書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP

●血液型性格判定

+++++++++++++++++++

血液型による性格判定なるものが、いかに
非科学的で、かつ根拠のないものであるかは、
再三再四、書いてきた。
エセ科学そのもの。
こうしたエセ科学が堂々とまかり通っているのは、
この日本だけ。
ついでに隣の中国でも、日本の影響を受けて、
血液型による性格判定の本がつづけて発刊されて
いるという。
韓国や台湾でも、発刊されているという。
が、だからといって、血液型による
性格判定が公認されたわけではない。

血液型による性格判定がエセ科学であることは、
「心理学」(大村政男著・ナツメ社)に詳しく
書いてある。
興味のある人は、そちらを読んでみたらよい。

++++++++++++++++++

血液型の中でも、なぜA・B・O・AB型だけが問題になるかといえば、これらの
血液型は、輸血の際などに、不適合を起こすことがあるからである。
血液型といっても、ほかに100種類以上が確認されている。
よく知られたものに、Rh型というのもある。

だいたい「性格」とは何か、よくわかっていない。
つぎに血液が、型によってどのように脳に作用するのか、その科学的証明が、
まったくなされていない。
A型の血液は、ドーパミンの分泌を促すとか、B型の血液は、セロトニンの
分泌を促すとか、そういうことが具体的に証明されれば話は別だが、今のところ、
そういう話は、まったくない。
あるはずもない。
ないばかりか、その出所さえあやしい。

私たちが現在、「血液型による性格判定」を根拠にしているのは、「古川学説」と
呼ばれる、古川竹二(1891〜1940)がなした研究論文によるものである。
が、「昭和8年(1933)3月、岡山医科大学における日本法医学会第18次総会の
論争で古川学説は破れ、漸次衰微していくことになる」(同書、p220)と。

が、エセ科学は、ここで止まらない。

こうした流れの中で、今度は能見正比古なる人物が現れて、「血液型人間学」を
発表する(1994年)。
そして「政治家の中には、O型が有意に多いことを発見し、『O型には政治性がある』
とした」(p224)。

しかしそれはたまたまそのとき、そうであったにすぎない。

平成6年(1994)10月の調査、さらに著者である大村政男氏による調査では、
この「有意性」は、否定されている。

大村政男氏は、こう書いている。
「……古川はAB型は外見はB型だが、内省(内面)はA型だと書いているだけなのに、
能美は、AB型について詳しく記述しているのである。どこからそのデータをとってきたのだろう
か。沓(よう)としてわからない。
能美の血液型人間学は、10万を超えるデータに基づいているというが、どこにもきちん
とした数値が発表されていないのである」(p226)と。

これが血液型による性格判定の結論と考えてよい。

……とは言いつつ、血液型による性格判定を信じている人は多い。
子どもにもときどき、「先生、先生の血液型は何?」と聞かれることもある。
そういうとき私は、そのつど、デタラメな答を返すようにしている。
ウソをつくというよりは、あまりにもバカバカしいので、そうしている。

「ふ〜ん、A型だったかなア?」と。
すると子どもは、我が意をえたりというような顔して、こう言ったりする。
「だろうな。ぼくも先生がA型だと思っていた。どこか変態だから」と。

で、おもむろに私はこう言う。
「ハハハ、残念でした。ぼくはO型でした」と。

中には、「O型の人は、(「O」の文字が丸いので)、人間的に丸みのある
人」とか、「AB型の人は、A型とB型の両方の性格を合わせもっている」
などと説く人がいる。

バカバカしい。

で、大村政男氏は、「FBI効果」という言葉を使っている。

(1)FREE SIZE効果
(2)BRAND効果
(3)IMPRINTING効果の、3つの頭文字をとって、
「FBI効果」と。


(1)REE SIZE効果というのは、だれにでも当てはまるようなことを
特徴として並べることをいう。
(2)BRAND効果というのは、血液型を先に見て、そのブランドで相手を
判断してしまうことをいう。
(3)IMPRINTING効果というのは、少しでも当たっていたりすると、
「当たっている」と思い込んでしまうことをいう(同氏)。

こうして血液型による性格判定なるエセ科学が、この日本だけにはびこってしまった。

そういう意味では、日本というより、日本人は、まだまだ。
考える力どころか、批判力さえ、じゅうぶんに育っていない。
(だからこそ、この世界は、おもしろいが……。完成されてしまったら、書くことその
ものが、なくなってしまう。)

あなたの子どもが血液型による性格判定を口にしたら、すかさず、こう言ってやろう。
「性格は、あなた自身でつくるもの」と。








書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
10
●道徳の完成度

+++++++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)公平性と(2)視野の広さ
で判断する。
そのうちの公平性について、再度、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

少し前、こんなことがあった。
きわめて近い関係にある、Mさんという女性(70歳くらい)から、
電話がかかってきた。
内容は、こうだ。

「息子夫婦が離婚したのだが、嫁が、離れの家から出て行かない。
どうしたらいいか」と。

Mさんは、元嫁、つまり息子の元妻の悪口を、つぎつぎと言い並べた。
が、話を聞いているうちに、私は、Mさんの言っていることのほうが、
無理があるのではと思うようになった。

元妻には、中学生と小学生の、2人の子どもがいる。
子どもたちは母親と家を出るほうを選んだ。
Mさんは、「離れといっても、私の家」「その離れから出て行かないから困っている」
と。
Mさんの言い分も理解できる。
しかしこういう話というのは、一方的に聞いてはいけない。
ただ私と元嫁というその女性とは、何度か会ったことはあるが、あいさつ程度以上の
会話はしたことがない。
「それほど悪い人にも見えなかったが……」と思ったとたん、Mさんへの信頼感
がグラグラと揺れだした。

Mさんは「離れから追い出すにはどうしたらいいか?」と言うが、話の内容を
詳しく聞くと、どうやら、財産のことを心配していることがわかった。
はっきりとは言わなかったが、「どうすれば財産を分与しないですむか」
という内容の相談だった。

……という話は前にも書いたので、ここではその先を考えてみたい。

私の立場では、当然、Mさんの側に立ってものを考えなければならない。
Mさんの利益になるような話をしなければならない。
できるだけ財産分与を少なくし、元嫁を離れから追い出すための方法について
知っていることを、話さなければならない。

ここで公平性といっても、人間関係に大きく左右される。
相手が近い関係の人であれば、なおさらである。
これは極端なケースだが、たとえばあなたの息子がひき逃げをして、家に
帰ってきたとする。
そういうとき、あなたという親は、どのような判断をくだすだろうか。
あなたはあなたの息子を、そのまま警察へ突き出すだろうか。
それとも事故を隠すため、あれこれと工作を始めるだろうか。

いくら相手が近い関係の人であっても、公平性を貫くことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。
たとえ息子でも、悪いことは悪いとして、警察へ突き出すことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。

で、先の話にもどる。
実際問題として、近くの人から、そういった相談を受けたとすると、どうしても
その人の利益になるような回答をしてしまう。
が、それは同時に、元嫁にとっては、不利な話となってしまう。
まだ40歳前の女性が2人の子どもをかかえて離婚するというのは、生活費だけを
考えてもたいへんなことである。
ある程度の財産分与、さらには慰謝料、養育費の負担は、当然である。

(話を聞くと、その元嫁は、結婚してからずっと、近くの事務所で事務員として
働いていたという。そのとき得た収入は、Mさん一家全体の生活費の一部にもなっていた
という。)

私は家庭裁判所での調停を勧めた。
こういった話は、第三者に客観的に判断してもらうのがいちばんよい。
が、あとで聞いたら、それがMさんを不愉快にさせたらしい。
Mさんは、知り合いに、「あの林は冷たい」「まともに相談にものってくれなかった」
と言いふらしているのを知った。

しかし私は私なりに、公平性を貫いた。
では、なぜ今、私はこんなことを書くか?

先の三浦K事件に話を戻す。
新聞の報道によれば、日本で三浦Kを無罪にもちこんだ2人の弁護士たちが、
今回のロス地裁での判断に対して、「不当である」と。

私はこの記事を読んだとき、こう思った。

弁護士なのだから、事件のあらましを詳しく知る立場にあったはず。
その過程の中で、弁護士は、三浦Kに、疑問を抱かなかったのだろうか、と。
法廷で確認された事実によれば、一美さんが銃撃されたとき、そばに白いバン
が駐車してあった。(三浦Kは、このバンの存在そのものを否定。)
白いバンは、近くのビルで仕事をしていた人にも目撃されているし、三浦K自身が
撮った写真の中にも、その一部が写っていた。

結局日本の裁判所では、実行犯が特定できず、三浦Kは無罪になったが、疑問は
疑問のままとして、残る。
が、もしほんの少しでもその疑問を、弁護士も感じたとするなら、無罪であったとしても、
もう少し謙虚になってもおかしくない。
「逮捕は不当」「アメリカ本土への移送は不当」「殺人罪での起訴は不当」
「共謀罪での起訴は不当」と、何からなにまで、「不当」というほうが、おかしいのでは(?)。

つまりいくら近い立場にあったとしても、どこかで公平性というブレーキをかけないと、
弱い人の立場を守れなくなってしまう。
三浦K事件について言えば、だれに殺されたかはわからないが、その弱い立場の人と
いうのは、一美さんであり、白石Cさんということになる。







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
11
●適応障害

++++++++++++++++++

適応障害というと、何も、子どもの世界だけの
問題ではない。
おとなの世界にもある。

++++++++++++++++++

社会や環境にうまく適応できないと、そこで適応障害を起こす。
その前段階として、(1)欲求不満や葛藤を繰りかえす。
グチや取り越し苦労が多くなる。

ある女性は、認知症ぎみの実兄の世話を始めたとたん、適応障害を
起こしてしまった。
毎晩のようにあちこちに電話をかけ、ときにギャーギャーと
泣きわめきながら、自分の苦労(=グチ)を話しつづけた。
視野が極端に狭くなるのも、特徴のひとつ。
相手の都合など、まったく構わない。

こうした行動を総称して、「防衛機制」という。
自分の心の崩壊を防ぐための心的反応と考えるとわかりやすい。
たとえばそれらの中には、

(1)抑圧
(2)同一化
(3)代償
(4)補償
(5)合理化
(6)投射
(7)逃避
(8)退行
(9)昇華(「臨床心理学」・松原達哉著)がある。

相手かまわずグチをこぼすというのは、(攻撃的な防衛機制)ということになる。
その女性のばあいは、遠くに住む実弟を責めつづけた。
その実弟氏はこう言った。
「姉からの電話というだけで、手が震えるようになりました。
ギャーギャーと一方的に泣きわめくだけで、会話にはなりませんでした。
そういう電話が1〜2週間ごとにかかってきました」と。

この段階で対処のし方をまちがえると、そのまま何らかの精神障害を
負うことになる。
その女性にばあいは、やがてすぐ心療内科で、うつ病と診断された。

が、それも一巡すると、身体的な不調を訴えるようになる。
一連の神経症はこうして発症するが、神経症には定型がない。
「おかしな症状?」と感じたら、神経症を疑ってみるのがよい。

で、こうした問題が起きたら、原因となっている要因を排除するのが
よいのだが、それで問題が解決するとはかぎらない。

というのも、適応障害というのは、それ以前の段階で、心の病気と
深くからんでいることが多いからである。

たとえば不登校児を例にあげて考えてみる。
「A君がいじめるから、学校へ行きたくない」とある子どもが言ったとする。
親は、「不登校になった原因は、A君」と考える。
そして学校と相談して、クラスを替えをしてもらったり、A君を近くから排除
してもらったりする。
が、しばらくすると今度は、「B先生がこわい」とか、言い出す。

こうした現象を私は勝手に、『ターゲットの移動』と呼んでいる。
その子どもは自分の心を安定させるために、学校へ行きたくないのだ。
その口実に、A君の名前をあげたり、B先生の名前をあげたりする。
不登校という一見、不適応症状を示しながら、実は、学校へ行かないことで、
自分を社会に適応させようとしている。

つまり適応症状といっても、(1)継続性のものと、(2)非継続性の
ものがある。

継続性のものとなると、たとえその問題が解決したとしても、今度は別の
問題をもちだし、それについて悶々と悩んだり、苦しんだりする。
本来なら、つまり少しだけ視野を高くもてば何でもない問題はずなのに、
それを大げさに悩んだり、苦しんだりする。

ここにあげた女性のばあい、実兄が廊下で便をもらしただけで、パニック
状態になってしまったという。
そして即座に実兄に電話を入れ、「あんたがめんどうをみないから、こうなる」
と泣きわめいたという。

あとになってその実弟氏は、私にこう言った。
「ぼくの家では、家の中で2匹の犬を飼っている。いつも廊下でウンチを
するから、ぼくなら、それほど気にしないのに。
それでぼくが姉に、『犬のウンチと思えばいいのでは』と言ったら、姉は、
烈火のごとく怒りだしてしまった」と。

そこで費用は全額実弟氏もちということで、その女性は、実兄をグループホームへ
入れた。
が、今度は、そこでも……!

というようなことを繰りかえす。
つまり何らかの精神障害が基盤にあって、それから発生するもろもろの症状が、
あたかも泡のように表面にそのつど浮かんでくる。
継続性の適応障害というのは、そういうものをいう。

では、どうするか?

『文化性は、心の予防薬』と考えるのがよい。

ふだん、何ごともないようなときに、心を豊かにし、充実させていく。
音楽を聴くのもよし、美術館に足を運ぶのもよし。
本を読んだり、DVDを楽しむのよし。
こうして自分の文化性を高めていく。

だれしも、いつか、どこかで、いろいろな問題にぶつかる。
その問題にぶつかったとき、文化性の高い人は、そうした問題を、うまく処理できる。
心へのダメージを最小限に抑えることができる。
そうでない人は、そうでない。
自分の小さな殻(から)に閉じこもってしまい、そこから一歩も出られなくなってしまう。

とくに子育ても一段落したら、そうする。
そうでなくても、老後は、そうした問題が、あたかも打ち寄せる波のようにやってくる。
つぎつぎ、とだ。

だから『心の予防薬』が必要ということになる。

……ということで、今朝は、少し時間があるので、ワイフと佐鳴湖を一周してみる。
久しぶりに雨もあがり、気分は爽快!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 適応障害 防衛機制 不適応 
不登校)







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
12
●不安の原点(追記)

++++++++++++++++

日常的に不安感を覚える人は多い。
私もその1人だが、大切なことは、
「治そう」とか、「直そう」などとは、
考えないこと。
そういう状態であることを認めて、
うまくつきあうこと。

++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全が、「不安」の原点と考える。
子ども(乳幼児)というのは、(絶対的な安心感)の中で、基本的な人間関係の
基礎を身につける。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味である。

「私はどんなことをしても許される」
「私はどんなことをしても受け入れられる」と。

この安心感がゆらぎ、自分で克服できないと、それが(不安)の種になる。
具体的には、何をしても、不安感がともなうようになる。
心が開けないから、その分だけ、人間関係もギクシャクしたものになりやすい。
基本的不信関係はこうして生まれるが、一度、不信関係を作ってしまうと、それを
克服するのは、容易なことではない。
たいてい死ぬまで、つづく。

が、それだけではない。

こうした(不安感)が、精神に障害を及ぼすこともある。
「うつ病」についても、最近の研究では、乳幼児期の母子関係に起因するというのが、
定説になりつつある(M・クラインほか)。

もちろんうつ病といっても、一過性の軽いものもあれば、入院治療が必要な
重篤(じゅうとく)なものまである。
しかし(不安)が解消されれば、うつ病のたいはんは、そのまま軽減する。
(うつ病)イコール、(慢性的な不安感)と考えてよい。

では、自分の中の(不安感)と、どう闘ったらよいのか。

私自身の経験でいうなら、まず(病識)をしっかりともつこと。
「私はおかしい」ということを、自覚すること。
(あるいは「私は、今、おかしい」と、そのつどしっかりと自覚すること。)

自覚したら、あとは、そういう自分と、うまくつきあう。
「直そう」とか、「治そう」とか、そういうふうに考えない。
うまく、つきあう。

というのも、この問題は、遠くは乳幼児期の(私)に起因している。
本能的な部分にまで、深く、根が入りこんでいる。
少しくらいの努力で、どうこうなるような問題ではない。
だから、「うまくつきあう」。

最近では、よい薬も開発されている。
私のばあいは、副作用や反作用がこわいので、効き目は弱いが、ハーブ系の薬や
漢方薬を利用している。

症状としては、つぎのような段階を経る。

(1)ささいなことが、気になる。
(2)それが心の壁にペタッと張りついたような状態になる。
(3)思考がループ状態になる。
(4)心が緊張状態になる。
(5)心がふさぎ、何を考えても、憂うつになる。
(6)何かささいな刺激が加わると、それが原因で八つ当たりをしたりする。

「少し、気分が重いかな?」と感じたら、ハーブ系の薬や漢方薬を服用する。
たいていそれで気分は収まる。
それに、これは子どものモノいじりと同じと考えてよいが、何かのモノをいじって
いると、気分が安らぐ。
これは指先からの刺激が、脳内で、モルヒネ系のホルモンを分泌するためではないか。
私のばあい、今は、ミニ・パソコンや、デジタルカメラをいじるのが、好き。
パソコンのキーボードを叩いていると、文章を書くという快感に合わせて、
指先から伝わってくる快感も覚える。

モノいじりにも、気分を安らげる効果がある。
(このことは情緒が不安定な子どもの行動を観察してみると、わかる。
たとえば指しゃぶり、髪いじりをする子どもなど。
表情を見ると、どこかうっとりしているのがわかる。
子どもはそうすることによって快感を覚え、脳内のストレス性物質、たとえば
サイトカインなどを、中和しているのではないか?)

モノいじりを、悪と決めてかかってはいけない。
たとえば子どもの指しゃぶりについても、無理にやめさせると、子どもの情緒は、
かえって不安定になる。
指しゃぶりは、あくまでも表層に現われた症状にすぎない。
風邪にたとえるなら、発熱のようなもの。
熱だけ無理にさげても、風邪は治らない。
頭から水をかけるような行為をすれば、かえって症状はひどくなる。
それと同じに考える。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 不安の原点 ものいじり 物いじ
り モノいじり 子どもの情緒不安)









書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
13
【思考と文化性】

+++++++++++++++++++

昨夜、同じ市内に住む義姉と、電話で話す。
おだやかな女性で、声を聞いているだけで、
心がなごむ。

最後に、「あさって、遊びにおいで」「行きます」
で電話を切った。

+++++++++++++++++++

●偽善者

世の中には、ことさら自分をよい人間に見せようと、
仮面をかぶる人がいる。
「私は、週に1度、老人ホームで、ボランティアを
しています」とか、何とか。

こういうのを、心理学でも、『愛他的自己愛』という。

が、実際には、ボランティア活動など、何もしていない。
同居している義父のめんどうすら、満足にみていない。

だからといって、ボランティアが無駄とか、そういう
ことを書いているのではない。
していないのなら、正直に「していない」と言えばよい。
ウソまでついて、自分を飾ることはない。

問題は、なぜ、そしてどこから心理が生まれるか、だ。

もともとこのタイプの人は、一本、筋の通った生き様がない。
波間に揺れる葉っぱのように、そのつど、世間の波に
合わせて、ユラユラと揺れている。
もちろん一片の哲学もなければ、人生観すら、ない。
それを考える(能力)もない。

だからいつしか、仮面をかぶって、世間をあざむこうとする。
それが高じて、愛他的自己愛となる。

●考える力

観光バスなどに乗ると、たいてい1組や2組、かしましい女性が
いっしょに、乗り込む。
バスにのったとたんから、ペチャペチャ、クチャクチャと
話し始める。

たいへんな物知りの人もいる。
こまかいことを、ああでもない、こうでもないと話す。

しかしそういう人を、「頭のいい人」とは言わない。
(ほとんどの人は、そう誤解しているが……。)

頭のよしあしは、思考力の深さで判断する。
そのことは、おしゃべりの子ども(とくに女児)を観察して
みると、わかる。

ADHD児は男児に多いとされるが、実際には女児にも多い。
少し症状がちがう。
女児のばあい、ふつうでない多弁性がともなうことが多い。
「よくしゃべる」というレベルではない。
話を聞いていると、聞いているほうが気がヘンになるほど、
よくしゃべる。
しかも相手の話を聞かない。
一方的に、しゃべる。
話がポンポンと飛ぶ。

こうした症状は、中学生、高校生になっても残る。
おとなになってからも、残る。
さらに最近では、女性には、右脳にも言語中枢らしきものがあることが
わかってきた。
「女性には、おしゃべりが多い」というのは、そういう理由によるもの
らしい。

どうであるにせよ、「よくしゃべるから、頭がいい」というのは、誤解。
まったくの誤解。
むしろ、思考力の深い子どもほど、見た目には、静か。
昔から『大きな魚は、川の底を泳ぐ』という。
『浅瀬に仇波(あだなみ)』とも言う。

子どもでも、ふつうでない多弁性が見られたら、質問をふやすことによって、
思考力の鍛錬をする。
そのつど、「なぜ?」「どうして?」を繰り返す。

●認知症

前にも書いたが、私たちの年齢になると、「あの人は、だいじょうぶ?」
というような会話から始まる。
つまり「あの人の頭は、だいじょうぶ?」と。

あるいは久しぶりに会ったりすると、まず相手の脳みその状態を観察する。
私たちの年齢くらいから、認知症が始まる。
アルツハイマー病を発症する人も少なくない。
脳梗塞や、飲酒や喫煙などで、脳みそそのものが、おかしくなる人も多い。
だから「だいじょうぶ?」となる。

私の知人に、このところ、どこか「?」という女性がいる。
数週間前に自分で言ったことを、すっかり忘れてしまう人である。
部分的に忘れるというよりは、その前後のエピソード(物語)そのものを
忘れてしまう。

で、最近、その夫と会話をする機会があった。
数年ぶりのことである。
そこでそれとなく、その女性(夫の妻)と、こんな会話をしてみた。

「○○さんのことで、何か気になることはありませんか?」と。

するとその夫は、「ないねえ」と。

私「いえね、この前、あることで頼みごとをしたのですが、すっかり
忘れてしまわれたものですから……」
夫「うちのやつ(=妻)は、頭だけはしっかりしていますよ」と。

この話を家に帰ってワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「バカねえ、あのだんなのほうが、ボケているみたいよ」と。

ワイフは、その夫とときどき電話などで、話をしている。
それでそう言った。
つまり妻が認知症になっても、夫まで認知症になっていたら、たがいにそれに
気づくことはないということになる。
しかしこれは深刻な問題と考えてよい。

アルツハイマー病にしても、80〜90歳にもなれば、約3分の1の
人がそうなるという。
ほかの脳疾患も含めれば、夫婦ともども、認知症になるケースは、多い。
60代でそうなるケースもあるだろう。
50代でそうなるケースもあるだろう。

そうなったら、だれがどのようにして判断すればよいのか。

●思考力の基準

そこでひとつの基準が生まれてくる。

(1)静かに相手の話に耳を傾ける。
(2)こちらの話がじゅうぶん、理解できる。
(3)頭の中で、それを反すうする様子を見せる。
(4)自分の考えを、的確に表現する。

こういうことが自然な形でできる人は、少なくとも脳の健康は、
維持されているということになる。
そうでなければ、そうでない。

ただこういうことを、演技でする人もいるから注意したい。
やはり私の知人(70歳くらい)に、そういう人がいる。
何かを話しかけると、さも、私はよくできた人間ですというような表情で、
そのつど、深く、うなずいてみせたりする。
あるいは自分が利口であることを、ことさら演技してみせる。
しかし結局のところ、何も理解していない。
どこかのカルト教団に属する、信者の人だった。

他方、よくしゃべるが、一方的。
情報の羅列で中身がない。
そういう人は多いが、さらに、思い込みがはげしく、がんこになる人もいる。
自己愛者の特徴にもなっているが、このタイプの人は、自分のまちがいを
指摘されたりすると、突然、パニック状態になってしまう。

「そんなはずはない!」と大声で叫んで、ギャーギャーと泣きわめいたりする。

認知症に合わせて、人格の完成度が、きわめて低い人と判断してよい。

●人格の完成度

人格の完成度は、(1)相手との共鳴性、(2)愛他性、(3)他人との良好な
人間関係(EQ論)で、知る。

どれも重要な要素だが、認知症になると、人格そのものが崩壊し始める。
が、認知症でなくても、若いころからの積み重ねで、結果的に、そうなる人も
いる。

大切なのは、その人の生き方、あるいは日ごろの生き様ということになる。
その分かれ道を作るのが、(思考力)ということになる。
常日頃から、ものを考えるクセ。
これのあるなしによって、生き方そのものが、大きく変わってくる。

が、それだけでは足りない。
(文化性)の問題がある。
EQ論は、一般には、「人格の完成度」を知る尺度として利用される。
しかし実際には、「EQ」の「E」は、「Emotional」、つまり
「情緒」を意味する。

文化性は、情緒、つまり(心の豊かさ)と、大きくかみあっている。
言いかえると、先の、(1)相手との共鳴性、(2)愛他性、(3)他人との良好な
人間関係に合わせて、(心の豊かさ)こそが重要ということになる。

その心の豊かさは、その人の文化性ということになる。
たとえばく私の知人に、音楽家の人がいる。
有名な人ではないが、頼まれると、小学校や中学校へ出かけていき、そこで
演奏会を開いたりしている。

そういう人と話していると、ほかの人にはない、(深み)を感ずることがある。
その深みこそが、ここでいう(文化性)ということになる。

音楽を聴く、本を読む、映画を見る、絵画を楽しむ……。
そういう活動を通して、その人の文化性が養われる。

●文化性

ためしに小銭の奴隷になって、きゅうきゅうとしている人を観察してみるとよい。
口は達者で、それに口がうまい。
軽妙なことをペラペラとしゃべる。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
趣味は、パチンコ。
あとはテレビの野球中継を見ること。
「DVDは見ないの?」と聞くと、「ああいうのは、頭が痛くなる」と。

しかし小銭には、異常なまでに敏感に反応する。
こまかいところで、いつも、こまかい計算をしている。
心に余裕がないから、話していても、心が通じない。
「文化性」がない人というのは、そういう人をさすが、しかしこれはあくまでも
相対的な問題。

高い文化性をもっている人からみれば、文化性の低い人がよくわかる。
が、さらに高い文化性をもっている人からみれば、その高いと思っている人ですら、
低く見える。

さらに同じレベルの人どうしでは、たがいにその文化性を感ずることはない。
また人は、同じレベルの人を求めて、集まる傾向がある。
そのほうが居心地がよいからである。

この文化性は、日ごろは、表に出てくることは、めったにない。
文化性が、文化性として、発揮されるのは、何かのことでその人が、
窮地に立たされたようなときである。

文化性の高い人は、そのつど、しっかりと自分を保つことができる。
そうでない人は、そのときどきの(縁)の影響を受けて、右往左往する。

●友を選ぶ

恩師の田丸謙二先生は、いつもこう言っている。
「高いレベルの人に会いなさい」「会って話をしなさい」と。

高いレベルの人に会うと、その反射的効果として、自分の低さを知ることが
できる。
それを知ることによって、さらに自分を高めるための目標をもつことができる。

一方、低い文化性しかない人とは、できるだけ接触しないほうがよい。
接触したところで、何も得るものはない。
へたをすれば、自分まで、そのレベルにまで落ちてしまう。
そういう意味では、(文化性)というのは、デリケート。
高めることはむずかしいが、落とすのは、簡単。
もともと人間というのは、動物。
何十本もの支えを身の回りに立てて、かろうじて、人間のフリをしているにすぎない。
ほんの少しでも油断したら、そのまま動物に、逆戻り。

年齢にもよるが、40歳とか50歳をすぎたら、相手を選ぶ。
選んで交際する。
よく誤解されるが、友だちの数が多いから、それでよいというのではない。
大切なのは、中身。
深さ。
世界の賢人たちも、みな、口をそろえて、そう書き残している。

●義姉のこと

どうして義姉が、あれほどまでに高い文化性を身につけるようになったか。
またできたのか、私にはよくわからない。

義姉は、介護の会の会長もしている。
仮面としてのボランティア活動ではなく、実際、あちこちで講師までしている。

苦労も多かったにちがいない。
穏やかな口調の中に、他人をそのまま包み込んでしまうような深みを感ずる。
ワイフの姉だが、ワイフたちは、早くして母をなくしている。
ワイフにしても、母代わりになった人である。
ワイフは、いつもそう言っている。

ときに私に、きびしい説教をすることもあるが、どういうわけか、イヤミがない。
ひとつには、ウソがないということ。
ありのままを、ありのままに話してくれる。
そのすがすがしさが、心の風通しをよくする。

明日、X時に会うことになっている。
たいへん楽しみだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●『深い川は静かに流れる』

 『深い川は静かに流れる』は、イギリスの格言。日本でも、『浅瀬に仇(あだ)波』とい
う。つまり思慮深い人は、静か。反対にそうでない人は、何かにつけてギャーギャーと騒
ぎやすいという意味。

 子どももそうで、その子どもが思慮深いかどうかは、目を見て判断する。思慮深い子ど
もの目は、キラキラと輝き、静かに落ち着いている。会話をしていても、じっと相手を見
据えるような鋭さがある。が、そうでない子どもは、そうでない。

 私は先日、ある女性代議士の目をテレビで見ていて驚いた。その女性は何かのインタビ
ューに答えていたのだが、その視線が空を見たまま、一秒間に数回というようなはやさで、
左右、上下にゆれていたのだ。それはまさに異常な視線だった。

その女性代議士は、毒舌家として有名で、言いたいことをズバズバ言うタイプの人だが、
しかしそれは知性から出る言葉というより、もっと別のところから出る言葉ではないの
か。私はそれを疑った。これ以上のことはここには書けないが、そういうどこかメチャ
メチャな人ほど、マスコミの世界では受けるらしい。

 が、この時期、親というのは、外見的な派手さだけを見て、子どもを判断する傾向が強
い。たとえば本読みにしても、ペラペラと、それこそ立て板に水のうように読む子どもほ
ど、すばらしいと評価する。しかし実際には、読みの深い子どもほど、一ページ読むごと
に、挿絵を見たりして、考え込む様子を見せる。読み方としては、そのほうが好ましいこ
とは言うまでもない。

 これも子どもをみるとき、よく誤解されるが、「情報や知識の量」と、「思考力」は、別。
まったく別。モノ知りだから、頭のよい子どもということにはならない。子どもの頭のよ
さは、どれだけ考える力があるかで判断する。同じように、反応がはやく、ペラペラと軽
いことをしゃべるから、頭のよい子どもということにはならない。むしろこのタイプの子
どもは、思考力が浅く、考えることそのものから逃げてしまう。何か、パズルのような問
題を与えてみると、それがわかる。考える前に、適当な答をつぎからつぎへと口にする。
そして最後は、「わからない」「できない」「もう、いや」とか言い出す。

 その「考える力」は、習慣によって生まれる。子どもが何かを考える様子を見せたら、
できるだけそっとしておく。そして何か新しい考えを口にしたら、「すばらしいわね」「お
もしろいね」と、それを前向きに引き出す。そういう姿勢が、子どもの考える力を伸ばす。









書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
14
●性格論

性格は、(加齢)(境遇)(教育)の3つの要素によって決まるという(「心理学」大村政男)。
その前に(気質)も問題になるが、「気質の上層に形成されるのが、性格と名づけられる
ものである」(P118)と。

大村政男氏は、こう説く。

「(性格というのは)、加齢、境遇、家庭や学校における教育などによって形成される層
で、個人の意志や意欲に関連している」(同)と。

ここで注目したいのは、(加齢)という部分である。
そのまま解釈すれば、「加齢によって、性格も変化する」ということになる。
ただその当人には、それはわからないかもしれない。
「気質」は変わらないとしても、「性格」というのは、その人のいわば、
CPU(中央演算装置)のようなもの。
加齢とともに、性格そのものが変化しても、その変化すらわからない。

これは同年齢の人たちを見たときも、同じである。
たとえば学生時代の同窓生たちと話していると、昔のままのような気がする。
が、だからといって、彼らが昔のままということにはならない。
彼らもまた、私と同じように変化していたら、その(変化)は、わからない
ということになる。

で、私自身の性格を振り返ってみる。

私の性格は若いころの私のままなのか、それとも変化したのか、と。
私自身は若いころのままだと思うが、ワイフは、こう言う。
「若いころよりは、穏やかになったわね。若いころは短気で、いつもカッカして
いたわ」と。

私が「フ〜〜ン」と言うと、「若いころは、自分を分析するような時間さえなかったわ」と。

とにかく(気質)というのは変えられないが、(性格)というのは、変わるものであり、
また変えられるものということになる。
たとえば教育がある。

これはとくに幼児教育においては、重要である。
年中児から年長児にかけての時期に、子どもの性格は、大きく変化する。
そのころは、ちょうど乳幼児期と少年、少女期への移行期にあたる。
この時期に、その子ども(=人)の、人格の「核」ができる。
「この子はこういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。
つまりこの時期の教育をじょうずにすれば、子どもを別人のように、することも
できる。
たとえばグズグズしていた子どもを、ハキハキした子どもにする、など。

大村政男氏の説に当てはめてみると、それがよくわかる。
つまり性格は、境涯は言うにおよばず、教育によって、作られる!

そこで改めて私自身の性格について、考えてみる。

私が曲がりなりにも、(あるいはかろうじて)、性格がゆがまなかった理由は、
いくつかある。(あるいはゆがんでいるのかもしれないが……。)

(1)母の愛情をたっぷりと受けたこと。
(2)祖父母が第二の父親、母親がわりをしてくれたこと。
(3)放任された状態で、自由気ままに幼児期、少年期を過ごしたこと。
(4)学生時代の友人たちがよかったこと。
(5)留学生活が人生の(柱)になったこと。
(6)性格がきわめて安定しているワイフと結婚できたこと。
(7)仕事が、幼児相手のものだったこと。
(8)金持ちにはなれなかったが、生活費で困ったことがなかったこと。
(9)(今のところ)、大きな病気や事故を経験していないこと。

(気質)は変わっていないと思うが、そのため(性格)は、変わった。
若いころの私は、無責任で、ずる賢く、ウソつきだった。
ひょうきん者で、そそっかしかった。
そんな私が、今は、自分でもおかしいと思うほど、くそまじめになってしまった。
バカ正直というか、とくにウソに対しては、過剰なまでに反応するようになってしまった。
自分のウソもいやだが、他人のウソもいやだ。
ウソをつかれたとわかるだけで、言いようのない怒りを感ずる。
実際には、一度でもそういうことがあると、そういう人とは、縁を切る。
いっさいの交際をやめる。
これは若いころの自分に対する、反動形成のようなものかもしれない。
あるいは自己嫌悪?

さて、これから先、私の性格は、どのように変化するのか。
していくのか。

この先、(ボケ)という要素も加わってくる。
脳梗塞になって、まるで別人のようになってしまった老人を、私は、何人か知っている。
それまではキビキビとした人だったが、脳梗塞を境に、いつもニタニタというか、
ニヤニヤと笑ってばかりいる人もいた。
見た目には、たいへん穏やかになったが、しかしそういう人をさして、性格が変わった
と言ってよいのか。

ただ願うことは、老人になればなるほど、他人に好かれる老人になりたいということ。
ときどき老人ケア・センターを訪れるたびに、そう思う。
そのための性格づくりということも、これからは考えていかなくてはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi educaはやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育
 子育て はやし浩司 性格論 性格 気質)







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
15
●生きる・活きる

●安楽死

ワイフと顔を合わせると、母の話になる。
先ほども、こんな話をした。

私「いくら母が安楽死させてくれと言っても、ぼくにはできないね」
ワ「そうね」と。

こういう極限状態に追いつめられてみると、それまでぼんやりとしていた
(考え)が、はっきりとした輪郭をともなって現れてくる。

私「ほら、よく安楽死が問題になるだろ。家族のだれかが、見るに見かねてと、ね。
で、今、自分がその立場に立たされてみて、はっきりわかったことがある。
どんな状況であるにせよ、ぼくには、母を安楽死させるなんてことはできない」
ワ「そうね。やはりできないわね。いくらあなたのお母さんが望んだとしても、
できないわね」
私「……やはり、できない。できるものじゃ、ない」と。

もちろんその人の状態にもよる。
何か別の大病を患い、苦しんでいるようなばあいには、ひょっとしたら安楽死を
考えるかもしれない。
しかし母のばあい、呼吸は少し荒いが、ふだんは眠ったように穏やかな表情を
している。
「かわいそうだ」とは思うが、そこまで。
そこで思考が停止してしまう。

庭を見ると、鉛色の空気が、動きをとめてそこでじっとしていた。
先ほどまでは小雨がパラついていた。
どこか肌寒い。

●ターミナル・ケア(末期介護)

老人のケア・センターは、学校のように、学年別のようになっている。

1階が軽症者
見た感じ、要介護度3〜4前後の人たちが集まっている。
2階が重症者。
見た感じ、要介護度5〜6前後の人たちが集まっている。
母は、その2階にいる。
南側と北側の2つに分かれているが、南側のほうが、重症といった感じ。
3階へは行ったことがないので、どういう人たちがいるのか知らない。
しかし3階へ通ずる階段などには、太いパイプで柵がしてあるので、
そういうレベルの老人たちがいるにちがいない。

いちばん軽い人たちは、玄関を入ってすぐのところにある広間にいる。
デイサービスでやってくる老人たちである。
音楽に合わせて、遊戯をしたり、体操をしたりしている。

つまり順に見ながら追っていくと、それはそのまま私たちの老後の姿と
いうことになる。
70歳前後でデイサービスを受けるようになり、75歳前後で、1階の奥の
部屋に入り、85歳くらいで、2階の部屋に入る。
が、こういうサービスを受けられる人は、まだラッキーなほうだ。
このあたりでも1年〜1年半程度の順番待ちは、常識。
「重度の老人から入居できる」ということにはなっているが、実際には、
糖尿病などの持病をもっている老人や、性格がよくない老人は、敬遠される(?)。

一方、大病院では、このところ老人ベッドの削減が始まっている。
そのこともあって、このところ病院を追い出される老人がふえているという。
また入院できたとしても、1か月前後をめどに、追い出されているという。
しかし追い出された老人は、どこへ行けばよいというのか。

それにあくまでもこれは、義姉の意見だが、ケア・センターでは、手厚く
介護してもらえるが、病院では、「ほったらかし」(義姉談)という。
県や地域によって、ターミナル・ケア(末期介護)の仕方はちがうらしい。
概して言えば、ここ静岡県は、私の印象では、ほかの県と比べて冷たいのでは?
実兄のケースと比べても、そう感ずる。

私は子どもたちと、よくこんな会話をする。

私「ぼくは、もうすぐヨーシエン(要支援)へ入るよ」
子「ヨーシエンではないよ、幼稚園だよ」
私「そうかア……。それが終わると、今度は、ヨーカイ(要介)学校だよ」
子「ぼくは、小学校だよ」
私「いいなあ、小学校かア」
子「先生の学校は、ヨーカイ(妖怪)がいるの?」
私「いる、いる、いっぱいいる。ヨーカイ学校は、1年から5年まであるんだよ」
子「5年が終わると、どうなるの?」
私「ハハハ、あの世へ行くよ」と。

●自宅介護

自分自身で経験してみて、要介護度が3とか4になったばあい、自宅で
老人介護するのは、不可能と考えてよい。
第一に、食事の問題がある。
「問題」というより、私たちは苦労した。

老人用の介護食というものもあるが、それにしても、そばで口まで運んで
やらねばならない。

が、何よりもこわいのが、「事故」。
老人介護の世界では、よかれと思ってすることが、多くのばあい、裏目、裏目に出る。
私の母にしても、6か月、私の自宅にいたが、その間、3回も、あわやというような
事故を経験している。

さらに要介護度が、4とか5になると、たいてい寝たきりの状態になる人が多い。
ワイフの友人の母親は、床ずれがひどくなり、そこが腐ってしまったという。
その(悪臭)が、たまたま夏場ということもあり、近所の家にまで漂ったという。

が、ではケア・センターでは、幸せなのかというと、それは言えない。
ケア・センターにいれば、たしかに長生きはできる。
「至れり尽くせり」というよりは、「ここまでやってもらえるのか」と感心するほど、
ていねいに介護してくれる。
もちろん年中、室温は一定に保たれている。
24時間、介護士と看護士が交代で、介護してくれる。
食事にしても、老人ごとに調理したものを、一度すべてミキサーにかけて、スプーンで
与えてくれる。
それも難しくなると、ゼリー食にかわり、さらに必要であれば、随時、点滴で栄養を
補給してくれる。

家庭では、そこまではできない。
が、それがその老人にとって最善かといえば、やはりそうとは言えない。

(長生き)そのものに、「?」がつきまとう。

中には、大声で叫んでばかりいる老人もいる。
暴力を振るう老人もいる。
そういった老人が、加齢とともに、不可逆的に、症状を悪化させていく。

で、そういうとき私は、いつも、「私なら……」と考える。
「私なら、そういう形でなら、長生きしたくない」と。
が、実際には、生きるのもたいへんだが、死ぬのは、もっとたいへん(?)。
首をつるといっても、ベッドから起きあがることさえできない私が、
どうやって首をつればよいのか。

……何か怖ろしいことを書いているような気がしてきたので、この話は、
ここまで。

今のところ、センターからの電話はない。
ほっとしながら、夕食の準備にとりかかる。
今夜のおかずは、焼きソバ一品。
私が料理する。

(補記)

ケア・センターのみなさん、本当にありがとうございます。
みなさんは、今ままで、母に、本当によくしてくださいました。
これからもよろしくお願いします。

●生きる

「息(いき)る」、「生きる」、「活(い)きる」

++++++++++++++++++++++

古い日本語には、「いきる」しかなかったのでは?
それに中国から入ってきた、漢字を当てた。
「生きる」「活きる」と書くようになった。

が、もともとは、「息(いき)る」ではなかったのか?
つまり日本語では、息をすることを、「いきる」と言った?

++++++++++++++++++++++

同じような例は多い。
たとえば、「臭い」がある。
もともとは、「草(くさ)い」ではなかったのか?
草のようなにおいがすることを、「くさい」といった。
それにやはり中国から入ってきた、漢字の「臭い」を当てた?

これはあくまでも私の推理によるものなので、まちがっている
と考えてもらったほうがよい。

しかし「息る」→「生きる」→「活る」を並べてみると、
生き様の基本がわかるようで、興味深い。

「人間は、息るだけでは、足りない。生きるだけでも足りない。
活きなければならない」と。
その「活きる」には、「すべきことをする」という意味が含まれる。
つまり私たちは、活きるために生き、そして息をする。

またまた老人の話に戻ってしまうが、ケア・センターにいる老人たちは、
まさに息をしているだけ、ということになる。

ただ誤解してはいけないのは、だからといって、それが無駄であるとか、
老人たちの命には価値がないとか、そんなことを言っているのではない。
私やあなたも、やがてそうなるということも考え合わせるなら、私が
ここに書きたいのは、その逆。

息るためだけの老人にならないようにするには、どうしたらよいかということ。
もちろん肉体や精神の健康も大切だが、それ以上に大切なのは、やはり(生き様)
ということになる。

私もこの年齢になってみて驚いたが、老人は老人になるのではなく、老人に
させられるのだということがわかった。
それはものすごいプレッシャーである。
いくら私が、「私はちがう!」と叫んでも、そのプレッシャーは、怒涛のごとく、
襲いかかってくる。
どこへ行っても、「老人はこうあるべき」式の「形」が、向こうからやってくる。
だからたいはんの老人たちは、それらしい老人になっていく。
自ら、そうなっていく。

そして過去の古い話を大切にし、その思い出にふけるようになる。
自らの思想を磨いたり、前に向かって進むことさえ、やめてしまう。
何か新しいことを提案しても、「私は歳だから」とか、そんな言い方をして、
逃げてしまう。

しかし、どうして老人は、老人らしくならなければならないのか。

ひとつには、そのほうが居心地がよいということもある。
他人とちがった生き方をするというのは、この日本では、なにかにつけて難しい。
あちらでガツン、こちらでガツンと、みなに叩かれる。

話は少しそれるが、ある人(新聞社の記者)は、私にこう言った。

「林さん、あなたのような人に、成功してもらっては困るのです。
あなたのような人が、この世界で成功すると、では私たちはいったい何だったのか
ということになってしまうのです」と。

わかりやすく言えば、私のようなフリーターは、「静かに生きるのがいい」
ということらしい。
「活きてもらっては、困る」と。

しかし私は、活きる。
活きて、活きて、最後まで活きてやる。

老人の話にもどる。

若い人たちは、老人に対して、偏見をもっている。
たとえばこの年齢になっても、性欲というのは、ある。
相手がかがんだようなとき、若い女性の白い胸がボロッと見えたりすると、
ハッと息をのむ。
そういう私を「変態」と若い人たちは思うかもしれない。
しかし基本的には、私たちは、若い人たちとはちがわない。
ちがうと考えるほうが、おかしい。

生活力についても、加齢とともに、劣ってくると考える人もいる。
しかし実際には、劣っていない。
周囲がそういう目で見るから、何となく、それに合わせているだけである。
つまり無意識のうちにも、若いときに見た老人像を、自分の中で作っていく。

言いかえると、今、現在若いと思っている人たちも、勝手に老人像を頭の中に描かないほ
うがよい。
「老人というのは、こういうもの」「こうあるべき」「老人は、こんなことをしない」と。
そういう老人像を勝手に作れば作るほど、いつか、あなた自身も、その老人像に
しばられてしまう。

なぜなら、あなた自身も、まちがいなく、その老人になる。

「老人」といっても、それはただの「数字の問題」。
年齢というただの「数字の問題」。
そんな数字にしばられて、老人になったから、活きるのをやめると考えるのは、
バカげている。
ほんとうにバカげている。







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
16

●子どもの潔癖症(疑惑症)

++++++++++++++++++

子どもの手洗いグセについての
相談が届いています。

掲載許可がいただけましたので、少し
改変して、お届けします。

++++++++++++++++++

初めて相談をさせていただきます。
よろしくお願いします。

幼稚園に通う長男のことです。
もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが、この8月頃ごろから
急に、よく手を洗う様になり、特に幼稚園から帰ると、1時間くらいの間に5〜6回、多い時は10
回くらい手を洗うようになりました。

本人に聞くと、手が汚いから・・とか、手が臭うから・・と言って洗っていました。誰かに臭うと言
われたのか聞くと、そうじゃないと言います。でも、元々気にしない子で、いつもこちらから、洗
いなさいと言わないと洗わない子でしたのに、やたらと気にする様になりました。しかも、しょっ
ちゅう、手の匂いを嗅いで確認しています。

朝も幼稚園に行くのも嫌がり、ぐずったり、メソメソとすぐ泣くようになりました。先生に聞くと、
幼稚園でも同様のようです。それ以来、なるべく長男が手を洗うときはついて行って、一緒に洗
ってあげたり、匂いがないか確認をしたりするようにしました。

すると、手を異常に洗うことはなくなったのですが、今度は、手を全然洗いたがらなくなり、手が
汚れないために、なるべく手を使わず足を使ったり、お菓子などは、犬食いをしたり、片手にウ
エットティッシュを持って、拭きながら食べたりするようになりました。

しかも、匂いは相変わらずしょっちゅう嗅いでいます。何か触ったり、物を食べたりした時
も・・・。

メソメソするのも相変わらずで、ちょっと怒られたり、嫌な事があると、泣き出します。一度泣く
と、こちらから傍に行って、抱きしめたりするまでずーっと泣き続けます。それ以外の時は、愛
想も今は以前の様によく、元気も良いです。先生のHPを見させていただいて、もしかして疑惑
症というものではないかと、心配になり、またどのような対応をしてあげれば良いのか、教えて
頂きたく相談させて頂きました。

幼稚園の先生にも、相談してみたのですが、今までウチの子の様な行動をとる子がいなかっ
たとかで、先生も頭を悩ませているようでした。9月までは、幼稚園でも、もの凄く元気いっぱい
でいつもニコニコしていたらしく、先生にもよく褒めて頂いたくらいなので、先生も驚いているよ
うです。

ぜひ、良い対応がありましたら、教えて頂きたいと思います。宜しくお願いします。
(滋賀県M町、IKより)

【はやし浩司より、IKさんへ】

「長男」とありますから、下にお子さんがいらっしゃるのでしょうか。
ひとつのきっかけとして、下のお子さんが生まれたことが原因で、神経症に
なった可能性があります。

子どもの神経症による症状は、千差万別です。
定型がありません。

検索エンジンを使って、「はやし浩司 神経症」もしくは、「はやし浩司 手洗いグセ」を
検索してみてください。
あわせて、「はやし浩司 赤ちゃん返り」も参考にしてみてください。

また様子からみると、幼稚園の指導、もしくは友人関係に何らかの問題があるようにも
感じます。
先生が神経質であるとか、友だちとの間にトラブルがあるとか、など。

もう一つ気になるのは、「もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが……」という部分です。

子どもは人見知りするのが当たり前。
また見知らぬ人に対して、愛想が悪いのが当たり前。
そういう前提で考えてください。

愛情飢餓状態の中で子どもが育つと、一見、このように、人見知りしない、
愛想のよい子どもになることがあります。
どこかで親の愛情に不安を感じていないか、一度、観察してみてください。
またその「根」は、深いと思ってください。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの手洗いグセ 疑惑症 潔癖症 神経症 手洗い癖 はやし浩司)


【子どもの心の奥にあるもの】

++++++++++++++++

よく誤解されるが、情緒不安というのは、
情緒が不安定になることではない。
(心の緊張感)がとれないことを、情緒
不安という。

心が緊張しているとき、不安や心配ごとがあると、
心は一気に不安定になる。
結果として情緒は不安定になる。
つまり情緒不安というのは、(心の緊張感)が
とれない、その結果として現れる症状をいう。

子どもの情緒不安を感じたら、まず、心の
緊張感が、いつ、どのように発生し、どのように
作用しているかを、観察する。

慢性化すれば、神経症(症状は千差万別)を
発症するようになる。
疑惑症、嫌悪症、潔癖症なども、そのひとつ。

対処法としては、(心の緊張感)をほぐすことを
第一に考える。

+++++++++++++++++

【AKさんより、はやし浩司へ】

 6歳の娘と、4歳の息子がいます。6歳の娘についての、相談です。

長女はいい子で優しく素直な子です。神経質で、きっちりしている(言いつけを守る)ところもあ
ります。5歳くらいまで母子分離不安が強く近所で多数の子供たちと遊ぶと、うちの子はなかな
か私から離れず、みんなの中に入って行くのを尻込みするタイプでした。何か心にストレスを感
じるとすぐ身体症状が出る子で、幼稚園入園後半年で円形脱毛になり、年長に上がった時に
神経因性頻尿になりました。いずれもたくさん構ってあげたりスキンシップや気分転換させると
自然に治りました。

 今困っている症状は、手を洗っても汚れがついている気がする・その手で蛇口を触れない(蛇
口をずっと長いこと洗います)・手に触れるものや口に入れるもの全てにおいて清潔か、触って
も大丈夫かの確認を何度もする・チック(目をぱちぱちする)です。手洗いに関しては、私が指
摘したせいか本人も自覚してしまってつらがっています。手洗いの際私が手を包み込んで一緒
に洗うと、ましなようです。

 弟の方はマイペースで長女のようにきっちりせず、のびのびしています。母親に対する独占
欲が強く長女といつも私を取り合う感じです。3歳頃まで泣きひきつけがひどく、あまり泣かせな
いようにしてきたからか、長女は我慢をすることも多かったと思います。次男出産後1年半は保
育所に預けていました。

 私自身にも問題があります。一度火がつくと自分でもコントロールできない程激しく叱ってしま
うのです。私の母親が普段は優しく愛情深いのですが、怒るとすごくこわく、いわゆるヒステリー
タイプで、毎日夫婦喧嘩の声(母の怒った声)に子供の頃から心が休まらない家庭でした。母
の顔色を伺いながら生きてきた自分を考え、自分は絶対そんな思いは子供にさせまいと思い
続けて母親になりましたが、時々自分の中に母親の影をみることがあります。

特に生理前などはイライラが強く、子供にきつく怒ってしまいます。その度に自己嫌悪に陥り反
省し、よし明日からはとがんばるのですが、1ヶ月くらいたったある日それまでの努力を自分で
台無しにするような怒り方をして、また反省し繰り返しです。こんな自分も嫌です。どうにかして
治したいのですが。夫に私がきつく怒りすぎて子供が萎縮していると指摘を受けました。

 今回長女の強迫的な行動におろおろし、いろいろ調べたところ、はやし先生の相談者に対す
るアドバイスを読み、今まで長女は繊細であれこれ困ったことが起きるなと思っていたのは、す
べて私が原因だったのでは?、と思いました。長女に対して今最大限のスキンシップをはかる
ようにしていますが、このまま続けて行けば良くなるでしょうか? ひどい時は10分おきくらい
に、「足を触ったかもしれないけどその手を舐めたかもしれないけど大丈夫?」といった質問を
繰り返したり、手洗い場で「洗っても洗っても汚れてるみたいな気がする」と泣いている娘をみ
ると、早く治してあげたくて受診させたほうがいいのかと悩んでいます。

主人は自分の実家で気分転換させたら?、といいます。(主人の実家は長女びいきで行くとい
つも娘の表情が穏やかでわがまま言い放題、のびのびしています。)先生、どうか返答は遅く
ても構いません。是非アドバイスをお願いします。私自身はメールアドレスを持っていないので
主人の名前で出しています。(相談者・AK) 

【はやし浩司よりAKさんへ】

 まずAKさん、あなた自身の心が、なぜいつも緊張状態にあるかを、静かに観察してみてくだ
さい。いつもピリピリしているというようであれば、そのもとになっている、原因をさぐります。

 私の印象では、AKさん自身が、心を開けない人のように思います。他人の前に出ると、緊張
してしまうとか、(結果的に疲れやすい)、仮面をかぶってしまうとか、そういう状態ではないかと
思います。

 さらにその原因はといえば、AKさん自身の母子関係にあります。AKさんと、AKさんの母親
との関係です。AKさん自身も、子どものころ、(いい子)ぶることで、いつも自分をごまかしてい
た。現在のあなたの長女のように、です。

 で、相談の件ですが、年齢的に、つまり2歳下の弟がいるということですから、長女は、まだ
人見知り、後追いのはげしかったころ、下の弟が生まれたことになります。下の弟が生まれた
ことによって、大きな愛情の変化を感じたと思われます。対処の仕方を誤ると、赤ちゃん返りと
いう症状が生まれます。

 長女は、現在も、その(赤ちゃん返り)の流れの中にあると思ってください。

 子どもというのは、環境の変化にはたいへんタフですが、愛情の変化には、敏感に反応しま
す。親は「平等にかわいがっている」と言いますが、子どもには、そういった論理は通用しませ
ん。あなたの夫が、ある日突然、愛人を家に連れ込んできたようなばあいを、想像してみてくだ
さい。

 もうおわかりかと思いますが、長女は、慢性的な愛情飢餓状態にあると考えて対処します。
濃密なスキンシップ、添い寝、手つなぎなど、こまめに実行してみてください。ポイントは、『求め
てきたときが、与えどき』です。

 長女のほうから、スキンシップを求めてきたようなときは、すかさず、(すかさず、です)、それ
に応じてあげます。「あとでね……」「忙しいから……」は、禁句です。ほんの数分、応じてあげ
るだけで、子どもは、落ちつくはずです。

 ほかに食生活にこころがけてみてください。CA、MG、Kの多い食生活(=海産物中心の献
立)にするだけでも、かなり効果があります。(薬物に頼るのは、この時期、勧めません。)とく
にCAの多い食生活を大切にしてみてください。市販の子ども用錠剤なども、効果的です。
(薬局へ行くと、高価な錠剤を勧めますが、安いものもあります。安いのでも効果は同じです。
服用量を注意して、与えます。)
私自身も、心の緊張感がほぐれないときは、CAの錠剤をバリバリと口の中で割ってのんだりし
ています。ほかにハーブ系の錠剤をのむこともあります。

偏食、とくに白砂糖の多い食品は、避けます。(家庭では、精製してない黒砂糖を料理に使うと
よいでしょう。)

家庭生活の要(かなめ)は、子どもの側からみて、(心の休まる)環境です。
長女は、おそらく外の世界(幼稚園など)では、いい子ぶることで、自分の立場を保持している
はずです。つまりそれだけ神経疲れを起こしやすいということです。ですからその反動として、
家の中で、ぞんざいな態度、横柄な態度を見せるかもしれませんが、そこは許してやってくださ
い。
「うちの子は、外でがんばっているから、家の中ではこうなのだ」と、です。

6歳ともなると、(家)は、(しつけの場)ではなく、(憩いの場)とならなくてはいけません。疲れた
心を休める場所です。

手洗いグセについては、『暖かい無視』に心がけます。心の緊張感(わだかまり、こだわり)が
ほぐれてくれば、自然になおります。親がカリカリすればするほど、逆効果です。なお子どもの
神経症については、私のHP→(ここが子育て最前線)→(子ども診断)→(神経症)に収録して
ありますから、参考にしてください。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html

で、問題は、AKさん、あなた自身です。

遠くは、あなたとあなたの母親との関係にまで、原因がさかのぼります。あなた自身が、全幅
に、あなたの母親に受け入れてもらえなかった……。それが今、あなたの対人関係(もちろん
子どもに対しても)に、影響を与えています。さみしがり屋で孤独なくせに、しかし集団の中に入
っていくと、すぐ神経づかれを起こしてしまう、と。他人を信ずることができない……つまり、他
人に心を開くことができない。自分をつくってしまう。ありのままをさらけ出すことができない、な
ど。
(あるいは何かの原因で、長女を愛することができないのかもしれませんね。「長女を愛しなけ
ればならない」「しかしどうも好きになれない」と、AKさん自身が、心の中で葛藤しているという
ことも考えられます。あなた自身も、親に愛されていなかった……。その世代連鎖が、今もつづ
いている可能性も否定できません。)

ともかくも、こうした緊張感が、ちょっとしたきっかけで、爆発してしまう。長女に対して、です。

症状としては、AKさん自身が、(うつ病質)であると考えられますが、専門的な判断は、ドクター
にしてもらってください。同時にAKさん自身も、CAの多い食生活に心がけてみてください。

ほとんどの親は、子どもに、ふつうでない症状が現れると、子どもに原因を求め、子どもを治そ
うとか、直そうとか考えます。しかし子どもは、(家族の代表)でしかありません。
幸いなことに、AKさんは、今、それに気づきつつあります。つまりすでに問題は、半分以上、解
決したということです。

あとは、長女のよいところだけを見て、長女といっしょに、もう一度人生を楽しむつもりで、子育
てをすればよいでしょう。あるいはもうそろそろ長女から離れ、あなた自身が自分でしたいこと
をすべき時期に来ているかもしれません。夫の実家でめんどうをみてくれるというのですから、
そういう場をうまく利用して、あなたはあなたで、好き勝手なことをすればよいのです。

また、子どもを愛せないなら愛せないで、気負うことはありません。実際そうした母親は、7〜1
0%はいます。まず、あるがままの、自然体で、子どもに接することを大切にします。「親だから
……」と気負ってはいけないということです。(メールによれば、AKさんは、かなり親意識の強
い方のようですから……。)子どもの「友」になることだけを考えて対処します。

どうであるにせよ、症状としては、この時期、たいへん多いですから、あまり深刻に考えないこ
と。ただし環境を改善したとしても、すぐには症状は消えません。あせらないこと。チックにして
も、家庭環境が改善されても、ばあいによっては、そのあと、数年つづくこともあります。(手洗
いグセは、比較的早く、症状は消えます。)

詳しくは、「はやし浩司 神経症」「はやし浩司 手洗いグセ」で、検索してみてください。
またAKさん自身の問題は、「はやし浩司 基本的信頼関係」が、参考になると思います。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 子どもの神経症 手洗いグセ)





書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
17
【母の最期】

●最後の会話

11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰りかえしていた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80〜40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46〜50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。

●下痢

母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。
姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。
母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。

私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。
朝の早い時刻だった。

途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。
私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。
が、この状態は、家に着いてからも同じだった。

母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。
私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。

母は、こう言った。
「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、
思ってもみなかった」と。
私も、こう言った。
「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、
思ってもみなかった」と。

その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。
その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。
やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。

●こだわり

人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。
人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。
夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、
絹のように美しい衣をつくりあげる。

無数のドラマも、そこから生まれる。

私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。
大きなわだかまりだった。
大きなこだわりだった。

話しても、意味はないだろう。
話したところで、母が喜ぶはずもないだろう。
しかし私は、そのわだかまりと、こだわりの中で、12年も苦しんだ。
ある時期は、10か月にわたって、毎晩、熱にうなされたこともある。
ワイフが、連日、私を看病してくれた。

その母が、そこにいる。
よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。

●優等生

1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。
5、6日に1度くらいの割合になった。
精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。

ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、
行ってくれた。

ただ、やる気は、失っていた。

あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも
なかった。
ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。
春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、
それ以上のことはしなかった。

一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。

●事故

それまでに大きな事故が、3度、重なった。
どれも発見が早かったからよかったようなもの。
もしそれぞれのばあい、発見が、あと1〜2時間、遅れていたら、母は死んでいた
かもしれない。

一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。
一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。
もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。

部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。
母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、
自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。

私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。
結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。

しかしそれは不可能だった。

●センターへの申し込み

このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。
入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。
重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。

だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに
足を運んだ。
が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。

これには驚いた。
私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。
で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。

義姉は、介護の会の指導員をしていた。
「今、断ると、1年先になるのよ」と。

これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの
女性は、そのセンターの園長だった。

●入居

母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。
……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。
私とワイフは、こう誓いあった。

「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」
「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。

しかし仕事をもっているものには、これはままならない。
面会時間と仕事の時間が重なってしまう。

それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、
母は、ひたすら眠っているだけ。
「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。

●優等生

もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。
一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。
どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに
しなければならなかった。

それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。

母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。
センターには、医療施設はなかった。

ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは
ほとんど世話のかからない優等生であったこと。
冗談好きで、みなに好かれていたこと。

私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。
母は、こう言った。
「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。
それを聞いて、私は大声で笑った。
横にいたワイフも、大声で笑った。
「お前だって、役だ立たずやろが」と。

加えて、母には、持病がなかった。
毎日服用しなければならないような薬もなかった。

●問題

親の介護で、パニックになる人もいる。
まったく平静な人もいる。
そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。
もっと言えば、「運命は受け入れる」。

運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。
運命は、気が小さく、おくびょう者。

私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。
できれば介護など、したくない。
しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。

加齢臭については、換気扇をつける。
事故については、無線のベルをもたせる。
便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの
深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。
水道管も、そこまではわせた。

ただ困ったことがひとつ、ある。
我が家にはイヌがいる。
「ハナ」という名前の猟犬である。
母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。
ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。
真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。

これについても、いろいろ工夫した。
たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。
暖房もつけっぱなしにした。
そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。
ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。

いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。

●鬼

それから約1年半。
母の92歳の誕生日を終えた。
といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。
嚥下障害が起きていた。
それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。
母は、それをたいへんいやがった。
ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。

郷里の言葉である。

私はその言葉を聞いて笑った。
私も子どものころ、母によくそう言われた。
母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。
「お前ら、鬼や」と。

●他界

こうして母は、他界した。
そのときはじめて、兄が死んだ話もした。
「準ちゃん(兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。

兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。

母の死は、安らかな死だった。
どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。
静かだった。

母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの
話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。

穏やかな顔だった。
やさしい顔だった。
顔色も、美しかった。

母ちゃん、ありがとう。
私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。

2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 母の
最期 母の死 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●家族自我群からの解放

++++++++++++++++++

病弱の兄と、高齢の母が、この2か月の
間に、あいついで、他界した。

経済的負担はともかくも、それ以前につづいた
社会的負担には、相当なものがあった。
「一日とて、気が晴れる日がなかった」と言っても、
けっして、おおげさではない。

私には、悶々とした日々だった。
とくに、母との関係が壊れた、この14年間は、
重く、つらい毎日だった。

++++++++++++++++++

(運命の糸)……、だれしも、無数の糸にからまれている。
それを私は、「運命の糸」と呼んでいる。
いくらあがいても、もがいても、運命の糸は、向こうからからんでくる。
からんできて、その人の進むべき道を、勝手に決めてしまう。

過去の糸、周囲の糸、健康の糸、知人、友人の糸、親類、家族の糸などなど。
もちろんその中でも、もっとも強力なのが、(家族の糸)。
それを心理学の世界でも、「家族自我群」と呼んでいる。
その呪縛感には、相当なものがある。
その呪縛感の中で、人は、もがき、苦しむ。

もっとも良好な人間関係にあれば、よし。
しかし実際には、良好な人間関係にある人は、少ない。
兄弟どうしが、憎しみあい、さらには、親子どうしが憎みあう。
他人なら「さようなら」と別れることもできるが、肉親で
あるがゆえに、それもできない。

その人自身はともかくも、近くの親類の人たちがそれを許さない。
私のばあいも、たった数歳、年長というだけで、
ノー天気な人たちに、皆の前で、公然と批判されたこともある。

当の本人は、軽い節介のつもりかもしれないが、ときと場合によっては、
そうした心無い言葉は、グサリと胸に突き刺さる。

現実には、それをきっかけに、私のほうは、縁を切る。
交際を断ち切る。

兄の死にしても、母の死にしても、それ自体は、悲しいものだった。
その心には偽りはない。
しかし同時に、それまでの家族自我群から解放された喜びも、
これまた否定しがたい。

私は実家のことが心配で、海外へ移住もできなかった。
ほかにも、いろいろな夢や計画があったが、それも断念せざるをえなかった。

私の実家だけではない。
母は、私から受け取ったお金を、「小遣い」と称して、さらに母の実家に
貢いでいた。
母のすることだから、私には干渉できなかったが、半端な額ではない。
一度、それを母に確かめたことがあるが、母は、「(1回につき)、100
万円かなあ、200万円かなあ……」ととぼけてみせた。

ともかくも、人は、ひとりでは生きられない。
それはわかるが、同時に、ひとりで生きることを許してもくれない。

同時に、人は無数のしがらみやこだわりを、引きずって歩く。
重い足を、だ。

が、やっと私は、その家族自我群から解放された。
いくつかの事務手続きは残っているが、それはそれぞれの専門家に
任せてある。
あとは、静かに、心をいやしながら、そのときを待てばよい。

今朝、ワイフは、こう言った。
「今度から、2泊とか、3泊の旅行ができるわね」と。
どこかうれしそうだった。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●母の葬儀を終えて……

+++++++++++++++++

母は、10月13日に他界した。
今日は、10月18日。
もう5日になる。

+++++++++++++++++

親にもいろいろあり、同時に、親子関係にも
いろいろある。

私と母の関係が標準というわけではない。
またそれを基準にして、ものを考えてはいけない。
知人のS氏(現在、67歳)も、2年ほど前、
実母を亡くしている。
そのS氏は、こう言った。

「ぼくのばあい、(母の葬儀のとき)、一滴も涙は出なかった」と。

別の知人のS氏の実母は、今年、95歳になるという。
特別養護老人センターに入居して、15年近くになるという。
しかしその実母を見舞うのは、1年に1、2度とか。

人、それぞれ。
親子関係も、これまた人、それぞれ。

私がそうであるかといって、他人もそうであるべきと
考えてはいけない。
反対に、他人がそうであるからといって、自分も
そうであるべきと考えてはいけない。

大切なことは、それぞれの人が、それぞれの立場で、
相手を認め、相手の気持ちを尊重すること。

私のばあいは、母が他界した日は、悲しかった。
つぎの日も、母の遺影を見て、涙が出た。
しかしその翌日くらいから、つまり葬儀が終わったあたりから、
急速に悲しみが薄れてきた。
それにかわって、それまでになかった解放感を味わうことが
できるようになった。

肩の荷がおりたというか、ほっとした安堵感を覚えるように
なった。

が、心の支えを失ったという、喪失感は、ない。
というのも、この40年間、実家の生計を支えてきたのは、私。
経済的な負担感というより、その社会的負担感には、相当な
ものがあった。

こう書くと、親意識の強い人なら、私を批判するかもしれない。
あるいはマザコンの人には、今の私の感覚を、理解することは
できないかもしれない。

しかし5日目の今日は、私はワイフと息子と、映画を見に行ってきた。
『イーグル・アイ』。
前から楽しみにしていた映画だった。
星は、4つの★★★★。
いつもなら、映画にしても、一度、センターに電話を入れ、母の容態を
確かめてから行かねばならなかった。
しかし今夜は、それをしなくてすんだ。

映画を、そのまま楽しむことができた。
いや、その前に、姉から、法事の問い合わせの留守番電話が入っていた。
が、私には、どうでもよかった。
返事はしなかった。
しばらく、そういったことについて考えるのは、休みたい。
49日の法要とか、そういうことに、どうして、日本人は、こうまで
こだわるのだろう。
まだそれまで1か月以上も、ある。
今は、のんびりと、心を休めたい。
ワイフもこう言った。

「落ちついたら、外国へ旅行に行こう」と。

母や兄のために、この4、5年、1泊以上の旅行をすることも
ままならなかった。
が、これからは、できる。

ホ〜〜〜〜〜〜ツ!

今は、そんな気持ちである。

(戒名)

母の戒名には、「院号」をつけてもらった。
(もともと「院号」というのは、皇族につけられるもの。)
私のためではない。
母のためでもない。
郷里からやってくる、親類たちを満足させるためである。
それでその人たちが満足するというのなら、あとは、お金の問題。
そんなことで、カリカリしたり、イライラしたくない。
だから「院号」をつけてもらった。

「〜〜院釈〜〜」とかいったが、名前は、忘れた。

なお葬儀は、身内だけで、内々にすませた。
香典類をいっさい、断ることも考えたが、葬儀社の人が、
「このあたりでは、まだ10年、早いです」と言ったので、やめた。
「あと10年もすれば、みな、そうするだろう」という意味である。

私の葬儀のときは、そうする。
またそのように息子たちには、しっかりと言い伝えてある。

香典を受け取るな。
返礼もするな。
読経も、戒名も不要。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司






書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
18
●ガムをかむと、頭がよくなる

+++++++++++++++++

もう15〜20年ほど前のことだが、「ガムをかむと、頭がよくなる」という
論文が、アメリカの「サイエンス」誌に掲載された。

それについては、たびたび書いてきた。
この方法は、幼児期に、どこかボーッとして、精彩がない子どもに、効果的である。

で、それに似た論文が、こんど、この日本でも発表された。

時事通信の記事をそのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++++以下、時事通信より+++++++++++++++


顔の筋肉を鍛える医療器具を口にくわえることで、高齢者の身体機能が改善することが、
養護老人ホーム入所者を対象とした研究で分かった。17人中7人は要介護度が改善し、そ
れ以外の人も、日中おむつが取れる、毎日使っていた座薬が不要になるなど、全員に明ら
かな効果がみられた。

 研究を行った宮守歯科診療所(岩手県遠野市)の深沢範子所長は「通常は加齢もあり、
介護度が改善することは考えられない。予想外の効果だ」と話している。

 この器具は特殊なポリエステル製で、歯茎と唇の間に挟むようにくわえ、表情筋を鍛え
る。摂食機能の改善などに用いられる。深沢所長らは遠野市の養護老人ホーム「吉祥園」
の協力を得て、昨年7月以降17人の入所者に、口にくわえて3分間維持するトレーニング
を1日3回してもらった。

 このうち、ほとんど介護を必要としない入所者らを除く10人について、先月、第三者機
関に要介護度判定を依頼したところ、7人が改善していた。
 要介護度4だった68歳男性は、ゆっくり歩ける程度から走れるようになり、要支援1に。
85歳女性は、夜間の失禁が減少、自分で動かせなかった車いすを自在に操るようになり、
要介護度3から2に改善した。

 施設全体でもトレーニング開始後は、風邪や肺炎による入院がほとんどなくなるという
効果があった。

 器具を開発した歯学博士秋広良昭氏によると、このトレーニングで右側前頭葉の脳血流
が増加することが分かっており、脳が活性化して身体機能が改善すると考えられるという。 

+++++++++++++++以下、時事通信より+++++++++++++++


この記事の中で、とくに注意すべき点は、末尾にある、
「このトレーニングで右側前頭葉の脳血流が増加することが分かっており、脳が活性化し
て身体機能が改善すると考えられるという」という部分である。

つまり「顔の筋肉を鍛えると、(この器具を使用したばあい)、右側前頭葉の脳血流が増加
する」という。これは「ガムをかむと、頭がよくなる」という理屈に一致する。

「どうもうちの子は、頭の働きが鈍い(失礼!)」と感じたら、ガムをかませることを、
勧める。
私も、何例か、その効果を、はっきりと確認している。

(1)菓子ガムはさける。(いつも子どもの手の届くところに、置いておくとよい。)
(2)一度噛んだら、1時間前後、同じガムをかませる。
(3)年長期〜小2、3年生期まで、習慣としてつづける。

聡明な子どもは、さらに聡明になると考えてよい。
なお私のBW教室でも、小3以上は、ガムをかませて学習させている。
(それ以下は、教室内では、まだマナーが守れないので、許可していない。)

はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi 
Hayashi education 子どもとガム ガム 子供とガム ガムの効果 ガムで頭がよくなる。)







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
19
●老人段階論(マズローの欲求段階説を参考に)

【より高い人間性を求めて】(1)

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きるこ
とはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズロ
ーの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実
をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれ
として、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生き
ていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい
人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新し
い人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこ
に問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それ
をテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密
になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡
単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るく
して生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによっ
て、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持する
ことができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったとき
から、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢と
ともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わ
かった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそ
れまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」
へのいとおしさというか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。
問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どう
であるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることが
できるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多い
ことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろう
か。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人
間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようにな
る、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの
「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi

最前線の子育て論byはやし浩司(444)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 Hiroshi Hayashi マズロー 欲求段階説)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2904)

【老人・段階論】

+++++++++++++++++++++

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、
よく知られている。

「死」を受容する過程で、人はさまざまな反応を
示すが、それをキューブラー・ロスは段階論として
それを示した。

しかしこの「死の受容段階論」は、そのまま
「老人段階論」にあてはめることができる。

+++++++++++++++++++++

●キューブラー・ロスの「死の受容段階論」(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」について。
ロスは、死に至る過程について、つぎの5期に分けて考えた。

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試
みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●私の母のばあい

私の母のばあい、ひざに故障が起きて、歩くのもままならなくなったとき、
ひどく医者をうらんだ時期があった。

「どうして治らない」「どうして治せない」と。

つぎに自分が老いていくことを許せなかった時期もあった。
たとえば温泉に行くことについても、「恥ずかしいからいやだ」と、かたくなに、
それを拒んだりした。

つぎに自分が動けなくなったことに腹をたて、私の兄に、八つ当りをしたこともある。
兄をののしり、兄を理由もなく、叱ったりした。

が、それも一巡すると、(あるいはその前後から)、ちぎり絵に没頭するようになった。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵をしていた。

さらにこれは、私にも信じられないことだったが、私の家に来てからは、まるで別人の
ように、静かで、おとなしくなった。

ざっと、母の様子を振り返ってみた。
が、それ以前の母はというと、ふつうの女性以上に、勝気で虚栄心が強く、わがまま
だった。

こうした母の変化を順に並べてみると、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」に、
恐ろしいほどまでに、当てはまるのがわかる。

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。
母は、毎日のように治療に専念するようになった。
病院通いのほか、知人、友人の勧めに応じて、いろいろな治療法を試みた。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。
が、治療の効果がないとわかると、一転、「どうして治らない!」と、周囲の人たちに当たり散ら
すようになった。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試
みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。
もともと信心深い人だったが、ますます信仰にのめりこんでいった。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵に没頭するようになった。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。
私の家に来てからは、すべてを観念したかのように、静かに、おとなしくなった。
デイサービスなど、一度とて、それを拒否したことはない。
センター(特別養護老人ホーム)へ入居するときも、すなおに入居した。

母だけの例で、すべての老人もそうであると考えるのは、もちろん正しくない。
しかしほかの老人たちの話を聞いても、それほど、ちがっていない。
つまりキューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、そのまま、これから先の私たち自身の老後
の姿と考えてよい。

(第1期)否認……老人であることを否定する。「私は、まだ若い」と主張する。
(第2期)怒り……老人扱いする周囲に怒りを覚える。「老人を大切にしない」と怒る。
(第3期)取り引き……若い人に妥協したり、媚びを売ったりする。
(第4期)抑うつ……身体的な症状が顕著になってくると、うつ状態になる。
(第5期)受容……老人であることを受け入れ、死に対する心の準備を始める。

この段階論で、自己分析を試みると、私は、現在(第1期)〜(第2期)ということになる。
しかしこれも心の持ち方で、かなり変化する。
というのも、「老人というのは、自ら老人になるのではなく、周囲の人たちによって、老人につく
られていくから」である。
定年という制度も、そのひとつ。

同じ満60歳といっても、健康状態は、みなちがう。
肉体年齢や精神年齢にしても、そうだ。
そういう人たちを、ひとまとめにして、「定年」と決めるほうが、おかしい。
まちがっている。

55歳でヨボヨボの人もいれば、70歳でテニスのコーチをしている人もいる。
私も「あなたも定年の年齢になりましたね」と言われることくらい、不愉快なことはなかった。
定年であるかどうか、もっと言えば、老人であるかどうかは、自分で決めること。
しかし世間全体が、大きな(波)の中で動いている。
私ひとりが、それに抵抗しても、その力は、弱い。
私もいつしか、……と書きたいが、実際には、このところ逆のパワーが強くなってきた。
「生きて、生きて、生き抜いてやる」というパワーが、大きく作用するようになった。
と、同時に、「私は老人である」という考えが、どんどんと薄れていった。

コツがある。

(1)過去を振り返らない。
(2)未来だけを見ていく。
(3)他人に遠慮しない。

あえて(第1期)の否認や、(第2期)の怒りを、経験する必要はない。
身体的な不調がないわけではないが、それについては、運動で克服する。
これは私の経験だが、加齢とともに、運動量をふやすことは、とても重要なことである。
歳をとったから、運動量を減らすなどいうことをすれば、かえって老化を早めてしまう。

また「健康」といっても、3つある。

肉体の健康、精神の健康、それに脳みその健康である。

肉体の健康は、運動で。
精神の健康は、人と接することで。とくに子どもたちと接するのがよい。
また脳みその健康は、脳みそを刺激することで、それぞれ維持する。
具体的には、私夫婦は、つぎのように目標をかかげている。

(1)1日、2単位の運動をする。
(2)月に2回は、日帰りの旅行をする。
(3)週に1度は、劇場で映画を見る。

「人(子ども)と接する」ことについては、私の仕事を利用させてもらっている。
最近は、ワイフも、いっしょに仕事をすることも多くなった。
さらに私のばあい、月に4〜5回の講演活動をしているが、これはたいへん脳みその刺激によ
い。
会場で1〜2時間、大声でしゃべりつづけるだけでも、ボケ防止になるのでは(?)。

要するに、何もあわてて老人になることはない。
年齢という(数字)に影響を受ける必要もない。
またそんなものを気にしてはいけない。
「私は私」。
キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、あくまでも一般論。
何も、それに従う必要はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi Hamamatsu 林浩司 林 浩司 教育評論家 キューブラー ロス 死の受容
段階論 死の受忍 死の受容 死を受け入れる 老後段階論)




●10月21日

+++++++++++++++++++++++

4、5年前に、『マズローの欲望段階論』について
書いた。
その原稿を読みなおしながら、今日、自分で「なるほど」と
思った。
しかし自分で書いた原稿を読みなおして、「なるほど」は、ない。
つまりそれだけ記憶力が弱くなったということか。

+++++++++++++++++++++++

●「愚か」になる人たち

同年代以上の人たちを見ていて、ときどき、こう感ずることがある。
「この人たちは、日々に愚かになっているのに、それに気づいているのだろうか」と。

「愚かになる」というのは、知的能力の総合的な低下を、いう。
知識や経験のみならず、知恵や思考力そのものを失うことをいう。

しかしこれは脳のCPU(中央演算装置)の問題。
脳みそ全体の機能が衰えてくれば、知的能力の低下そのものも、わからなくなる。
自分が愚かになりつつあることすら、わからなくなる。
わからないならまだしも、知的能力が低下していても、「自分は、まとも」と誤解
する人もいる。

私の知人に、今年、85歳になる男性がいる。
軽い脳梗塞を繰り返していることもあり、話し方そのものが、かなり、おかしい。
ろれつが回らない。
そんな男性でも、あちこちに電話をかけて、説教がましいことを言う。
私のところにも、かかってきた。
「親のめんどうは、最後まで、しっかり見ろよな」とか、何とか。

一応言っていることは(まとも)だから、それなりの会話はできる。
が、繊細な話しあいは、できない。
深い話もできない。
そのため私のほうは、適当に話を聞いて、適当に合わせるということになる。

が、これはそのまま、私自身の問題ということになる。
遠い未来の話ではない。
5年とか、10年とか、それくらい程度の、先の話ということになる。

●愚かさの確認

どうすれば、自分の(愚かさ)を、自分で知ることができるか。
あるいはどうすれば、(愚かになっていく程度)を、自分で知ることができるか。

肉体的な衰えは、たとえば体力テストなどで、かなり正確に知ることができる。
同じように、知的能力の衰えも、たとえば知能テストなどで、かなり正確に知ることが
できる。

しかしそれを知ったところで、自分では、けっして、そうは思わないだろう。 
たとえば昨夜も、こんなことがあった。

たまたま帰省している三男がパソコンをいじっていた。
音楽を、二男のインターネット・ストーレッジ(倉庫)から、ダウンロードしていた。
私もキー操作に関しては、かなり速いほうだ。
そう思っていたが、三男は、それこそ目にも止まらぬ速さで、キー操作をしていた。

私が、パチパチ……なら、三男は、その間に、パパパ……と、キーをたたく。
「この画面は何だ?」と質問している間に、すでに数枚先の画面を表示してしまう。

脳みそのクロック数そのものが、ちがう。
私のは、たとえて言うなら、1・0GH(ギガヘルツ)。
三男のは、たとえて言うなら、3・1GH(ギガヘルツ)。

クロック数そのものがちがうから、自分で自分の(愚かさ)を知ることはない。
しかし三男には、それがわかる。
何となく、私を見下したような目つきで、ジロッとながめる。
もたもたしている私の指先を見つめ、「イーxxx」と。
使っているソフトが、「イーxxx」という意味らしい。

では、自分の脳みそのクロック数を知るためには、どうしたらよいのか。

●子どもとの競争

ひとつの方法としては、知能テストもある。
しかしこの方法では、思考力のある・なしはわかるが、クロック数まではわからない。
そこでもうひとつの方法として、子どもと競争するという方法がある。

実のところ、私はいつも、この方法で自分のクロック数を確かめさせてもらっている。

レベル的には、中学生〜高校受験用の問題がよい。
そういった問題で、子どもと競争する。

ただし私のように、仕事上、毎回訓練しているほうが、有利。
問題を見ただけで、解答の道筋が見えてしまう。
(子どものほうは、最初、手さぐり状態になる。)

……ウ〜〜ン……

何かよい方法はないものか。

たとえば脳みその中を走る電気信号を、計数的にとらえることはできないものか?
たとえば右脳のA点から出た信号が、左脳のB点に達するまでの時間を計測する、とか。
「あなたは、0・03秒かかりました」「あなたは、0・13秒かかりました」とか、など。
そこであなたの脳みそのクロック数は、「0・02GH」「0・003GH」と。

家庭でできる方法としては、(1)速算、(2)早読みなどでもわかるかもしれない。
(これも訓練で、速くなるだろうが……。早読みにしても、声の大きさによっても、変化
するにちがいない。)

脳みそのクロック数が落ちてくると、「アウ〜〜」「エ〜〜ト」という言葉が多くなり、
話し方も、かったるくなる。
昔、大平総理大臣という人がいたが、ああなる。

が、結論から先に言えば、脳みそも、肉体の健康と同じ。
鍛練してこそ、能力を維持できる。
……ということで、今日は、これから仕事に行く。
もちろん自転車で。

夜は、ワイフとデート。
楽しみ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 脳のクロック数)






書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
20
【一億総ギャグ化】

●ものごとを茶化す子ども

++++++++++++++++++++++

何かテーマを与えても、すぐそれをギャク化して
しまう子どもは、少なくない。

小学3〜4年生レベルで、20〜30%はいる。
その傾向のある子どもとなると、もっと多い。
1人の子どもが茶化し始めると、ほかの子どもたちも
同調して、クラスがめちゃめちゃになってしまうこともある。

こうした傾向は、年中児くらいのときに、すでに現れる。

私「秋になると、どんな果物が出ますか?」
子「出る、出る、出るのは、お化け!」
ほかの子「お化けだってエ〜」「ギャーッ」と。

++++++++++++++++++++++

ここ20年の傾向として、いわゆる(まじめに考える子ども)が少なくなったことが
あげられる。
論理を積み重ねあわせるということができない。
静かにものごとを推理したり、分析したりすることができない。
ひらめき思考というか、直感(直観)ばかりが、異常に発達している。
反応は速いが、言うことなすこと、支離滅裂。
まるでテレビのバラエティ番組の出演者のようなしゃべり方をする。
脳に飛来した情報を、そのままペラペラと口にしているだけ。

私「世界の食糧が足りなくなるそうだ」
子(小4男児)「大きな動物を飼育すればいい」
私「大きな動物って?」
子「ゴジラとか、恐竜とか、さあ」
私「そんな動物はいないよ」
子「じゃあ、クジラでもいい。浜名湖で、養殖すればいい」と。

先にも書いたように、こうした傾向は、年中児くらいから見られるようになる。

何か問題を与えても、まじめに考えようとしない。
「お父さんの顔を描いてね」と紙を渡しても、怪獣の絵を描いたりする。
しかもゲラゲラと笑いながら、それを描く。
だから私のほうは、「まじめに考えなさい」と注意するのだが、もちろん「まじめ」
という言葉の意味そのものが、理解できない。
ほかに、視線が定まらない。(フワフワとした感じになる。)
興奮しやすい。(キャッ、キャッと騒ぐ。)
静かに考えるという習慣そのものがない。(ソワソワし、刺激を求める。)
言い方が乱暴、などの特徴が見られる。

で、子どもがそうなるには、いろいろな原因が考えられる。
右脳の過度な刺激?
テレビのギャグ(バラエティ)番組の見すぎ?
家庭における、親の過干渉?
が、何よりも大きな影響を与えるのは、母親と考えてよい。

子どもというのは、生まれながらにして、無数の接触を通して、親、とくに母親の
影響を大きく受ける。
「受ける」というより、母親と一体化する。
こと親子に関していえば、(教えずして教える)部分のほうが、(教えようとして
教える)部分より、はるかに多い。

その(教えずして教える)部分を通して、子どもは親の考え方そのものを
身につけてしまう。
たとえば母親が毎晩、ギャグ番組を見ながら、ゲラゲラと笑いこけていたとする。
当然、母親は、番組の影響を受ける。
そして子どもは、母親の影響を受ける。
タバコにたとえるなら、母親がタバコを吸い、子どもがその副流煙を吸い込む。

ほかにも、たとえば母親がいつも頭ごなしなものの言い方をしていると、
当然のことながら、子どもは、(考える)という習慣そのものを失う。
たとえば、粗放型の過干渉児も、(親の過干渉によって萎縮するタイプと、
反対に粗放化するタイプがある)、似たような症状を示すこともある。

態度が大きく、ものの言い方が、乱暴。
存在感はあるが、静かな落ち着きが見られない。

が、こうした習慣は、先にも書いたように、かなり早い時期に決まる。
(反対に、論理力のある子どもかどうかも、年中児くらいのときにはっきりしてくる。)
そしてここからが重要だが、そうした問題点が見つかったからといって、また
親がそれに気づいたからといって、簡単にはなおらない。

子どもはあくまでも(家族の代表)でしかない。
子どもを変える(?)のは、むずかしい。
が、親を変える(?)のは、さらにむずかしい。

過干渉児にしても、一度そういう症状が現れてしまうと、(親は、「どうすれば
ハキハキした子にすることができるでしょうか」と相談してくるが)、子どもを
なおすのは、不可能と考えてよい。

ふつう私がアドバイスしたくらいでは、効果はほとんど、ない。
論理力の欠如にせよ、過干渉にせよ、それを親に自覚させるのは、たいへんむずかしい。
ほとんどの親は、自分では、「ふつう」と思いこんでいる。
その(ふつう)を、まず打破しなければならない。

さらに言えば、「お母さん自身が、もっと論理力を養ってください」と言っても、
困るのはその親自身というということになる。
少し前にもある母親とそういう会話をしたが、「では、どうすればいいですか?」と
聞かれて、私は、ハタと困ってしまった。

また親の過干渉についていえば、親自身の情緒的欠陥に起因しているケースが多い。
(心の病気)が、原因となることもある。

(よく誤解されるが、口うるさいことを過干渉というのではない。
口うるさいだけなら、子どもには、それほど大きな影響はない。
「過干渉」というときは、そこに親に(とらえどころのない情緒的な不安定さ)が
あることをいう。
気分によって、子どもをはげしく叱ったかと思うと、その直後には、子どもの前で
涙を出しながら、「ごめん」と謝ったりするなど。)

だから、「不可能と考えてよい」ということになる。
つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、親の問題。
親の問題というよりは、社会全体がかかえる、(社会問題)と考えてよい。

(社会)そのものから、(まじめに考える)という習慣が欠落し始めている。
あの大宅壮一は、『一億総白C化』という言葉を使ったが、現在は、『一億総ギャク化』
の時代ということになる。

日本を代表する総理大臣が、「私の愛読書は、ゴルゴ13(コミック)」と発言しても、
みじんも恥じない。
だれもそれをおかしいとも思わない。
そんな風潮が、この日本には、できてしまった。

その結果が、冒頭に書いた(ものごとを茶化す子ども)ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問
題 家庭教育 はやし浩司 Education ギャク化する子供 子供のギャク化 茶化す子供 茶化
す子ども)

++++++++++++++++++

6年前にも同じようなことを書きましたので、
紹介させてもらいます。

++++++++++++++++++


●学ぶ心のない子どもたち

 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに
考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。

 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ
化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳
に入らない。

私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」
子「三角関係だ、三角関係だ!」
私「何、それ?」
子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」
私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」
子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」
私「やっちまえ、って、どういうこと?」
子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。

 これは小学5年生たちと、実際した会話である。

 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テ
レビを、毎日4〜5時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、1日中、テレビを
見ている子どももいる。

よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がない。たとえば毎日4時間
テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均値は、2時間となる。だか
ら「平均的な子どもは、2時間、テレビを見ている」などというのは、ナンセンス。毎日、4時間、
テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだまされてはいけない。

 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその
一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソ
の中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考え
ようとする姿勢そのものが、ない。

 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なく
とも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。

このタイプの子どもは、自分自身が何らかの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽
(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、その「まじめに考える道」をさがすしかない。結論を先
に言えば、そういうことになるが、問題は、ではどうすれば、そういう子どもにしないですむかと
いうこと。K君(小5男児)を例にとって、考えてみよう。

 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加
工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、1日中、テレビを見てい
る。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組を見ている。

 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え
方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子ども
のときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。

 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になっ
た。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということにな
る。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたの
で、ここでは省略する。

 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそ
うでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子ど
もも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。

とても残念なことだが、こうした子どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そ
して新しいタイプの日本人像をつくりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけ
ではない。おとなの世界でも、ギャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもい
る。中には、あちこちから「文化人」(?)として表彰されているタレントもいる。日本人全体が、
ますます「白痴化」(大宅壮一)しつつあるとみてよい。とても残念なことだが……。
(02−12−21)

●まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。
●あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよ
う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●裸の王様(02年に書いた原稿です)

 アンデルセンの童話に、「裸の王様」(原題は、「王様の新しい衣服」)という物語がある。王
様や、その側近のウソやインチキを、純真な子どもたちが見抜くという物語である。しかし現実
にも、そういう例は、いくらでもある。

 先日も、私が、「今度、埼玉県のT市で講演することになったよ」と言うと、「へエ〜、どうしてあ
んたなんかが?」と、思わず口にした中学生(女子)がいた。その中学生は、まさに裸の王様を
見抜いた、純真な心ということになる。

 反対に、何かのことで思い悩んでいると、子どものほうからその答を教えてくれることがある。
H市は、市の中心部に、400億円とか500億円とかをかけて、商業開発ビルを建設した。映
画館やおもちゃ屋のほか、若い女性向けの洋品店などが並んだ。

当初は、結構なにぎわいをみせたが、それは数か月の間だけ。2フロアをぶちぬいて、子ども
向けの児童館も作ったが、まだ1年そこそこというのに、今では閑古鳥が鳴いている。内装に
かけた費用が5億円というから、それはそれは豪華な児童館である。どこもピカピカの大理石
でおおわれている。もちろん一年中、冷暖房。まばゆいばかりのライトに包まれている。

で、その児童館について、ふと、私は、こう聞いてみた。「みんなは、あそこをどう思う?」と。す
ると子どもたち(小学生)は、「行かなア〜イ」「つまらなア〜イ」「一度、行っただけエ〜」と。

 私の教室は、18坪しかない。たった18坪だが、部屋代はもちろんのこと、光熱費の使い方
にまで気をつかっている。机やイスは、厚手のベニヤ板を買ってきて、自分で作った。アルバイ
トの学生を使いたくても、予算に余裕がなく、それもできない。が、それでも私の生活費を稼ぐ
だけで精一杯。が、私にとっては、それが現実。

 しかし同じH市に住みながら、行政にいちいちたてつくことは、損になることはあっても、得に
なることは何もない。それに文句を言うくらいなら、だれにだってできる。しかもすでに完成して
いる。いまさら文句を言っても始まらない。それで思い悩んでいた。が、子どもたちは、あっさり
と、「つまらナ〜イ!」と。それで私も、ホッとした。「そうだよな、つまらないよね。そうだ、そう
だ」と。

 仮に百歩譲っても、日本がかかえる借金は、もうすぐ1000兆円になる。日本人1人あたり、
1億円の借金と言ったほうが、わかりやすい。あなたの家族が、4人家族なら、4億円の借金と
いうことになる。そんなお金、返せるわけがない。ないのに、まだ日本は借金に借金を重ねて、
道路や建物ばかり作っている。いったい、この国はどうなるのか? 政治家たちは、この国を、
どうしようとしているのか?

 もう、私にはわからない。「なるようにしか、ならないだろうな」という程度しか、わからない。
が、かわいそうなのは、つぎの世代の子どもたちである。知らず知らずのうちに、巨額の借金
を背負わされている。

いつかあの児童館には、5億円もかかったことを知らされたとき、子どもたちは何と思うだろう
か。果たして「ありがとう」と言うだろうか。それとも「こんなバカなことをしたからだ」と、怒るだろ
うか。今の今でも、子どもたちが「あそこは楽しい」と言ってくれれば、私も救われるのだが…
…。まあ、本音を言えば、結局は、役人の、快適な天下り先が、また一つ、ふえただけ? ああ
あ。

 では、どうするか。私たちは、何を、どうすればよいのか?

 私はすでに、崩壊後の日本を考えている。遅かれ早かれ、日本の経済は、破綻する。その
可能性はきわめて高い。その破綻を回避するためには、金利をかぎりなくゼロにして、国民の
もつ財産を、銀行救済にあてるしかない。が、仮に破綻したとすると、日本はかつて経験したこ
とがないような大混乱を通り抜けたあと、今度は、再生の道をさぐることになる。

が、皮肉なことに、その時期は早ければ早いほど、よい。今のように行き当たりばったりの、つ
まりはその場しのぎの延命策ばかりを繰りかえしていれば、被害はますます大きくなるだけ。と
なると、答は一つしかない。日本人も、ここらで一度、腹を決めて、自らを崩壊させるしかない。
そしてそのあと、日本は暗くて長いトンネルに入ることになるが、それはもうしかたのないこと。
私たち自身が、そういう国をつくってしまった!

 ただ願わくは、今度日本が再生するにしても、そのときは、今のような官僚政治とは決別しな
ければならない。日本は真の民主主義国家をめざさねばならない。新しい日本は、私たち自身
が設計し、私たち自身が建設する。そのためにも、まず私たち自身が賢くなり、自分で考える。
自由とは何か、平等とは何か、正義とは何か、と。それを自分たちで考えて、実行する。またそ
ういう国でなければならない。そのための準備を、今から、みんなで始めるしかない。

 少し熱い話になってしまったが、子どもたちは、意外と正義を見抜いている。しかしその目
は、裸の王様を見抜いた目。ときどきは、子どもたちの言うことにも、耳を傾けてみたらよい。
すなおな気持ちで……。
(02−12−21)

●子どもには、もっと税金の話、税金の使われ方の話をしよう。
●おかしいことについては、「おかしい」と、みなが、もっと声をあげよう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

【一億総ギャグ化】

●ハンガーのない県

 昨夜、バラエティー番組を見た。クイズ番組だった。

 「日本で、ハンガーを使わない県がある。どこか?」と。

 何人かの出演者。それに司会者。たがいに「こうだ」「ああだ」と、意見をかわしていた。が、
そのうち、だれもわからないとわかると、司会者がヒント。「ハンガーは、何をするためのもので
すか?」と。

 私は、その番組を見ながら、ふと、「いったい、日本で、今、何%の人が、こういう番組を見て
いるのだろう」と思った。平均視聴率からすると、5〜10%ということになる。

 間の7・5%をとると、約1000万人の人が見ていることになる。(視聴率イコール、視聴者の
数ではない。この計算は、正しくないかもしれないが、おおむね、そんなもの。)

 もともと娯楽番組だから、深く考える必要はない。出演者も、見るからに、その程度の人た
ち。

 しかしその瞬間、日本中で、約1000万人の人が、この問題を考える。1000万人だぞ!

 が、本当のところ、考えているのではない。情報を、頭の中で加工しているだけ。広く誤解さ
れているが、思考と情報は、まったく別。物知りだから、頭がよいということにはならない。情報
の加工は、あくまでも情報の加工。思考とは、区別する。

 このクイズの正解は、「福岡県」だそうだ。「服をかけない」=「ふくおかけん」=「福岡県」と。

 こうした駄ジャレは、子どもの世界では、日常の会話のようにもなっている。たがいに言いあ
っては、キャッ、キャッと笑いあっている。

 「ブツゾー(仏像)」「ドウゾー(銅像)」という定番ものから、「左右とは言うけど、右左(ユウ・
サ)とは言わない」「ユーサー(言うさア)」というのまで、ズラリとある。

 子どもの世界では、こうしたジャレは、いわば、遊び。娯楽は、娯楽。あくまでも一部。

 そこで改めて、『一億、総ハxチ化』(大宅壮一)について考えてみる。

 一億の人たちが、ノーブレインになる前提として、(1)単一化と、(2)バランスの欠如をあげ
る。

 無数の駄ジャレがあって、無数のバリエーションがあればよい。それが一つの駄ジャレに、約
1000万人の人が、共鳴する。これを単一化という。

 つぎに娯楽は、一方に、理知的な活動があってはじめて、娯楽となる。一方的に娯楽ばかり
追求していたのでは、バランスがとれなくなる。子どもにたとえて言うなら、一方で、勉強をし、
その合間に、駄ジャレを楽しむというのであれば、問題はない。大切なのは、バランスである。

 そのバランスがなくなったとき、人は、ノーブレインの状態になる。

 私の印象としては、日本人は、ますますノーブレインになってきていると思う。ときどき私自身
はどうであったか。私の若いころはどうであったかと考えるが、今の若い人たちよりは、もう少
し、私たちは、ものを考えたように思う。根拠はないが、そう思う。

 「服をかけん」=「福岡県」か? なるほどと思うと同時に、こんなくだらないことで、日本中
が、騒いでいる? 私はそちらのほうこそ、問題ではないかと思った。それがわかったところ
で、考える人にはならない。またわかったからといって、頭のよい人ということにはならない。

 いいのかな……? それともテレビ局は、日本人を、わざとノーブレインするために、こういう
番組を流しているのだろうか? ……とまあ、番組を見ながら、いろいろ、そこまで考えてしまっ
た。

【追記】

思考……自分で考えること。思考には、独特の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い
夜、自分の体にムチを打って、ジョギングに出かけるような苦痛である。そのため、ほとんど人
は、その苦痛を避けようとする。

情報……いわゆる知識をいう。経験として知っていることも、それに含まれる。いくらその人の
情報量が多いからといって、思考力のある人ということにはならない。この情報は、思考と、は
っきりと区別する。

情報の加工……知っている情報を、足したり引いたり、足して2で割ったりするのを、情報の加
工という。今まで、この情報の加工は、思考力の一つと考えられてきた。しかし情報の加工は、
思考力とは関係ない。学校で習う、数学の証明問題を考えてみれば、それがわかる。パスル
でもよい。それがいくらすばやく解けたところで、頭のよい人ということにはならない。それにつ
いては、また別のところで考えてみたい。

 
●情報の加工

 中学2年生で、三角形の合同を学ぶ。「2辺とその間の角が、それぞれ等しいので、△ABC
≡△DEF」という、あれである。

 こうした問題には、得意、不得意がある。得意な子どもは、スイスイと解く。そうでない子ども
は、いくら教えても、コツを飲みこめない。

 しかしこうした問題には、そのコツがある。たくさん量をこなせば、よりむずかしい問題が解け
るようになる。が、それが解けたところで、思考力のある子どもということには、ならない。

 私は、若いころ、一人の高校生(男子)を教えていて、それを知った。ある予備校でアルバイ
トをしていたとき、その予備校の校長に、頼まれて、家庭教師をした。その高校生だった。

 その高校生は、こう言った。「この世の中のことは、すべて数学で証明できる」と。そう、彼は
「人間関係も、すべて証明できる」と言った。「その公式が見つからないだけだ」とも。

 実にヘンチクリンな高校生だった。常識に欠けるというか、常識そのものを感じなかった。も
ちろん恋などとは、無縁。音楽も聞かなかった。ただひたすら、勉強、また勉強。

 だから日本でいう(勉強)は、実によくできた。当然のことながら、数学だけは、とくに、よくでき
た。三角関数の微分問題でも、子どもが、掛け算の九九を唱えるように簡単に解いていた。

 しかし私たちは、そういう子どもを、思考力のある子どもとは、言わない。数学という情報を、
組み合わせ、分解し、あるいは、集合させているだけ。あるいはそのつど、必要な情報を、臨
機応変に取り出しているだけ。

 わかりやすく言えば、ここで「掛け算の九九」と書いたが、いくら掛け算の九九をソラでスラス
ラと言っても、思考力のある子どもとは言わない。掛け算の問題がスラスラと解けたからといっ
て、思考力のある子どもということにもならない。

 数学のレベルこそ、ちがうが、その高校生も、そうだった。

 だから私は、あえて言う。情報の加工と、思考力は、区別して考える。

 思考力というのは、心の常識に静かに耳を傾け、自分がすべきことと、してはいけないこと
を、冷静に考え、判断する能力をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●超能力捜査官(?)

 おとといも、そして昨夜も、民放のテレビ局が、超能力捜査官なる人物を登場させて、わけの
わからない番組を流していた。

 で、最後までしっかりと見たが、結局は、みな、ハズレ! おとといの番組は、超能力捜査官
なる人物を使って、生き別れになった母親を探し出すというもの。昨日の番組は、アメリカで失
踪した、女子大学生の行方を探し出すというもの。

 ものごとは、常識で考えろ! そんなことで、生き別れになった人や、失踪した人の居場所な
ど、わかるはずがない。多少の科学性があるとするなら、ダウジングだが、しかし、私は、信じ
ない。ダウジングというのは、針金のような棒をもって、地下に埋まっているものをさがしだすと
いう、あれである。

 その(モノ)の上に、何かの棒(これをダウジングロッドという)をもってやってくると、その棒が
地下にあるものと反応して、動いたりするという。その動きを見ながら、地下にあるものをさが
しだす。

磁場や磁力の微妙な変化を感じ取ってそうなるらしいが、しかし水脈や鉱脈のような大きなも
のについては、その可能性もないとは言えないが、地下に埋まった筒や箱程度のものに、それ
ほどまでに大きな力があるとは、思われない。つまり手にもった棒を動かすほどの力があると
は、思われない。

 番組の中では、学校の校庭に埋められたタイムカプセルをさがし出すというようなことをして
いたが、逆に考えてみれば、トリックは、簡単にわかるはず。

 あなたがタイムカプセルを埋めるとしたら、どんな場所に埋めるだろうか。まさか校庭に中央
ということはあるまい。たいていは、校庭のすみで、木とか、鉄棒とか、何かの目印になるもの
の横に埋める。そうした常識を働かせば、タイムカプセルがどこに埋められているかは、おお
よその見当がつくはず。

 ああいう番組を、何の疑いももたず、全国に垂れ流す、その愚かさを知れ。当たりもしないの
に、そのつど、ギャーギャーと騒いでみせる、その愚かさを知れ。さらにこうした番組が、それを
見る子どもたちにどのような影響を与えるか、その恐ろしさを知れ。

 超能力捜査官を名乗る男たちは、その過程で、道路の様子や、風景について、あれこれと言
い当てて見せたりする。しかしそんなことは、あらかじめ簡単な下調べをすれば、わかること。

男「近くに湖があります」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」
男「学校があるはずです」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」と。

 しかし肝心の遺骨は出てこなかった。が、それ以上に許せないのは、遺族ともまだ言えない
家族を前にして、「殺されています」「埋められています」と、口に出して、それを言うこと。他人
の不幸を、こういう形で、娯楽番組にしてしまう、その冷酷さを知れ。残酷さを知れ!

 本当に、日本人はバカになっていく。昔、「一億、総xxx」と言った、著名な評論家がいたが、
日本人は、ますますそのxxxになっていく。「xxx」というのは、ノーブレインの状態をいう。脳死
の状態と言ってもよい。

 こういうことを書くと、それを信じている人は、猛烈に怒る。その気持ちは、わかる。しかしそ
れこそカルト信仰ではないのか。あるいはカルト信仰の前段階と言ってもよい。そういうものを
信ずることによって、知らず知らずのうちに、その人は、カルト信仰の下地を、自ら、作ってい
ることになる。

(付記)

 そうであるとは断言できないが、テレビ局は、たまたま当たったばあいだけを、編集して放送
しているのではないかという疑いもある。もしそうなら、それこそ、まさに詐欺と断言してよい。
国民の良識を愚弄(ぐろう)する、詐欺である。こうした番組を見るときは、そういう目で見ること
も忘れてはならない。








書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
21
●孔子の60代(Confucius on 60's)

+++++++++++++++++++

60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。

孔子(前551〜前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。

その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。

『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。

+++++++++++++++++++++

計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。

ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。

それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。

が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。

もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。

私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。

このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。

老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。

ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!

さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 論語 春秋時代 Confucius)


●朝に道を聞かば……

+++++++++++++++++

論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。

それについて以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよ
うに三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から
帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。
「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをして
いると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭
したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたし
かに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇
〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある
日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢
で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。
私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっ
ては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き
方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生き
ることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生
と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができ
る。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死
すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはない
ということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっ
ている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の
老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕事に行くが、いま
だかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェ
ンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と
思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、
「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人にな
っても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、そ
れは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だ
ったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を生きたくらいの価値に
しかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができ
る。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の
長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダに
していることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまら
ないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、七〇歳や八
〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その
「山」があるのかないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつ
も一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそれが
繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先
へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えら
れなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボ
ケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくこと
はできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私が
こう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だ
から空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生
だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●よい人・いやな人

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心のどこかで
覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温めるといっても、
もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっと早く知りあいになって
おけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ六〇歳です」と言っていた
が、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、私は、どう
いうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの人だった。短い時間
だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あな
たを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思っているなら、Aさんも
あなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんをいやな人と思っているな
ら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係というのはそういうもので、長い
時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別の講
演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待っている間、自分
でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな気配りをしながら、
それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。時間にすれば三〇分ほどの
時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにごまかし
てつきあうこともできる。が、半年、一年となると、そうはいかない。ここにも書いたように、心は
カガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すようになる。もしあなたがB先
生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの子どもを介して、あなたのこ
とを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたがいの心の相乗効果が、よりよい人間関
係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずかしくな
い」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「うちの親はすば
らしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つまり、もしあなたが「うちの
子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきことは、ただ一つ。自分の心をつくり
なおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつくりなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今からで
も遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっとよくなったわ」
「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよい。ウソでもよいから、
それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、それが自然な形で言えるようにな
ったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になっている。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわりには、
よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来的にもってい
る「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人のまわりを、明るく、過ご
しやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と言った言葉
の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかっている。心
はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、とてもMさ
んのようにはなれない。私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩
司って、こんな程度の男だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわか
る。過去を悔やむわけではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早
く、つまりもっと若いときにそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔することはない
だろうと思う。私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づか
なかった。そういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。
(02−10−6)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●こんな事件

 ビデオのレンタルショップの前でのこと。一台の車が、通路をふさぐように駐車してあった。そ
の横の駐車場には、まだ空いているところがたくさんある。ほかの車が通れない。そこで私は
そのときふと、つまりそれほど深く考えないで、ワイフにこう言った。「あんなところに、車を止め
ているバカがいる」と。ワイフがその方向を見たその瞬間、ななめうしろに立っていた女性(五
〇歳くらい)が、私たちをものすごい目つきでにらみながら、その車のほうに走っていった。そこ
に車を止めていたのは、その女性だった。

 私は瞬間、なぜ私たちがにらまれるのか、その理由がわからなかった。しかし再度、にらま
れたとき、理由がわかった。わかったとたん、何とも言えない気まずさが心をふさいだ。まさか
私たちのうしろに立っていた人が、その人だったとは! 私はたしかに、「バカ」という言葉を使
った。……使ってしまった。

 口は災(わざわ)いのもととは、よくいう。私はその女性とはショップの中で、できるだけ顔を合
わせないようにしていた。が、それでも数度、視線が合ってしまった。いやな気分だった。その
女性は、駐車場でないところに車を止めた。それはささいなことだが、ルール違反はルール違
反だ。しかしそれと同じくらい、「バカ」という言葉を使った、私も悪い。それはちょうど、泥棒に
入ったコソ泥を、棒でたたいてケガをさせたようなものだ。相手が悪いからといって、こちらが
何をしてもよいというわけではない。私にしてみれば、私の「地」が、思わず出てしまったという
ことになる。

 私はもともと、生まれも育ちも、よくない。子どものころは、喧嘩(けんか)ばかりしていた。か
なりの問題児だったようだ。いつも通知表に、「落ち着きがない」と書かれていた。それもその
はず。私が生まれ育った家庭は、「家庭」としての機能を果たしていなかった。私がここでいう
「地」というのは、そういう素性をいう。

 で、こういう状態になると、ゆっくりとビデオを選ぶという気分には、とてもなれない。早くその
場を離れたかった。そういう思いはあったが、ではなぜ私が「バカ」という言葉を使ったか、それ
には理由がある。弁解がましく聞こえるかもしれないが、まあ、話だけは聞いてほしい。

 今、この地球は、たいへんな危機的状況にある。あと一〇〇年で、地球の平均気温は、三〜
四度ほどあがるという。まだ零点何度かあがっただけで、この地球上では、無数の異変が起き
ている。こういう異変を見ただけでも、三〜四度あがるということがどういうことだか、わかるは
ず。しかし、だ。その一〇〇年で、気温上昇が止まるわけではない。つぎの一〇〇年では、も
っとあがる。このまま上昇しつづければ、二〇〇年後には、一〇度、二〇度と上昇するかもし
れない。そうなればなったで、人類どころか、あらゆる生物は死滅する。

 で、こうした異変がなぜ起き始めたかだが、私は、その責任は、それぞれの人すべてにある
と思う。必要なことを、必要な範囲でしていて、それで地球の気温があがるというのであれば、
これはやむをえない。まだ救われる。しかし人間自身の愚かさが原因だとするなら、悔やんで
も悔やみきれない。

●小型ジーゼル車のマフラーを改造して、燃費をよくする人がいる。そういう人の車は、モクモ
クと黒煙をあげて走る。私はそのたびに、ハンカチで口を押さえて、自転車をこぐ。

●信号が赤になっても、しかも一呼吸おいたあと、その信号を無視して、走り抜けようとする人
がいる。私も先日、あやうくそういう車にはねられそうになった。

●私の家の塀の内側は、かっこうのゴミ捨て場になっている。ポリ袋、弁当の食べかす、タバコ
の空箱、ペットボトルなどが、いつも投げ込まれる。そのたびに、しなくてもよい掃除をする。

●小さな車やバイクだが、やはりマフラーを改造し、ものすごい音をたてて走る若者がいる。そ
ういう車やバイクが走りすぎるたびに、恐怖感を覚える、などなど。

 そういう無数の「ルール違反」が重なって、結局は、この地球の環境を破壊する。それもここ
に書いたように、生きるために必要なことをしていてそうなったのなら、まだ救われる。しかし人
間の愚かな行為が積み重なってそうなったとしたら、それはもう、弁解の余地はない。映画『フ
ォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親は、こう言っている。「バカなことをする人をバカと
いうのよ。(頭じゃないのよ)」と。

 私は駐車場でもないところに平気で駐車している人は、そのバカな人ということになる。こうい
う人たちの「ルール違反」が、積もりに積もって、この地球の環境を破壊する。むすかしいこと
ではない。その破壊は、私たちの、ごく日常的な、何でもない行為から始まる。だから私は「バ
カ」という言葉を使ってしまった。心のどこかで、地球温暖化の問題と、その車が結びついてし
まったからだ。が、しかし、あまりよい言葉ではないこともたしかだ。これからは外の世界では
使わないようにする。もう少し別の方法で、こうしたルール違反と戦いたい。
(02−10−6)




●満61歳にして、自分を知る

+++++++++++++++++

私が子どものころ、50歳以上の人は、
みな、ジー様に見えた。

20歳のときも、そうだった。
30歳のときも、そうだった。

しかし自分が実際に50歳になってみると、
ジー様という実感は、どこにもない。
60歳になっても、どこにもない。

しかし私は、もうすぐ61歳。
つまりジー様中のジー様。

そこで改めて考えてみる。
「ジー様とは何か?」と。

++++++++++++++++

●ジー様論

多分、若い母親たちは、私を、ジー様と見ているだろう。
少なくとも、「男」とは見ていない。
それが、このところ、より強く感ずるようになった。
そこで改めて、ジー様論。

加齢とともに衰弱していくもの。
体力を筆頭に、知力、気力、精力、集中力。

体力は、基本的な体力のほか、持続力、瞬発力がある。
知力は、記憶力、思考力、理解力。
気力は、全体に弱くなる。
あわせて、好奇心や探究心が弱くなる。
精力は、これはあくまでも私のばあいだが、50代になって弱くなり、60代に
近づくにつれて、復活(?)してきたように思う。
これは更年期障害と深く関係しているのではないか。
最後に集中力だが、これは気力と深く関連している。
今では、文章を書いていても、2、3時間が限度。
それ以上になると、疲れを覚える。
コンから離れてしまう。

●脳の老化

心配なのは、微細脳梗塞。
(もちろん大型の脳梗塞も恐ろしいが……。)
脳の中の細い血管が、血栓か何かでつまり、そこで梗塞を起こすというもの。
見た目には症状もなく、日常的な生活をするには、なんら支障はない。
が、頭の回転そのものが遅くなる。
話し方がかったるくなったり、反応が鈍くなる。
繊細な会話ができなくなる。
ただ人格的には、人格に丸みを帯び、穏やかになったような感じになる。
しかしそれを「円熟」ととらえてはいけない。
そのことは、特別養護老人ホームにいる老人たちを見ればわかる。

みな、ニタニタというか、ニヤニヤと意味もなく、笑っている。
話しかけても、ニンマリと笑っているだけ。
(みながみな、そうというわけではないが……。)
見た感じでは、どの人も、人格の完成者のよう。

●少しずつ進む

しかし重要なことは、私たちはある日突然、そういった老人になるのではないということ。
徐々に、ちょうど下り坂を下っていくように、長い時間をかけてそうなっていく。
早ければ50歳くらいから始まり、遅くとも75歳を過ぎるころには、みな、
そうなっていく。

それにこの世界では、私が観察した範囲では、「私は、だいじょうぶ」と思っている
人ほど、あぶない。
「私はふつう」と思っている間に、どんどんとそのレベルが下がっていく。
(ふつう)の基準そのものが、下がっていくから、自分ではそれがわからない。

一方、つねに自分の変化を敏感に察知し、「私はあぶない」と思っている人ほど、
安心してよいのでは……?
(変化)がわかれば、対処の仕方もわかる。
が、問題は、どうすれば自分でその(変化)を知ることができるかということ。

それには、若い人たちと比較するしかない。
「若い人たちとくらべて、どうか?」と。

その(差)をはっきりと感ずれば、あぶないということになる。
が、中には、(差)を認めないばかりか、若い人たちを否定してしまう人すらいる。
このタイプの人は、「いまどきの若い者は……!」という言葉をよく使う。
こうなると、比較など、しようもない。

●訓練で維持できる

ただたいへん幸いなことに、脳の神経細胞の数は同じでも、(あるいは減っても)、
それから延びるシナプスは、訓練によって老後になってからも、ふえつづける
ということだそうだ。
老人になるからみな、ボケるのではなく、過ごし方によっては、脳の健康を、
そのまま維持できるということ。

バンザーイ!

若い人たちより、頭の働きがよくなるということはないとしても、
ボケの進行を食い止めることはできる(?)。
とするなら、あとは、その方法、ということになる。

●老化防止のために映画

……ということで、最近、こんなことに気づいた。
私とワイフは、週に1、2回は、劇場で映画を見ることにしている。
仕事が終わったあとなどに、深夜劇場を見ることにしている。
そんな習慣が、ここ数年、つづいている。

その劇場でのことだが、このところ、私と同じ世代の人たちふえてきたように感ずる。
先週は、『ジ・アンダー・ザ・ワールド』という映画を見たが、約半数が、
私たちの世代の人たちだった。
みながみなというわけでもないのだろうが、中には、私たちのように、
映画をボケ防止のために利用している人も多いはず。
映画には、まだ証明されたわけではないが、ボケ防止の効果はあるのではないか。

ほかに音楽を聞くのもよい。
旅行をするのもよい。
要するに幼児教育と同じで、脳みそというのは、いろいろな角度から、いろいろに
刺激すればするほど、活性化する。

まずいのは、刺激のない単調な生活。
見るのはテレビだけ。
それも野球中継だけ……というのは、常識で考えても、まずい。
(実際、そういう人が私の近くにいるが、最近、どんどんと脳みそが固くなって
いるように感ずる。)

●老化は、恐ろしい

この問題だけは、本当に深刻!
切実な問題!
ボケるのは、だれにも避けられないことかもしれないが、ボケればボケるほど、
自分が自分でなくなってしまう。
自分で考えることができなくなってしまう。

私にとって、これほど恐ろしいことはない。




書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
22
●ほめる

++++++++++++++++++++

子育ての要(かなめ)は、(1)ほめ方、(2)叱り方。

叱り方はよく話題になるが、ほめ方は、あまり
話題にならない。
元来、日本人というのは、人をけなすのは得意だが、
もちあげるのが苦手。
子どもに対しても、ほめるということを、あまりしない。

とくにおとなの間では、ほめられることに嫌悪感を
覚える人さえいる。
「私はできないから、わざとこうしてみなに、ほめられる
のだ」と。

つまり(ほめる)ということに、(裏)を感じてしまう。
これには理由がある。

まずほめる側の問題。
ほめる側は、つねに下心をもって、相手をほめる。
何かの利益をそこに重ねる。
会社などにおける表彰が、その一例である。

一方、ほめられる側は、ほめられながらも、相手の
下心を読もうとする。
「何か、あるぞ」とか、「どうしてほめられるのか?」と。
こうしてほめる側も、ほめられる側も、そこに(裏)を
感じ取ろうとする。
こうした傾向は、年配の人ほど、強い。

こんなことがあった。

いつもは静かなA子さん(年長女児)が、その日はちがった。
ハイハイと、元気よく手をあげた。
そこで私は、すかさず、A子さんをほめた。

で、その日のレッスンが終わったあとのこと。
廊下に出て、みなを見送っていると、A子さんの
おばあさん(祖母)が、A子さんにこう言っているのを
聞いた。

「あなたは、できないでしょ。だからああして先生が
わざとほめてくれるのよ。わかる?」と。

++++++++++++++++++++

●ほめて伸ばす、欧米の教育

欧米では、子どもをほめて伸ばす。
それが教育の基本になっている。

それに比較して日本では、子どもを
よく叱る。
叱るのが、教育の基本になっている。

このことはアメリカの小学校などで、
授業を参観させてもらうと、よくわかる。
聞いている私のほうが恥ずかしくなるほど、
よくほめる。

「君の意見は、すばらしい」
「君の意見には、独創的な発想が満ちている」
「君は、世界のリーダーになるべき人だ」とかなど。

親でも、人前で、自分の子どもについて、平気でこう言う。
「私は私の息子を、自慢に思っている」
「私は、お前(=息子や娘)を、誇りに思っている」など。

こうした教育観のちがいは、「教育」と「Educe(教育)」の
ちがいによる(田丸謙二先生指摘)。

「教育」というのは、「教え育てる」こと。
つまり日本の教育は、子どもを「型」にはめることを、
柱にしている。

これに対して「Educe」というのは、もともと「引き出す」
を意味する。
Education(教育)の語源にもなっている。
つまり「子どもの中から、才能を引き出すのが教育である」と。

さらに言えば、日本の教育は、寺小屋が基本になっている。
わかりやすく言えば、本山における小僧教育が基本になっている。
自由な思索、自由な発想そのものを許さない。
それが明治時代の学校教育の基本となり、今につづいている。

子どもをすなおに、ほめる。
何でもないことのようだが、これがむずかしい。
教師自身、親自身も、自由な発想を許容する
心の広さが必要である。

ただしほめるといっても、(努力)と(やさしさ)。
この2つについては、遠慮なくほめる。
(顔)や(スタイル)はほめない。

(頭)については、ほめるときと場所を、よく考えながら
ほめる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供のほめ方 褒め方 叱り方 叱りかた しかり方)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【資料】(ヤフー・ニュースより、11月6日、2008)
学習指導要領
学習指導要領とは、学校が児童・生徒に教えなければならない学習内容など教育課程の最低
基準。国公私立の小中高校と特別支援学校が対象で、1947年に試案が示されて以降、約10
年ごとに改定されている(東奥日報 ニュース百科)。
2002年に改訂された学習指導要領では、「ゆとり教育」が重視され、完全週休5日制や学習内
容の削減が行なわれた。学力低下を懸念した保護者が、学習塾などに通わせる動きが強まっ
た(All About用語集)。 
新しい学習指導要領(2008年)
"新しい学習指導要領 - 文部科学省 
oQ&A 
o幼稚園教育要領 解説(PDFファイル) 
o小学校学習指導要領 解説 
o中学校学習指導要領 解説 
"改正通知
学習指導要領改訂のポイント
改正教育基本法等を踏まえた学習指導要領改訂 
「生きる力」という理念の共有 
"基礎的・基本的な知識・技能の習得 
"思考力・判断力・表現力等の育成 
"確かな学力を確立するために必要な時間の確保 
"学習意欲の向上や学習習慣の確立 
"豊かな心や健やかな体の育成のための指導の充実 
授業時間の増加
"小学校
教科国語社会算数理科生活音楽図工家庭体育道徳外国語総合特活合計
新時間数14613651011405207358358115597209702802095645
現行時間数1377345869350207358358115540209-4302095367
※色つきは増加する教科・6年間の合計標準時間時数<1単位45分・授業は年間35週(1年生
は34週)>
"中学校
教科国語社会数学理科音楽美術保体技家外国語道徳総合特活選択教科合計
新時間数385350385385115115315175420105190105-3045
現行時間数350295315290115115270175315105210〜335105155〜2802940
※色つきは増加する教科・3年間の合計標準授業時数<1単位時間は50分、授業は年間35週


小学校
国語・社会・算数・理科・体育の授業時数を6学年合わせて350時間程度増加
中学校
国語・社会・数学・理科・外国語・保健体育の授業時数を400時間(選択教科の必修状況を踏ま
えると230時間)程度増加
授業時数の増加について文部科学省では、「詰め込み教育」への転換ではなく、主に『つまず
きやすい内容の確実な習得を図るための繰り返し学習』、『知識・技能を活用する学習』(観察・
実験やレポート作成、論述など)を充実するために行うとし、学校週5日制は継続するとしてい
る。
実施スケジュール
"小学校
年度(平成)20年度21年度22年度23年度24年度
学習指導要領周知先行実施→全面実施→
教科書編集検定採択・供給使用→
"中学校
年度(平成)20年度21年度22年度23年度24年度
学習指導要領周知先行実施→全面実施
教科書−編集検定採択・供給使用
※新しい学習指導要領のパンフレットを作成し配布している。(出典:文部科学省 新しい学習
指導要領パンフレット) 
教育委員会制度
教育委員会は、知事や市区町村長から独立した行政委員会として、全ての都道府県と市町村
等に設置されている。
"教育委員会制度について - 文部科学省 
"[解説]"教育委員会"ってなに? - NHK週刊こどもニュース(2008年7月19日)
都道府県教委
"全国都道府県教育委員会連合会
北海道北海道

東北青森
岩手
宮城
秋田
山形
福島

関東東京
神奈川
埼玉
千葉
茨城
栃木
群馬
山梨
信越新潟
長野

北陸富山
石川
福井

東海愛知
岐阜
静岡
三重

近畿大阪
兵庫
京都
滋賀
奈良
和歌山

中国鳥取
島根
岡山
広島
山口

四国徳島
香川
愛媛
高知

九州福岡
佐賀
長崎
熊本
大分
宮崎
鹿児島

沖縄沖縄

中央教育審議会(中教審)
文部科学大臣の諮問に応じ、教育や学術、文化に関わる政策を審議して提言する機関(みん
なの知恵蔵)。「教育制度」「生涯学習」「初頭中等教育」「大学」「スポーツ・青少年」の5分科会
がある。委員は30人以内で任期は2年(再任可)(文部科学省 中央審議会について)。
近年の答申
2008年
4月18日教育振興基本計画について−「教育立国」の実現に向けて−|概要(PDFファイル)
2月19日新しい時代を切り拓く生涯学習の振興方策について〜知の循環型社会の構築を目指
して〜(PDFファイル)|答申の概要(PDFファイル)
1月17日幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善に
ついて
1月17日子どもの心身の健康を守り、安全・安心を確保するために学校全体としての取組を進
めるための方策について
文部科学省 中央教育審議会諮問・答申・報告等 
学校選択制等について
市町村教育委員会は、設置する小学校又は中学校が2校以上ある場合、就学予定者が就学
すべき小学校又は中学校を指定することとされている。その際、あらかじめ、各学校に通学区
域を設定し、これに基づいて就学すべき学校が指定されることが一般的であるが、近年、地域
の実情に応じて「学校選択制」を導入する市町村もみられる。「学校選択制」とは、就学校を指
定する際に、あらかじめ保護者の意見を聴取して指定を行うものである。
"学校選択制等について - 文部科学省
関連する主な法律
"教育基本法(平成18年法律第120号) 
"学校教育法(昭和22年法律第26号) 
"教育職員免許法(昭和24年法律第147号) 
"義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律(昭和38年法律第182号) 
"理科教育振興法(昭和28年法律第186号) 
"食育基本法(平成17年法律第63号)
教育分野の現行法律一覧 - 法なび法令検索 
関連トピックス
"学力低下 
"教科書検定 
"不登校
(以上、ヤフー・ニュースより、11月6日、2008)









書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
23
●服装の乱れ

++++++++++++++++++

H市の県立K高校が、入試で、選考基準を逸脱し(ニュース記事)、
本来なら合格していた22人の生徒について、服装の乱れなどを
理由に、不合格にしていたことがわかった。

(ヤフー・ニュース・カナロコ・11月6日配信)は、以下、つぎの
ように伝える。

『H市の県立K高校が入試で選考基準を逸脱し、本来なら合格していた22人の生徒を服装の
乱れなどを理由に不合格にしていた問題で、校内外に波紋が広がっている。不合格判断を支
持する意見が県教育委員会に多数寄せられ、在校生やその保護者からは解任された前校長
が「荒れた学校」を立て直したとして擁護する声が上がっている。一方、入試制度の根幹に触
れる事態に直面した県教委は、「ルール違反行為」とのスタンスを変えていない。

 同校の不適正入試問題をめぐり、県教委には五日までに電話や電子メールで約1110件の
意見が寄せられた。9割以上が「服装や態度で選考して何が悪いのか。選考基準になくても当
然の判断だ」などと学校側を支持する内容。「子供の学ぶ機会を奪った」などと問題視した意
見は15件ほどという』(以下、略)と。

+++++++++++++++++

この記事を読んで、ふと思い浮かんだのが、隣のK国での事件。
先月(08年10月)、あの金xxが、サッカー観戦をしたという。
そのときのこと。
選手たちの長髪が不潔ぽいという理由で、金xxは、選手たちの
長髪を切らせてしまったという。
「長髪が不潔ぽい」という発想そのものが、時代錯誤。
それを切らせてしまうというのも、どうかと思う。
……というより、まさに独裁的。

それはさておき、「服装の乱れ」について。
まず誤解してはいけないのは、(自由な服装)と(乱れた服装)とは、別。
さらに(清潔な服装)と(不潔な服装)とは、別。
また(制服)というのは、ある一定の着方を前提としている。
記事をていねいに読むと、「入試選抜で……」とある。
不合格になった22人は、その入試会場で、乱れた服装(?)をしていたらしい。
それで不合格になったわけだが、どういう服装をしていたかについては、
だいたい察しがつく。
詳しくはかけないが、「ああ、ああいう服装だったんだな」と思っている人も、
多いことと思う。

で、もうひとつ誤解してはいけないことがある。

「乱れた服装」というとき、それがたまたまそのとき「乱れていた」というのも
あるだろう。
たとえばたまたま学生服のボタンがはずれていた程度では、「乱れた服装」とは、
言わない。

実際には、「乱れた服装」というときは、「乱れた学習態度」の象徴としての
服装をいう。
もう20〜30年も前から、とくに公立高校では、このタイプの学生が問題に
なっている。
ふつうの(乱れ方)を想像してはいけない。

ある高校の教師(東京都内の公立高校)はこう言った。
「うちでは、授業中に運動場でバイクを乗り回しているのがいる」と。
それを聞いて、別の教師がこう言った。
「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下で乗り回しているのがいる」と。

それから20〜30年。
中身こそ異なるが、こうした傾向は、今もつづいている。
しかも低年齢化している。
最近では、小学生の茶髪も珍しくない。
それについて小学校の教師が、「茶髪はやめさせてほしい」と親に頼んだところ、
その親は、こう答えたという。
「どんなかっこうをしようが、それは個人の自由だ」(浜松市内B小学校)と。

学校教育に幻想をもっている人は、「そういう子どもこそ、教育の対象になるべき」
と思うかもしれない。
頭のどこかであの金八先生のような教師を連想する。
しかし幻想は、幻想。

私の教室のような小さな教室ですら、こんな事件があった。

ある日、双子の兄弟が私の教室へ入ってきた。
小学3年生だった。
すでにそのとき、かなり強い免疫性をもっていて、私の静かな指導になじむような
子どもではなかった。
「免疫性」というのは、学校でも、また家庭でも、かなりきびしいしつけを受けて
いたということ。

ほどほどにまじめに(?)椅子に座っていたのは、数週間程度。
それ以後は、教室内で平気でボール投げをしたり、気分がのらないと、
寝ころんでゲームをして遊んだりしていた。

そこでクラスの人数を4〜5人にまで減らし、かつワイフに手伝ってもらうようにした。
が、いっこうに学習態度は、改まらなかった。
叱っても、励ましても、無駄だった。

で、ある日母親にそのことを告げようとしたが、母親のほうが、怒ってやめてしまった。
子どものほうが先手を打って、私の悪口を家で言いつづけていたためらしい。

小学生でもむずかしい。
中学生ともなると、さらにむずかしい。
そういう現実を知っているから、あるいは経験しているから、学校側としては、
「乱れた服装」にどうしても、神経質になる。
その学校がそう判断したかどうかは知らないが、「最初から学ぶ姿勢のない学生は、
入学、お断り」と判断したところで、私は無理からぬことではないか。

『入試制度の根幹に触れる事態に直面した県教委は、「ルール違反行為」とのスタンスを変
えていない』(同)ということだが、見方を変えると、「その程度の判断すらしてはいけな
い」というのであれば、では「校長とは何か」という問題にまで、いってしまう。
さらに言えば、「入試とは何か」という問題にまで、いってしまう。

同報道によれば、校長を支持する書き込みが90%以上もあったという。
「荒れた服装」というのが、どういうものであり、何を意味するか知っている人ほど、
校長を支持するのではないか。

教育は理想だけではできない。
学校だけでもできない。
「子供の学ぶ機会を奪った」という意見も理解できなくはないが、中には、
ほかの子どもたちが学ぶ機会そのものを破壊してしまう子どもさえいる。
入学後、「退学」「停学」という処分方法もあるが、そこまでに至る過程が、
たいへん。
たいていそれまでにクラスはメチャメチャ、教師たちは疲労困ぱい。
親たちとは、怒鳴りあい。
あるいは泣きつかれる。
手続きも、複雑。

さらに言えば、「乱れた服装」の子どもは、弱者でも何でもない。
かわいそうな子どもたちとは思うが、弱者ではない。
たとえば貧困や障害が原因で、教育を受けられないというのであれば、みなが
力を合わせて、そういう子どもは守らなければならない。

また「ルール違反」とはいうが、学力だけをみて入学の許可、不許可を出す現行の
ルールのほうが、現実離れしている。

(付記)

ただし法律的には、校長を解雇処分にした教育委員会も、やむをえなかった。
何をもって「乱れた服装」というか、その基準もない。
さらに「乱れた服装」イコール、「乱れた学習態度」ということでもない。
反対に、校長だけの独断と偏見だけで、入試選抜が行われるようになったら、
その(ゆがみ)が、これまた思わぬところで、出てくるようになるかもしれない。

一方、私立中学校や高校では、こうした学生を排除するのが、入試選抜の
基準のひとつになっている。
となるとその受け皿となるべき公立中学校や高校までもが、そうした学生を排除
してしまったら、そうした学生はどこへ行けばよいのかということにもなる。

現実にこの日本では、学歴がひとつの人物評価の基準になっている。
だれしも「高校ぐらいは出ていないと……」と考えている。
中卒ということになれば、選べる職種も、きわめてかぎられてくる。

つまりもろもろの矛盾が、こうした問題として集約されている。
「校長を支持する」「しない」という単純な採決で、解決できるような問題ではない。

+++++++++++++++++

ここまで書いて、私は私の考えが
揺れ動いているのを知った。

荒れる学校について、もう一度、考えて
みたい。

+++++++++++++++++

●乱れる服装

1970年ごろ。
私がメルボルン大学のIHカレッジにいたときの話。
どこのカレッジでも、服装には、うるさかった。
学生は、ネクタイをしめた上、スーツの着用が義務づけられていた。
カレッジの内外を行き来するときは、ロウブと呼ばれるガウンを着用
しなければならなかった。
映画『ハリー・ポッター』に出てくるような世界を想像すればよい。

夏の暑い日は、スーツの着用は免除されたが、ネクタイは、しなければならなかった。
ネクタイをしなければ、食堂での食事も許可されなかった。
下着で素足……などという服装は、ことカレッジの中では、許されなかった。

が、そののち、オーストラリア政権は保守党から、労働党へと移り、大幅に
予算が削られた。
同時に、大学教育そのものが、大衆化した。
今では、昔の面影は、どこにもない。
カレッジというより、日本でいう、学生寮のような感じになってしまった。
カレッジの中でも学生たちは、それぞれ自由気ままな服装を楽しんでいる。

そういう変化を頭の中で思い浮かべながら、ここでもう一度、「乱れた服装」
について考えてみたい。

つまりどういう服装を、「乱れた服装」といい、また「乱れていない服装」というのか、と。

ある高校の教師に一度それを確認したことがあるが、その教師はこう教えてくれた。
「腰パンとかラッパズボンとか、女子で言えば、スカートのすそ上げや、ルーズソックスをさげた
りすることです」と。
私立学校のばあい、学校独自の判断で、即停学、もしくは退学処分になるので、そうした服装
をする子どもは、少ない。
しかし公立学校のばあい、それがままならない(?)。
そこで「服装の乱れ」が、いつも問題となる。

が、先にも書いたように、「自由な服装」と、「乱れた服装」とは、ちがう。
どうちがうかと問われると、言葉につまるが、いくら服装が乱れていても、学習態度がしっかり
している子どももいれば、そうでない子どももいる。
私だって、夏場は、パジャマのまま書斎に入り、朝食がすむころまでその姿で、パソコンで文章
をたたいている。

一方、服装が乱れていなくても、学習態度が乱れている子どもも少なくない。
だから一方的に、服装が乱れているからといって、学習態度に問題があるとは言えない。
しかし常識のある人なら、「入試選抜のときぐらい……」と考える。
「入試選抜のときぐらい、服装を整えるのは、常識ではないか」と。
つまりそういう(場)ですら、「乱れる」というのであれば、問題外と考えてよいのでは(?)。

そこで当の校長は、入学を不許可とした。
報道によれば、その校長は荒れた学校の建て直しに尽力していたという。
乱れた服装で入試選抜にやってきた子どもを見て、さらに危機感を覚えたとしても不思議では
ない。
インターネットなどへの書き込みで、校長に同情する意見が、90%以上だったというのは、そ
ういう理由によるのでは?

教育委員会の判断はともかくも、(というのも、教育委員会としても、やむをえなかっただろうか
ら)、教師たちの本音を言えば、こうだ。
「もとから勉強したくない学生は、高校へなど、来るな!」。

高校は、現実はどうであれ、日本の学校教育法によれば、義務教育外。
しかも中身はどうであれ、(おとな)である。
それでも「どんな服装でも自由」と主張するなら、もう一度、「自由」の中身を吟味してほしい。
「自由」とは、もともと「自らに由(よ)る」という意味である。
「自分で考え」「自分で行動し」「自分で責任を取る」ことを、自由という。

校長の処分取り消しのために署名活動が始まったという。
「ルール違反」は、「ルール違反」。
だとするなら、今度から入試選抜の募集要領に、一言、こう書き加えればよい。
「服装が常識の範囲を逸脱して乱れている志願者は、入学を不許可とすることもあります」と。

しかしそれもむずかしいかな……?

●島田

今日、島田市のK小学校で講演をさせてもらった。
体育館での講演だったが、みなさん、真剣に聞いてくれ、話すほうも力が入った。
時間はちょうど1時間40分。
私としては、いちばん話しやすい時間の長さである。

帰りにミカンを一箱もらった。
駅で電車を待つ間に、一個、皮をむいて食べた。
おいしかった。
K地域は、お茶とミカンの産地だそうだ。
途中、川が美しく流れていた。
「いいところだなあ」と、何度も、そう思った。

●再び、服装の乱れ

島田駅のプラットフォームの椅子に座っていると、ちょうど学校帰りの高校生の一団といっしょ
になった。
ぞろぞろと並んでやってきた。
「服装の乱れ」とはいうが、どの高校生も、一様に乱れて(?)いた。
今では、学生服にしても、きちんと(?)着ている学生など、ほとんどいない。
それに静岡市から乗り込んだのだろう。
大学生らしき学生たちも座席に並んでいた。

だらしないと言えば、だらしない。
しかし学校の教師だって、今ではほとんどがトレーナー姿である。
スーツを着て授業に臨んでいる教師など、ほとんどいない。
(これは公立の小中学校についてだが……。)
子どもの側からすれば、「先生だって……」ということになる。

となると、「服装の乱れ」とは何か、ますますわからなくなる。
あるいはアメリカの中高校のように、服装は自由化してしまってもよいのではないか。
へたに制服を押しつけるから、「乱れ」が問題になる。
それに今は、そういう時代ではない。
子どもたちに制服を押しつけ、画一教育をするような時代ではない。
……ということを書くと、「ますます服装が乱れるのでは?」と心配する人もいる
かもしれない。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
大切なのは、子ども自身の(学ぶ姿勢)である。
それがあれば、どんな服装でもかまわないということになる。
それがなければ、どんなに服装がきちんとしていても(?)、問題ということになる。

ただ現在のように、(乱れた服装)が、(学ぶ姿勢のない子ども)の象徴のように
なっているのを見ると、乱れた服装をそのまま容認するわけにはいかない。
先日もある高校の前を通ったら、乱れた服装の学生たちが、校門前で、座り込んで
何やら話をしていた。
校門のところには、「○○文化祭」という看板が立てられていた。

かわいそうな学生たちである。
考えようによっては、孤独な学生たちである。
そういう学生たちが、仲間に入ることを自ら拒否して、その外の世界で、つっぱっている。
精一杯、自分たちのやり方で、自己主張を繰り返している。
彼らにしてみれば、それしか自分を主張する方法がない。
「学ぶ姿勢」といっても、その多くは、その基礎力さえない。
またその多くは、不幸にして不幸な家庭環境で育った子どもたちと考えてよい。

フ〜〜〜ン……。

「服装の乱れ」の問題は、思ったより「根」が深い。
どんどんと考えていくと、「教育とは何か」という部分にまで、入り込んでいってしまう。
こうして私なりの意見を書きながらも、気持ちが右に揺れたり、左に揺れたりする。

では、どうしたらよいか?

今のように、「学校を離れて道はない」という世界のほうが、異常だということ。
子どもが成長していく過程は、けっしてひとつであってはいけない。
もっと多様性のある、別の道を用意するのも、教育のあり方ではないだろうか。

つまり「服装の乱れ」の問題は、日本の教育制度の矛盾そのものを問う問題と考えて
よい。

+++++++++++++++++

以前、尾崎豊の「卒業」について書いた
原稿を添付します。

+++++++++++++++++

若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」
と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。

もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今こ
こに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎
日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だっ
た。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。こ
のことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシー
にはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転し
てくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られ
ないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)
●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のよ
うであった。
女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)

☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)

☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)

☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。

一、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、施設または設備を損壊する行為。
四、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。








書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
24
●言語と脳

+++++++++++++++++++

日本語を話すときと、英語を話すときは、
脳みそでも、使う部分がちがう……ということは、
私も感じていた。

最初に気づいたのは、英語だけを話しているときは
それほど疲れないが、そのつどだれかに通訳して
やるとき、おかしな疲労感を覚えたこと。

つぎに外国へ行ったようなとき、日本語モードから
英語モードに脳みそを切り替えるのに、少し
時間がかかるのを知った。

若いときはそうでなかったが、40代、50代と
なると、その切り替えにより長い時間がかかる
ようになった。

あるいは英語を長く話しているようなとき、疲労感を
覚えたとたん、日本語モードになり、英語が口から出てこなく
なることもある。

さらに最近では、英語なら英語だけを読んでいるときは、
それほど疲れないが、日本語に翻訳しようとしたとたん、
苦痛に近い疲労感を覚えるようになった。

こうした一連の現象を、今度、東京大と宮城学院女子大などの
研究チームが、科学的に証明してくれた。

+++++++++++++++++++++

時事通信は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信。08・11・6+++++++++++

外国語として学ぶ英語の文法や意味を理解する際に活動する脳の部位を、東京大と宮城学
院女子大などの研究チームが特定した。2つの部位の活動の仕方は、学習期間が長い人と短
い人とで正反対であることも分かり、研究成果は語学学習の効果を客観的に測ることに役立
つという。論文は5日付の米科学誌の電子版に掲載された。

 東大大学院総合文化研究科の酒井邦嘉准教授(言語脳科学)らの研究チームは、英語学
習を中学1年から始めた東大付属中学の生徒(短期習得群)と、小学1年から50〜70%の授業
を英語で受けている加藤学園暁秀中学・高校(静岡県沼津市)の生徒(長期習得群)とに英語
の簡単な問題を出題。機能的磁気共鳴画像診断装置(fMRI)を使い、脳の血流から、どこの
部位がどのくらい活動しているかを調べた。

 その結果、両群とも、左脳の前頭葉にある「文法中枢」と呼ばれる部分が活動していたが、
長期習得群では、成績が良い人ほど活動量が少なく、逆に短期習得群では、成績が良い人ほ
ど活動量が多くなっていた。

 また、文章の意味を理解する左脳前頭葉下部も、両群で活動。長期習得群では、問題を早く
解ける人の方が活動量が多いのに対し、短期習得群では、時間をかけて解くほど活動量が多
かった。 

++++++++++以下、時事通信。08・11・6+++++++++++

これだけの記事だけでは、論文の内容はよくわからないが、英語についていえば、こういうこと
らしい。

論理や分析をつかさどるのが左脳(スペリー、ほか)。
だから文法をつかさどる「文法中枢」が、左脳にあるというのは、納得できる。

で、英語を勉強し始めたころの子どもは、懸命に文法を考えながら、英語を話す。
言うまでもなく、文法というのは、(論理の集合)のようなもの。
「主語が三人称単数のときは、一般動詞に(−s)(−es)をつける」というのが、一例。

しかし長く英語を使っていると、いちいち文法を考えて話すことはない。
感覚的に話すことができるようになる。

だから「(文法中枢の活動について)、長期習得群では、成績が良い人ほど活動量が少なく、
逆に短期習得群では、成績が良い人ほど活動量が多くなっていた」となる。

さらに「文章の意味を理解する左脳前頭葉下部も、両群で活動。長期習得群では、問題を早く
解ける人の方が活動量が多いのに対し、短期習得群では、時間をかけて解くほど活動量が多
かった」と。

わかりやすく言えば、長く英語を使って人ほど、文章の意味を理解する左脳前頭葉下部の働
きが、瞬時に活発になり、そうでない人ほど、時間がかかるということらしい。

こうした研究結果と、冒頭にあげた私の個人的な経験がそのまま結びつくというわけではない
が、しかし自分の脳の現象を知る、ひとつのヒントにはなる。
脳というのはそれぞれの部分が、分担して仕事をし、それぞれが密接に関連しあっているとい
うこと。
そしてその活動は、経験やその量に応じて、変化するということ。
さらに言えば、関連づける、いわば連絡網のようなものまで、変化するということ。
またそれには個人差があり、みながみな、同じ脳みそをもっているわけではないということ。

言いかえると、脳みそというのは、経験や訓練によって、働く機能も変化し、進歩もすれば、退
化もするということ。

このニュースを読んで、「なるほど」と、私は感心した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
機能 文法中枢)







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
25
●思考のループ

++++++++++++++++++

うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。
(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。

そこで最近、こんなことに気がついた。

若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。

特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。

つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。

「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。

つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。

+++++++++++++++++

●60代

自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。

そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。

が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。

たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。

ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。

先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。
「私だって、そんなバカではありません!」と。

私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。

が、それはそのまま私自身の問題でもある。

私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。

考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。

だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)

認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。

とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。

少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

++++++++++++++++

思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。

++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くよ
うなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをな
す」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報
の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る人も
いれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩
を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私は
このことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよ
い。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたち
に接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしてい
る。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児
の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること二〇年
程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇
年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年前より
進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほし
い。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろう
か。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もう
こうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。犬
は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬な
のは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬
のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなた
はすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅く
ないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマ
について考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返
して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう
「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよ
い。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではな
いか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、こ
れまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしている
だけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分
に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えるこ
とにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似てい
る。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答
そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そのためほとんどの人は、無
意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかも
しれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えた
くない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなってし
まう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、
そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、(1)そ
の方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態
(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一度その
ループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしまう。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小さな
問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよいような問
題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさまざまな問題
が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であるこ
との大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの放
棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前の段階
として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では1
分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、
そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふた
つのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げて
しまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中
で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくら
ヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分
で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよ
いといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け
算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子ども
は、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、
それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の
子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考える
という習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅
いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待っ
たで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後な
おすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできる
ようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰
り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考える
が、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えると
いう習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないと
いうのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
のループ ループ性 ループ状態)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。こ
の言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型
(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこな
い。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした
子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこ
うした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、
診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養
うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることができ
るという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているとき
というのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだ
かさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場
だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えると
わかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどう
すればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 勉強
が苦手 勉強が苦手な子供)


(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事
を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうと
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒ
ーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上
の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどう
でもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口に
したり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけでは
ない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは
妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「し
なければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。
漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしま
う。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしよ
うもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、
あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべってい
るようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよ
い。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことな
ら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう
指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプ
の子どもの対処法ということになる。

(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(し
たく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをし
た。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学
生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし
刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分
でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時
計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは
分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリ
をする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような
行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはそ
の繰り返し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいく
つものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたり
すると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこで
あなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろう
か。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すと
いう方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みます
か」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段
階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかっ
た」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときは
それこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1
分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題がで
きるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になって
しまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出
すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。
 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するし
かないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がな
んだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.
txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接
インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができ
ない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意
味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何
か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角
の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたよう
に、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげて
ください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、
まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなけ
ればならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。
このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習
の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンした
ところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、
手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが
一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はない
の」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか
夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。
占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そ
ういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たない
のかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というの
は、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。
子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子
どもは、受身になる。

(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについ
てはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化
という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はス
ムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを
書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴
力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のア
ルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう
子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚
える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚え
ようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こ
んなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪い
ことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中
で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の
長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情報のタイプで、認知記憶
と手続記憶に分類される。

学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶
の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならな
い。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)つまり
反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態にな
る。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いて
ごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある
種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになる
だけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えて
も、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができて
しまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、
ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところ
にある。







書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
26
【子どもの非行】

●子どもの暴力+非行

+++++++++++++++++++++

内燃する欲求不満、それが爆発して、子どもは
外の世界で、非行に走るようになる。
ふつうの欲求不満ではない。
「相手を殺してやりたい」と思うほどの欲求不満。
このばあい、相手というのは、多くのばあい、
母親をさす。

が、母親には、その自覚はない。
「私はすばらしい母親」と思い込んでいる。
「私のすることは、ぜったい、正しい」と
思い込んでいる。
この異常なまでの自己中心性が、子どもの心の
中に、殺意を生む。

子どもが非行に走る背景には、その母親がいる。
頭ごなしの過干渉、口うるさく、世話焼きだが、
子どもの心を考えない母親。
一方的に自分の価値観を子どもに押しつけ、
そのつど恩を着せる。
「産んでやった」「育ててやった」「苦労をした」と。
子どもには、それが負担。
ときに重苦しい鎖となって、子どもの首を絞める。
そうした子どもの心さえ、母親には理解できない。

が、家庭の中では何もできない。
悶々とした日々。
晴れることのない、うっぷん。
「殺意」を感じたとしても、それはそれ。
それが外の世界で、爆発する。

過干渉児の第一の特徴といえば、善悪の判断にうとい
ということ。
自分で考えることさえ、できない。
いつも母親に命令されるだけ。
「ああしなさい」「こうしなさい」と。
子どもの非行は、その結果としてやってくる。

+++++++++++++++++++

●異常な過干渉

その母親には、3人の子どもがいた。
が、3人とも、中学へ入るころから、グレ始め、高校へ入るころには、
手がつけられないような状態になっていた。
もちろん高校は、そのまま退学。

その母親と、ある仕事を通して、しばらく交際したことがある。
明るく快活な女性だった。
世話好きで、情報量も多く、何か問いかけると、すかさずペラペラとあれこれ、
教えてくれた。
が、やがて気になることが目立ち始めた。

まず自分を飾るためのウソが多いということ。
口がうまく、その場の雰囲気に合わせて、あれこれと言うが、つかみどころがない。
同じ話を長々と繰り返すことも多かった。
が、その一方で、相手、つまり私の言うことを聞かない。
自分勝手でわがまま。
そして3人の子どもたちの話になると、「私は一生懸命尽くしたが、子どもたちは、
私を理解できない」と。

とくに自分の苦労話になると、ことこまかく、話し始めた。
「息子の塾通いのために、苦労をした。病気でも、休む暇もなかった。
私は息子たちのために、どれほど苦労したかわからない」と。

全体の雰囲気としては、セカセカと、いつも落ち着きなく動き回っていた。
ペラペラとよくしゃべったが、中身がなかった。
一度、何かの資料をインターネットからコピーして手渡したことがある。
しかしそれには、一瞥(べつ)しただけで、何を誤解したのか、
片手でそれを払いのけてしまった。
「私には、こんなものを読んでもわかりません!」と。

そしてある日。
私がその息子の1人と話すことになった。
そのときのこと。
私が息子と話そうとしても、そのつど、間に割り込んできた。

私、息子に向かって、「学校では、部活は、何をしているの?」
母親、割り込んできて、「今は、何もしていないわよね」
私、息子に向かって、「何かしたいことはあるだろ?」
母親、割り込んできて、「先生との相性が悪くて、ハンドボールをしていましたが、
やめました」
息子「……」と。

こういう母親と接していると、絶望感すら覚える。
子どもの立場で考えるなら、殺意を感じたところで、何らおかしくない。
そこで私は、母親にその場を離れてもらい、息子と一対一で話すことにした。
が、その様子を見ながら、部屋から出るとき、母親はこう言った。

「うちには、そういう人(=私のこと)がいないから、いけないのよ」と。

つまり息子たちと、そのときの私のように、静かに会話できるような人がいないから、
「いけないのよ」と。
私には何かしら、捨てゼリフのようにも聞こえた。
あるいは夫に対する、不平、不満を、その一言で表現したのかもしれない。
「夫は何もしてくれないから、私だけが苦労する」と。

●子どもの非行

しかしこのタイプの母親ほど、外の世界で子どもが事件を起こすと、パニック状態に
なる。
ワーワーと泣きわめいたり、子どもをかばったりする。
そして子どもに向かっては、いつ終わるとも知れない説教を繰り返す……。

私はそういう母親を知ったとき、子どもの非行の原因は、母親が作ると感じた。
(そう言い切るのは、少し乱暴かもしれないが……。)
もし家庭が、穏やかで、心温まる場所であれば、子どもは疲れた翼(つばさ)を、
そこで休めることができる。
そのカギを握るのが母親であるとするなら、やはり原因は、母親にあると考えてよい。

が、このタイプの母親は、それすら認めようとしない。
「うちの子が非行に走ったのは、友だちにそそのかされたからです」
「友だちが悪いのであって、うちの子ではありません」と。

自己中心性が、(家族)というワクになると、今度は、(家族)中心性へと
変化する。

「自分の家族は、ぜったい正しい」
「自分の家族のすることには、まちがいない」と。

その息子が高校で退学処分になるときも、その母親は、最後の最後まで、
相手の子どもが悪いと主張した。
言い忘れたが、その息子は、学校で暴力事件を起こし、相手の子どもを2階の窓から
突き落とし、全治3か月の大けがをさせてしまった。

自己中心的であればあるほど、相手の心が見えなくなる。
自分の息子の心が見えなくなる。
その盲目性が、子どもを非行へと追いやる。

+++++++++++++++++++++

以上が、子どもの非行についての一般論ということになる。
もちろん子どもの非行が、すべて、これで説明できるというわけではない。
子ども自身が何らかの心の病気をもっているケースも少なくない。

たまたま昨日、A県に住んでいる、Eさんという母親から相談のメールが届いた。

もちろんEさんが、ここでいう自己中心性の強い母親ということではない。
Eさんは今、懸命に自分を見つめなおそうとしている。
しかしどこかで親子の歯車がかみ合わなくなってしまった。
最初は小さなキレツだったかもしれない。
しかしそれが今、親子の間に、大きな溝を作ってしまった。

【Eさんより、はやし浩司へ】

(家族構成)

父親 サラリーマン、国立大学院卒、監査役会社コンサルタント会社取締役、
父親には、学歴重視があり、子供たちにも小さなころから、自分が卒業した地元の進学校
に入学することを言葉にして、促していた。

母親 わたくし本人、地元A市の短大卒、商社支社に就職、友達の紹介で結婚、二人の息
子出産。

(経過)

長男 18歳、中3から荒れ始め、非行、高校には進学せず、バイクで暴走、万引き、家
庭内暴力もある。
家裁に2度ほど行くが、不処分に終わる。
去年終り頃から落ち着き始め、地元を離れたいといい、A市の方で一人暮らし。高認、
大学進学コースの学校に通いはじめるが、行くことはなく、キックボクシングをやりなが
ら今年の高認を受ける。

次男 16歳、小学校6年から不登校、中2までひきこもる。中1の時、父親と一緒に隣
町のマンションに引っ越す。
長男の家庭内暴力がひどかったこともあるが、父親がそんな家庭から逃げたかったともあ
るように思う。

中3から転校して登校したいといい、転校させ、登校し始める。
3年間の不登校はあったが、もともと頭の切れる子であったため、成績は学年でもトップ
クラス。

今年の初めごろから元のマンションに戻り、一緒に暮らすようになる。
高校も受験し、公立高校に合格するが、8日でやめてしまう。
今年、4月から高校もやめ、家にいる。
少し、コンビニでバイトしたが、続かず、人間関係がうまく結べない。
ちょっとしたことに腹を立て、へそを曲げやめる。

今回、相談は次男のことです。

最近、こだわりが強く、政治の問題を見ても偏りが多く、自分の意見と合わないニュース
などはすぐに切ってしまいます。

右翼、左翼という言葉を口にし、左翼を馬鹿だ、あほだと批判します。
障害者や貧乏人は社会の役立たずだから、おとなしくすべきだなどと暴言を吐きます。
内容はまだまだ稚拙に思え、本当の思想をもった右翼とは違いますが、自分では偉そうに
講釈をたれ、私を罵倒します。

私はただ、うなずくだけ、反対も抵抗もしません。
違うんじゃない?、なんて言おうものなら暴力をふるわれます。

うつ病であるようですが、病院にいくような状態ではありません。本人は拒絶して荒れる
と思われます。
寝る前は死にたい、死にたいと言っていますし、夜中起きて大きな音をたてて、腹が立っ
ていることを知らしめようとする行為が見られます。

小さい頃はK式算数教室にも通い、成績もよく、利口な子でした。
そう演じていただけなのかもしれません。
友達と心を開いて、遊ぶこともなかったように思います。
小学校では優等生、クラスでは人気者でお笑いの漫才をしたりするような子でした。

この状態はしばらく様子を見るしかないのでしょうか。
これ以上荒れないようにするにはどう対処すればいいのでしょうか。

長男の非行のほうが、よほどましなような気がします。
それはそれで大変でしたが、今は落ち着いています。

私は長男に高卒認定試験を進めるわけでも、大学進学をするように言うようなことは一切
しなかったですが、本人がそうしたいと言い出しました。
鉄筋工、溶接工などの仕事を経験し、自分をみつめたのでしょうか、自分で動きだしまし
た。

次男の場合は長男の状況をは違うようです。

接し方で気になる点があれば教えていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Eさんへ】

Eさんの心中を察するに、あまりあるものがあります。
心苦労も大きいかと思います。
しかしひとたびこういう状況になってしまったら、鉄則は、ただ2つ。

(1)暖かい無視
(2)求めてきたときが与えどき、です。

あとはやるべきことをやりながら、時の流れに身を任せます。
「直そう」「改めよう」「何とかしよう」とあせればあせるほど、逆効果。
子ども自身も、それを望んでいないでしょう。
あなたがすべてを受け入れ、あきらめきったとき、あなたの子どもは、
あなたに対して心を開きます。

が、その時期といっても、10年後かもしれません。
20年後かもしれません。
しかしいつか「お母さん、ぼくが苦労をかけて悪かった」と言う日がやってきます。

方法は、簡単です。
『許して、忘れる』です。
これだけを念じて、前に進みます。

幸いなことに、あなたは、私に相談のメールをくれました。
あなた自身が、問題解決のために、一歩、踏みだしたということです。

先に、子どもの非行についての一般論を書いてみましたが、もちろんこれはEさんの
ことではありません。
ただ親というのは、親意識が強ければ強いほど、自分ではよかれと思いながら、
子どもに対して、余計なことをしやすいもの。
別のところで、子どもの心を見失いやすいものということです。

Eさんは、メールの中で、「そう演じていただけなのかもしれません」と書いて
おられます。
ここまで気づけば、もう先は、それほど遠くありません。
ふつうは、つまりふつうの親は、ここまでは気がつきません。
「私は正しいことをした」と、自分を振り返るようなことはしません。

で、Eさんのメールを読んで、再確認したことがあります。
それは、「親が子どもを育てるのではない」ということ。
「子どもが親を育てる」ということです。

今のEさんには、そこまではまだわからないかもしれませんが、私には、それが
わかります。
Eさんの2人の子どもは、今、自分の体を張って、Eさんという人間(母親でもない、
妻でもない、一人の人間としてのEさんという人間)を、育てているのです。

あとは謙虚になって、子どもの横に立ってみてあげてください。
くだらない親意識は捨て、友として、横に立つのです。
とたん、それまで見えなかったものが、見えてくるはずです。
もっと大切な、何かです。

それに気づいたとき、今、Eさんがかかえている問題は、すべて氷解し、今のこの
現状が、笑い話になります。

K式算数教室?
高認?
受験?
……みんな、蜃気楼に踊らされているだけですよ!

どうか今の苦労から逃げないでください。
逃げないで、乗り越えるのです。
「ようし、十字架の一つや二つ、背負ってやるぞ」とです。
EさんにはEさんの運命というものがあります。

仮に今、Eさんが今の状況を不幸に感じたとしても、それはEさんの責任ではありません。
おそらくEさん自身も、Eさんの夫自身も、乳幼児期〜少年少女期にかけて、
(あまり幸福でない家庭)を経験しているはずです。
それが今でも、ズルズルと尾を引いている。
だから私は「運命」という言葉を使います。

運命というのは、それを受け入れてしまえば、何でもありません。
へたに逆らうと、運命は悪魔となって、そしてキバをむいて、あなたに襲いかかって
きます。
あなたをとことん苦しめます。

最後に、あなたが苦しんでいる以上に、二男も苦しんでいるということを忘れないように。
あなたから見れば、わがままな息子に見えるかもしれませんが、16歳の子どもが、
16歳という年齢の範囲で、懸命にもがき、苦しんでいるのです。
この年齢では、自分のしたことがわからない、自分のしたいことができないというのは、
たいへんな苦痛なのです。
私自身も、似たような経験をしたことがあります。
その苦痛をEさんが共有できないまでも、暖かい愛でくるんであげたら、二男も救われるのでは
ないでしょうか。
『暖かい無視』というのは、そういう意味です。

直接的な問題が解決するまでに、まだ1、2年はかかりますが、終わってみると、
あっという間のできごとです。
何ごともなく終わった……という感じになります。
その日を信じて、今は、淡々とやるべきことはやり、あとは時の流れに身を任せて
ください。

それを乗り越えたとき、あなたはすばらしい人間になっていますよ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもの非行 子供の非行 非行 家庭内暴力)

【Eさんより、はやし浩司へ】(返信)

林先生、早速の返信ありがとうございます。
よくわかります。
次男は優等生を親のために演じていたのだと思います。
小学校のころ、帰宅してランドセルを放り投げ、寝っ転がってマンガを読んだり、友達と遊ぶこ
とはなかったように思います。

私が学歴重視をして本来の子供のあるべき姿をうばっていたのです。
今反省したところでしかたありませんが、育てなおしをしよう、低学年からやり直そうと思いま
す。

次男、近頃女装してネットのブログに写真をのせて遊んでいます。
気になりますが、女装することで発散してるのだろうと見て見ぬふりをしてます。
あたたかい無視に徹し、努力し、よい加減の母親に努めます。
ありがとうございました。








書庫TOPへ 書庫(1) 書庫(2) メインHP
27
【日本社会・母系社会?】

++++++++++++++++++++

日本は、概して言えば、奈良時代の昔から
母系社会。
母親の存在が、大きい。

その代表的なものが、「母さんの歌」。
それに森Sが歌う、「おふくろさん」など。

どうして父親を賛歌した歌がないのか?

++++++++++++++++++++

子どもの心をつかむ法(恩を着せるな!)

子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行
論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそ
のあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの
勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、
本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そ
こまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親
はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しか
しこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさ
んの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分
は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り
込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言うの
に、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言う
と、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命
に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成6
年)は、次のようになっている。
 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%

 日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読む
と、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の非常識

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度とい
う(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」が
わからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひ
れ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪い
ことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国
宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そう言って居直った)と称して、手玉にして遊
ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族
は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人
だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論には
じゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマ
ザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)は、
かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪お
とうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってる
よ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くと
したら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておい
たよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと
温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%
の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と
いう考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++++++++++++++

 要するに、いまだに、日本人は、あの封建時代の亡霊を、ひきずっているということ。身分制
度という亡霊である。世の中には、その封建時代を美化し、たたえる人も少なくないが、本当に
そんな世界が理想の世界なのか、またあるべき世界なのか、もう一度、冷静に考えなおしてみ
てほしい。
(はやし浩司 権威主義 権威主義者 親子の亀裂 断絶)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●依存心をつける子育て

 森Sの歌う歌に、『おふくろさん』がある。よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。
しかし……。

 「溺愛児」というときには、二つのタイプを考える。親が子どもを溺愛して生まれる溺愛児。そ
れはよく知られているが、もう一つのタイプがある。

親を溺愛する溺愛児というのが、それ。簡単に言えば、親離れできない子どもということになる
が、その根は深い。

Nさん(女性)は、60歳を過ぎても、「お母さん、お母さん」と言って、実家に入りびたりになって
いる。親のめんどうをあれこれみている。親から見れば、孝行娘ということになる。Nさん自身
も、そう言われるのを喜んでいる。いわく、「年老いた母の姿を見ると、つらくてなりません。もし
魔法の力が私にあるなら、母を50歳若くしてあげたい」と。

 話は飛ぶが、日本人ほど子どもに依存心をつけさせることに、無関心な民族はないとよく言
われる。欧米人の子育てとどこがどう違うかを書くと、それだけで1冊の本になってしまう。

が、あえて言えば、日本人は昔から無意識のうちにも、子どもを自分に手なずけるようにして
子どもを育てる。それは野生の鳥をカゴの中に飼い、手なずける方法に似ている。「親は一番
大切な存在だ」とか、あるいは「親がいるから、あなたは生きていかれるのだ」とかいうようなこ
とを、繰り返し繰り返し子どもに教える。教えるというより、子どもの体に染み込ませる。

そして反対に、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。あるいは
親不孝者として、排斥する。こうして日本では、親に対してベタベタの依存心をもった子どもが
生まれる。が、それは多分に原始的でもある。少なくとも欧米的ではない。あるいはあなたはよ
い歳をして、「♪おふくろさんよ、おふくろさんよ……」と涙を流している欧米人が想像できるだ
ろうか。

むしろ現実は反対で、欧米人、特にアングロサクソン系のアメリカ人は、子どもを自立させるこ
とを、子育ての最大の目標にしている。生後まもなくから、寝室そのものまで別にするのがふ
つうだ。親子という上下意識がないのはもちろんのこと、子どもが赤ん坊のときから、「私は
私、あなたはあなた」というものの考え方を徹底する。たとえ親子でも、「私の人生は私のもの
だから、子どもにじゃまされたくない」と考える。

こうした親子関係がよいか悪いかについては、議論もあろうかと思う。日本人は日本人だし、
欧米人は欧米人だ。「♪いつかは世のため、人のため……」と歌う日本人のほうが、実は私も
心情的には、親近感を覚える。しかしこれだけはここに書いておきたい。

親思いのあなた。親は絶対だと思うあなた。親の恩に報いることを、人生の最大の目標にして
いるあなた。そういうあなたの「思い」は、乳幼児期に親によって作られたものだということ。し
かもそれを作ったのは、あなたの親自身であり、その親も、日本という風土の中で作られた子
育て法に従っただけに過ぎないということ。

言いかえると、あなたの「思い」の中には、日本というこの国の、子育て観が脈々と流れてい
る。それを知るのも、子育てのおもしろさの一つかもしれない。さて、もう一度、『おふくろさん』
を歌ってみてほしい。歌の感じが前とは少し違うはずだ。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉
に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本
能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子
育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習
って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。
スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるも
のなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必
要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経
験を武器として、自分たちの世代を生きる。

そして親になったとき、自分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育
てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。その第一。

たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。洗濯
は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水道、ガスはガ
ス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ますか」と
質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さ
に慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような
知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。
私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。

さらに高校二年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。もうこうなる
と、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつというのか。こう
した事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々ている」(学外
研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たち
が得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、
かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。

将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるように
するのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの自立 自立 自立する子供)

(付記)

●私もマザコンだった!

こう書く私も、実は、若いころは、マザコンだった。
30歳を過ぎて、ワイフにそれを指摘されるまで、気がつかなかった。

自分がマザコンであるかどうかは、自分がそうでなくなったときにしか、わからない。
「私は親孝行のいい息子」と、思いこむことで、それを片づけてしまう。
あるいは「私の親は、それに値するすばらしい母親である」と、それを片づけてしまう。

ある男性は結婚するとき、「親孝行をする」を、相手の女性に条件として押しつけたという。
あるいは嫁・姑戦争が激しくなったとき、自分の妻に向って、「私は母をとる。お前の
ほうが出て行け」と言った男性もいる。

私も、そういう男性に近かったかも(?)。

自分からマザコン性を抜くのは、容易なことではない。
脳の、それこそ神経生理のもっとも基本的な部分にまで、刷り込みがなされている。
一度乳幼児期にマザコンになり、また成長過程でそれが修正されないと、男性は、
(もちろん女性も)、マザコンになる。

女性のマザコンを、私は「隠れマザコン」と呼んでいる。
さらに一歩話を進めると、実は、ファザコンと呼ばれる人も多い。
たいていは「親絶対教」の信者で、父親を同じように絶対視する。

「親を尊敬する」というのと、「親を盲目的に信仰する」というのは、
まったく別。
親といえども、ときとして子どもの批判の対象になることもある。
また批判されても、文句は言わない。

子どもというのはいつも、親を踏み台にして、さらに先へと前に進んでいく。
あなたの子どもが親不幸になったからといって、嘆くことはない。
あなたはあなた。
子どもは子ども。
それがいやなら、あなたも、親ではなく、一人の人間として子どもに尊敬される
よう、心がければよい。

「私は親だ」「親に向かって、何だ!」などと親風を吹かしているようでは、
あなたの住む世界は、小さい。
そういうくだらない親意識は、できるだけ早く捨てること。
親子の間にキレツを入れることはあっても、たがいを結ぶ絆(きずな)になることは、
ぜったいにない!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●隠れマザコン

+++++++++++++++

子どものマザコン、つまりマザコン性
について。

ベタベタの親子関係は、決して好ましい
ものではない。

+++++++++++++++

 マザコンタイプの子どもは、(おとなもそうだが)、いつも自分の母親が、完ぺきな母親である
ことを、求める。(だから、「マザー・コンプレックス」という。)そのため、母親の、ささいなまちが
いさえも許さない。ほんの少しでも、自分が正しいと思ったことに反したことを母親がしたりする
と、それを怒ったり、ときに、ふてくされたりする。

 自分は、完全に愛されているのだという安心感。
 自分は、何をしても許されるのだという安心感。
 自分は、いつでも、どこでも、母親の関心の的でなければならない。

 言うなれば、幼稚な自己中心性そのもののことだが、いつもその安心感を、母親に求める。
そしてそれがないと、安心できない。

 この状態は、結婚してからも、つづく。そしてその対象が、母親から、妻へ移動することはあ
る。

(女性にもマザコンは、多い。女性のばあいは、そのまま母親に対して、マザコンを維持するこ
とが多い。しかも女性のマザコン、これを「隠れマザコン」と言うが、女性のマザコンは、男性の
それより、はるかに強烈になりやすい。ただ女性と女性との関係であるという点で、外からは、
わかりにくい。)

 A君(小3)は、学校のテストなどで、よい点をとってきたりすると、すぐ母親に見せていた。そ
ういう形で、一度は、母親に評価されないと、満足しなかった。そのとき母親が、何かのことで、
A君を無視したような態度をとったりすると、とたんA君は、母親に対して、すねたり、いじけたり
した。そしてその状態が、ばあいによっては、1、2時間もつづくこともあった。

 母親自身が、A君が、マザコンであることに気づいていなかった。つまり母親自身が、ベタベ
タの母子関係をつくりながら、それに気づいていなかった。

 こういうケースのばあい、本来なら、父親が、母子の間に、割って入らなければならない。で
ないと、子どもは、そのまま、マザコンを持続してしまう。が、不幸なことに、A君の父親は、そ
の数年前から、単身赴任で、インドに赴任していた。ますますA君は、マザコンになっていった。

 母子関係が、正常に分離できていない。そのため、弊害は、そのあとになってから起こる。男
子のばあいだと、おとなになり、結婚してから、起こる。男性のばあいは、このタイプの男性
は、一般論として、浮気しやすくなると言われている。目の前の妻という女性に、満足できない
からである。

 ある男性(映画監督)は、エッセーの中で、堂々とこう書いていた。「男性は、いつも永遠のマ
ドンナを求めて、さまよい歩くものです」と。これは、つまり自ら、「私はマザコンです」と告白して
いるようなものである。

 男児にしても、女児にしても、子どもがマザコンになってよいことは、何もない。そのマザコン
を是正するのが、父親の役目ということになる。もっとも父親が、マザコンのばあいは、どうしよ
うもないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司


●カルト抜き

 子どもが不登校的な症状を見せたりすると、たいていの親は、その瞬間、パニック状態にな
る。その気持ちは、よくわかる。そして自分が感じた不安や心配を、直接、子どもにぶつけてし
まう。

 「学校へ行きなさい!」「いやだア!」と。

 ときに親は、子どもをはげしく叱ったりする。しかし親のこの一撃が、子どもの症状を、決定
的なまでに、悪化させる。しかし親には、その自覚がない。「子どもが学校へ行かなくなってしま
ったら、どうしよう……」と、そんなことばかりを、先に考える。

 では、どうするか? ……ということを書いても、意味がない。親の根底に、学歴信仰、学校
神話が残っているかぎり、この問題は解決しない。子どもは、親の不安や心配を敏感に感じと
ってしまう。いくら、親が、口先で、「学校へ行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と言ったと
ころで、意味はない。

 子どもは、親の心の奥の部分、つまりシャドウを読んでしまう。

 つまりそのシャドウを消さないかぎり、この問題は、解決しない。それを、「カルト抜き」という。
学歴信仰というカルトを抜く。

 ところで、あの忌まわしい事件を引き起こしたO真理教というカルト教団が、またまた活動を
活発化させているという。そういうニュースを見たりすると、たいていの人は、こう思うにちがい
ない。「私は、ちがう」「私には、関係ない」「私は、カルトなど信仰していない」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう言い切ることができるだろうか?

 実は、学歴信仰というのは、立派な、カルトである。ただ日本中の親たちがそのカルトを信仰
しているから、自分ではわからないだけ。日本から一歩、外に出てみると、それがよくわかる。

 つまりそのカルトを抜かないかぎり、ここでいう不登校の問題は解決しない。仮に、子どもが、
午前中だけでも、学校へ通うようになると、親は、こう言う。「何とか、給食までいっしょに、食べ
るようになってほしい」と。さらに給食までいっしょに食べるようになると、今度は、「午後まで勉
強するようになってほしい」と。

 逆のこともある。

 今にも不登校児になりそうな子どもがいた。小学2年生の男の子だった。その子どもは、そ
のとき、それでも何とか、学校へは行った。しかし午前中の1、2時間は、保健室や理科室で、
時間を過ごした。

 やっと元気になるのは、3、4時間目くらいからで、ときには、昼休みに時間になってから、教
室へもどっていった。

 それについて母親から、「どうすればいいでしょう」という相談があった。が、私は、こう言っ
た。

 「細い糸かもしれませんが、それを切ってはいけない。お母さんは、子どもを『なおそう』として
いるが、なおそうなどと思ってはいけない。現状維持だけを考えてください」と。

 こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。親は、そのときの状態を最悪と思うかもし
れないが、その最悪の下には、まだ別の「底」がある。この段階で無理をすれば、その二番
底、三番底へ落ちてしまう。

母親「では、どうすればいいのでしょうか?」
私「よくがんばっているわねと、ほめてあげてください」
母親「ほめるんですか?」
私「子どもの立場で考えてみてください。行きたくない学校へ、重い足を引きずりながら、行って
いるのですよ。子どもはそのつらい気持ちと、毎日、戦っているのです。だから、ほめるので
す」

母親「でも、このままでは、うちの子は、ダメになってしまいます」
私「何が、ダメになるのですか。何も、ダメなんかには、なりませんよ」
母親「学校へ行かなくなってしまったら、どうするのですか?」
私「いいじゃないですか。そうなっても。お母さんが、あれこれクヨクヨと心配している分だけ、子
どもの心は不安定になります。不登校が不登校として、長引いてしまいます。子どもが、その気
持ちを感じ取ってしまうからです」と。

 そこで親は、心底、こう思わなければならない。「いいのよ、学校なんて、行きたくなければ行
かなくても!」と。口先だけではいけない。心底、そう思わなければならない。そのために、ここ
でいうカルト抜きをする。とたん、子どもの表情は明るくなる。そしてしばらく時間をおいたあと、
また学校へ行くようになる。前に、『あきらめは、悟りの境地』というエッセーを書いた。これも、
その悟りの境地のひとつということになる。

【付記】

 邪悪な「学歴信仰」を隠しながら、子どもに、「勉強しなさい」と言っても、子どもは、勉強しな
い。子どもは、親の、心の奥底、つまりは、下心を読んでしまう。

 教育の世界でも、同じようなことが起きることがある。

 ある進学塾の講師は、こう言った。「生徒というのは、いくらいい大学へ入っても、進学塾へ
は、礼にはこないものですよ」「結婚式などに招待されるケースは、1000に1つもありません」
と。

 当然である。親も子どもも、進学塾の講師の下心を、進学塾に通っているときから、すでに見
抜いている。

 「教室」という場所でも、教える側は、「無私」でなければならない。そこにほんの少しでも、雑
音が入ると、やがて子どもは、教師の指導に従わなくなる。1年や2年なら、何とかごまかすこ
とはできるが、3年、4年となると、そうはいかない。

 昔、月謝袋を、つめ先で、ポンとはじいて、「先生、あんたのほしいのは、これだろ」と言った
高校生がいた。私はその場で、即刻、その子どもを、退塾させたが、今から思えば、その子ど
もの言ったことは、正しかった。当時の私は、経営を第一に考えて、仕事をしていた。彼は、そ
の私の心を見抜いていた。
(はやし浩司 不登校 学歴信仰 カルト抜き シャドウ 細い糸 二番底)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【野口英世の母】

++++++++++++++++

親子の間の依存性を考えるテーマとして、
野口英世の母をあげてみます。

02年に書いた原稿です。
どこか過激かな(?)と思う部分も
ないわけではありませんが、
もう一度、ここに掲載してみます。

野口英世の母は、ほんとうにすばらしい
母親であったのか?

++++++++++++++++

●母シカの手紙

 2004年に新千円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そういう人
物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こんな手紙
を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつくるトおせ
てくたされ わてもねむられません」(1912年(明治四五年)1月23日)(福島県耶麻郡猪苗代
町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を思
う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開発課パ
ンフ)というのが、おおかたの見方である。母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、こころぼそく
ありまする。どうかはやくかえってくだされ……かえってくだされ」と懇願している。
 これに対して、野口英世は、1912年2月22日に返事を書いている。「シカの家の窮状や帰
国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本やアメリカを
代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決することなどを切々と書い
ています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)ということだそうだ。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、手紙
を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するものであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、すぐに
は帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、親が子ども
に、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよ
い。あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々と、家の窮状を
訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこんな手紙を手にしたら、あ
なたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくなってしまうかもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでやった」
「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んでもらった」「育て
てもらった」と、恩を着せられる。たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。
そういう子育てを評して、あるアメリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存
心をもたせることに無頓着な民族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えてくださ
い。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきてください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未熟な
親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か何かで伏せ
っていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。事実、野口英世記
念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、いっしょに写っている母
シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ちがにじ
み出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、私も昔、学生
のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。しかし今、自分が親になってみる
と、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書いておく。

●私のこと

 私は23、4歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今のワイフと
いっしょに生活するようになったころも、毎月3万円の仕送りを欠かしたことがない。大卒の初
任給が6〜7万円という時代だった。が、それだけではない。

母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取っていった。長男が生まれたと
きも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で20万円近くをもって帰った。母
にしてみれば、それは子どもとしての当然の行為だった。(だからといって、母を責めているの
ではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれに命令されるわけで
もなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が27歳ごろのときから、実家での
法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。土地柄、そういう
行事だけは、派手にする。たいていは近所の料亭を借りきってする。その額が、20〜30万
円。そのたびに、私は貯金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これについては
また別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感というよりは、社会的
重圧感に、いやというほど、苦しめられた。「子どもは親のめんどうをみるのは当たり前」「子ど
もは先祖を供養するのは当たり前」「親は絶対」「親に心配かける子どもは、親不孝者」などな
ど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はその重圧
感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方をしていた。「あ
そこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡さなかっ
た」「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。そ
れは、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が感じ
た重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定するのか」とか
言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。しかしこれは誤
解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手紙を
読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、思えな
い。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。そこでもう一
度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころより
もはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカは、「子ど
もが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思っていたに違い
ない。

だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろう。文字
の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理解できなかっ
たかもしれない。一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが親のめんどう
をみるのは当たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた手紙は、まさにそう
した板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こうした評論
のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、その母親を
批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。現に今、その母シカをたたえ
る団体が存在している。母シカを批判するということは、そうした人たちの神経を逆なでするこ
とにもなる。だからここでは、私は結論として、つぎのようにしか、書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、帰ってく
るな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝行など考えなくて
もいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。それが無理なら、「元気か?」と様子を聞く
だけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、どんな手紙を書くだろうか。一度母シカの気持
ちになって考えてみてほしい。
(02−8−2)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
野口英世 シカ はやし浩司 依存性 相互依存 恩着せ 親の恩着せ)