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【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

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●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望
が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

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●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文
献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)








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【自尊感情】(講演会・要旨)090410作成

【講演・原稿】(子どもの心の内側)



【自尊教育】(前篇)(つづきは、次回です。)

【自尊教育】

++++++++++++++++

東京都教育委員会は、今度、自尊教育を始めるそうです。
どんな教育を考えているのかは知りませんが、しかし自尊教育ほど、
簡単なものはありません。
「ほめる」。
たったそれだけのことで、子どもは、自分に対して肯定的な
評価をくだすようになります。

が、そうでない子どもが多い。
発達心理学的に言えば、「自我の同一性(アイデンティティ)」の
構築に失敗したということになります。

さらに最近では、それが大脳生理学の分野でも、証明されています。
そのカギを握るのが、辺縁系にある、扁桃核(扁桃体)ということに
なります。
「教育」でできる……というよりは、これは「家庭」の問題かな。
さらに言えば、幼児期から少年少女期への移行期(4・5〜5・5歳)
における指導が重要ということになります。

それを書く前に、産経新聞の記事から抜粋させてもらいます。

+++++++++++++以下、産経新聞・090310++++++++++

 日本の子供たちは自分が嫌い−。東京都教育委員会が公立の小中学生、都立高校生を対
象に「自尊感情」について調査したところ、中高生の5〜6割が「自分」を好意的にとら
えていないことが10日、分かった。日本の子供たちの自尊感情の低さはこれまでも指摘
されてきたが、自治体レベルで大規模な調査が行われたのは初めて。都教委は現状を深刻
に受け止め、「自分の存在や価値を積極的に肯定できる子供を育てる」とし、4月から小学
校で試験的に"自尊教育"を実施する。

 都教委は昨年11〜12月、都内の小学生4030人、中学生2855人、高校生58
55人を対象に、自尊感情や自己肯定感をテーマにしたアンケートを行った。 

 調査結果によると、中学生では「自分のことが好きだ」との問いに、「そう思わない」「ど
ちらかというとそう思わない」と否定的に回答した割合が、中1=57%、中2=61%、
中3=52%に上り、全学年で「そう思う」「どちらかというとそう思う」と肯定的に答え
た割合を上回った。高校生でも否定的な考えが目立ち、高1=56%、高2=53%、高
3=47%だった。

 小学生では、小1の84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は
低下し、小6では59%となっている。

 このほか、国内外の青少年の意識などを調査・研究している財団法人「日本青少年研究
所」の国際調査(平成14年)でも「私は他の人々に劣らず価値のある人間である」との
問いに「よくあてはまる」と回答した中学生が、アメリカ51・8%、中国49・3%だ
ったのに比べ、日本は8・8%と極端に低かった。

+++++++++++++以上、産経新聞・090310++++++++++

数字が並んでいるので、整理させてもらう。

中学生
「自分のことが好きだ」
「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と答えた子ども
中1……57%、
中2……61%
中3……52%

高校生でも否定的な考えが目立ち、高1……56%
高2……53%
高3……47%

小学生では、小1……84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は
低下し、小6では59%となっている。

++++++++++++++++++

以上の数字をまとめると、こうなります。
小学1年生では、84%が、「肯定的だが」、学年が進むと、小学6年生では、それが
59%に低下する。
さらに中学生になると、50%台、高校生になると、40%台に低下するということ。

しかしこの数字を見て私が驚いたのは、小学1年生で、84%しかいないということ。
「小学1年生で、もう84%!」と。
その入口にいる子どもですら、肯定的に自分をとらえている子どもが、84%しかいない
ということに注目してください。

しかし「自尊教育」ほど、簡単なものはないのです。
順に説明してみましょう。

+++++++++++++++++++

「私はこうありたい」「こうあるべき」という(像)を、
「自己概念」といいます。
おとなだけではなく、子どももみな、この自己概念を
描きながら生きています。

それに対して、そこに(現実の自分)がいます。
これを「現実自己」といいます。

この両者が一致した状態を、「自我の同一性が確立した状態」と
いいます。
このタイプのおとなは、(もちろん子どもも)、
外界からの誘惑に対しても、強い抵抗力を示します。
もちろん、自尊感情も強く、現実感覚もしっかりと
しています。

それについて書いたのが、つぎの原稿です。
少し余計なことも書いていますが、どうか
がまんして読んでください。


++++++++++++++++++++

●自我の同一性(アイデンティティ)の確立

●世間的自己

 少し前、(自己概念)と(現実自己)について、書いた。「自分は、こうあるべきだとい
う私」を(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。

 これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことがで
きる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれる
と、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイ
ト)。

 たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)
を知り、その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。

 そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感が
あれば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもか
け離れていて、手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。

 ……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の
心理を、じゅうぶんに説明できない。

 そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)に
ほかに、3つ目に、(世間的自己)を付け加える。

 「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断する
ことを、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。

+++++++++++++++++

 A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かし
て、音楽学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。

 しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅
い後輩より、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるの
は、父親のせいだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。

 ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということ
になる。しかし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。

 しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘で
あることを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価を
うまく利用して、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。

 これは私がここでいう(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++

 少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。

 世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、
異常なまでに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。
自分の生きザマがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。

 「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」
と。

 そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払う
ようになる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自
身は、その仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)

 これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現
実自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。

++++++++++++++++++++

 そこで(私)というものを考えてみる。

 (私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私は
こうだということを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」
もいる。

 これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、
この三者のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気に
してばかりしている人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。

 しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へた
をすれば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気が
ついてみたら、自分がどこにもないということにもなりかねない。

 中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。

 もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、
こう聞いた。

 「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでし
ょうかね。(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高
校生は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強
など、ほとんどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。

 学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにす
るかで悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++++++

 これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にあ
る。

 (自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世
間的自己)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレ
ビドラマに出ただけで、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、
それにあたる。

 反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも
恵まれず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。

 さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいの
に、(世間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。

 理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三
角形が肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書い
たように、精神は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になっ
たりする。

++++++++++++++++++++++

 そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の
中で、どのようなバランスを保っているかを知ることである。

 たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊
離させてしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えもので
ある。

 子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむ
かもしれない。

 さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎
日、近くの駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の
人に制服を見られるのがいやだから」というのが、その理由だった。

 今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。
世間体を気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能
力や方向性など、まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。

 しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子
関係も、そこで破壊される。

 ……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。

 そこであなた自身は、どうか。どうだったか。それを考えてみるとよい。

 あなたにはあなたの(自己概念)があるはず。一方で、(現実自己)もあるはず。その両
者は、今、うまく調和しているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしもしそうで
ないなら、あなたは、今、ひょっとしたら、悶々とした毎日を過ごしているかもしれない。

 と、同時に、あなたの(世間的自己)をさぐってみるとよい。「私は世間のことなど、気
にしない」というのであれば、それでよし。しかしよくても悪くても、世間的自己ばかり
を気にしていると、結局は、疲れるのは、あなた自身ということになる。

 (私)を取りもどすためにも、世間のことなど、気にしないこと。このことは、そのま
まあなたの子育てについても、言える。あなたは自分の子どものことだけを考えて、子育
てをすればよい。すべては、子どもから始まり、子どもで終わる。

 コツは、あなたが子どもに抱く(子どもの自己概念)と、子ども自身が抱く(現実自己)
を、遊離させないこと。

その力もない子どもに向かって、「もっと勉強しなさい!」「こんなことで、どうするの!」
「AA中学校へ、入るのよ!」では、結局は、苦しむのは、子ども自身ということにな
る。


++++++++++++++++++++

自我の同一性(アイデンティティ)の構築に失敗すると、
いろいろな場面で、不適応症状を示すようになります。

「こんはずではない」「これは私のしたいことではない」と。
それが進むと、自我の不一致が起こり、さらに進むと、
自我の崩壊が始まります。

最悪のばあいは、無気力症候群に襲われ、ニタニタと
意味のない笑いだけを浮かべながら生活する、など。

では、どうすればよいのでしょうか。
自我の同一性を確立するためには、どうすればよいのでしょうか。

それが「私らしく生きる」ということになります。

つぎの原稿がそれですが、一部、内容がダブりますが、
許してください。

++++++++++++++++++++

●私らしく生きるために……

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろ
うか。実際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自
己概念」という。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く
理想像とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を
確信することができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができ
る。そうでなければ、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではす
まない。心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両
親は、その地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになって
いた。ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。と
たん、つまり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて
不安定になった。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がう
まくかみあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、
そこで不適応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、
ささいなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、
進学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望し
ていたのだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければなら
ななかった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育
てられた。夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえし
た。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存
在だった。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、
進学指導の三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だっ
た。「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、
がんばっているつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数
日後、Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非
行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになってい
た。こうなると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業
中でも、先生に叱られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現
実の自分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、
どうでもよい。ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すば
らしいとは思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分
を否定するCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入って
いてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それは
たとえて言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなもの
ではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、
父親ですら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言
いかえると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければ
ならない自分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの
心をバラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがまま
に育てていくということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保
っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理を
しなくていい」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

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 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでな
ければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあ
わせなければならない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生き
がいを見つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢
や希望にそって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういう
ことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。


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子どもの自尊感情を育てるためには、どうしたらよいか?
もうそろそろその輪郭が見えてきたことと思います。

しかしこれは何も、子どもだけの問題ではありませんね。
私たちおとなも、実は、自尊感情のあるなしで、
毎日、悩み、もがいているのです。

もう一度、自己概念について考えてみたいと思います。

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●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


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そこで登場するのが、『マズローの欲求段階説』です。
「私は私らしく生きたい」。
そのためには、どうすればよいのか。

ポイントは、「現実的に生きる」ということです。
この(現実性)を喪失すると、おとなも、子どもも、
非現実的な世界で生きるようになります。

昨今のスピリチュアル・ブームも、その流れの中に
あると考えてよいでしょう。

(自我の同一性の確立ができない)→(現実から逃避する)
→(非現実的な世界に生きようとする)、と。

生き方のひとつのヒントになると思いますので、
紹介します。

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【私らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生き
ることの重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこで
そういうときは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的
に生きるという意味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始
まって、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定すること
はできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人
というよりは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということにな
る。いつもその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単
に乗り越えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの
人は、悲しみ、苦しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世
で、また会える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、
底なしに深い。

●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこ
にいる以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要
はない。言ってはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、
それをいちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己
概念=自分はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離して
しまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自
己概念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心
を守るためでもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、
叫べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念
(?)に反するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪
く思っている人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからとい
って、それがどうなのか? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて
生きることを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をい
う。


+++++++++++++++++++

では、どうすれば、私は私らしく生きることが
できるか。
子どもは、子どもらしく生きることができるか。

+++++++++++++++++++

●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動
はともかくも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、が
んこになり、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミ
ソの中でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに
気づくことは、まず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、
自分の硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若い
ときから養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対
にすばらしいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったり
してはいけない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せると
いうこと。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
 

+++++++++++++++++++++

しかし現実には、子どもの自尊感情を
傷つけるだけではなく、破壊する親も少なくないですね。
破壊しながら、破壊しているという事実にすら、
気がついていない。

それについて書いたのが、つぎの原稿です。

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●親の希望 vs 現実の子ども

 親が、心の中で希望として描く、子ども像。これを(子ども概念)と呼ぶ。一方、そこ
には、現実の子どもがいる。それを(現実子ども)と呼ぶ。心理学でいう、(自己概念)と、
(現実自己)という言葉にならった。

 そこで私は、この(子ども概念)と(現実子ども)のほかに、もう一つ、(世間評価)を
加える。これも、(自己概念)と(現実自己)のほかに、もう一つ、(世間評価)を、加え
たことに、まねる。他人から見た子ども像ということで、「世間評価」という。

 親が、「うちの子は、こうであってほしい」と願いながら、心の中に描く、子ども像を、
(子ども概念)という。

 勉強がよくできて、スポーツマンで、よい性格をもっていて、人にも好かれる。集団の
中でもリーダーで、できれば、ハンサム。自分という親を尊敬してくれていて、親の相談
相手にもなってくれる……、と。

 しかし現実の子どもは、そうでないことが多い。問題だらけ。園でも学校でも、何かと
トラブルをよく起こす。成績もかんばしくない。できも悪い。性格もいじけているし、反
抗ばかりしている。このところ、勉強、そっちのけで、遊んでばかりいる。

 しかし子どもの姿というのは、それだけでは決まらない。親が知らない世界での評価も
ある。家の中では、ゴロゴロしているだけ。生活態度も悪い。親を親とも思わない言動。
しかしスポーツクラブでは、目だった活躍をしている、とか。

 こういうケースは、よくある。

 そこで、(子ども概念)と、(現実子ども)が、それなりに一致していれば、問題はない。
(子ども概念)と(世間評価)も、それなりに一致していれば、問題はない。しかしこの
三者が、よきにつけ、悪しきにつけ、距離を置いて、遊離すると、そこでさまざまな問題
を引き起こす。

【例1】(以下の例は、すべてフィクションです。実際にあった例ではありません。)

 ある日、小学1年生になったS君のバッグの中を見て、私は驚いた。そうでなくても、
これから先、たいへんだろうなと思っていた子どもである。今でいうLD(学習障害児)
であったかもしれない。そのバッグの中には、難解なワークブックが、ぎっしりと入って
いた。

 このケースでは、親は、S君に対して、過大な期待を抱いていたようである。そのため、
「やらせれば、できる」という信念(?)のもと、難解なワークブックを、何冊も買いそ
ろえた。そして毎日、S君が学校から帰ってくると、最低でも、2時間は、勉強を教えた。

 このS君のケースでは、ここでいう親が心の中で描く(子ども概念)と、(現実子ども)
が、大きくかけ離れていたことになる。

【例2】

 B君は、中学1年生。勉強は嫌い。ときどき、学校もサボる。しかし小学生のときから、
少年野球クラブでは、ずっと、レギュラー(ピッチャー)を務めてきた。その地区では、
B君にまさるピッチャーはいなかった。

 年に4回開かれる、地区大会では、B君の所属するチームは、たいてい優勝した。市の
大会で、準優勝したこともある。

 しかし母親との間では、けんかが絶えなかった。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。
あるとき、母親は、「勉強しなければ、野球チームをやめる」とまで言った。が、B君は、
その夜、家を出てしまった。B君が、6年生のときのことである。

 中学生になってから、B君は、部活に野球部を選んだ。しかしその直後、B君は、監督
の教師と衝突してしまい、そのまま野球部をやめてしまった。B君が、グレ始めたのは、
そのときからだった。

 このB君のケースでは、(子ども概念)と(現実子ども)は、それほど遊離していなかっ
たが、親が子どもに対してもっている(子ども概念)と、(世間評価)は、大きくズレてい
た。

【例3】

 私の実家は、以前は、いくつかの借家をもっていた。その中の一つは、表が駐車場で、
裏が一間だけの家になっていた。

 その借家には、父と子だけの二人が住んでいた。母親は、どうなったか知らない。が、
その子というか、高校生が、国立大学の医学部に合格した。父親は、酒に溺れる毎日だっ
たという。

 しばらくしてその父子は、その借家を出たが、私は、その話を、母から聞いて、心底、
驚いた。借家を訪れてみたが、酒のビンがいたるところに散乱していた。

 私が、「どんな子どもでしたか」と近所の人に聞くと、その人は、こう言った。「本当に
すばらしい息子さんでしたよ。毎日、父の酒を買うために、自転車で、酒屋へ通っていま
した」と。

 この父子の関係では、父親に、そもそも(子ども概念)があったかどうかは、疑わしい。
放任と無責任。しかしその子どもの(現実子ども)は、父親のもっていたであろう(子ど
も概念)を、はるかに超えていた。(世間評価)も、である。

【例4】

 新幹線をおりて、バスで、友人の家に向かうときのこと。うしろの席で、あきらかに母
と娘と思われる二人が、こんな会話を始めた。母親は、45歳くらいか。娘は、20歳そ
こそこ。母親というのは、どこかの大病院の院長を夫にもつ、女性らしい。どうやら、娘
の結婚相手をだれにするかという相談のようだった。

母親「Xさんは、いい人だけど、私大卒でしょう。出世は望めないわね」
娘「それにXさんは、もう30歳よ」
母親「Yさんは、K大学で、4年間、講師をしていたそうよ。でもね、ああいう性格だか
ら、お母さんは、薦めないわ」
娘「そうね。同じ意見よ。あの人は、私のタイプじゃないし……」
母親「Zさんは、どう? 患者さんの評判も、いいみたいだし……」
娘「そうね、一度、Zさんと、食事をしてみようかしら。でもZさんには、もう恋人がい
るかもしれないわ」と。

 話の内容はともかくも、二人の会話を聞きながら、私は、いい親子だなあと思ってしま
った。呼吸が、ピタリとあっている。

 最後のこのケースでは、母のもつ(子ども概念)と、(現実子ども)は、一致している。
大病院の後継者を、二人でだれにするか、相談している。このばあいは、(世間評価)は、
ほとんど、問題になっていない。

 ふつう、この三者が、ともに接近していれば、親子関係は、スムーズに流れる。しかし
この三者が、たがいに遊離し始めると、先に書いたように、親子関係は、ギクシャクし始
める。

 何が子どもを苦しめるかといって、親の高望み、つまり過剰期待ほど、子どもを苦しめ
るものは、ない。

 一方。その反対のこともある。すばらしい子どもをもちながら、「できが悪い」と悩んで
いる親である。こういうケースは、少ないが、しかしないわけではない。

 そこであなた自身のこと。

 あなたは今、どのような(子ども概念)をもっているだろうか。そしてその(子ども概
念)は、(現実子ども)と一致しているだろうか。もし、そうならあなたは、今、すばらし
い親子関係を築いているはず。

 が、反対に、そうでなければ、そうでない。やがて長い時間をかけて、あなたの親子関
係は、ギクシャクしたものになる。気がついてみたら、親子断絶ということにもなりかね
ない。一度、(世間評価)も参考にしながら、あなた自身のもっている(子ども概念)を、
修正してみるとよい。


++++++++++++++++++

子どもの自尊感情を育てるために、
家庭教育はどうあったらよいのか。
それについて書いたのが、つぎの
原稿です。

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【特集・子どもの自尊感情を育てるために】

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子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織ということになる。

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●やる気論

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の
中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが
自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モル
ヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに
包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけでは
ないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除
してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているとい
うわけである。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなも
のを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝
手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、
そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反
応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教
室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をも
つようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印
象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子
どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、
ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」と
いう言葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしてい
く。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってし
まい、努力の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が
分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみ
よう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があ
るという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミン
にも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアド
レナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P5
9)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まる
ということ。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚
えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(ど
れだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁
桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると
考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、
その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、そ
の向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしてい
る。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせ
る。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が
芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすること
がある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児
教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせて
いるその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずな
い。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育
のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。
借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる
気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、
子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものが
ない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。
しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、
たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早
い時期に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉
強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、
その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少し
でも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわない
ということ。


+++++++++++++++++++++++

もうおわかりのことと思います。
自尊感情とやる気は、紙にたとえるなら、表と裏のような
ものです。

自分を肯定的にとらえるところから、やる気は生れ、
そのやる気が、また自尊感情を育てていきます。

では、どうすればよいか。
ここに書いたように、「ほめる」です。
ほめて、ほめて、ほめまくる。
それだけでよいのです。
子どもは、(おとなもそうですが)、ほめることによって、
前向きな姿勢をもつようになります。

たとえば子どもがはじめて、文字らしきものを書いたら、
すかさず、ほめる。
へたでも、読めなくても、それでもほめる。
「すごいわね!」と。
そして子どもの書いたものを、一生懸命、読んであげる。
そのとき子どもの脳の中で起きる反応については、
ここに書いたとおりです。

で、こうした方向性をつくるのは、時期的には、
少年少女期に入る前、年齢的には、4・5〜5・5歳まで
ということになります。

つまりこの時期までの教育が、きわめて重要だという
ことです。

小学校1年生で、「84%」しかいないことに驚いた
私の気持ちを理解していただけましたか?
言いかえると、すでにこの段階で、16%の子どもが、
自分を見失っている?
本来なら、この時期なら、100%が、そうであっても
おかしくないのです。

「ほら、音楽教室!」
「ほら、英語教室!」
「ほら、体操教室!」と、子どもを追い立てることによって、
子どもの心をつぶしていることに、じゅうぶん、注意して
ください。

今、年中児でも、ハキがなく、集団の中でも、グズグズしている
子どもが、5〜6人に1人はいます。
中には、そういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解して
いる親さえいます。

おかしいですね。

+++++++++++++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
現実自己 自己概念 自己の同一性 自我の同一性 やる気 マズロー 欲求段階説
はやし浩司 自尊感情 ほめる 強化の原理 弱化の原理 不適応 不適応障害 
燃え尽き 無気力 現実逃避 スピリチュアル スピリチュアルブーム はやし浩司
現実逃避する若者 現実逃避する子供)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司






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【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。
(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)








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●自分を知る(ジョンハリの窓)


++++++++++++++++++++++


私の教室(BW教室)のビデオを撮るようになって、
ちょうど2か月。
ほとんど手を加えないで、そのまま紹介している。
「ほとんど」というのは、「選択、カット、編集を
しないで」、という意味。


そのビデオを見ていて、たくさんのことに気づいた。
それまでの私が気がつかなかった部分である。
よい面もあるし、悪い面もある。
ときどき「私って、こうだったんだ」と、自分で
へんに納得することもある。


そういう(私)。
(ジョンハリの窓)理論によれば、私の「盲点領域」と
いうことになる。
それに気づいた。


++++++++++++++++++++++


●ジョンハリの窓


アメリカの心理学者の、ルフトとイングラムの2人が、こんな学説を提唱した。
つまり「私」というときの「私」は、つぎの4つに区分されるという。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++
自分も気がついていて     +     自分が気がついていなくて、
他人も気がついている部分   +     他人が気がついている部分 
(開放領域)         +     (盲点領域)  
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
自分は気がついているが、   +     自分も気がついていなくて、
他人が気がついていない部分  +     他人も気がついていない部分 
(隠ぺい領域)        +     (未知領域)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
         (参考:深堀元文監修、「心理学のすべて」(日本実業出版社)


2人の学者の名前を取って、「ジョン・ハリの窓」という。
で、私が自分のビデオを見て、再発見した部分は、このうちの(盲点領域)と、
(未知領域)ということになる。


たとえば癖(くせ)。
ビデオを見ながら、「私にはこんな癖があったのだ」と。
これはジョンハリの窓に従えば、(盲点領域)ということになる。
もちろんジョンハリの窓でいう(盲点領域)は、癖のことを言っているのではない。
心の奥深くに潜む、深層心理を言ったものである。
しかし癖は手がかりにはなる。


たとえば私は子どもたちを指導するとき、すぐ「わかった?」とか、「わかったか?」
と言う。
よい言葉ではない。
私はそう言いながら、わからないでいる子どもを無視して、そのまま先へと進んで
しまう。
この言葉は、そういうときの自己弁解として使われる。
つまり、イヤ〜〜ナ言葉!


で、それを見て、このところその言葉をできるだけ使わないようにしている。
ほかにもある。


●未知領域


自分でも気がついていなくて、他人も気がついていない部分を、「未知領域」
という。
が、中に、「私のことは、私がいちばんよく知っている」と豪語(?)する人がいる。
しかしそういう人ほど、本当のところ、自分のことがまったくといってよいほど、
わかっていない。
というのも、脳みその活動領域をみるまでもなく、私たちが「私」として意識
する部分というのは、恐ろしく小さい。
一説によると、数10万分の1と言われている。


だから謙虚になるのが、よい。
「私は自分のことが何もわかっていない」という前提で、自分を見る。
すべては、ここから始まる。


いろいろな方法がある。
たとえば私のばあい、幼児を教えることによって、始終、自分を見つめることができる。
これには、2つの意味がある。


よく幼児の中から、幼児期の私に似た「私」をさがすことがある。
「私も幼児のころ、こういう子どもだったんだなあ」と。
そういう子どもを手がかりに、自分を知る。
あるいは自分と同じような生い立ちをもった子どもを知る。
そういう子どもを手がかりに、自分を知る。


たとえばこの方法で、私はいつだったか、私も、帰宅拒否児であり、愛情飢餓の状態
だったことを知った。
そしてそれがいまだに尾を引いているのを知った。


もう一つは、相手が幼児のばあい、容赦なく、私を批評する。
「先生の口は臭い(=口臭がする)」に始まって、「先生は、ジジイだ」というのまで
ある。
子どもというのは、そういう意味で正直。
私の盲点を、ズケズケと指摘する。
頭にカチンと来ることもあるが、そこはそこ。


そういう意味では、私は、職場を通して、いつも自分を見つめなおすことができる。


●私を知る


最近の研究によれば、「私」と言える部分は、実はほとんどなく、そのほとんどは、
脳みその中の別の部分に操られているだけということがわかってきた。
条件反射運動を例にあげるまでもない。


愛煙家は、タバコの臭いをかいただけで、あるいはアルコール中毒の人は、
酒のコマーシャルを見ただけで、猛烈な欲求がわくのを感ずる。
そういう人たちは、「私は私だ」「自分で考えて行動している」と思いがちだが、
実際には、ドーパミンという神経伝達物質によって操られているにすぎない。


これが「性欲」となると、人間の活動のほとんどの部分にまで、影響を及ぼしている。
中学生や高校生が、スポーツでがんばるのも、あるいはファッションに興味をもつのも、
その原点にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)ということになる。
私たちは操られるまま、操られているという意識ももたず、操られている。


だから「私」がわからない。
自分の心を解剖してみたとき、どこからどこまでが「私」で、どこから先が「私」
でないか、それがわからない。
実際には、「私」と言える部分というのは、ほんのわずかかもしれない。


話が脱線したが、「私を知る」ということは、それほどまでにむずかしいということ。


●どうすればよいか?


未知領域があるとして、では、どうすればその未知領域を知ることができるか。
このことは、病識のない認知症の人たちを観察してみると、わかる(?)。


私の近くに、このところどうも(?)という女性(60歳くらい)がいる。
……いた。
(最近になって、アルツハイマー病と診断されたようだが……。)
最初は平気で約束を破ることが気になった。
しかしそのうち、その女性は約束を破るのではなく、約束そのものを忘れてしまう
ことに気がついた。


日時を忘れる。
モノを忘れる。
支払いを忘れる。
預かったお金を忘れる。
計画を忘れる、など。


その一方で、その女性は、こまかいことにたいへんうるさく、私にあれこれと
指示をした。
一言ですむような話を、くどくどと1時間くらいかけて話したりした。
で、私がやんわりとその女性の会話をさえぎった。
「私は、そんなバカではないと思います」と。


するとその女性は何を勘違いしたのか、突然、ヒステリックな声を張りあげて、
こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。


これには驚いた。
驚くと同時に、「この女性は自分のことがまるでわかっていない!」と。
私は何も、その女性のことをバカと言ったつもりではない。
で、しばらくして、こうも思った。


「この女性が未知領域について気がつくときは、あるのだろうか?」と。


しかし答は、わかっている。
その女性がそれに気がつくよりも早く、認知症は進む。
つまりその女性は生涯、自分の中の未知領域に気がつくこともなく、人生を
終えるだろう。


……と考えたとき、それはとりもなおさず、私自身の問題であることを知った。
認知症にならなくても、この先、脳みその活動は、加齢とともに、ますます
鈍くなる。
(その女性)イコール、(私自身の近未来の姿)と考えてよい。


●心理学の世界では……


「心理学のすべて」(深堀元文監修)によれば、未知領域を知るために、いろいろな心理
テストが用意されている。
しかしここでは割愛させてもらう。
というのも、これはテストによってどうこうという問題ではなく、日頃の私たちの
生き方に、深く関係しているからである。
またこのエッセーを書く、目的でもない。


先にも書いたように、「私の中には、私が知らない部分のほうが多い」を知り、
自分自身に対して、謙虚になる。
それによって、私たちは自分のことをより深く知ることができる。
またそういう視点を常にもつ。
つまりは日頃の心がけの問題ということになる。


繰りかえしになるが、もし今、あなたが、「私のことは、私がいちばんよく知っている」と
思っているなら、あなたは、かなりあぶないと考えてよい。


さらに蛇足になるが、もし今、あなたが、「私の子どものことは、私がいちばんよく
知っている」と思っているなら、それも、かなりあぶないと考えてよい。
それについては、あちこちで何度も書いてきたので、そちらを参考にしてほしい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ジョンハリの窓 ジョン・ハリの窓 ジョンハリ学説 心の盲点 盲点領域 未知領域
はやし浩司 私とは 私を知る)








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●親子の(きずな)


+++++++++++++++++++++


親子のきずなとは、何か?


このところ、「家族って、何だろう」と、ときどき考える。
「依存性の集合体」?
「種族保存のための結合体」?


+++++++++++++++++++++


●スズメの世界


今ごろの季節は、庭に来るスズメたちも単独行動を繰り返す。
それぞれがせわしく庭にまいた餌をついばんでは、そのままどこかへと
飛び去っていく。
どこかで子育てをしているのだろう。
やがてそのうち、親スズメが子スズメを連れてくるようになる。


そういうスズメたちを見ていると、「人間と同じ」というか、
「人間とどこもちがわない」と思ってしまう。
人間の世界は、スズメの世界より、ほんの少し複雑なだけ。


で、興味深いのは、子育てが終わってからのスズメたちである。
スズメどうしには、親子の(きずな)があるのだろうか。
それともないのだろうか。
たとえば半年とか1年とかたったあと、親スズメが子スズメに
会ったようなとき、もちろんその反対でもよいが、
たがいに、「お前エ!」とか、「お父さん!」とか、言いあうのだろうか。


が、私が見たところ、その(きずな)はないようだ。
スズメたちは子育てが終わると、また集団行動に戻っていく。
ザザーッと飛んできては、またどこかへ、ザザーッと飛んでいく。


●きずな


最近の研究によれば、人間にも、(刷り込み)というのがあるということが、
わかってきた。
ある種の鳥類(卵からかえって、すぐ二足歩行する鳥類)は、最初に目に
入ったものを親と思う。
最初に耳にした泣き声で、親と思うのもいるそうだ。
人間にも似たような刷り込みがある。
年齢的には、0歳から生後7か月くらいまでの間をいう。
この時期をとくに、「敏感期」と呼ぶ。


この時期に、親は親として、脳みその中に徹底的に刷り込まれる。


で、スズメの話。
ここで誤解してはいけないのは、「親」といっても、人間のように
上下意識のある「親」ではないということ。
私たちは「親」という言葉を当てはめることによって、人間社会における
親意識をそのまま連想してしまう。
「親スズメ」「子スズメ」という言葉にしても、そうだ。


正確には、(被依存関係)(依存関係)と言うべきではないか。
人間にしても、刷り込みをした人間は、それ以後、親に対して強力な依存性を
もつようになる。
しかもそれは本能に近い部分にまで刷り込まれるため、一度刷り込みが
なされると、それから脱却することは、容易なことではない。


それこそ、50歳になっても、60歳になっても、「♪おふくろんさんよ」
と空を見あげて、涙をこぼすようになる。


では、スズメの世界では、どうなのか。
「人間のように……」とまではいかなくても、サルや他のケモノのように、
上下関係はあるのだろうか。
そのつながりは、(きずな)として、いつまでも残っているものなのだろうか。


●親意識vs子意識


人間社会における(きずな)というのは、当初は(刷り込み)によってできあがる
ものだが、その後、その人の置かれた文化的背景によって、大きく変化する。


たとえば日本人の私たちが感じている(きずな)は、欧米人のそれとは、かなり
異っている。
が、先ほども書いたように、これは本能に近い部分にまで刷り込みがなされている。
そのため、刷り込まれているということそのものに、気づくことはむずかしい。
欧米人のそれが、どのように(ちがう)か、それを知るのもむずかしい。


たいていは、「私が感じている(きずな)のほうが正しい」とか、さらには、
「絶対的」と思ってしまう。
またそういう感覚でもって、「欧米人も同じだろう」と思ってしまう。
またそれで終わってしまう。


たとえば日本には、『親・絶対教』という、カルト教団がある。
親や、さらには先祖を、絶対視する宗教団体をいう。
そういう教団では、親孝行を第一の「徳行」ととらえ、「親に逆らうのは、
もってのほか」とか、信者に教えたりする。


そういうところで観察される(親意識)というのは、人間社会でデフォルメ
(=歪曲化)された、いわゆる(変形)と考えてよい。
もっともそれは極端なケースだが、親を絶対視する人は、少なくない。
それが親子の基本関係になっている家庭となると、それこそゴマンとある。


たとえばサルの世界にも、人間の世界に似た(親子関係)はあるようだが、
それはあくまでも、(力の優劣関係)に過ぎない。
ボスの座を奪うため、子ザルが、親ザルに、戦いをいどむというようなことは、
よくあるそうだ。


一方、親・絶対教などでは、「親は親だから」という『ダカラ論』だけで、
「親がまちがったことをしても、親に従え」などと教えたりする。


●家族自我群


家族というのは、良好な人間関係で成り立っている間は、それなりにうまく
機能する。
しかしひとたび歯車がどこかで狂うと、今度は、その人を押しつぶしてしまう。
それほどまでの魔力をもって、その人を呪縛する。
この呪縛感を、「幻惑」と呼ぶ。
また一連の呪縛性を、「家族自我群」と呼ぶ。


ふつうの呪縛感ではない。
いつ晴れるともわからない、悶々とした気分に襲われる。
ある男性は、母親の葬式に出なかったことだけを理由に、「親捨て」と呼ばれる
ようになった。
その地方では、一度、「親捨て」というレッテルを張られると、親類からは
もちろんのこと、近所の人たちからでさえ、(白い目)で見られるようになるという。
が、その男性には人には言えない事情があった。


その男性は、父親の子ではなかった。
祖父と母親の間にできた、いわゆる(不倫の子)だった。
そのため……というより、そのことから想像できるように、その男性の家族は、
メチャメチャだった。


で、その男性は、60歳を過ぎた今も、その呪縛感の中で、もがき苦しんでいる。


●「産んでやった」


私自身は、親・絶対教の世界で、生まれ育った。
母からも、「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れるな」という言葉を、
それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。


が、実際には、もう少し巧妙な言い方をする。
わざと私の聞こえるようなところで、親たちが、こう言う。


「○○さんところの息子さんは、立派なもんだ。
今度、親を温泉に連れていってやったそうだ」とか、
「○○さんところの息子さんは、たいしたもんだ。
今度、親のために、庭の端に離れを新築してやったそうだ」とか、など。
あたかも真綿で、首をジワジワと絞めるような言い方をする。


私はそういう環境で生まれ育った。
だからある日、たしか高校1年生か2年生のときだが、私はキレた。
キレて、母に食ってかかった。


「だれが、いつ、お前に産んでくれと頼んだア!」と。


それは同時に、「私」内部の、奥深くから始まった反抗だった。
私自身がもっている(本能)との闘いといっても、過言ではない。
そのため心を、真っ二つに切り裂くような衝撃をともなった。


恐らく母にしても、そうだったのだろう。
その時期を境にして、今にして思うと、母のほうから縁を切ったように思う。
もちろん母は、ああいう人だったから、それを口にすることはなかったが……。


「ああいう人」というのは、「ああいう人」のことをいう。


●恩の押し売り


そのこともあって、私は3人の息子たちを育てながら、(恩の押し売り)だけは、
しないと心に誓った。
事実、「産んでやった」「育ててやった」という言葉については、一度も使った
ことはない。
口から出そうになったことはあるが、しかし言わなかった。
「それを言ったら、おしまい」と。


そのため、(当然の帰結だが)、息子たちは、今の今でも、「親孝行」という
言葉から連想する世界とは、まったく無縁の世界に生きている。
が、これは脳のCPU(中央演算装置)に関する問題。
私には、息子たちの意識を理解することができるが、恐らく息子たちには、
私がもっている意識は、理解できないだろう。
が、このところ、ふと、「それでよかったのか?」と迷うときがある。


●社会の不備


50歳を越えるころから、そこにドンと老後があるのを知った。
60歳を越えると、それはもう予測でも、予想でもない。
私自身が老後に突入していた。
とたん、不安と心配の渦の中に、巻き込まれた。
「これから先、どうやって死ねばいいのだろう」と。


「どうやって生きるか」ではない。
「どうやって死ぬか」である。


こう書くからといって、息子たちを責めているのではない。
そのように育てた私が悪い(?)。
が、息子たちには、私たち夫婦の老後をみるという意識は、ゼロといってよいほど、ない。
「親孝行」という言葉すら、私の家では、死語になっている(?)。
息子たちの心の奥まではのぞけないが、私はそう感ずる。


が、ここで誤解しないでほしいのは、だからといって、親・絶対意識的な発想が
正しいと認めるわけではない。
私の家庭は家庭で、別の新しい親子関係が生まれつつある。


●新・家族主義


日本的な親・絶対意識が消えたからといって、家族がバラバラになるということではない。
もしそうなら、欧米の家族は、とっくの昔にバラバラになっているはず。
が、実際には、その(きずな)は、私たちが想像するよりもはるかに、強い。


10年ほど前の調査でも、「どんなことをしてでも、みる」と答えた日本の若者は、たっ
たの19%しかいなかった(平成9年度、総理府調査)。


この数字がいかに低い数字かは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さら
に東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(平成6年度)の数字より、4ポイントもさがっている。


では、どこがどうちがうのか?
おおざっぱにいえば、つぎのようなちがいがある。


(1)平等意識(親子の上下関係がない。命令、服従関係がない。)
(2)対等意識(親でも子どもでも、他人と同等に置く。)
(3)協働意識(たがいに力を合わせて、家族を守るという意識が強い。)
(4)独立意識(ある時期から、親も、私は私という生き方をする。)
(5)老後意識(「子どもの世話にはならない」という老後意識がある。)
(6)神の子意識(子どもといえども、神の子という考え方をする。)


日本も、アメリカも、対GDP比で、子どもにかける社会保障費が、極端に低い。
毎年、4〜5%前後で推移している。
(欧米では、6〜8%前後。ただしここにも書いたように、アメリカは低い。)

で、日本では教育費の負担は、親の責任ということになっている。
その負担感は相当なもので、子どもが大学生になるころ、それは頂点に達する。
で、昔は『子、育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子、大学生、親、貧乏盛り』という。


一方、アメリカでは、大学生でも、親のスネをかじって大学へ通っている学生は、
ほとんどいない。
何らかの奨学金を得ているか、自分でローンを組んで通っている。
つまり先にあげた(1〜(6)の(ちがい)が、こうした形で、結晶している。


その上での(きずな)ということになる。
称して、『新・家族主義』。
わかりやすく言えば、現在の状況が好ましくないからといって、(現在)の否定、
もしくは安易な復古主義に走るのは、正しくない。
(現在)を基盤にして、新しいものを創りあげていく。


では、どうなるか?
この問題だけは、日本の潮流を静かに観察するしかない。
日本人全体が、全体として、その方向性を決めていく。
その結果として、「新・家族主義」が、輪郭を明確にする。
現在は、その過渡期ということになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
新家族主義 家族主義 親子の絆 親子のきずな 家族の絆 家族のきずな はやし浩司
新・家族主義 家族自我群 幻惑 刷り込み インプリンティング 親子の縁)







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【文明の衝突】



++++++++++++++++



中国や、韓国での根強い、反日感情。


なぜ、今なのか?



それをただ単なる、民族主義の高揚に

よるものと考えると、ますますわけが

わからなくなる。またそう考えたと

ころで、解決策には、結びつかない。



++++++++++++++++



●日本も中国も同じ(?)



 前にもどこかで書いたが、ドイツ人のロシア嫌いには、相当なものがある。一部のドイツ人
が、そうであるというのではない。総じてみれば、みな、そうなのである。



 そういうドイツ人を見ていると、ふと、こう思う。私たち日本人から見ると、ドイツ人もロシア人
も、同じなのに、と。



 しかし同じことが、私たち日本人についても、言える。ヨーロッパの人たちから見ると、日本人
も中国人も同じ。区別できない。だから日本人はともかくも、中国人が日本人を嫌っているとい
う話を聞くと、ヨーロッパの人たちは、みな、こう思うにちがいない。



 私たちから見ると、日本人も中国人も、同じなのに、と。



 なぜか?



●生理的な嫌悪感



 つまり、なぜ、こうした、好きとか嫌いとかいう反応が、生理的な部分で起きてしまうのか。そ
の理由として、よくあげられるのが、民族意識であり、歴史認識の問題である。とくにドイツとロ
シアは、数世紀にまたがって、あるいはそれ以前から、たがいに戦ってきた。



 しかしこのことだけでは、なぜ中国人が、今、日本を嫌っているのか、その説明がつかない。
韓国人にしても、そうである。たしかにこの100年の間に、日本と中国、日本と韓国は、不幸な
戦争を経験した。それは事実である。しかしそれ以前はといえば、日本は極東のアジアの島国
として、中国とも韓国とも、それなりに、仲よくつきあっていた。



 ドイツとロシア、日本と中国、それに日本と韓国は、どこか同じようで、同じではない。そのち
がいは、どこから生まれるのか。



 実は、ここに「文明の対立」の問題がある。



 ヨーロッパは、言うまでもなく、西欧文明圏に属している。一方、ロシアは、スラブ文明圏に属
している。「文明」というのは、民族意識の上にあって、意識として意識されない意識をいう。い
わば無意識下の、帰属意識ということになる。相互帰属意識と言ってもよい。



 で、この日本について言うなら、日本は、敗戦時までは、中国や韓国と同じ、儒教文明圏に
属していた。細部はともかくも、マクロな見方をすれば、そうである。独特の集団意識、上下意
識、帰属意識、相互依存意識、先祖崇拝意識など。そういった意識は、儒教文明圏から生ま
れた、共通の意識と考えてよい。



●アメリカ型西欧文明を受け入れた日本



 が、日本は、アメリカという国に、一度は、すべてを焼き払われてしまった。同時に、それまで
もっていた儒教文明圏の中でもっていた、帰属意識まで、焼き払われてしまった。そしてその
かわりに、いわゆるアメリカ型西欧文明を、移植されてしまった。



 日本人というよりは、日本は、つまり、全体として、敗戦と同時に、儒教文明圏から脱し、アメ
リカ型西欧文明圏へと、移動したことになる。



 このことを如実に例として示しているのが、イタリアを観光旅行する日本人たちである。数年
前だが、イタリアに住む友人(オーストラリア人)が、こんなメールをくれたことがある。



「日本人には、2種類ある。ひとつは、ガイドのもつ旗について、ゾロゾロと観光旅行する日本
人。年配者に多い。もうひとつは、個人、もしくは数人ずつのグループをつくり、自由気ままに
旅をする日本人。若い人たちに多い」と。



 こうしたちがいは、30年前、40年前には、さらに、きわだっていた。



 香港へ来る日本人たちは、みな、ガイドがもつ旗を先頭に、ゾロゾロと並んで旅行をしてい
た。しかし香港へ来るヨーロッパ人たちは、みな、それぞれが単独で行動をしていた。



 こうしたちがいを見ただけでも、戦後、日本は、大きく変わったと言える。そのちがいをすべて
文明のちがいによるものだと言い切るには、少し無理があるかもしれない。が、しかしつぎのよ
うな事実を知れば、みなさんも、私の意見に同意するだろうと思う。



●日本人は、半分は、欧米人?



 ためしにあなたの子どもにこう聞いてみるとよい。



 「あなたは、アジア人か、ヨーロッパ人か」と。



 すると、ほとんどの子どもは、こう答える。「アジア人ではない」「半分、ヨーロッパ人だ」と。事
実、自分をアジア人と思っている子どもは、まず、いない。「君の肌だって黄色いではないか」と
言うと、「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ」と答える(テレビのある討論番組より)。



 ここまで書いたところで、私がこの先、何を書きたいか、もうおわかりのことと思う。つまり日
本人は、アメリカ型西欧文明圏の世界にいる。一方、中国や韓国は、昔も、今も、儒教文明圏
の世界にいる。



 こうした文明の対立は、それぞれが離れているときは、起きない。たがいに接しているところ
で起きる。ドイツとロシアがそうである。そして日本と中国がそうである。日本と韓国がそうであ
る。



 しかし日本とヨーロッパ、日本とロシアの間では、起きない。たがいに離れているからである。
が、ヨーロッパは、スラブ文明圏との対立のほか、アフリカ文明圏、さらにはアラブ文明圏とも
対立している。が、インドを中心とする、インダス文明圏とは対立していない。たがいに離れて
いるからである。



 かなりおおざっぱな、かつ乱暴な説明に聞こえるかもしれないが、そのあたりまで踏みこまな
いと、現在の日中関係、日韓関係を、うまく説明することができない。



 もちろん、日本は、完全にアメリカ型西欧文明圏に属したわけではない。この日本の中にも、
まだ儒教文明圏の亡霊のようなものは、残っている。そしてそれが時おり、顔を出して、世間を
騒がす。



 最近では、日本の文化がもつ「形」や「情緒」こそが、日本の顔だと説く本が、大ベストセラー
になっている。これなどは、いわば、行き過ぎたアメリカ型西欧文明に対する、反作用とも理解
できる。



 一方、中国や韓国の内部にも、アメリカ型西欧文明を受け入れようとする動きがある。儒教
文明圏といっても、決して、儒教一色ではない。アメリカ型西欧主義を取り入れた日本も、儒教
文明圏にいる中国も韓国も、どこか、まだら。



 そういった現象はあるものの、しかし全体としてみると、日本は、アメリカ型西欧文化圏に属
し、中国や韓国は、儒教文明圏に属する。



 この文明のちがいが、対立となって、先鋭化している。それが中国や韓国の、反米、反日運
動の底流にある。



●アリの世界



 ……という私の話を、あなたは、とっぴもない意見だと思うだろう。しかしついでにこんな話も
しておきたい。



 10年ほど前だが、アリの研究では、日本で何本かの指に入るという研究者から、直接、こん
な話を聞いたことがある。



 アリというのは、穴の中に住み、地面をはっている、あのアリである。あのアリには、巨大な
縄張りがあって、それぞれの種族が、日本列島を、何分割かに分けているという。その最前線
では、熾烈(しれつ)な、国境闘争を繰りかえしているという。



 驚いて私が、都市部ではどうですかと聞くと、その研究者は、こう言った。山の中だろうが、町
の中だろうが、それは関係ありません、と。その最前線が、ときに都市部の中央部を横切るこ
ともあるという。



 どこでそういう知識と知恵が働くのだろう。いや、アリ自身は、無意識なまま、たがいに戦って
いるにちがいない。



●帰属意識



 では、こうした文明圏を理解するためには、どうしたらよいのか。それをさらにみなさんにも理
解してもらえるように、私は、人間のもつ相互帰属意識を、つぎの7つの段階に分けてみた。



 家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)



 5番目から下の、「文明意識」「人間意識」「生命意識」というのは、現在は、ほとんど無意識
下にあるとみてよい。相対的に、意識のレベルがあがったときはじめて、その姿を現す。



 たとえば少し話がSF的になるが、もし他の天体から、見るからに気味の悪い宇宙人が地球
を攻めてきたようなばあいを想定してみよう。その宇宙人は、人類を滅ぼし、地球を支配しよう
としている。



 恐らく人間は、民族や、国を忘れて、その宇宙人と戦うにちがいない。



 さらにもし、これまた別の天体から、機械じかけの宇宙人が、私たち生物を襲い始めたような
ばあいを想定してみよう。人間は、今度は、その気味の悪い宇宙人とも手を組んで、その機械
じかけの宇宙人と戦うにちがいない。



 つまり民族や、国を忘れて、宇宙人と戦う意識の底流にあるのが、6番目の、「人間意識」と
いうことになる。さらに気味の悪い宇宙人とも手を組んで戦うという意識の底流にあるのが、7
番目の、「生命意識」ということになる。



 では、文明意識は、どうかということになる。その例として、まずあげられるのが、十字軍であ
る。



 かつてヨーロッパのキリスト教徒たちは、ある時期、国や民族を忘れて、十字軍という名前の
軍隊を、イスラエルに向けて送った。名目上は、聖地奪回だったかもしれないが、それは同時
に文明と文明の対立であったとも考えられる。



 国が侵されたとき、その国の人たちは、国を守るために立ちあがる。

 民族も、そうだ。そして同じように、自分たちが属する文明圏に危機感をいだいたとき、その
文明に属する人たちは、立ちあがる。



 ここから先は、まさにSFの世界の話ということになるが、宇宙人が地球を攻めてきたような
ばあいには、地球人は、地球を守るために、立ちあがる。アメリカ映画にも、そんなような映画
があった。『インディペンデンス・デイ』という映画が、それである。



●終わりに……



 で、なぜ今、韓国で、反米、反日なのか? 中国の人たちは、どうして戦後の日本を受け入
れることができないのか。



 その答は、私は、文明のちがいにあると考える。またそう考えることによってのみ、彼らがも
つ、反米、反日感情を理解できる。彼らは、生理的な部分で、日本がもつ文明に対して、嫌悪
感を覚えている。そしてそれを、反米、反日感情へと結びつけている。



 なおアメリカの文明を、あえてアメリカ型西欧文明としたのは、いわゆるヨーロッパの西欧文
明とは、どこか異質なものであることによる。事実、ヨーロッパ人は、アメリカとは、常に一線を
引いている。



 ご存知の方も多いと思うが、総じてみれば、ヨーロッパ人は、アメリカを嫌っている。オースト
ラリア人にしても、そうだ。私が知るかぎり、アメリカが好きだというオーストラリア人は、1人も
いない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 帰属
意識 儒教文明 アメリカ型西欧文明)



【注】この原稿は、私の考えが、まだ半熟の状態で書いたもの。この問題については、近く、さ
らに掘りさげて考えてみたいと考えている。



 なお「文明の衝突」論者として、よく知られた学者に、サミュエル・ハンティントン(1927〜)が
いる。彼は、儒教文明にせよ、イスラム文明にせよ、西欧文明の優越性を認めておらず、その
ため、いつかこの2大文明が、西欧文明と大衝突をすると予測している。



 そうなってはいけないが、今、世界は、そのハンティントンが予測したとおりの道筋をたどって
いるというのは、不気味なことではないだろうか。つまり私の考えでは、その前哨戦が、今、日
本と中国、日本と韓国の間で、行われているということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 文明
の衝突 儒教文明 西欧文明 イスラム文明)



【補足】



 日本も、「愛国心」とか、「国を愛する心」とか、そんな了見の狭いことを言っていないで、どう
だろう、このあたりで、愛文明心とか、愛人間心、さらには愛生命心とか、言ってみては?



 「愛地球心」でも、よい。しかしこれは愛知万博(05年)のテーマにもなっていたので、ここで
は考えない。(二番煎じは、いやですね!)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●文明の衝突(2)

++++++++++++++++++++

少し前、「文明の衝突」について、書いた。
(原稿は、ここに添付。)
それを読みなおす。
読みなおして、それをワイフに話す。
(090412)

++++++++++++++++++++

●日本vsアジア

「黄色い白人」と呼ばれて、一時、日本人が得意になったことがあった。
日本が高度成長の波に乗り、破竹の進撃をつづけていたときのことである。
事実、当時、日本で、「自分はアジア人」と思っている子どもはいなかった。
「ぼくはアジア人ではない。日本人だ」と。
それについては、先の原稿に書いたとおりである。

しかし私たちは今も昔も、立派なアジア人である。
容姿、顔つき、肌の色、すべてが、立派なアジア人である。
むしろ日本人のほうが、骨相学的には、貧相と言われている。
島国で、長い間、鎖国をつづけ、「血の交流」をしなかったためと考えてよい。

で、昔、こんなことがあった。
私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのことである。
中国からの留学生が何人かいた席で、だれかが私にこう言った。
「ヒロシ、君たちは中国人に、どんなイメージをもっているか。
それを絵に描いてみてほしい」と。

で、私は、目が釣りあがり、歯が飛び出た中国人を描いてみせた。
当時、新聞など出てくる中国人は、みな、そのような顔をしていた。
が、それを見て、みなが、ドッと笑った。
「ヒロシ、それは日本人の顔だよ」と。

●異種文明

こうした文明のちがいを克服するためには、どうしたらよいのか。
あるいはどうして文明の対立が起きるのか。
異種文明にも距離感がある。

(1)隣接文明(隣接している文明)
(2)非隣接文明(隣接していない文明)

先の原稿の中で書いたように、ドイツ人のロシア嫌いには定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。
同じように、中国人の日本嫌いにも、定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。

それには先の侵略戦争が大きく影響している。
が、それだけではないようだ。
「文明の衝突論」を当てはめてみると、それがうまく説明できる。
中国は、儒教文明圏に属する。
一方、この日本は、儒教文明圏に身を置きながら、西洋文明圏に属する。
つまりそこで「文明の衝突」が起きている。

が、日本とロシア、さらに日本とイラク、イランとの対立は生まれない。
(一部、日本とロシアは、対立しているが……。)
ロシアは、スラブ文明圏に属する。
イラク、イランは、アラブ文明圏属する。
なぜか。
それが「文明の距離」ということになる。

わかりやす言えば、文明の衝突は、それぞれの文明が接したところで起こる。
離れたところでは起きない。
たとえば今度は、スラブ文明とアラブ文明については、それぞれが接している。
だからたがいに仲が悪い。
アラブ人のロシア嫌いにも、これまた定評(?)がある。

非隣接文明についていえば、それは(情報)でしかない。
たとえば私たちがアラブ文明に触れたとき、それは(もの珍しさ)でしかない。
そのため文明の衝突は起きない。

●融和

問題はどうやって、隣接文明と融和していくかということ。
国と国の対立は、それぞれの国同士という(単体)の話しあいで解決できる。
しかし文明の対立となると、そうはいかない。

たとえば日本は、自らを西欧文明の中に身を置き、儒教文明と鋭く対立している。
日本は、儒教文明圏に属しながら、その一方で、自らを西欧文明圏に置いている。
この対立構造が、日本を現在の今、孤立させている。

このことは、相手の立場で考えてみると、よくわかる。
一度、ペキン(北京)という、中国の首都に、視点を置いてみるとよい。
日本は、はるか東の海上。
中国から見れば、大陸の端にへばりついているように見える。
それはたとえて言うなら、東京から、佐渡島を見るようなものではないか。

その日本が、ひとり、「私たちは西洋人」と主張している。
それから生まれる違和感というか、(滑稽さ)には、相当なものがある。
中国人が、日本を受け入れない本当の理由は、そんなところにもある(?)。

では、どうするか?

●儒教文明

最初に書いておきたい。
「儒教文明の再構築」といっても、復古主義的なものであってはいけない。
それについては、あとで「情報革命」のところで書く。
私たちはアジア人であることを再確認する。
それが儒教文明の再構築ということになる。

現在の今、私たちがこうして漢字を使っていること自体、その証拠ということになる。
中に「平仮名やカタカナは、日本人すばらしい発明」と書いている人がいる。
しかしそれはどうか?
平仮名にせよ、カタカナにせよ、漢字の簡略版にすぎない。
略字にすぎない。
「発明」などという大げさなものではなく、一バリエーションに過ぎない。
漢字で、「波也此」と書くより、「はやし」と書いたほうが楽に決まっている。
当時の人たちなら、だれしもそう考えただろう。

つまりこと日本人に関して言えば、私たちは、中国文明圏に属している。
まずそれを率直に認めること。
(だからといって、中国に隷属せよと、そういうことを書いているのではない。
誤解のないように!)

●日本史論

ついでに日本史論。
これについては、すでにたびたび書いてきた。
つまり日本では、日本史を東洋史と切り離して教える。
「日本は日本、東洋とは一線を画す」という思想が、その底流にある。
しかしこれがいかに偏狭なものであるかは、アジアの諸国をながめてみれば、わかる。
韓国を例に出すまでもない。

ほかに若いころ、タイへ行ったときにも、それを感じた。
タイという国は、そういう意味では奇異な国と考えてよい。
私たち日本人から見ると、同じ東南アジア諸国の一員ということになる。
しかし彼らは、そうは思っていない。
タイの人たちは、自分たちの歴史を、東南アジア全体から切り離して考えている。

日本史を東洋史と切り離してしまったところに、日本の歴史の悲劇性が潜む。
少し前も、ニセ石器に踊らされ、歴史の本そのものを書き換えてしまったことがある。
そのとき韓国の人たちは、こう言って笑った。
「日本に、韓国(中国)より古い歴史があるわけがない」と。

しかし日本史を東洋史の中に置いてみると、歴史観が一変する。
あの縄文時代にしても、弥生時代にしても、中国からの渡来民が深く関係している。
戦乱を逃れて、多くの民が、中国大陸から流れてやってきた。
そういう人たちが、大陸の文化を、日本に伝えた。

さらに天皇家のルーツにしても、そうだ。
少なくとも隣の韓国では、天皇家の祖先は、朝鮮からの騎馬民族ということになっている。
日本の天皇ですら、「ゆかり」という言葉を使って、それを臭わせたこともある。
しかし日本史を東洋史と切り離している間は、日本はいつまでも日本のまま。
日本が東洋と融和することは、ありえない。

●情報革命

が、悲観的なことばかり言っていてはいけない。
ここで人類は、第二の産業革命とも言える「武器」を手にした。
「情報革命」という武器である。

以前、恩師の田丸先生がこう話してくれたことがある。
「情報革命が進めば、国はなくなりますよ」と。

具体的にはこうだ。
「年々、向こうの若者たちが日本の若者と区別できなくなってきた」と。
「姿、容姿、着ている服装など、「区別ができない」と。
つまりそういう形で、国と国は融合し、やがて文明の対立も解消される、と。
言い換えると、いかにこの情報革命を利用するかという問題に行き着く。

昔は、隣町どうしが、言い争った。
それが県どうしになった。
それが国
さらに文明。

情報革命は、その間を融和させる。
言葉の問題もあるにはある。
しかしたった10年前と比較しただけでも、その進歩にはめざましいものがある。
たとえば私が発行しているHPにしても、外国の人たちが読んでいる。
その中には「米軍」というのもある。
まだ10%程度だが、「10%にしても、すごい!」。

情報革命が進めば進むほど、国どうしの垣根も低くなる。
文明の衝突も、起きにくくなる。
その例が、あのEUである。
ほんの65年前にははげしい戦争を繰りかえしていた。
が、今は、ひとつの国になった!

●文明の衝突

私たちが警戒しなければならないのは、偏狂な民族主義。
その台頭。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき、日本人のアイデンテティ」と説く。
しかし今、どうしてこの日本で、武士道なのか?
仮にそれが「道」であったとしても、それは武士の世界での話。
しかも武士の本質は、軍人。
軍人で悪いなら、官僚。
あるいは警察、役人、特権階級。
何でもよいが、ともかくも支配階級。

私たちの先祖の94、5%は、農民であり、わずかな数の商人、工人であった。
それを忘れて、「武士道」とは?
あの江戸時代にしても、世界でも類を見ないほどの暗黒政治の時代であった。
さらに戦陣訓を例にあげるまでもなく、一方的に礼讃するのはどうか?
「生きて虜囚の……」とかいう、あの戦陣訓は、武士道の精神を拝借している。
そのため、どれだけ多くの日本人が犠牲になったことか!
「負の遺産」に目を当てることもなく、武士道を礼讃するのは、危険なことでもある。

つまり私たちが偏狭な民族主義にこだわればこだわるほど、互いの文明の溝を深くする。
あのアインシュタイン博士も、田丸先生への手紙の中で、「exaggerated nationalism」
という言葉を使って、強く戒めている。
「exaggerated nationalism」、つまり「誇張されたナショナリズム」=「偏狭な
民族主義」ということになる。

●過去から学ぶ

こう書いたからといって、どうか、誤解しないでほしい。
私は何も日本の歴史を否定しているのではない。
歴史は歴史として、当然、評価されなければならない。
しかしここにも書いたように、その「負の遺産」に目をくれることもなく、あの封建時代
を一方的に、美化してはいけない。

もっと言えば、悲しいかな、私たち日本人は、かつてただの一度も、あの封建時代を
清算していない。
たとえば「明治維新」にしても、英語では、「Meiji Restoration」と翻訳されている。
英語で、「レストレーション」というと、「王政復古」をいう。
革命でも、何でもない。
つまり「王政復古」である。
そういうものをもって、日本は近代化の道を歩み始めたとか、さらには江戸時代を清算
したなどとは、思ってはいけない。

清算していないばかりか、ここにも書いたように、むしろ、それを美化している。
この静岡県でも、徳川家康の出身地ということもあるが、徳川家康について悪く書くのは、
いわばタブー視されている。
この静岡県では、敬愛の念をこめて、「家康公」と呼ぶ。

が、こういう姿勢では、私たちは過去から何も学ぶことはできない。
できないばかりか、へたをすれば同じような歴史を繰り返すことになる。
今の今も、国盗り物語よろしく、政治を、己の出世欲を満たすための道具として
利用している人は、いくらでもいる。

●過渡期

話を戻す。
平等という言葉がある。
しかし「平等」というのは、たがいに高い次元で、認めあうことをいう。
民族の融和にしても、さらには文明の融和にしても、その平等感覚がなければならない。

「わが民族は優秀である」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、相手に
向って、「あなたがた民族は劣っている」と思ってはいけない。
民族には上下はないし、今はもう民族をうんぬんする時代ではない。
むしろ問題なのは、その上の段階の「文明意識」ということになる。

もう一度、私が書いた、段階論を見てほしい。

家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)

つまり今は、(民族意識)から、(文明意識)への過渡期ということになる。
さらに進めば、(人間意識)→(生命意識)となるが、それはさておき、
この段階あたりで、ウロウロしている。
それがこの極東アジアでも、もろもろの紛争の火種となっている。

●では、どうするか?

言うまでもなく大切なことは、文明の融和である。
そのために第一に、情報の交換をする。

その国の内部の人たちは、外の世界を知る。
外の世界の人たちは、その国の内部を知る。
これを頻繁に、行う。

これができれば文明の融和はできる。
できなければ、できない。
ひとつの例として、あのK国を見ればよい。
今のこの時代にあって、情報を遮断している。
国外に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
国内に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
その結果、アインシュタインの言った、「exaggerated nationalism」だけが、
異常なまでに肥大化してしまった。

もうおわかりのことと思うが、私たちは、その逆のことをすればよい。
私たちは自分の考えていることを、外の世界に向って、どんどんと発信していく。
と、同時に、外の世界の情報を、どんどんと取り込んでいく。
その結果として、私たちは人間のレベルを、つぎのステージにもちあげることができる。

最後に、よく「インターネットは、第二の産業革命」と言われる。
それが最終的に評価されるのは、もう少し時代を経てからになるが、私はそう断言して
よいほど、インターネットには、秘められた力がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
民族意識 文明意識 民族主義からの脱却 インターネット 文明の衝突 誇張された
民族主義 はやし浩司 文明論 民族論)







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【心の正体】

●性欲からの解放

54、5歳ごろのことでした。
人は、「男の更年期」と言いましたが、初老性のうつ病だったかもしれません。
ふと気がついてみると、私は女性に「女」を感じなくなってしまっていました。
それは実にサバサバとした気分で、そのころ私は、ワイフにこう言ったのを
覚えています。

「あのなあ、今なら、女性と混浴しても平気だぞ」と。
で、それに答えてワイフがこう言いました。
「どうしてあなたは、そんなにおめでたいの?
相手の女性がいやがるわよ」と。

ナルホド!

ともかくも、私はそのときはじめて、性からの解放を経験しました。
と、同時に、それまでの自分が、いかに性の奴隷であったかを、知りました。

●性の奴隷

私たち人間の行動は、土の中に住むミミズと、基本的には同じ。
どこがちがうかといえば、人間の行動の方が、やや複雑なだけ。
あのジークムント・フロイトが言っているように、私たちの(生命)の
原点になっているのが、「性的エネルギー」。
人間のありとあらゆる行動は、その性的エネルギーの支配下にあると考えて
まちがいないようです。

男性がスポーツか何かで、目立ちたがるのも、また女性が、電車の中で、
せわしく化粧するのも、その原点にあるのが、性的エネルギーということに
なります。

みんな「私は私だ」「自分で考えてそうしている」と思っているかもしれませんが、
つまるところ、私であって私でないものに動かされているだけということに
なります。

最近では、脳科学が急速な進歩を遂げ、科学的にそれが証明されつつあります。
たとえば昨年(08年)、アメリカのサイエンス誌に、こんな興味深い論文が
掲載されました(※1)。

それは人間の、(これは人間にかぎりませんが)、条件反射についての論文ですが、
人間を基本的な部分で動かすシグナルは、どうやら脳下垂体の下部から
発せられているらしいということがわかってきました。
そこからシグナルが発せられると、たとえばドーパミンという神経伝達物質が
放出され、それが線条体を刺激する。
それがどうやら(欲望)の源になっているらしいのです。

わかりやすく言いますと、脳の中心部、奥深くで、(生きるための信号)が
常に発せられ、それが生きることの原点になっているというのです。
で、生きることの原点とは何かといいますと、言わずとしれた、
種族の保持です。
もっとわかりやすく言えば、生殖ということになります。

●作られる意識

さらに興味深い研究結果が公表されました。
それによりますと、私たちの意識にしても、それを意識として意識する前に、
脳の中の別のところで、それが作られているというのです(※2)。

最近では、脳の中をリアルタイムに、その動きを観察することができる
ようになりました。
それでそういうことがわかるようになったのでしょう。
たとえば、こういうことです。

あなたが台所へ行ったとします。
そこであなたは喉の渇きを覚え、冷蔵庫を開け、飲み物を手にしたとします。
そのときあなたは、自分の意思でそうしたいから、そうしたと思うかも
しれません。
しかし実際には、そういう行動に移る前に、脳の別の部分で、別の意識が
作られているのだそうです。

(喉が渇いた)→(台所の冷蔵庫から、何か飲み物を取り出せ)、と。
しかしそのときは、意識として、まだあなたに自覚されることはありません。
あなたは表面的には何も考えず、台所へ行き、そのあたりではじめて、
「喉が渇いた」と思うようになるのです。
そしてつぎに冷蔵庫を開ける……。

つまり私たちが意識と思っている意識にしても、実に怪しげなものだという
ことです。
もっとはっきり言えば、「私は私」と思ってしている行動にしても、そのほとんどが、
実は、脳の中の別の部分で、あらかじめ作られているものだということ。
さらに言えば、私たちは、その別の部分の奴隷にすぎないということです。

ためしに、電車の中でいそいそと化粧を始めた女性にこう聞いてみると
よいと思います。

「あなたは今、化粧をしているが、自分の意思でそれをしていますか?」と。
するとその女性は、まちがいなく、こう答えるでしょう。
「もちろん、そうです! 私の意思です。私がしたいから、しているのです」と。

●性的エネルギー

いくつかの例を出してみましょう。

よく知られた話ですが、あのコカコーラ。
当初は、ほとんどといって、売れなかったそうです。
そこで経営者は、ビンの形を変えてみた。
それまではずん胴だったビンの形を、女性の肉体のように、くびれのある
なまめかしい形にしたのだそうです。
とたん売れ行きが爆発的によくなり、現在のコカコーラになったそうです。

ほかにもビデオ産業があります。
ゲーム産業もそうです。
さらにはインターネットの世界も、そうです。
これらの産業が急速に発展した陰には、(スケベ)があります。
その(スケベ)を、刺激したとたん、ビデオにせよ、ゲームにせよ、
さらにはインターネットにせよ、爆発的に普及しました。

私たちの行動は、すべてどこかで、(性的エネルギー)と結びついている
というわけです。
ただ誤解してはいけないことは、これに対して、あのユングは、(生的
エネルギー)という言葉を使いました。
(性的エネルギー)と(生的エネルギー)。
この解釈の対立により、フロイトとユングは、決定的に対立することになります。

●生的エネルギー

余談になりますが、昨年、私は母を亡くしました。
享年、92歳でした。
で、最後の1年半は、近くの特別養護老人ホームにいましたが、そこでの
ことです。

ときどき見舞いに行って、ほかの老人の方々を観察させてもらったのですが、
みなさん、食欲だけは旺盛でした。
中には、大きな声で、「メシはまだかあ!」と、始終、怒鳴り声をあげている
老人もいました。

ああいうのを見ていると、ひょっとしたら、ユングのほうが正しかったかな
と思います。
あるいは(性的エネルギー)のさらに、その下の原点になっているエネルギー、
それが(生的エネルギー)かな、と。
先ほども書きましたように、なぜ私たちが生きているかといえば、結局は、
種族保持のためです。
ありとあらゆる生物がそのために生きているわけで、人間だけが例外ということは、
ありえません。

どちらにせよ、私たちは、私たちの中の、別の私たちによって動かされて
いるということです。
言い換えると、「私は私」と思っている部分ほど、いいかげんなものはないと
いうことです。

(つづきは、またの機会に……。眠くなった。)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

【心の正体】

●性欲からの解放

54、5歳ごろのこと。
人は、「男の更年期」と言ったが、初老性のうつ病だったかもしれない。
ふと気がついてみると、私は女性に「女」を感じなくなってしまっていた。
それは実にサバサバとした気分で、そのころ私は、ワイフにこう言ったのを
覚えている。

「あのなあ、今なら、女性と混浴しても平気だぞ」と。
で、それに答えてワイフがこう言った。
「どうしてあなたは、そんなにおめでたいの?
相手の女性がいやがるわよ」と。

ナルホド!

ともかくも、私はそのときはじめて、性欲、つまり性からの解放を経験した。
と、同時に、それまでの自分が、いかに性の奴隷であったかを、知った。

●性の奴隷

私たち人間の行動は、土の中に住むミミズと、基本的には同じ。
どこがちがうかといえば、人間の行動の方が、やや複雑なだけ。
あのジークムント・フロイトが言っているように、私たちの(生命)の
原点になっているのが、「性的エネルギー」。
人間のありとあらゆる行動は、その性的エネルギーの支配下にあると考えて
まちがいない。

男性がスポーツか何かで、目立ちたがるのも、また女性が、電車の中で、
せわしく化粧するのも、その原点にあるのが、性的エネルギーということに
なる。

みんな「私は私だ」「自分で考えてそうしている」と思っているかもしれないが、
つまるところ、私であって私でないものに動かされているだけということに
なる。

さらに最近では、脳科学が急速な進歩を遂げ、科学的にそれが証明されつつある。
たとえば昨年(08年)、アメリカのサイエンス誌に、こんな興味深い論文が
掲載された(※1)。

それは人間の、(これは人間にかぎらない)、条件反射についての論文だったが、
人間を基本的な部分で動かすシグナルは、どうやら脳下垂体の下部から
発せられているらしいということがわかってきた。
そこからシグナルが発せられると、たとえばドーパミンという神経伝達物質が
放出され、それが線条体を刺激する。
ドーパミンというのは、人間の欲望と快楽を調整している神経伝達物質をいう。
それがどうやら(欲望)の源になっているらしい。

わかりやすく言うと、脳の中心部、奥深くで、(生きるための信号)が
常に発せられ、それが生きることの原点になっている。
で、生きることの原点とは何かといえば、言わずとしれた、種族の保持。
もっとわかりやすく言えば、生殖ということになる。

●作られる意識

さらに興味深い研究結果が公表された。
それによると、私たちの意識にしても、それを意識として意識する前に、
脳の中の別のところで、それが作られているという(※2)。

最近では、脳の中をリアルタイムに、その動きを観察することができる
ようになった。
それでそういうことがわかるようになったのかもしれない。
たとえば、こういうこと。

あなたが台所へ行ったとする。
そこであなたは喉の渇きを覚え、冷蔵庫を開け、飲み物を手にしたとする。
そのときあなたは、自分の意思でそうしたいから、そうしたと思うかも
しれない。
しかし実際には、そういう行動に移る前に、脳の別の部分で、別の意識が
作られているという。

(喉が渇いた)→(台所の冷蔵庫から、何か飲み物を取り出せ)、と。
しかしそのときは、意識として、まだあなたに自覚されることはない。
あなたは表面的には何も考えず、台所へ行き、そのあたりではじめて、
「喉が渇いた」と思うようになる。
そしてつぎに冷蔵庫を開ける……。

つまり私たちが意識と思っている意識にしても、実に怪しげなものだという
ことになる。
もっとはっきり言えば、「私は私」と思ってしている行動にしても、そのほとんどが、
実は、脳の中の別の部分で、あらかじめ作られているものだということ。
さらに言えば、私たちは、その別の部分の奴隷にすぎないということ。

ためしに、電車の中でいそいそと化粧を始めた女性にこう聞いてみるとよい。

「あなたは今、化粧をしているが、自分の意思でそれをしていますか?」と。
するとその女性は、まちがいなく、こう答えるだろう。
「もちろん、そうです! 私の意思です。私がしたいから、しているのです」と。

●性的エネルギー

いくつかの例を出してみよう。

よく知られた話に、あのコカコーラがある。
当初は、ほとんどといって、売れなかったそうである。
そこで経営者は、ビンの形を変えてみた。
それまではずん胴だったビンの形を、女性の肉体のように、くびれのある
なまめかしい形にした。
とたん売れ行きが爆発的によくなり、コカコーラは、現在のコカコーラになった。

ほかにもビデオ産業がある。
ゲーム産業もそうである。
さらにはインターネットの世界も、そうである。
これらの産業が急速に発展した陰には、(スケベ)がある。
その(スケベ)を、刺激したとたん、ビデオにせよ、ゲームにせよ、
さらにはインターネットにせよ、爆発的に普及した。

私たちの行動は、すべてどこかで、(性的エネルギー)と結びついている
というわけである。
ただ誤解してはいけないことは、これに対して、あのユングは、(生的
エネルギー)という言葉を使った。
(性的エネルギー)と(生的エネルギー)。
この解釈の対立により、フロイトとユングは、決定的に対立することになる。

●生的エネルギー

余談になるが、昨年、私は母を亡くした。
享年、92歳だった。
で、最後の1年半は、近くの特別養護老人ホームにいたが、そこでのこと。

ときどき見舞いに行って、ほかの老人の方々を観察させてもらったのだが、
みなさん、食欲だけは旺盛だった。
中には、大きな声で、「メシはまだかア!」と、始終、怒鳴り声をあげている
老人もいた。

ああいうのを見ていると、ひょっとしたら、ユングのほうが正しかったかな
と思う。
あるいは(性的エネルギー)のさらに、その下の原点になっているエネルギー、
それが(生的エネルギー)かな、と。
先ほども書いたように、なぜ私たちが生きているかといえば、結局は、
種族保持のため。
ありとあらゆる生物がそのために生きているわけで、人間だけが例外ということは、
ありえない。

どちらにせよ、私たちは、私たちの中の、別の私たちによって動かされて
いるということ。
言い換えると、「私は私」と思っている部分ほど、いいかげんなものはないと
いうことになる。

●スズメはスズメ

私はときどき、「私」というのは、タマネギのようなものでないかと思う。
「私」のまわりを、タマネギの皮のように、(私でないもの)がおおっている。
そこでその「私」から、(私であにもの)を取り除いていくと、最後に残るのは、
細い芯(しん)だけ。
あるいはひょっとしたら、何も残らないのではないか?

つまりそれくらい「私」というのは、心細いものということ。
私たちは、私は私と思っているだけ。
実のところ、私など、どこにもない……?

このことは庭に遊ぶスズメたちを見ればわかる。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれがたがいの連絡もなく、勝手に生きているように見えるが、
していることは同じ。
そのワク(=範囲)を超えることはできない。

……こう書くと、「私はちがう」「人間はちがう」と反論する人もいるかもしれない。

一歩人間から退いてみると、それがわかる。

●相対的なちがい

先日も1人の女子中学生とこんな会話をした。
その中学生は、「アリスナイン」や「ガゼット」のファンだという。
その話を聞きながら、私が、「ぼくたちのことは、舟木和夫や、西郷輝彦
だった」と言うと、何を思ったか、ケラケラと笑い出した。

「古〜イ。そんなの知らな〜イ」と。

そこで私は反論してやった。
「中身はちがうかもしれないが、していることは同じだよ。
君たちもやがて歳をとり、ぼくの年代になるときがやってくる。
そのとき、そのときの若い人に、同じことを言われるようになるだろうね。
『古〜イ。そんなの知らな〜イ』とね」と。

若い人たちは、古いものの上に新しいものが積み重なり、ものごとは
すべて「進歩している」と思うらしい。
そして同時に、人間もまた進歩している、と。
つまり私たちの世代より、今の世代のほうが、進歩している、と。
しかし実のところ、中身は同じ。
何もちがわない。
人間は人間。
アメリカの人間も、インドの人間も、人間は人間。
1000年前の人間も、1000年後の人間も、人間は人間。
人間は、そのワクを超えることはできない。

●「ワク」を超える

が、それでは満足できない。
私にしても、そしてあなたにしても、いつもそのワクを超えたいと願っている。
「私は私」と。

仮に一羽のスズメが、ツバメと同居を始めたら、どうなるのだろう。
そのときスズメは、スズメというワクを超えることができる。
人間も、同じようなことができるだろうか。
もしそれができれば、人間は、人間というワクを超えることができる。
そしてそのとき、それを「私」と呼ぶことができる。

はたしてそれは可能なのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
性からの解放 性欲からの解放 性の奴隷 作られる意識 ドーパミン 神経伝達物質)







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●テポドンと平和(09年4月9日)
(North Korean Missile and Peace in Japan)

+++++++++++++++++++++++++++

あのテポドン騒ぎも一段落。
またすべてのものが、何ごともなかったかのように、
動き出した。

テレビでは相変わらず、バラエティ番組。
その中のひとつで、現在宇宙ステーションにいる、
「Wさん」との交信を中継している番組があった。
私はそれを見ながら、K国の人たちは、
こういう事実をどこまで知っているのだろうかと
思った。

「人工衛星も結構だが、今はもう、そういう時代ではない」と。
つまり国際が協力しあって、宇宙の開発をする。
もし人工衛星なら……。

+++++++++++++++++++++++++++

●何を学んだか

私たちは、あのテポドン騒動で何を学んだか。
何を私たちに教訓として残したか。
あるいはこのまま、再び、ノー天気な平和主義に溺れてしまってよいのか。
過去の一事件として、忘れてしまってよいのか。
あの4月5日を思い浮かべなら、いろいろ考える。
また考えなければならない。

現実には、まだ何も問題が解決したわけではない。
そこにK国はあり、彼らは核兵器もミサイルももっている。
さらに言えば、彼らには、道理が通じない。
自国民が何百万人も餓死しても、みじんも自らに恥じない国である。
他国民である日本人を、同じように何百万人も殺しても、平気ですますだろう。

束(つか)の間の平和かもしれないが、平和な今だからこそ、
私たちは、平和について考えなければならない。
緊張感を失ってはならない。

●周囲科学

まず、テポドンについて……。

ひとつの科学だけが、ほかの科学を飛び越えて、特異に発達するということは、
ありえない。
ひとつの科学が発達するためには、それを支える周囲の科学の発達がなければ
ならない。
これを「周囲科学」という。

たとえば宇宙工学にしても、それを支えるための無数の周囲科学が必要である。
ロケットを打ち上げれば、それですべてというわけにはいかない。
衛星を軌道に載せるにしても、衛星本体にそういう装置をつけなければならない。
地上からの指令に応じて、姿勢を制御したり、方向を転換したりするなど。
そのためには、通信施設や通信技術も必要となる。
その前に、衛星がどこをどのように周回しているかを知らなければならない。
そういった監視システムも必要である。

つまりそういったものをすべて無視して、「ロケットを打ち上げに、成功した」は、
ない。

●情報遮断とウソ

あのK国を見ていて、悲しくなる理由にはいくつかある。
ひとつは、どうして人間は、ああまで愚かになれるかということ。
一説によると、K国は、今回のテポドンの打ち上げのために、300億円(韓国
情報当局)も費やしたという。
これはちょうど一年分の食糧をまかなえる金額という。

それが人工衛星の打ち上げのためであるならなおさら、そんなお金を衛星のために
費やす方が、どうかしている。
今の今も、多くの民が飢えで苦しんでいる。

それにもうひとつ。
それはつまり、あのK国を見ていると、戦前、戦時中の日本をそのまま見せつけられる
ような思いがするということ。

戦時中の日本人も、今のK国のように、為政者たちによって、よいように操られた。
大本営発表を例にあげるまでもない。
徹底した情報遮断とウソ情報。
今回もK国内部では、「成功」と報ずるだけではなく、「世界中の報道機関が、成功と
報じている」と、国民には教えているようだ。

●戦時中の日本とK国

で、その日本人が、今K国を見ながら、何かを学習しているかというと、そうでもない。
たとえば「K国をやっつけろ!、やっつけろ!」と叫んでいる人たちほど、その一方で、
あの日本の侵略戦争を美化してやまない。

恐らく彼らもまた、K国を見ながら、自己矛盾に陥っているのだろう。
戦前、戦時中の日本と、現在のK国の類似点を求めたら、それこそ山のように出てくる。
しかしそれを認めることは、彼らにしてみれば、自己否定につながってしまう。

が、本当の悲しさは、そのつぎにやってくる。

現在のK国はやがて、自滅する。
今までああした国が生き残ったという例は、ひとつもない。
で、そのとき、犠牲者となった国民は、それに気がつくかどうかということ。
この先50年後でもよい。

恐らく現在の日本人がそうであるように、50年後のK国の人たちもまた、それに
気がつかないだろう。
「私たちは正しかった」「金xxは正しかった」と。
独裁者の犠牲になりながら、犠牲になったことにすら、気がつかない。
毎年、金xxの墓参りをしながら、バンザーイ、バンザーイを繰り返すかもしれない。

●在日朝鮮人の人たち

それにしても理解に苦しむのが、在日の朝鮮S連の人たち。
彼らは今、日本という国の中に住み、K国を私たちと同じように客観的にながめている。
またそれができるはず。

ああいう国が、(まとも)か、そうでないかということになれば、だれが見ても(まとも)
ではない。
K国のミサイルが飛んでくれば、自分たちの命だって、危険にさらされる。
しかし現在は、K国の在日大使館的な役割を担っている。
何かあるたびに、K国を擁護し、日本を非難する。
こうした感覚は、いったい、どこから生まれるのか。
今年も、このままでは、何百万人という(同胞?)が、飢えに苦しむという。

それほどまでに、日本を恨んでいるのか?
それとも、愛国心そのものが、カルト化しているためなのか?

5、6年前のことだが、新潟港を出港したM号(日朝間の連絡船)の中の様子が
紹介されたことがある。
その中で、在日朝鮮人の学生たちが、「♪(日本が)滅ぶ、滅ぶ……」というような
歌を歌っていた。

そういう歌があること自体、信じられなかったが、それをうれしそうに歌う学生たちの
姿もまた、信じられなかった。

●欠陥

これは人間が本来的にもつ「欠陥」のようなものかもしれない。
K国の人たちのことを言っているのではない。
私たち日本人も、同じように、その「欠陥」をかかえている。

私たち日本人も、侵略戦争で、300万人も犠牲になっている。
が、同時に、300万人もの外国の人たちを殺している。
あの南京虐殺事件にしても、一部の人たちは、「日本軍は30万人も殺していない。
せいぜい3万人だ。中国側の卑劣なプロパガンダだ」と息巻いている。

しかし3万人でも、問題である。
3000人でもよい。
300人でもよい。
もし日本が反対に、同じことをされたとしたら、どうなのか。
名古屋のような都市に、ある日、中国軍がやってきて、300人の人を殺したら、
どうなのか?

●人間の攻撃性

人間が本来的にもつ攻撃性は、いつも一方的なものと考えてよい。
攻撃する側は、攻撃することだけを考える。
攻撃される側のことは、考えない。
このことはたとえば、加害者と被害者の立場に分けて考えてみると、よくわかる。

加害者は、多くのばあい、「害を与えた」という意識が薄い。
そういう意識があっても、それをすぐ忘れる。
これは脳の中で、不愉快なことはできるだけ早く忘れたいというメカニズムが
働くためではないか。

一方被害者は、それをいつまでも覚えている。
(被害)を原点として、妄想をふくらますこともある。
「我々の国が貧しいのは、日本のせい」と。

こうした加害者と被害者の間に、ミゾ、つまりギャップが生まれる。
そしてそれが対立関係を生みだす。

●国としての人格

人間の人格は、EQ論で判断される。
その中でも、(1)より自己中心的でない、ということが、ひとつの判断基準になる。
共鳴性でもよい。

つまりより相手の立場に立って、相手の悲しみや苦しみを共有できる人のことを、
人格の完成度の高い人という。

これは人間という、それぞれの個人についていったものだが、それはそのまま「国」
についても当てはまる。
より自己中心的な国は、それだけ完成度の低い国ということになる。
半面、より自己中心的でない国は、それだけ完成度の高い国ということになる。
つまり自分の国の利益しか考えず、自分の国だけがよければそれでよいと考える
国は、それだけ完成度の低い国ということになる。
半面、相手の国のことを考え、相手の国の立場に立って考えられる国は、
それだけ完成度の高い国ということになる。

たとえば戦争と平和という問題にしても、自国の平和と安全が守らればそれでよいと
考えるのは、それだけ完成度の低い国ということになる。
で、どうしても、この問題は、あのインドのネール首相の言葉に行き着いてしまう。
ネール首相は、かつて、こう言った。

『ある国が平和であるためには、他国の平和もまた保障されねばならない。この狭い、相
互に結合した世界にあっては、戦争も、自由も、平和も、すべてたがいに連動している』(「一
つの世界をめざして」)と。

●テポドン

もしあのとき、テポドンの軌道がずれ、それに対して日本が迎撃していたら、
K国は、まちがいなく日本に対して、報復措置を取っていただろう。
中に「いや、あれは脅しにすぎない」と思った人がいるかもしれないが、それは
彼らの憎悪にも似た反日感情を知らない人の言葉と考えてよい。

中身はどうであれ、つまりその後の洗脳教育で増幅された部分もあるだろうが、
戦時中の日本は、そう思われてもしかないようなことを、してしまった。

で、事実、その数日前から、ミグ戦闘機部隊が、東海岸に集結していた。
ノドンミサイルも、臨戦態勢に入っていた。
時事通信(3・31)は、『民間兵力に当たる労農赤衛隊のほか、地方軍や予備役も
戦闘準備に入った』と伝えていた。

幸か不幸か、テポドンミサイルは、中途半端な形かもしれないが、無事(?)、
日本の上空を通過してくれた。
迎撃ミサイルが発射されることはなかった。
が、もしそうでなかったとしたら……。
つまりあのとき迎撃ミサイルが発射されていたとしたら、
今ごろ日本は、大惨事以上の大惨事に見舞われていたにちがいない。

これは私の憶測ではない。
ないことは、最近になって、日本の外務省が私と同じように考えていたことが
わかってきた(週刊誌ほか)。
外務省は、迎撃ミサイルの発射に反対していた。
理由は、ここに書いたとおりである。

●おとなになる

何度も書くが、日本は、あんな国を本気で相手にしてはいけない。
アメリカのある政府高官は、K国をさして、「Mad Dog(狂ったいぬ)」と
評した。
であるならなおさら、相手にしてはいけない。

国力は山陰地方にあるひとつの県にも及ばない、どこまでも貧しく、あわれな国
である。
世界の中でも、最貧国にあげられている。
しかも頭のおかしい独裁者に率いられた、どこまでも悲しい国である。
そんな国を、まともに相手にしてはいけない。
それとも日本は、そんな国を相手に、心中でもするつもりなのか。

おとなになるということは、国としての人格の完成度を高めることをいう。
「ミサイルだ!」「そら、迎撃だ!」と騒いでいるようであれば、人格の完成度は
低いということになる。
「日本も核武装だ」「国連脱退だ」と騒いでいるようであれば、人格の完成度は、
さらに低いということになる。
少なくとも世界の人たちは、「日本もK国も同じ」と見るだろう。
つまり私たちは、あの太平洋戦争での失敗から、何を学んだかということになる。
計600万人もの人たちの犠牲から、何を学んだかということになる。

●では、どうするか?

K国問題を解決するために、そのカギを握るのが中国ということになる。
その中国は、まだ道理の通ずる国である。
改革開放も、急速に進んでいる。
今のこの日本は、その中国をターゲットに、地道に、しかも忍耐強く、
説得に説得を重ねる。
日米韓、それに中国が動けば、K国は崩壊する。

いや、こう書くと、過激な意見に聞こえるかもしれないが、すでにあの国は、
内部的には崩壊している。
韓国に亡命した、K国の元政府高官(主体思想の創案者)は、こう言った。
「K国といっても、金xxのほか、取り巻きが20人程度。多くて100人程度の
独裁国家」(内容は記憶によるものなので、不正確)と。

その100人(たったの100人だぞ!)が、変われば、K国も変わる。
そのためにも、中国の説得に全力を傾ける。
けっして中国と対立してはいけない。
道理をもって当たれば、中国だってわからぬはずはない。
今ここでK国を擁護すれば、中国の歴史にも汚点を残すことになる。
中国だって、それを知っている。

●終わりに……

テポドン騒ぎは、多くの、かつ貴重な教訓を私たちに残した。
その中でももっとも大切なことは、私たちが今感じている(平和)などというものは、
薄いガラスでできた、箱のようなものであるということ。

もろい!
壊れるときには、簡単に壊れる。
しかも今度戦争が起きたら、武器の発達もあるが、想像を絶するほど悲惨なものになる。
ノドンに通常の爆薬が搭載されていると考えるのは、それこそ本当に現実離れしている。

で、この教訓を、この先、どう生かしていくか。
とても残念なことだが、これで危機が去ったわけではない。
K国が核開発や、ミサイル開発をあきらめたわけでもない。
「つぎはいつ?」というふうに考えたらよい。

『平和とは、戦争と戦争の間の、束(つか)の間の一とき』ということになるのか。
アインシュタインも言っているように、人間というのは、『国というのは、
戦争を準備することと、戦争を防ぐことは、同時にはできないものである。
(A country cannot simultaneously prepare and prevent war.)』ということ
らしい。

今こそ、つぎの平和はどうあるべきか、真剣に考えるべきときではないのか。 

(補記)
今まで先の第二次大戦を、私はそのつどいろいろな呼び方をしてきた。
「太平洋戦争」「先の大戦」「第二次大戦」などなど。
オーストラリアなどでは、「ワールド・ウォー(世界大戦)、ザ・セカンド
(World War U)」などと呼んでいる。
しかし今日から私は、「日本の侵略戦争」と呼ぶことにした。
事実、そのとおりなのだから、反対する人はいないはず。

そうそう今朝の新聞によれば、国連という舞台で、K国は語気を強くして、
「あれは人工衛星だった」と主張しているようだ。
その姿勢は、「先の戦争は侵略戦争ではなかった」と主張する日本の姿勢と、
どこか、ヨ〜〜ク似ている。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

【ミサイル迎撃、反対!】

●K国に渡ったマネー

++++++++++++++++++++

ノ前大統領の汚職問題が、いよいよ最終局面を
迎えつつある。

「知らぬ」「存ぜず」とシラを切っていたが、
それも限界にきた。
で、ノ前大統領は、自分のHPで、弁解+謝罪。
しかし今や、ノ前大統領の言葉を信ずる者は、
ほとんどいない(韓国紙)。

同じく、あの金大中元大統領。
ノーベル平和賞にしても、日本円にして500〜700
億円で、買ったもの。
それを最近になって、側近(現在、アメリカへ
亡命)が、暴露した。

が、金大中元大統領、ノ前前大統領がなした、
大罪はそれだけでない。
あのK国に、「3000億円近い現金」を
渡していた(朝鮮N報)。

そのお金が核兵器になり、ミサイルになった(?)。
それを知った今、韓国の人たちの落胆+怒りも
頂点に達しつつある。

++++++++++++++++++++++

朝鮮N報は、つぎのように伝える(09年4月)。

『金大中(キム・デジュン)政権以後、10年間で北朝鮮に公式に渡った金は、
合わせて3兆2000億ウォン(現在のレートで約2360億円、以下同じ)を
超えるものと推定されている。

 8日に本紙が統一部および企画財政部の対北朝鮮支援資料を総合し分析した結果、
人道的支援の名目で政府および民間が北朝鮮に渡した食糧や建設資材などの物資は、
10年間で総額2兆7327億ウォン(約2014億円)相当に上った。

また、現代グループが金剛山観光の代価として北朝鮮に支払ったことが分かっている
現金は、1999年以降2007年まで合わせて4億7528万ドル(約474億円)だった。
9年間の平均為替レート1ドル=1122ウォンを適用すると、5332億ウォン規模となる
双方を合わせると、3兆2659億ウォン(約2407億円)に達する。
北朝鮮の07年度予算(32億2000万ドル=約3212億円)に匹敵する金額だ』と。

しかし実際には、それだけではない。
朝鮮N報が報告する数字を、並べてみる。

『「金大中・盧武鉉(ノ・ムヒョン)両政権時代に政府や民間から訪朝の代価として
支払われた"裏金"が、推定されるだけでも10億ドル(約997億円)に達する」と
語った』と。

訪朝の代価として、1000億円もの現金が使われたというのだ。
1000億円だぞ!
首脳会談をするだけで!
そしてその業績(?)が、評価されて(?)、金大中は、ノーベル平和賞を受賞した!

ほかに、

●金大中政権以降、訪朝の道が開けたことに伴い、親北もしくは左派寄りの諸勢力が
次々と北朝鮮を訪れた。1998年以降の10年間で、社会文化交流を名目として
4万1660人余りが北朝鮮を訪問した。これらのうち相当数が、多かれ少なかれ
裏金を「会談代」形式で渡したと伝えられている。

韓国政府の関係者は「北朝鮮の人物と会談する際に支払う金は、地位によって違った。少なく
とも数十万ドル(約数千万円)で、多ければ100万ドル(約1億円)にもなった」と語った。

●一部の放送局が平壌での公演イベントを中継するに当たり北朝鮮に払った金は、1件当たり
100万ドルほど。12億ウォンに達する。例えばMBCは2002年の平壌公演を生放送する際、北
朝鮮に120万ドル(約1億1970万円)を送金した。

 北朝鮮は今月5日に長距離弾道ミサイルに転用可能なロケットを発射したが、このロケットの
開発費用・発射費用は3億ドルから5億ドル(約299億−498億円)だと思われる。過去10年間、
韓国の人々や団体が北朝鮮幹部と会い、イベントに参加し、そこでこっそりと支払われた10億
ドルは、北朝鮮が長距離ロケット2基を開発してもなお余る金だ、と。
(以上、朝鮮N報より。)

が、この日本にもおバカさんがいた。

K国で餓死者が続出し、金xxが、中国北部への亡命まで画策していたとき、
何と120万トンもの米(このときは、米、ライス、白飯)をK国に提供した
人物がいた。

ときの日本の外務大臣のK氏である。
「これでK国が動かなかったら、責任を取る」とまで豪語したが、ご存知のように、
K国は動かなかった。
K氏も責任を取らなかった。

日本は、K国崩壊のチャンスを、みすみす逃したことになる!
その結果が、今ということになる。
が、そののち、ノ大統領が政権の座を取ると同時に、(太陽政策)なるものが、
韓国の対北政策の(柱)となった。

その毒気に染まったのが、アメリカのC・ヒル国務次官補ということになる。
彼が与えた、マネー、原油、それに5年という歳月は、重い。
さらに日本という同盟国を、何度も裏切った。

その中でも最大のものは、日本に、「拉致問題を一時棚上げして、K国援助に加われ」
「さもなければK国を、テロ支援国家の指定から解除する」と日本を脅したこと。
そして日本がそれを拒否すると、日本の防戦をくじくために、電撃的に、K国を、
テロ支援国家から解除してしまった!

こんな同盟国が、どこにある!

その結果、K国は、何をしたか?
いまさら、ここで説明するまでもない。

中国の軍事評論家の一人は、「ここ3、4か月以内に、K国は、またミサイル実験を
するだろう」と予測している。
今のこの日本の平和は、束の間の(休憩)ということになる。

【補記】

で、私の主張は変わらない。

「あんな国を、本気で相手にしてはいけない」である。

●ミサイルを撃ちあげても、迎撃してはいけない。
●一部が日本に落ちることになっても、大騒ぎしてはいけない。

相手は、とにかく、まともではない。
道理の通ずるような国ではない。
そんな国と、日本は心中してはいけない。

だからここは『負けるが勝ち』。
ノドン320基がすでに日本を射程に収めている今、何が迎撃か?
(別のアメリカの専門家は、800基と推定している。)
それらすべてに、生物、化学兵器が搭載されているとみるべき。

古今東西、戦争というのは、一度始めると、それを収めるのがたいへん。
アメリカのイラク戦争、アフガニスタン処理を見れば、それがわかるはず。
またアメリカが何とかしてくれるなどとは、思ってはいけない。

これについては東京都のI知事がこう言っている。
「アメリカの戦略空軍基地司令部を見たことがあるが、日本は防衛範囲の中に
入っていなかった」(09年4月)と。
オバマ大統領は、すでに日本を見捨てている。
わかるか?

日本は戦争をしてはいけない。
今のように丸裸の状態で、戦争を始めたら、どうなる?
逃げたくても、シャエルターひとつ、用意されていない。
だから『負けるが勝ち』。
「卑怯だ」「バカだ」と言われても、ここはじっとがまん。

やがてK国は、自滅する。
それを静かに、待つ。
相手はワーワーと声をあげるかもしれないが、それも時間の問題。
さあ今こそ、「善」の存在を信じよう。
私たちが根源的にもっている「良識」を信じよう。
それを世界に向けて、発信していこう。

日本は、あんな国と、ぜったいに心中だけはしてはいけない!







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【世界の賢者・格言集】by はやし浩司(09年4月8日版)

++++++++++++++++++

勇ましい好戦論ばかりが、聞こえてくる。
しかしそれを唱える人にかぎって、自分では
戦争に行こうとしない。

人、とくに若い人たちに向って、「戦え、戦え」
と言いながら、自分では、奥の座敷でそれを
見物している。

愚かな核武装論にしても、そうだ。
もし日本が核武装するなら、一撃で、中国全土、
あるいはロシア全土を廃墟にできるほどの数の
核兵器をもたねばならない。

が、それができないというのであれば、
(できるわけがないのだが……)、
最初からもつのをやめるべきだ。

日本の平和と安全を守りたいなら、まず、
相手に脅威を与えないこと。

かつてあのインドのネール首相は、こう言った。

『ある国が平和であるためには、他
国の平和もまた保障されねばならない。
この狭い、相互に結合した世界にあっては、
戦争も、自由も、平和も、すべて
たがいに連動している』(「一つの世界をめざして」)と。

では、どうすべきか。

今、世界中が、国際化し始めている。
恩師の田丸先生は、こう教えてくれた。

「中国の若い男女を見ていると、日本の男女と
どこも区別がつかなくなってきています。
情報化がたがいに進めば、やがて中国も日本も
なくなりますよ」と。

私たちがめざすべき未来の世界は、けっして
対立する世界であってはいけない。
仮に為政者たちが対立しても、中身の人間が
同じになれば、やがて戦争は必然的に消滅する。

私たちがめざすべき世界は、そういう世界をいう。

戦争について、考えてみたい。

+++++++++++++++++++


●戦争について

Allow the President to invade a neighboring nation, whenever he shall deem it necessary to 
repel an invasion, and you allow him to do so, whenever he may choose to say he deems it 
necessary for such a purpose -- and you allow him to make war at pleasure. If today, he 
should choose to say he thinks it necessary to invade Canada, to prevent the British from 
invading us, how could you stop him? You may say to him, 'I see no probability of the British 
invading us' but he will say to you, 'Be silent; I see it, if you don't.'" - 
 Abraham Lincoln(A・リンカーン)
すべての大統領に、彼が侵略を追い払うためにそれが必要と思うなら、隣国を侵略することを
許せ。またその目的のためにそれが必要だというのなら、隣国を侵略することを許せ。そして
大統領が望むまま戦争することを許せ。もし今日、英国がわれわれを侵略することを防ぐた
め、カナダを侵略するのが必要という判断を大統領が下したのなら、だれが彼を止めることが
できるのか? あなたは「英国が我々を侵略する可能性はありません」と言うかもしれないが、
私は、こう言うだろう。「黙っていろ。もしあなたがわからないなら、私がそれを知る」と。


The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. 
Albert Einstein(A・アインシュタイン)

戦争のない世界における囚人は、軍役を拒否する若者たちである。


A country cannot simultaneously prepare and prevent war. 
Albert Einstein(A・アインシュタイン)

国というのは、戦争を準備することと、戦争を防ぐことは、同時にはできないものである。


Never has there been a good war or a bad peace 
Benjamin Franklin(B・フランクリン)

今だかって、よい戦争もなければ、悪い戦争もなかった。


Every gun that is made, every warship launched, every rocket fired signifies, in the final 
sense, a theft from those who hunger and are not fed, those who are cold and not clothed. 
Dwight D. Eisenhower(D・D・アイゼンハウワー)

どんな銃であれ、戦艦であれ、ロケットであれ、つまるところ、それらは、食物を与えられず飢
えている人から、ものを盗むようなもの。衣服がなく、寒さに震えている人から、ものを盗むよう
なもの。


We have to face the fact that either all of us are going to die together or we are going to 
learn to live together and if we are to live together we have to talk. 
Eleanor Roosevelt(E・ルーズベルト)

私たちは、つぎの事実に直面しなければならない。私たちみなは、いっしょに死ぬか、でなけれ
ば、いっしょに生きるかのどちらかである。もしいっしょに生きるならば、まずたがいに対話をし
なければならない。


●恐れについて

Taking a new step, uttering a new word, is what people fear most. 
Dostoyevsky(ドストエフスキィ)

新しい行動に出ること、新しい言葉を発すること……それが人々がもっとも恐れることだ。


Without fear and illness, I could never have accomplished all I have. 
Edvard Munch

恐れと病気がなかったら、私は今私がもっとているものすべてを完遂できなかっただろう。


If someone betrays you once it is their fault, if someone betrays you twice it is your fault. 
Elenor Roosevelt (E・ルーズベルト)

誰かが1度、あなたを裏切ったら、それは彼らの責任だ。しかしもしあなたが2度裏切られたと
するなら、それはあなたの責任だ。


To suffering there is a limit; to fearing, none. 
Francis Bacon(F・ベーコン)

苦しみに対しては、制限がある。しかし恐れることには、制限はない。


I must not fear. Fear is the mind-killer. Fear is the little-death that brings total obliteration. 
I will face my fear. I will permit it to pass over me and through me. And when it has gone 
past I will turn the inner eye to see its path. Where the fear has gone there will be nothing. 
Only I will remain." 
Frank Herbert, Dune ―Bene Gesserit Litany Against Fear

私は恐れてはならない。恐れは、心を殺す。恐れは小さな死であり、それはすべてを忘れさせ
る。私は恐れに立ち向かうだろう。私はそれを私の中を通過するのを許すだろう。そしてそれ
が過ぎ去ったとき、それが通り過ぎた道を見るため、心の中の目に振り向く。恐れが去ったと
き、そこには何もない。ただ私が残っているだけ。


The fear of aesthetics is the first symptom of powerlessness. 
Fyodor Dostoevsky, "Crime and Punishment"(F.ドストエフスキィ・「罪と罰」)

美の哲学としての恐れは、無力の同意語である。


One of the things which danger does to you after a time is -, well, to kill emotion. I don't 
think I shall ever feel anything again except fear. None of us can hate anymore - or love. 
Graham Greene ―The Confidential Agent (1939)

危険というものをしばらく経験したあとにやってくるものの一つは、感情を失うということ。恐れ
以外に再び何も感じないだろう。だれもなにも恨むこともなければ、愛することもない。


War is an ugly thing, but not the ugliest of things. The decayed and degraded state of moral 
and patriotic feeling which thinks that nothing is worth war is much worse. The person who 
has nothing for which he is willing to fight, nothing which is more important than his own 
personal safety, is a miserable creature and has no chance of being free unless made and 
kept so by the exertions of better men than himself. 
John Stuart Mill(J・S・ミル)

戦争は醜いもの。が、もっとも醜いものではない。道徳や愛郷心が腐敗し、堕落すれば、何も
価値がないと思うようになり、それが戦争をさらに悪くする。喜んで戦うべきものをもたない人、
つまり己の安全のみ以上に、大切なものをもたない人は、あわれな生き物であり、もし、今以
上によりよい自分になるためにそうしているのでないというならば、自由の感覚を味わうことは
ない。








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10
●不安

++++++++++++++++

80歳をすぎた近所の女性が、
数日前、救急車を呼んだ。

あとで理由を聞くと、便に
大量の血が混ざっていたからだという。

その女性は、自分が、がんになったと早合点して、
そうしたらしい。

しかし、がんではなかった。シロだった。ただ単なる、
切れ痔にすぎなかった。

++++++++++++++++

 私は知らなかったが、近所に住む女性が、救急車を呼んだという。今年、80歳になる
女性である。

 あとで人づてに理由を聞くと、便に大量の血が混ざっていたからだという。その女性は、
それをがんと早合点してしまったらしい。が、病院での検査の結果は、シロ。がんではな
かった。ただ単なる切れ痔にすぎなかったという。

 最初、この話をワイフから聞いたとき、私は笑ってしまった(失礼!)。その女性のよう
な心気症の人(=大病ではないかと、そのつど、大げさに悩む人)は多い。実は私もその
1人だが、しかし便に血が混ざっていたくらいでは、救急車は呼ばない。

 しかもその女性は、80歳だという。

私「80歳になっても、死ぬのがこわいのかねエ?」
ワ「何歳になっても、こわいみたいよ」
私「そういうものかねエ」と。

 そう言えば、私の母も、89歳のころ、足が思うように動かなくなったとき、それを治
せない医師を、「ヤブ医者」と言って、怒っていた。姉が、「89歳にもなれば、みんなそ
うよ」と懸命になだめていたが、母には、理解できなかったようだ。

 この問題には、つまりその人の生死にかかわる問題には、年齢は関係ないようだ。老齢
になったからといって、死に対する恐怖感がやわらぐということはない。考え方が変わる
ということもない。

 むしろ現実は逆で、老齢になればなるほど、「生」に執着する人は、多い。ほとんどの人
がそうではないか。中に、「私はいつ死んでもいいですよ。覚悟はできていますよ」などと
言う人がいるが、たいていは、そう言いながら、かっこつけているだけ。本心でないと考
えてよい。

 「死」を受け入れるということは、たいへんなことである。

 イギリスのBLOGから、「死」について書いた賢人たちの言葉を、集めてみる。

★ I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will 
inevitably come. And then - I go on to the next thing, whatever it is. One doesn't 
luckily have to bother about that.

私は借りてきた時間の中で、召喚のための小部屋で待ちながら、生きている。それは避け
られないもの。で、それから私は、どうあっても、つぎの部屋に行く。幸運にも、人は、
それで心をわずらわす必要はない。
Agatha Christie, "An Autobiography"(アガサ・クリスティ「自叙伝」)


★ I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it takes 
place every day.

友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはいけな
い。それは毎日起きていることなのだから。
Albert Camus

★To the well-organised mind, death is but the next great adventure.

よく準備された心には、死は、ただ単なるつぎの冒険でしかない。
Albus Dumbledore

★Even in the desolate wilderness, stars can still shine.

人に見放された荒野のようなところでも、星はまだ、輝いている。
Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi (青い自由、白い望み?)

★ A Lizard continues its life into the wilderness like a human into heaven. Our fate is 
entirely dependent on our life

とかげは、野生の中に向かって生きつづける。人間が天国に向かって生きつづけるように。
我々の運命は、私たちに生命に完全に支配されている。
Andrew Cornish

★ This existence of ours is as transient as autumn clouds. To watch the birth and 
death of beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of 
lightning in the sky. Rushing by, like a torrent down a steep mountain.

我々の存在は、秋の雲のように、一時的なもの。人の生死を見るということは、踊りの動
きを見ているようなもの。人生というのは、空に光る稲妻の閃光でしかない。あるいは、
急な山を下る急流のようなものでしかない。
Buddha (c.563-c.483 B.C.)(釈迦)

★100 per cent of us die, and the percentage cannot be increased.

私たちのうち100%は死ぬ。そのパーセンテージがふえるということは、ない。
C.S. Lewis, "The Weight of Glory"

★Who chants a doleful hymn to his own death?

だれが、自分の死に際して、悲しげな賛美歌を歌うだろうか。
Shakespeare

★ We are here to laugh at the odds and live our lives so well that Death will tremble to 
take us.

私たちは、おおいに笑い、楽しく生きるために、ここにいる。そうすれば死は、私たちを
連れ去るのを、躊躇(ちゅうちょ)するだろう。
Charles Bukowski

★ All God does is watch us and kill us when we get boring. We must never, ever be 
boring. 

★ すべての神は、私たちをずっと見ていて、私たちがいつ、生きるのに飽きるかを見てい
る。だからそれゆえに、私たちは決して、自分の人生に飽きてはいけない。
Chuck Palahniuk, "Invisible Monsters"

 人生が瞬間的なものなら、80歳になるのも、瞬間にやってくる。若い人たちからみれ
ば、老後は、ありえないほど遠い未来に見えるかもしれないが、その老後は、瞬間にやっ
てくる。それがわからなければ、自分の過去をみることだ。

 少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、「私は生きた」という実感をもっている人は、
きわめて幸福な人だと思う。もし少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、それが何のた
めにあるかといえば、その「生きる実感」をつかむためにある。

 その「実感」が、灯台となって、それからのその人の人生の歩む道を、照らす。

 で、この年齢になってますますはっきりとわかってきたことがある。それは青春時代と
いうのは、人生の出発点ではないということ。青春時代は、人生のゴールそのものである
ということ。それはちょうど、あのサケが、最後には自分の生まれた源流をさかのぼり、
そこで死を迎えるようなもの。

 しかし悲しいかな、少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、その最中にいる人には、
それがわからない。「人生は永遠」と考えるのはまちがってはいないが、「永遠」と思うあ
まり、その時代を浪費してしまう。

 しかしその時代は、1回ポッキリで終わる。……終わってしまう。「まだ先がある……」
と思って、人は、生きていく。が、先は、ない。ないから、その日、その日を、悶々とし
た気分で過ごす。

 それが不完全燃焼感となって、心をふさぐ。悔いとなって、心をふさぐ。老後になれば
なるほど、それがより鮮明になってくる。

 冒頭に書いた女性だが、今回は、シロだった。が、この先、何年、生き延びることがで
きるというのだろうか。5年だろうか。10年だろうか。体の不調が起きるたびに、ビク
ビクしながら生きていくにちがいない。「生きる」といっても、死を先に延ばすだけの人生。
明日、その死がやってくるかもしれない。明日はだいじょうぶでも、あさって、やってく
るかもしれない。

 では、どう考えたらよいのか。どう死をとらえたら、よいのか。生きることを考えたら、
よいのか。

『友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはい
けない。それは毎日起きていることなのだから』と書いた、Albert Camus。『よく準備さ
れた心には、死は、ただ単なるつぎの冒険でしかない』と書いた、Albus Dumbledore。

 彼らの言葉の中に、その答につながるヒントがあるように、私は思う。







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11
●児童英語について


●英語教育は、効果がない(?)

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このほど、ベネッセコーポレーションが、こんなおもしろい
調査結果を公表した。
なんでも『小学校からの英語教育の導入について、
中学校の英語教員の7割近くが、「導入しても、
将来、英語を話せるようにはならない」と考えている
ことがわかった』※という。

私も、それを感じている。
というのも、小学校での英語教育は今、どちらかというと、
あいさつ、もしくは単語の暗記に偏(かたよ)りすぎている。
問題は、どうやって(文法)を理解させるかということ。
言葉としての英語を理解させるかということ。
もちろん中学校で教えるような(文法)を、教えては
いけない。
しかしその理解なくして、言葉としての英語を教えることは、
できない。

いろいろな方法がある。
たとえば私は小学生に、既存の英語教育と併せて、
つぎのような教え方をしている。

「私は本を読みます」を→(私)(読む)(本)と、言いかえさせる。
反対に、(私)(読む)(本)を→「私は本を読みます」と、言いかえさせる。
こうした訓練を、その合間に入れていく。

これをさらに進歩させて、たとえば「浦島太郎」の物語を、
つぎのようにして話す。
(もちろん日本語で……。)

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【はやし浩司式、子ども用英語文法・指導例】

(むかし)(そこに)(いた)(男の人)(名前の)(浦島太郎)。
(太郎)(〜〜していた)(歩く)(そば)(海)。
(太郎)(見た)(子どもたち)(いじめている)(一匹の)(カメ)。
(太郎)(言った)(〜〜に)(子どもたち)、「(〜〜するな)(いじめる)(かめ)」。
(子どもたち)(逃がした)(かめ)(〜〜へ)(海)。

(ある日)(太郎)(〜〜していた)(釣り)。
(そこへ)(大きな)(かめ)(来た)。
(かめ)(言った)(〜〜に)(太郎)、「((どうぞ)(乗れ)(私の)(背中)。
(太郎)(乗った)(かめの)(背中)。
(かめ)(連れて行った)(太郎)(〜〜へ)(竜宮城)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

「ナ〜ンダ、英語の文章の単語を、すべて日本語に置き換えただけではないか」
と思う人もいるかもしれない。
そのとおり。
しかし小学生に英語の文法を、文法として意識させることなく教えるには、
この方法がもっとも、効果的である。

こうした話し方を理解できるようになったら、今度は反対に、ふつうの日本語を、
英語式の言い方に言いなおさせてみる。

こうした指導を、学年を追うごとに、内容を深めていけばよい。

指導の仕方としては、最初は、「正しい日本語に直してごらん」と言って、指導する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

【小2レベル】(例)

(私)(食べる)(りんご)→「私は、りんごを食べます」
(あなた)(読む)(本)→「あなたは本を読みます」
(私)(です)(男の子)→「私は男の子です」
(あなた)(です)(先生)→「あなたは先生です」

【小3レベル】(例)

(〜〜か)(あなた)(食べる)(りんご)→「あなたはりんごを食べますか」
(私)(〜〜ない)(読む)(本)→「私は、本を読まない」
(ですか)(あなた)(女の子)→「あなたは女の子ですか」
(私)(です)(〜〜ない)(先生)→「私は先生ではありません」

【小4レベル】(例)

(私)(あげる)(私の)(ともだち)(プレゼント)→
「私はともだちにプレゼントをあげる」
(あなた)(行く)(〜〜へ)(公園)(いっしょに)(あなたの)(犬)→
「あなたはあなたの犬といっしょに、公園へ行く」

……こうして現在の英語教育に、言葉としての英語を教えていく。

++++++++++++++++++++++++++++

誤解があってはいけないので、念を押しておく。
「7割の中学教員が、話せるようにならないと思っているから、小学校での
英語教育は無駄」というふうに考えてはいけないということ。

大切なのは、「ではどうすればよいか」と考えること。
「現在の英語教育を、どう補完していけばよいか」を考えること。
その一例として、私のやり方をここに書いてみた。

ベネッセコーポレーションがいう「中学校との具体的な連携方法」※の一つとして、
参考にしてもらえれば、うれしい。

(注※、産経新聞より)『小学校からの英語教育の導入について、中学校の英語教員の7割近
くが、「導入しても、将来、英語を話せるようにはならない」と考えていることが4日、通信教育
最大手のベネッセコーポレーション(岡山市)の調査で分かった。新学習指導要領にともない、
今年度から5、6年生を対象に先行実施されているが、小、中学校間の認識のギャップが浮か
んだ形だ。

 同社のシンクタンクが昨年7〜8月、全国の公立中学校の英語教員約3600人を対象に実
施。調査対象者の地元の小学校で行われている英語教育について、「知っている」と答えたの
は48・5%と半数を下回り、小学校の英語教員との交流も「集まる機会がある」(28・6%)、
「授業を見に行く」(25・5%)しかなく、小、中学校間でほとんど連携が取れていない実態が目
立った。

 さらに、調査対象の約8割は「聞くことに慣れる」と、小学校での英語教育に一定の効果を認
めながらも、「中学での英語指導がスムーズになる」と受け止めているのは42・1%で、中学で
の教育と切り離している。また、「将来、英語を話せる日本人が増える」と考えているのは24・
3%しかいなかった。

 一方、調査対象の教員自身の指導法については、4割を超える教員が「英語が好きになるよ
うに指導する」ことを大切にしていると答える一方、授業の中心は「音読」「文法の練習問題」
「発音練習」などが占めていることが判明。

 「英語の歌を歌う」「スピーチ」といった実践的な授業は4割程度にとどまり、英語の楽しさを
伝えたいという思いと試験対策用の指導とのジレンマに悩む姿がうかがわれる。

 ベネッセは「小学校での英語の教育効果を上げるためには、中学校との具体的な連携方法
を考える必要がある」と分析している』(産経新聞・09・4・5)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
英語教育 小学校の英語教育 子どもにとっての文法 英語文法 言葉としての英語
言葉 言葉教育 小学校で英語をどう教えるか はやし浩司 児童英語 文法)







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12

●通俗性(1)

+++++++++++++++++++++

通俗的な人は多い。
多いだけではない。
加齢とともに、さらに多くなる。
パワーをましてくる。

たとえば主夫業についても、問答無用式にこう言う。
「そりゃあ、林君、男は仕事だよ。仕事をしてこそ、
男だよ」と。

父親像についても、「父親というのはね、家の中で
デンとしているのがいいんだよ。一家の大黒柱
なんだから」と。

親論についても、「親は親だからな。どんなことがあっても、
親には逆らっちゃいけないよ。生んで育ててくれたんだからさ」と。

国家論についても、「国あっての民だろ。日本は、一民族、
一国家。この純潔さこそが、大切なんだよ」と。

こうした通俗性とは、どう闘えばよいのか。
またどうして人々は、加齢とともに、ますます通俗的に
なっていくのか。

通俗性を主張する人は、「過去」「伝統」を背負っているから強い。
自分で考えて、そう言うのではない。
「昔から、人間はこうだ」という論陣を張る。
それが転じて、「人間は、こうあるべきだ」となる。

++++++++++++++++++++++

●通俗的になる人たち

60歳を過ぎると、とたんに多くなるのが、通俗的な人たち。
思考回路そのものが、過去へ過去へと、回帰していく。
その理由として、最大のものは、脳みその退化である。
こんな例で考えてみよう。

たとえば英単語。
20代のころまでに覚えた英単語というのは、しっかりと脳みその中に残っている。
今でも、即座に、思い出せる。
しかし50代ともなると、そうはいかない。
覚えるのもたいへんだが、すぐ忘れる。
記銘力、保持力、その双方が衰える。
衰えるならまだしも、バケツの底に穴があいたような状態になる。
その穴から、知恵や知識が容赦なく、流れ出ていく。
英単語もそうだ。

それもたとえるなら、タマネギの皮のようなもの。
外側からどんどんと、はがれて落ちていく。
つまり新しい記憶ほど、早く、はがれ落ちていく。

最後に残るのは、中心部にある、古い記憶のみということになる。
このことは、介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
あの人たちはみな、過去の話ばかりしている。
子どものころの話とか、若いころの話ばかりしている。

●例外はない

こうして考えてみると、人は、加齢とともに、通俗的になるのではなく、
若いころ身につけた、(常識?)に戻っていくということがわかる。
あるいはそのあと身につけた、知識や知恵が、はがれ落ちてしまう。
わかりやすく言えば、バカになっていくということだが、それではあまりにも失礼。
しかしそれほど、まちがってはいない。

というのも、20代以後、結構、国際的な場で活躍した人ですら、通俗的になって
いく人は、いくらでもいる。
大企業で、要職を経験したような人でも、通俗的になっていく人は、いくらでも
いる。
もちろん、小さな世界だけで生きてきた人ほど、通俗的になる。
が、やはり特別な人だけが、通俗的になっていくわけではない。

●精進(しょうじん)

では、通俗性と闘うためには、どうすればよいのか。
そのためには、何が通俗的で、何が通俗的でないかを、判断しなければならない。
たとえば「男は仕事だよ。女が仕事に口を出すのは、まちがっている」と主張する
人がいる。
「どんな親でも、親は親だからな。逆らうのはよくない」と主張する人でもよい。
(今でも、ちゃんと、いるぞ!)

そういった通俗的なものの考え方をする人に出会うと、私のばあい、絶望感に近い
ものを感じてしまう。

そういう人たちの、ガリガリになった石頭を変えるのは、まず不可能。
順に説明しようにも、それよりも早く、脳みその老化が進んでしまう。
仮に新しい思想を話しても、そういったものほど、早く、忘れてしまう。
だから、私のばあい、「そうですねエ〜」とか言って、逃げてしまう。

が、他人は他人、私は私。

では、あなたはどうか?
この文章を読んでいる、あなたは、どうか?

そこで出てくる言葉が、「精進(しょうじん)」。
私たちは常に、前に向かって進む。
脳みその底に穴があき、そこから知識や知恵が流れ出ていくなら、それ以上のものを、
毎日補充していく。
通俗性と闘うには、それしかない。
けっして通俗的であることに甘んじてはいけない。
甘んじたとたん、あなたの思想は後退する。
つまりそれ自体が、一歩、死に近づいたことを意味する。

●息(いき)ると、生(い)きる

60歳を過ぎて、「ただ息(いき)ているだけ」という人は、少なくない。
またそういう生き方を、理想の生き方と誤解している人は、多い。
ほとんどが、そうではないか。
「老後は、旅行を楽しむよ」
「孫の成長を見守るよ」
「思う存分、庭いじりをしてみたい」と。

しかしこの年齢になると、仮に1年も遊んでしまうと、もう元(もと)に戻れなくなる。
1年遊んだあと、「仕事に復帰」ということは、まずありえない。
つまり脳みその硬直化は、それくらい早いスピードで、その人を襲う。
息(いき)始めたとたん、その人は、ただ息(いき)る人になってしまう。
この私も、こうして何らかの形で、毎日文章を書いているからこそ、書ける。
が、数日も書かないでいたりすると、調子を取り戻すのに苦労する。
今年の正月がそうだった。

私は、あの恐ろしい、三日酔いにかかった。
暮れの12月30日の午後から、正月2日まで、はげしい頭痛と吐き気に苦しんだ。
体重が、62キロ台まで減ってしまった。
(ふだんは、64〜66キロ台。)

で、正月だから……ということで、そのあとパソコンに向かったが、頭の中が
モヤモヤするだけで、どうしても文章が書けなかった。
さらにこんなこともある。

私にも夏休みや春休みがある。
その休みの間、たった1週間でも、子どもたちから離れると、育児論が書けなく
なってしまう。
これは本当のことである。
けっしてオーバーなことを言っているのではない。

子育て論というのは、毎日子どもを見ていてはじめて、書ける。

●「損」

私も、考えることをやめたとたん、その時点から、通俗的になっていく。
というのも、これは、大脳連合野が司る、(思考)の問題ではないからである。
脳みそそのものの、器質的変化によるものだからである。

そういう意味では、老化は、例外なく、だれのところにもやってくる。
今、「私はだいじょうぶ」などと、高をくくっているあなたのところにも、やってくる。
ひょっとしたら、肉体の老化よりも、脳みその老化のほうが、早いのでは?
体はピンピンとしているのに、考え方そのものが、通俗性のかたまりといった人は、
少なくない。

何らかの形で、若い人たちと接点をもっている人は、まだよい。
しかしその接点をなくすと、さらに老化は進む。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まっている。
「悪い」というより、「損」と考えたほうがよいかもしれない。
与えられた時間は同じでも、その時間を2倍、3倍として生きることもできる。
が、老化に身を任せてしまうと、それこそ、10年を1年にして生きるようになって
しまう。
だから、「損」。

たった一度しかない人生。
だったら、思う存分、密度の濃い人生を生きる。

●さあ、通俗性と闘おう

通俗的に生きることは、楽なこと。
みなと同じことを考え、同じことをすればよい。
しかし、まだあなたの人生が終わったわけではない。
60歳であれば、20年は、ある。
50歳であれば、30年は、ある。

20年といえば、生まれてから、成人するまでの年月に等しい。
生き方によっては、あなたは、もう一度、青春時代を経験することもできる。
あの世で生まれ変わることを願うくらいなら、現実にそこにある20年を
大切にしたほうがよい。
あの世などという、あるともないともわからないものに、希望を託すほうが、
どうかしている。

さあ、あなたも勇気を出して、通俗性と闘おう。
そういう前向きな姿勢の中から、生きるエネルギーもわいてくる。
そしてあなたの周囲で通俗的なことを口にする人がいたら、あなたは鼻先で、
フンと笑ってやればよい。

今の私が、そうしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
通俗性 通俗的な生き方 通俗的な考え方 通俗的な人たち はやし浩司 人生論 
老後の人生論)

●通俗性(続編)

++++++++++++++++

数日前、「通俗性」について書いた。
それについて、ある読者(男性)から、
こんなコメント(書き込み)があった。
何でも、その地方では、ことあるごとに、
村の長老たちが、「お前も、男だろ!」
「男らしくしろ!」と言うという。
その男性は、それが不愉快でならない、と。

これも立派な(?)、通俗性である。

++++++++++++++++

●「お前も、男だろ!」

私も若いころ、よくそう言われた。
今でも、ときどき、そういう言葉を耳にする。
「お前も、男だろ!」と。
しかしそのたびに、「だから、どうなの?」と聞き返したくなる。
「だから、それがどうしたの?」と。

こんな論理(=非論理)がまかり通るところに、日本に後進性が残っている。
日本が世界の人たちに、「奇異なる国」と呼ばれる理由がある。
が、その前に、この日本では、「男」を、どう考えているのか?
そのあたりから話を聞きたくなる。

●「男らしくしろ!」

「男らしくしろ!」という言葉も、同じ。
実は、つい昨年、私も、この言葉を言われた。
いきさつを話すと長くなるが、こうした言葉を平気で口にする人というのは、
要するに、その程度の人でしかない。

私はその言葉を言われたとき、すかさず、「じゃあ、あなたはどうなの?」と
言いそうになった。
「偉そうなことを言う前に、自分自身は、どうなの?」と。
が、相手にしなかった。
見るからに、そのレベルの人だったからである。

●男尊女卑

そこはまさに男尊女卑の世界。
いまだに武士道なるものを礼賛する人や団体は多いが、武士道なるものの負の
遺産を説くことなしに、武士道を礼賛してもらっては困る。
この武士道のおかげで、日本は、世界でも類を見ないほどの、たとえばその
ひとつとして、男尊女卑思想をもってしまった。

「男は仕事、女な家庭」という、あれである。
「内助の功」という言葉でもよい。

私が子どものころでさえ、男尊女卑思想は、まだ色濃く残っていた。
女性が今の(地位)を確立したのは、戦後のことである。
ウソだと思うなら、現在、70代、80代の人たちの考え方に、
静かに耳を傾けてみたらよい。
あなたも化石のような思想に、驚くはずである。

●孤独な世代

しかし安心してほしい。
新しい世代、若い人たちから、どんどんと(変化)が始まっている。
「仕事より家庭」と考えている人が、80%前後はいる。
出世主義も、崩壊した。
さらに「主夫業」という言葉も、日常的になってきている。
今では、料理を趣味にする男性も、多い。

つまり「お前も、男だろ!」とか、「男らしくしろ!」などと言っている人は、
その年齢の、しかもノーブレインな人(=脳みそのない人)たちである。
まともな人たちは、こういう言葉を使わない。
使ったとたん、若い人たちから、はじき飛ばされてしまう。
つまり相手にされない。

だからそういう人たちは、そういう人たちで集まり、具体的には、若い人たち
とは距離を置いた世界で集まり、たがいに慰めあう。

ただ我慢ならないのは、彼らは、私もその仲間(?)と、決めてかかってくること。
数年前も、(たった数年前だぞ)、「今の若いやつらは、先祖を粗末にする。
許せないよな、林君」と、同意を求めてきた人(当時、70歳くらい)がいた。

つまりは孤独な世代ということになる。

●ダカラ論

何をもって、「男らしく……」と言うのか、そんなことを論じても、意味はない。
「男とは何か」を論じても、意味はない。
もともと論ずる価値もない。
こういうのを総じて、『ダカラ論』という。

「親だから……」「子なんだから……」「夫なんだから……」「身内なんだから……」
「親類なんだから……」「男なんだから……」と。

そのつど使い方によっては、便利な論法だが、もともと根拠があるわけではない。
つまり一定の「型」を決めて、それを押しつけてくる。
昨日、メールをくれた女性も、そうだ。
その『ダカラ論』で苦しんでいる。

●親にもいろいろ

事情は複雑。
自分を、幼女のときに捨てた母親がいる。
その女性はそのあと、悲惨な少女期、成人期を迎えて、やっと今になって、
ささやかな「幸福」をつかんだ。
その最中、郷里の人たち(=母親が属する宗教団体の人たち)から、連絡があった。
そのあたりのことは詳しく書いてないが、きっとその人たちは、こう言って、
その女性に迫ったにちがいない。

「あなたは、娘なんだから、(親のめんどうをちゃんと、みろ!)」と。

親にもいろいろいる。
自分の親がそうであるかといって、その親像を、他人に押しつけてはいけない。
また安易に、「そうであるべき」と考えてはいけない。
事情がわかったら、そっとしておいてやるのも、周囲の人たちの思いやりという
ものではないのか。

●男女の差

前にも書いたが、日本人ほど、(男女の差)を、色濃くもっている民族というのは、
そうはいない。
日本人というのは、相撲や歌舞伎を例にあげるまでもなく、何でも「型」に
はめないと、気がすまないらしい。
男や女についても、そうである。
男や女にも、「型」がある?

しかしこれほどバカげた「型」も、そうはない。
世界には、日本でいう男女観が逆転している民族となると、いくらでもいる。
男が留守を守り、女が狩猟に出かける民族だっている。

●結論

あとはそれに気づくかどうかということ。
狭い世界だけで、ずっとその世界だけに生きてきた人には、わからない。
そういう人というのは、先にも書いたように、「化石」のようなもの。
相手にしても、しかたない。
化石のようになった石頭を、変えることなど、不可能。

だから私のばあいは、相手にしないという方法で、対処している。
相手にしたところで、どうしようもない。
それだけの向学心もない。
あるいはへたに説明したりすると、猛烈に反発してきたりする。
それ自体が、人生観になっているから、自分の人生を否定されたかのように
感ずるらしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
原始的な男女観 男女の分化 男尊女卑 男尊女卑思想 男らしく お前も男だろ
はやし浩司 だから論 ダカラ論)







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13
●老後の統合性

+++++++++++++++++

老後の統合性については、何度も
書いてきた。
(すべきこと)と、(していること)を
一致させる。
それを「統合性」という。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)。
それをする。

が、「退職しました。これからゴビの砂漠へ
行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、
身につかない。
長つづきしない。
生きがいも生まれない。

その統合性の準備は、満40歳くらいから
始めるとよいという。
「40歳は、人生の正午」と言われている。
が、それでも遅いかもしれない。

統合性の下地を作るだけでも、10年とか
20年とか、かかる。
そうした地道な下地があってはじめて、統合性の
確立ができる。

++++++++++++++++++

●愛他的自己愛者(偽善者)

それにしても愛他的自己愛者が多いのには驚かされる。
つまり偽善者。
自分をよく見せるために、ボランティア活動や、慈善事業をしたりする。
派手なパフォーマンスを繰り返す。
が、見抜くのは、簡単。
どこかへん?
どこか矛盾している?
そう感じたら、愛他的自己愛者と考えてよい。

たとえばもう25年近くも前になるだろうか。
田丸謙二先生の家に遊びに行ったら、1人の女性がたまたま、遊びに来ていた。
当時、50歳くらいではなかったか。
話を聞くと、東南アジアの難民キャンプで、難民たちの世話をしているという。
その女性といっしょに、私のワイフも含めて、みなで夕食を食べた。
そういう(本物の女性)に一度でも会うと、「私はアフリカで……」というような
人が、いかにインチキかわかる。
本物の絵を見たあと、夜店で売っているような絵を見るようなもの。

その女性のばあいも、日本にいたのは数日だけ。
たしかそのつぎの日には、カンボジアだったか、タイへ戻るということだった。
つまりそういう人には、一貫性がある。
すご味がある。
その人の人生を貫く、太い柱のようなものを感ずる。

言い忘れたが、その女性は、左手に大きな包帯を巻いていた。
何かの活動をしているときに、怪我したということだった。
(今、思い出したが、怪我したから、一時帰国したということだった。
ワイフにこの話をしたら、ワイフが、「お医者さんだったわね」と言った。
そう、医師だった。)

が、世の中には、一方でテレビのタレントをしながら、こうしたボランティア活動(?)
を売り物にしている人たちがいる。
そこに至るプロセスがあれば、まだ理解できる。
若いころからホームレスの世話をしてきたとか、孤児のめんどうをみてきたとか、など。
が、そうした人たちは、ある日突然、降ってわいたような話に乗って、難民救済運動
を始めたりする。
団体は団体で、そういう人たちを利用して、募金を集める。

しかし難民救済という活動がいかにたいへんなものであるかは、恐らく、それを実際に
したことがある人でないとわからないだろう。
私にもわからない。
しかし難民キャンプにいる人たちは、私たちが想像を絶するような生活をしている。
多くはやせこけ、重い皮膚病にかかり、体の一部はすでに腐り始めている……。
そういう人たちを素手で抱きあげ、体を湯で洗ってやる……。
きれいごとだけで、できるような活動ではない。
それが救済活動である。

さらに言えば、一方で数十万円もするような衣装で身を包みながら、
他方で、難民救済活動をしているだと?

テレビに出るたびに、2時間近くもかけて化粧をしながら、他方で、
難民救済活動をしているだと?

中には、写真撮影のためだけに、難民キャンプで子どもを抱いた人もいた。
その人は、写真撮影が終わるとすぐ、手や体を消毒していたという。
ある週刊誌にそれがすっぱ抜かれ、問題になったことがある。

もしふつうの人が、まともな神経で、そんなことを繰り返していたら、
それだけで精神がバラバラになってしまうはず。
つまり偽善をつづけるにも、それなりの体力と気力がいる。
好きでもない相手と、ともに生活するようなもの。
ストレスがたまって、気がへんになる。

で、身近でもこんなことがあった。
その女性は、ボランティア活動として、近所の独居老人の世話をしている
ということだった。
しかしその一方で、ある日、私の知人の家に怒鳴り込んできたという。
何でも知人の家にある高い木から落ちる枯れ葉で、樋(とい)が詰まって
しまうというのだ。

その知人は、こう言った。
「独居老人の世話をするという高邁な精神の持ち主が、他方で、枯れ葉程度の
ことで、大騒ぎする。
矛盾しているとは、思いませんか」と。

そう、矛盾している。
たしかに矛盾している。
そういう矛盾を感じたら、ここでいう愛他的自己愛者と考えてよい。
つまり自分を飾るために、また人からよい人と思われたいがために、
ボランティア活動をしているだけ。
ボランティア活動を利用しているだけ。

で、この話には、まだつづきがある。
この女性が、やがて実父の介護をするようになった。
が、表ではすばらしい娘を演じながら、その裏で、実父を虐待していた。
毎度、食事は、ご飯と味噌汁だけ。
昼間は、部屋に鍵をかけて閉じ込めていた。
が、親類の人が見舞いに来たりすると、みなの前で実父の背中をさすって
みせていた。
すばらしい娘を演じてみせていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群というと、母親と子の関係を想像するかもしれないが、
何も、母親と子の関係だけではない。
場所も、病院内だけとは、かぎらない。
陰で親を虐待しながら、すばらしい娘を演じている女性となると、
それこそゴマンといる。

だからその知人は、こう言った。
「ああいうのを化けの皮をかぶった、タヌキというのです」と。

話を戻す。

愛他的自己愛者は、悪人より、タチが悪い。
悪人は、人をだまして、お金を奪う。
愛他的自己愛者は、善人ぶって、人の心を奪う。
弱い人を利用しながら、それを自分の名声や利益につなげていく。
何もアフリカまで行かなくても、本当にボランティア活動なるものがしたかったら、
まず身近なところから、始めてみたらよい。
街中で寝泊りするホームレスの人たちの世話でもよい。
孤児の世話を、親代わりになってしてみるのもよい。
そういう積み重ねをしたあと、アフリカへ行けばよい。
それができないというのなら、つまり、見せかけだけのボランティア活動なら、
すぐやめたらよい。

(補記)
世の中には、「やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
「偽善であろうがなかろうが、やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
が、偽善は偽善。
偽善が本物に変わることは、まず、ない。
偽善が本物になるためには、まずドス黒い心を、一度、真っ白にしなければならない。
だったら最初から真っ白な人のほうが、まだよい。
何もしないで、遠くからながめている人のほうが、まだよい。
できなければできないと、正直に言っている人のほうが、まだよい。
そういう人たちのほうが、より(善)に近いことになる。

この世で最大の罪は、弱者を利用して、それを食い物にすること。
偽善者が、そうだ。
そういう人たちがいるから、戦争が始まり、犠牲者が生まれる。
難民が生まれる。
言うなれば、偽善者たちが、その一方で、別の新たな犠牲者を生み出しているようなもの。
私たちは、見かけの(善)に、だまされてはいけない。

先に書いた、写真撮影のあと、手や体を消毒した人にしても、いまだに
看板だけは背負っているらしい。
が、そのあと、何らかの活動をしているという話は聞いたことがない。
「私財を投げ打って……」という話も、聞いたことがない。

私たちは、だまされただけなのか?
また、それで終わってよいのか?







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14
●エリクソンの心理発達段階論

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エリクソンは、心理社会発達段階について、
幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1)乳児期(信頼関係の構築)
(2)幼児期前期(自律性の構築)
(3)幼児期後期(自主性の構築)
(4)児童期(勤勉性の構築)
(5)青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

++++++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2〜4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

●では、どうするか?

私たちはみな、例外なく、乳幼児期に作られた「私」の上に載っている。
「乗っている」と書くほうが正しいかもしれない。
そのために、「私」を知るためには、まず自分自身の乳幼児期をのぞいてみる。

ほとんどの人は「乳幼児には記憶はない」と思っているが、これはとんでもない誤解。
あの赤ん坊にしても、外の世界から、怒涛のように流れ込んでくる情報をすべて、
記憶している(ワシントン大学、メルツォフ、ほか)。
「記憶として取り出せないだけ」で、記憶として、ぎっしりと詰まっている。
言い換えると、あなたや私は、そのころ作り上げた(自分)に、それ以後、
操られているだけと考えてよい。
自分を知れば知るほど、それがわかってくる。

たとえば先にあげた、「子どものころから、だれにも愛想のいい子」と評されて
いた子どもというのは、私自身のことである。
私は、子どものころ、だれにでもシッポを振り、そのつど、「いい子」と思われる
ことで、自分の立場を取りつくろっていた。
中学へ入ってから猛烈に勉強したが、好きだったからしたわけではない。
どこか自虐的だった。
先にあげた、(1)攻撃型の変形と考えられる。
本来他人に向かうべき攻撃性が、自分に向かった。
が、それは「私」であって、「私」ではなかった。

私自身は、疑い深く、嫉妬深く、それだけに、だれにも心を許さないタイプの
子どもだった。
おとなになってからも、そうだった。
表面的には、だれとでもうまく交際したが、それはあくまでも表面的。
相手が一線を越えて、私の中に踏み込んでくるのを許さなかった。
また相手がたとえ心開いていても、それを理解できなかった。
あるいはその下心を疑った。

そんな私が現在の仕事を通して、自分に気づき、そしてやがてどうあるべきかを
知った。
教えている幼児の中に、自分に似た幼児を発見したのが、きっかけだった。
それが「自己開示」という方法である。

●自己開示

「自分のことを、他人に開示していく」。
「あるがままの自分を、まず他人に語っていく」。
「偽らず、思ったことを言い、文章にして書いていく」。

自己開示にも段階論がある。
最初は、自分の過去から話す。
つづいて心の中を話す。
最終的には、自分にとって、もっとも恥ずかしい話や、さらには性遍歴まで
開示していく。
(もっともそれは、他人といっても、身内のごく親しい人に対してで、
じゅうぶんだが……。)
その段階まで開示してはじめて、それを「自己開示」という。

私のばあいは、こうして文章にすることによって、自己開示をしている。
最初は、家族のことを書き、やがて自分のことを書いた。

……といっても、それにも、10年単位の時間が必要である。
「今日、気がついたから、明日から……」というわけには、いかない。
この問題は、「根」が深い。
乳幼児期の発達心理段階が、「本能」に近いレベルまで、脳の奥にまで
刻み込まれている。
自分の意思や理性の力で、コントロールできるようなものではない。

だから……と書けば、あまりにも見え透いているが、乳幼児期の子育てというのは、
一般で考えられているよりも、はるかに奥が深く、重要である。
それに気がつくかどうかは、ひとえに、「知識」による。
言い換えると、こと子育てに関して言えば、無知そのものが、罪と考えてよい。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問
題 家庭教育 エリクソン 社会心理学 発達段階論 幼児の自立性 
幼児の自主性 信頼関係 基本的信頼関係 自己開示)

(補記)
こうした発達段階には、連続性がある。
(信頼性の構築)→(自律性の構築)→(自主性の構築)→(勤勉性の構築)
→(自我の同一性の構築)へ、と。
そして青年期前期の(親密性の構築)→後期の(生殖性の構築)→老年期の
(統合性の構築)へとつながっていく。

当初の(信頼性の構築)に失敗すると、自律性、自主性がそこなわれる。
自主性がなければ、勤勉性は生まれない。
さらに(親密性の構築)に失敗しやすくなる。
具体的には、恋愛、結婚へと、自然な形で進めなくなる。
が、最大の問題は、老年期の(統合性の構築)ということになる。
人は、最終的に、(人間としてすべきこと)を発見し、そこへ自分を統合させていく。
この(統合性の構築)に失敗すると、老後そのものが、あわれでみじめなものになる。
悶々とした孤独感と悲哀感を闘いながら、それこそ1年を1日にして過ごすようになる。
何度も書くが、孫の世話と庭いじり。
それがあるべき老後の姿ではない。
理想の老後でもない。

私たちは、命の最後に、その「命」を、つぎの世代の人たちのためにつなげていく。
具体的には、真・善・美の追求がある。
その真・善・美の追求には、(終わり)はない。
それこそ死ぬまで、ただひたすら、精進(しょうじん)あるのみ。
「死」は、その結果としてやってくる。

(補記2)
私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、大きな子どもに見える。
いわんや中学生や高校生ともなると、おとなというより、反対に若い父親や母親を
見ていると、高校生と区別できないときがある。
それはともかくも、そうした若い人たちが、たとえば異性との間でうまく恋愛感情が
育てられないとか、あるいは結婚までもちこめない、さらには、夫婦の性生活が
うまく営めないというのは、こうした心理発達段階の過程で、何らかの障害があった
ためと考えてよい。

が、こうした問題(障害)が起きると、どの人も、その時点での修復を試みる。
しかし先ほども書いたように、「根」は、もっと深いところにある。
その「根」まで掘り起こさないと、こうした問題の本質は見えてこない。
また本質を見ることによって、問題の解決の糸口を手にすることができる。
まずいのは、そうした「根」に気づかず、ただいたずらに、振り回されること。

というのも、愛情豊かで、かつ恵まれた環境の中で、スクスクと(?)、
心理的発達を遂げる人のほうが、実際には、少ない。
ほとんどの人が、それぞれの立場で、それぞれの環境の中で、何らかの問題を
かかえながら、おとなになっている。
問題のないおとなのほうが、少ない。
だから問題があるからといって、自分を責める必要もないし、過去をのろう必要も
ない。
(私も一時期、父や母をうらんだことがあるぞ。)

大切なことは、まず、「私」に気がつくこと。
あとは時間が解決してくれる。
「すぐに……」というわけにはいかないが、あとは時間が解決してくれる。

(補記3)
そういう意味でも、幼児教育のおもしろさは、この一点に凝縮される。
子どもを見ながら、いつもそこに「私」を見る。
「私の原点」を見る。
が、幼児を未熟で未完成な人間と見るかぎり、それはわからない。
幼児を「上」からだけ見て、「こうしてやろう」「ああしてやろう」と考えて
いる間は、それはわからない。
幼児に対して謙虚になる。
1人の人間として、認め、そこから幼児を見る。
すると幼児のほうから、「私」を語ってくれる。
「あなたは、こうして『私』になったのですよ」と、幼児のほうから話してくれる。









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15
【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望
が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文
献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)








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16

●不安の構造(Panic Disorder)

「私はこうありたい」「こうあるべき」と描く、(自分像)を、「自己概念」という。
「〜〜をしたくない」というのも、それに含まれる。
その自己概念に対して、現実の私がいる。
これを「現実自己」という。
「自己概念」と「現実自己」が、不一致を起こすと、心は緊張状態になり、
不安定になる。

フロイトの説によれば、こうだ。

これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を
進むことができる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたい
ほどの距離感が生まれると、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。
ついでに劣等感も、そこから生まれる(フロイト)、と。


不安定になると、ものの考え方が、定まらなくなる。
「自我の同一性」というときは、この両者の同一性をいう。
両者が一致しているときは、その人は安定している。
強い。
が、そうでなければ、心はボロボロの状態になる。
何をしても、落ち着かない。
不安定イコール、不安と考えてよい。

不安は、つぎの4つに分けて考えることができる。

心因的不安(心に何か問題があって起こる不安)
外因的不安(外からの働きかけがあって起こる不安)
身体的不安(身体的に何か問題があって起こる不安)
社会的不安(社会情勢に応じて起こる不安)

……というように、教条的に分けて考えるのは、実のところ、私はあまり好きではない。
たとえば今、多くの人が、自分の生活に不安感を覚えている。
この不況で、財産や職を失った人多い。
そういう人は、「明日はどうなるのだろう」と悩む。
心配だ。
何をしても、手につかない。
足元がすくわれたような状態になる。

●取り越し苦労(予期不安)

同じ不安でも、心に何らかの問題のある人は、取り越し苦労をしやすい。
ああでもない、こうでもないと、先のことばかり心配する。
ふつうの心配とちがうところは、妄想が入り込むということ。
妄想が妄想を呼び、自分でも収拾がつかなくなる。
人によっては、パニック状態(パニック発作)になる。

(うつ)があるから、取り越し苦労するのか、
それとも取り越し苦労をするから、(うつ)になるのかは、わからない。
パニック障害からうつに発展したばあいを、「二次的うつ」という。
あるいは同時進行の形で、(うつ)と取り越し苦労が進行することがある。
どちらにせよ、(うつ)は(うつ)として、別に考える。

が、そういう状態にある人に、「取り越し苦労ですよ」と言っても意味はない。
かえって反発し、あなたの意見を遠ざけてしまう。
コツは、相手に言いたいだけ言わせること。
こちらは聞き役に回り、「そうですね」だけを繰り返す。
反論、否定、注釈は、タブー。
さらにひどくなると、家の中にとじこもったり、部屋の中から出られなくなったり
する(広場恐怖)。
こんなことがあった。

ある女性(65歳)には、2人息子がいたのだが、いろいろあって、
2人とも、離婚してしまった。
昔からの農家ということもあった。
その女性は、「家系が途絶える」と悩み出した。
さらにそれぞれの息子に、2〜3人の子ども(孫)がいたが、
その孫についても、「みなに遺産相続を請求されたら、財産がなくなってしまう」と。

あとは妄想に妄想が重なって、「どうしたらいい」「どうしたらいい」と。
電話がかかってきても、手が震えて受話器さえあげることができなくなってしまった。
夫に理由を聞くと、夫は、こう言った。

「(別れた)嫁から、養育費の請求が来るのではないかと心配している」と。
2人の息子は、家庭裁判所で決められた養育費を、まともに払っていなかった。

●不安は病気

心だって、病気になる。
不安神経症も、その一つ。
いまではパニック障害と呼ぶ。
そういう前提で、「不安」を考えたらよい。

今ではよい薬もある。
治療法も確立している。
不安が抜けないようだったら、近くの心療内科で相談してみたらよい。
私のばあいは、かかりつけのドクター(内科医)から、精神安定剤を
もらっている。
「セxゾx」という名前の、もともとは女性専用の精神安定剤という。

それをときとばあいに応じて、半分に割って、口の中で溶かしてのんでいる。
定量は、1錠もしくは、2錠だそうだが、今のところ半分でよく効く。
「ときとばあい」というのは、軽い片頭痛が起きたようなとき、辺頭痛薬だけでは
効きが悪いようなので、精神安定剤を併用している。
(辺頭痛薬も、定量の半分にして、のんでいる。)

こうした心の病気は、「治そう」と思わないこと。
まずそれに気づいて、あとは、「仲よくつきあう」。
どうせ治らない。
どれも深刻なものはないが、私は自分では、「精神病のデパート」と思っている。
そのつど、いろいろな病気を経験する。
不安神経症(パニック障害)もそのひとつ。

(補記:ウィキペディア百科事典より)

主な症状として、つぎのようにある。
『定型的なパニック障害は、突然生じる「パニック発作」によって始まる。続いてその発作が再
発するのではないかと恐れる「予期不安」とそれに伴う症状の慢性化が生じる。さらに長期化
するにつれて、症状が生じた時に逃れられない場面を回避して、生活範囲を限定する「広場恐
怖症」が生じてくる』(ウィキペディア百科事典より)


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司







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17
●エリクソンの心理発達段階論

+++++++++++++++++++

エリクソンは、心理社会発達段階について、
幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1)乳児期(信頼関係の構築)
(2)幼児期前期(自律性の構築)
(3)幼児期後期(自主性の構築)
(4)児童期(勤勉性の構築)
(5)青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

++++++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2〜4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

●では、どうするか?

私たちはみな、例外なく、乳幼児期に作られた「私」の上に載っている。
「乗っている」と書くほうが正しいかもしれない。
そのために、「私」を知るためには、まず自分自身の乳幼児期をのぞいてみる。

ほとんどの人は「乳幼児には記憶はない」と思っているが、これはとんでもない誤解。
あの赤ん坊にしても、外の世界から、怒涛のように流れ込んでくる情報をすべて、
記憶している(ワシントン大学、メルツォフ、ほか)。
「記憶として取り出せないだけ」で、記憶として、ぎっしりと詰まっている。
言い換えると、あなたや私は、そのころ作り上げた(自分)に、それ以後、
操られているだけと考えてよい。
自分を知れば知るほど、それがわかってくる。

たとえば先にあげた、「子どものころから、だれにも愛想のいい子」と評されて
いた子どもというのは、私自身のことである。
私は、子どものころ、だれにでもシッポを振り、そのつど、「いい子」と思われる
ことで、自分の立場を取りつくろっていた。
中学へ入ってから猛烈に勉強したが、好きだったからしたわけではない。
どこか自虐的だった。
先にあげた、(1)攻撃型の変形と考えられる。
本来他人に向かうべき攻撃性が、自分に向かった。
が、それは「私」であって、「私」ではなかった。

私自身は、疑い深く、嫉妬深く、それだけに、だれにも心を許さないタイプの
子どもだった。
おとなになってからも、そうだった。
表面的には、だれとでもうまく交際したが、それはあくまでも表面的。
相手が一線を越えて、私の中に踏み込んでくるのを許さなかった。
また相手がたとえ心開いていても、それを理解できなかった。
あるいはその下心を疑った。

そんな私が現在の仕事を通して、自分に気づき、そしてやがてどうあるべきかを
知った。
教えている幼児の中に、自分に似た幼児を発見したのが、きっかけだった。
それが「自己開示」という方法である。

●自己開示

「自分のことを、他人に開示していく」。
「あるがままの自分を、まず他人に語っていく」。
「偽らず、思ったことを言い、文章にして書いていく」。

自己開示にも段階論がある。
最初は、自分の過去から話す。
つづいて心の中を話す。
最終的には、自分にとって、もっとも恥ずかしい話や、さらには性遍歴まで
開示していく。
(もっともそれは、他人といっても、身内のごく親しい人に対してで、
じゅうぶんだが……。)
その段階まで開示してはじめて、それを「自己開示」という。

私のばあいは、こうして文章にすることによって、自己開示をしている。
最初は、家族のことを書き、やがて自分のことを書いた。

……といっても、それにも、10年単位の時間が必要である。
「今日、気がついたから、明日から……」というわけには、いかない。
この問題は、「根」が深い。
乳幼児期の発達心理段階が、「本能」に近いレベルまで、脳の奥にまで
刻み込まれている。
自分の意思や理性の力で、コントロールできるようなものではない。

だから……と書けば、あまりにも見え透いているが、乳幼児期の子育てというのは、
一般で考えられているよりも、はるかに奥が深く、重要である。
それに気がつくかどうかは、ひとえに、「知識」による。
言い換えると、こと子育てに関して言えば、無知そのものが、罪と考えてよい。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供
 子供の問題 家庭教育 エリクソン 社会心理学 発達段階論 幼児の自立性 
幼児の自主性 信頼関係 基本的信頼関係 自己開示)

(補記)
こうした発達段階には、連続性がある。
(信頼性の構築)→(自律性の構築)→(自主性の構築)→(勤勉性の構築)
→(自我の同一性の構築)へ、と。
そして青年期前期の(親密性の構築)→後期の(生殖性の構築)→老年期の
(統合性の構築)へとつながっていく。

当初の(信頼性の構築)に失敗すると、自律性、自主性がそこなわれる。
自主性がなければ、勤勉性は生まれない。
さらに(親密性の構築)に失敗しやすくなる。
具体的には、恋愛、結婚へと、自然な形で進めなくなる。
が、最大の問題は、老年期の(統合性の構築)ということになる。
人は、最終的に、(人間としてすべきこと)を発見し、そこへ自分を統合させていく。
この(統合性の構築)に失敗すると、老後そのものが、あわれでみじめなものになる。
悶々とした孤独感と悲哀感を闘いながら、それこそ1年を1日にして過ごすようになる。
何度も書くが、孫の世話と庭いじり。
それがあるべき老後の姿ではない。
理想の老後でもない。

私たちは、命の最後に、その「命」を、つぎの世代の人たちのためにつなげていく。
具体的には、真・善・美の追求がある。
その真・善・美の追求には、(終わり)はない。
それこそ死ぬまで、ただひたすら、精進(しょうじん)あるのみ。
「死」は、その結果としてやってくる。

(補記2)
私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、大きな子どもに見える。
いわんや中学生や高校生ともなると、おとなというより、反対に若い父親や母親を
見ていると、高校生と区別できないときがある。
それはともかくも、そうした若い人たちが、たとえば異性との間でうまく恋愛感情が
育てられないとか、あるいは結婚までもちこめない、さらには、夫婦の性生活が
うまく営めないというのは、こうした心理発達段階の過程で、何らかの障害があった
ためと考えてよい。

が、こうした問題(障害)が起きると、どの人も、その時点での修復を試みる。
しかし先ほども書いたように、「根」は、もっと深いところにある。
その「根」まで掘り起こさないと、こうした問題の本質は見えてこない。
また本質を見ることによって、問題の解決の糸口を手にすることができる。
まずいのは、そうした「根」に気づかず、ただいたずらに、振り回されること。

というのも、愛情豊かで、かつ恵まれた環境の中で、スクスクと(?)、
心理的発達を遂げる人のほうが、実際には、少ない。
ほとんどの人が、それぞれの立場で、それぞれの環境の中で、何らかの問題を
かかえながら、おとなになっている。
問題のないおとなのほうが、少ない。
だから問題があるからといって、自分を責める必要もないし、過去をのろう必要も
ない。
(私も一時期、父や母をうらんだことがあるぞ。)

大切なことは、まず、「私」に気がつくこと。
あとは時間が解決してくれる。
「すぐに……」というわけにはいかないが、あとは時間が解決してくれる。

(補記3)
そういう意味でも、幼児教育のおもしろさは、この一点に凝縮される。
子どもを見ながら、いつもそこに「私」を見る。
「私の原点」を見る。
が、幼児を未熟で未完成な人間と見るかぎり、それはわからない。
幼児を「上」からだけ見て、「こうしてやろう」「ああしてやろう」と考えて
いる間は、それはわからない。
幼児に対して謙虚になる。
1人の人間として、認め、そこから幼児を見る。
すると幼児のほうから、「私」を語ってくれる。
「あなたは、こうして『私』になったのですよ」と、幼児のほうから話してくれる。








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18
●この世vsあの世

+++++++++++++++

またまた同じ話で、ごめん。
前にも書いたが、仮にあの世があるとするなら、
私は、私たちが「この世」と呼んでいる、この世界のほうが、
実は「あの世」ではないかと思っている。
そして私たちが「あの世」と呼んでいる、死後の世界のほうが、
「元の世界」ではないかと思っている。

というのも、私たちが住んでいるこの世のほうにこそ、
天国もあり、地獄もあるからだ。

+++++++++++++++

●あの世がこの世?

人は死んだら、あの世へ行くと言う人がいる。
私は信じていない。
いないが、仮に、「あの世」があるとするなら、
ここでひとつの矛盾が生まれてくる。

あの世には、天国があり、地獄があるという。
ならば、なぜ、今、この世界で、地獄以上の地獄があり、
天国以上の天国があるのか、ということになる。
今さら地獄がどんな世界で、天国がどんな世界かを、
ここに書く必要はない。

そこで私たちが言う「あの世」について考えてみる。
一般的には、「あの世は広大無辺に広く、時の流れもない」という。
となると、そんな世界から見ると、人間が今住んでいるこの世界など、
ちっぽけなもの。
100歳まで生きたとしても、宇宙的規模で見るなら、星のまばたきの
一瞬にもならない。
人類の歴史を、20万年にしても、同じようなもの。

となると「あの世」のほうこそ、「元の世界」と考えたところで、何ら、
おかしくない。
私たちは、「あの世」から「この世」へやってきて、地獄や天国を、
この世で経験している。

●あの世の矛盾

空想の世界で、「あの世」を考えてみる。
が、それは、択一的に考えるなら、
(1)想像を絶するほど、この世とちがう世界。
(2)あるいは、この世とかぎりなく似ているか、同じ世界、ということになる。

中間というのは、考えられない。
人間だけを中心にして、(命)を考えてはいけない。
魚なだって、鳥だって、命。
バクテリアだって、虫だって、命。
人間にだけあの世があると考えてはいけない。
もしそうなら、いつからあの世ができたかという問題に直面する。
1000年前なのか、それとも10万年前なのか?

・・・と、まあ、考えれば考えるほど、矛盾に満ちてくる。

が、逆に、あの世こそが、元の世界で、この世があの世と考えると、
かなりの矛盾が解消される。
どこかの世界に、私たちの知らないまったく異質の世界がある。
その世界から、ときどき、あたかも旅行でもするかのように、
この世に(命)がやってきて、それぞれの世界を体験する。

頭のどこかに、映画『マトリックス』に出てきたような世界を思い浮かべてもらえばよい。

●実益

こんなことを考えて、何の役に立つのかと思う人もいるかもしれない。
しかしそう考えると、この世の見方そのものが、大きく変わる。
たとえば「この世はすべて、幻覚」「大切なのは、この世を生きる、
私やあなたの命」と。

あるいはモノのもつ、無意味さというか、それがよくわかる。
私たちが懸命に追い求めている名誉や地位や財産にしても、命の前では
カスミのようなもの。
カスミにもならないかもしれない。

が、何よりもすばらしいのは、ほんとうに大切にしなければならないものと、
そうでないものを、区別することができるようになること。

さらに言えば、自分の住んでいる世界を地獄にするのも、天国にするのも、
私たちの考え方しだいということになる。

話が飛躍したので、順に説明する。

●希望論

こんな例で考えてみよう。
私の知人の中に、現在、地獄のような(?)、経験をしている人がいる。
ことの発端は、2人の息子の離婚である。

2人の息子が、あいついで離婚した。
詳しい原因はともかくも、それぞれに2人ずつの子ども(孫)がいた。
まだ養育費が必要な子ども(孫)たちであった。

そこで2人の息子は、養育費を毎月支払うことで合意した。
同時に、私の知人(父親)が、その連帯保証人になった。
2人の息子たちが養育費を払えないときは、知人がそれを払うことになった。

が、この不況。
2人の息子は、職を失ってしまった。
養育費が払えなくなった。
とたん、その支払い請求書が、知人のほうに回ってくるようになった。
家庭裁判所で作成した連帯保証契約である。
「払えません」「お金がありません」では、通らない。
最終的には、強制執行力のある請求書である。

知人は、こう言ってがんばっている。
「私は年金生活者だ」「収入がない」と。
さらに「家屋敷を取られたら、何代にもわたってつづいたM家が、
断たれてしまう」と。
しかし土地や家、借家がある以上、こういう言い逃れはできない。
それでその知人は、「地獄のような(?)、経験をしている」、ということに
なる。

しかしこう考えたら、どうだろうか。

大切なのは、命のつながった孫たちの幸福、と。
その幸福を前にしたら、「家」の価値など、取るに足らないもの。
家や財産にこだわるほうが、おかしい。
あるいは自分の息子や娘が、困窮していたら、あなたはどうするだろうか?
それでも、「息子や娘の幸福より、家のほうが大切」と、あなたはがんばる
だろうか。
もしあなたがそう考えるとしたら、
私は「?」マークを100個くらい、並べたい。
相手が孫でも、同じ。
離婚して、連絡が途絶えたとしても、孫は孫。

どうせこの世は、幻覚。
目に見えるすべてのモノは、幻覚。
「命」至上主義で考えれば、モノのもつ空しさ、はかなさが、よくわかる。
それもそのはず。
この世そのものが、あの世、つまり元の世界から見れば、幻覚。
そんな幻覚に心を奪われ、命を粗末にするほうが、どうかしている。

知人は地獄のような経験をしているが、ものの考え方をほんの少し
変えれば、今の世界を、天国にすることもできる。

●研ぎ澄まされた現実論

こう書くと、「林の考え方は、現実的ではない。むしろ現実から遊離している」と
批判されそうである。
しかし実際には、その逆。

私たちは、この現実世界にありながら、あまりにも非現実的なものに毒されすぎている。
たとえばものの価値観、幸福観、人生観、成功・失敗論などなど。
中身にある(現実)を見る前に、外観である(非現実)に、心を奪われてしまっている。
もっと言えば、先にも書いたように、「大切なものを、大切でないと思い込み」「大切で
ないものを、大切」と思い込んでしまっている。

その一例として、「モノ」をあげた。

今では、どの家にも「モノ」があふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……で足の踏み場もないような家も多い。
中には、そういう家ほど、「豊か」と誤解している人もいる。
さらに言えば、金持ちイコール、成功者イコール、人格者と誤解している人もいる。
私は、そういう人たちこそ、現実離れしていると言っている。

が、この世を(あの世)と考えることによって、(あくまでも空想の世界での話だが)、
こうした現実から、一度、目をそらすことができる。
そして今一度、何が、本当に大切なのかを知ることができる。
そう、私たちが今、「現実」と思っている世界こそのほうが、「非現実」の世界という
ことになる。
それを知るためにも、一度、「この世」と「あの世」を置き換えてみる。
とたん、その向こうに、「研ぎ澄まされた現実」が見えてくる。

●無

私たちは、「幻想という現実」の中で生きている(?)。
仏教者の中には、それを「無」と表現した人もいる。
「この世はすべて無である」と。
この私にしても、光と分子の織りなす世界で、ただ踊らされているだけ(?)。

そんなわけで、「あの世」こそ、実は、「元の世界」であり、「この世」こそが、
「仮の世界」と考えても、何もおかしくない。

あくまでも「あの世」があるとするなら、という前提での話だが……。
しかしそう考えると、また別の世界が、その向こうに見えてくる。







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19
【非行】


【子どもを伸ばすコツ】


子どもを伸ばす最大のコツは、(子どもがしたいと思っていること)と、(子どもが現実にしている
こと)を、一致させてあげることです。とくに乳幼児期は、遊びを通して、それを実現します。


「ぼくは、これをしたい。だからこれをする」「私はこれをしたい。だからこれをする」と。


こうして(子どもの中の私)と、(現実の私)を一致させます。これをアイデンティティの確立とい
います。


こうしてその子どもは、自分の進むべき道を、自分でさがし求めるようになります。


ただ一つ、誤解してはいけないのは、(したいこと)は、そのつど、変化するということです。たと
えば、幼児のことは、「ケーキ屋さんになりたい」と言っていた子どもが、小学生になると、「パン
屋さんになりたい」「お花屋さんになりたい」などと言うようになるかもしれません。


しかしそのときでも、(自分がやりたいことに向って努力する)という、思考プロセス(=思考回
路)は、頭の中に残ります。この思考プロセスこそが重要なのです。


中身は、そのつど、変わります。変わって当然なのです。


ここでは、「非行」をテーマに、この問題について考えてみます。子どもの非行というのは、子ど
も自身が、(やりたいこと)を見つけ出せなくなったとき、その代償的方法(あるいは自己防衛的
方法)として、始まります。


++++++++++++++++++++++


●非行のメカニズム


 子どもの非行。その非行に子どもが走るメカニズムは、意外に単純なもの。言いかえると、
子どもを非行から防ぐ方法も、簡単。


【第一期・遊離】


 (したいこと)と、(していること)が、遊離し始める。「ぼくは、サッカーをしたい。しかし塾へ行
かなければならない」など。「私はケーキ屋さんになりたいのに、親は、勉強をして、いい大学
へ入れと言う」など。


 (〜〜したい)と思っていることと、(現実にしていること)が、遊離し始める。つまり子ども中
で、アイデンティティ(自我の同一性)が、混乱し始める。


 アイデンティティが、混乱し始めると、子どもの心理状態は、不安定になる。怒りっぽくなった
り(プラス型)、反対にふさぎやすくなったりする(マイナス型)。


 この状態を、「同一性の危機」という。


 この段階の状態に対して、抵抗力のある子どもと、そうでない子どもがいる。幼少期から、甘
やかされて育った子どもほど、当然、抵抗力がない。遊離したとたん、一気に、つぎの(同一性
の崩壊)へと進む。


一方、幼少期から、家事の手伝いなどを日常的にしてきた子どもほど、抵抗力が強い。子ども
の世界では、(いやなことをする力)を、「忍耐力」という。その忍耐力がある。


 アイデンティティが混乱したからといって、すぐ、つぎの第二期に進行するわけではない。個
人差は、当然、ある。


【第二期・崩壊】


 (したいこと)と(していること)が、大きくズレてくると、子どもは、まず、自分を支えようとする。
がんばる。努力する。が、やがて臨界点にさしかかる。子ども自身の力では、それを支えきれ
なくなる。


「野球の選手をめざして、もっとがんばりたいのに、毎日、勉強に追われて、それもできない」
「勉強はおもしろくない」「成績が悪く、つまらない」と。


 こうして同一性は、一気に、崩壊へと向う。子ども自身が、「自分は何をしたいのか」「何をす
べきなのか」、それがわからなくなる。


【第三期・混乱】


 アイデンティティが崩壊すると、精神状態は、きわめて不安定になる。ささいなことで、激怒し
たり、突発的に暴れたりする(プラス型)。


 反対に落ち込んだり、家の奥にひきこもったりする(マイナス型)。外界との接触を断つことに
よって、不愉快な気分になるのを避けようとする。このとき、無気力になり、ボーッとした表情
で、一日を過ごすようになることもある。


【第四期・非行】


 アイデンティティが崩壊すると、子どもは、主につぎの5つのパターンの中から、自分の道を
模索する。


(1)攻撃型
(2)同情型
(3)依存型
(4)服従型
(5)逃避型


 このうち、攻撃型が、いわゆる非行ということになる。独特の目つきで、肩をいからせて歩く。
独特の服装に、独特の暴言などなど。暴力行為、暴力事件に発展することも珍しくない。


 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、君は、みなに、嫌われるんだよ」と説いても意
味はない。このタイプの子どもは、非行を通して、(自分の顔)をつくろうとする。顔のない自分
よりは、嫌われても、顔のある自分のほうが、よいというわけである。


 アイデンティティそのものが、崩壊しているため、ふつうの、合理的な論理は通用しない。ささ
いなどうでもよいことに、異常なこだわりを見せたりする。あるいは、それにこだわる。自己管
理能力も低下するため、自分をコントロールできなくなる。


 以上が、非行のメカニズムということになる。


 では、子どもを非行から守るためには、どうすればよいか。もうその答はおわかりかと思う。


 つねに(子どものしたいこと)と、(子どもがしていること)を、一致させるようにする。あるいは
その接点だけは、切らないようにする。


 仮に受験勉強をさせるにしても、「成績がさがったから、サッカーはダメ」式の乱暴な、指導は
しない。受験勉強をしながらも、サッカーはサッカーとして、別に楽しめるワクを用意する。


 言うまでもなく、(自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、精神的に、き
わめて安定している。どっしりしている。方向性がしっかりしているから、夢や希望も、もちやす
い。もちろん、目的もしっかりしている。


 また方向性がしっかりしているから、誘惑にも強い。悪の世界からの誘惑があっても、それを
はねかえすことができる。自己管理能力もしっかりいているから、してよいことと、悪いことの判
断も的確にできる。


 だから……。


 今までにも何度も書いてきたが、子どもが、「パン屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、す
てきね」「こんど、いっしょにパンを焼いてみましょう」などと、答えてやる。そういう子どもの夢や
希望には、ていねいに耳を傾けてやる。そういう思いやりが、結局は、自分の子どもを非行か
ら守る最善の方法ということになる。


(はやし浩司 非行 子どもの非行 子供の非行 非行から子供を守る方法 非行防止 アイ
デンティティ アイデンテティ 自我同一性の崩壊 顔のない子ども 子供 はやし浩司 非行
のメカニズム)


●スチューデント・アパシー


 無気力、無表情、無感動の状態を総称して、「アパシー」という。そのアパシーが、若者を中
心に、部分的に現れることがある。とくに、男子学生に多い。それを、「スチューデント・アパシ
ー」(ウォルターズ)という。


 このスチューデント・アパシーが、燃えつき症候群や、荷おろし症候群とちがう点は、ここにも
書いたように、学業なら学業だけというように、アパシーになる部分が、かぎられているという
点。学業面では、無気力でも、アルバイトや、交友、遊びは、人一倍、活発にする。


 が、大学の講義室に入ったとたん、別人のように、無気力状態になる。反応もなく、ただぼん
やりとしているだけ。眠ってしまうこともある。


 こうした症状も、(本人がやりたいこと)と、(現実にしていること)のギャップが、大きいことが
原因でそうなると考えると、わかりやすい。「大学へは入ってみたが……」という状態である。と
くに、目標もなく、ただ点数をあげるためだけの受験勉強をしてきたような子どもに、多く見られ
る。


 このタイプの学生は、まず本人自身が、何をしたいかを正確に知らなければならない。しかし
たいていのケースでは、それを知るという気力そのものすら、消えていることが多い。


 「君は、本当は、何をしたいのか?」
 「わからない」
 「でも、君にも、何か、やりたいことがあるだろ?」
 「ない……」
 「でも、今のままでいいとは、君だって、思っていないだろ?」
 「……」と。


 こうした症状は、早い子どもで、小学校の高学年児でも、見られるようになる。概して、従順
で、まじめな子どもほど、そうなりやすい。友だちと遊ぶときはそれなりに活発なのだが、教室
へ入り、机に向かってすわったとたん、無気力になってしまう。


 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、それに気づき、子どもの心を取りもど
す。よく誤解されるが、「いい高校に入りなさい」「いい大学に入りなさい」というのは、子どもに
とっては、(したいこと)ではない。一見、子どものためを思った言葉に聞こえるかもしれない
が、その実、子どもの心を破壊している。


 だから今、目的の高校や大学へ入ったとたん、燃え尽きてしまったりして、無気力になる子ど
もは、本当に多い。市内の進学高校でも、5〜10%が、そうでないかと言われている(教師
談)。大学生となると、もっと多い。
(はやし浩司 アパシー スチューデントアパシー 無気力な子ども 自我の崩壊 同一性の危
機 同一性の崩壊)


+++++++++++++++++++++


少し前、こんな相談がありました。再掲載します。


+++++++++++++++++++++ 


【E氏より】


甥(おい)っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこの
ところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。


とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がないくせに、
やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。


やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身が持っ
ている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 


【はやし浩司より】


●消去法で


 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。


バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる気が起きな
い、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)など。さらに回避
性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集団非行、非行)など。
自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害の前兆や、学校恐怖症の
初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。


 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を見せ
ることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。この時期だ
と、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハーハーあえぐ、など)。


 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうなのか。あ
るいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一日の中でも、
変動はあるのかないのか。


こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつう心配な
ケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うはずです。たとえ
ばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛もあります。行動面では、
たとえば収集癖や万引きなど。


さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすくなりま
す。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。


こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、これでは
ないか?」とです。


●教育と医療


 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したがって、ア
ドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが診断名をくだす
のは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書いたことを参考に、自分で
判断するしかありません。


 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方が違
うということです。


 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、幼児
期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、たいへん不安
定になります。


 「おとなに扱わないと怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というようにで
す。


 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、検査だ
けをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっていても、知
らないフリをして指導します。


 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。


 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。


 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある部分
(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生まれると説明
されます。


 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩慢動
作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象や回避性
障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進行していきま
す。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことということで、私も、少し気楽
に書いています。)


 ですから安易に考えないこと。


●二番底、三番底へ……


 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに最悪の
状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはしているようですが、
そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならないと思いがちですが……。
決して、そうではないということです。)


 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。そ
れが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。どこかに
心の変調があるとみてよいでしょう。


 では、なおすために、どうしたらよいか?


 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。


●家庭にあり方を疑う……


 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として機能し
ているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうどうと、ふてぶてし
く、体を休めているかどうかということです。


 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるようであ
れば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否があります。反省す
べきは、親のほうです。


 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」というの
は、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三番底へと、子ど
もを追いやってしまうから注意してください。


 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)の悪循
環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環を繰りかえ
し、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。
 

「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような行為と言っ
てもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、この年齢でも、半年
単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどということは、ありえません。


 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその子ど
もを見ていませんので、何とも判断しかねます。


 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということです。
子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離れます。


 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思いなお
し、大目にみます。


 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MGの多い食
生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり情緒が不安定
になっていることも、考えられます。)


 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えませ
ん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、意味がな
いばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に多いです。


 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。あまり
深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。

(はやし浩司 バーントアウト 燃え尽き あしたのジョー症候群 無気力症候群 自我の崩壊
 回避性障害 引きこもり はやし浩司 行為障害 買い物グセ 集団非行 非行 学校恐怖
症 初期症状 怠学 不登校の前兆症状)







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20
【非行】


【子どもを伸ばすコツ】


子どもを伸ばす最大のコツは、(子どもがしたいと思っていること)と、(子どもが現実にしている
こと)を、一致させてあげることです。とくに乳幼児期は、遊びを通して、それを実現します。


「ぼくは、これをしたい。だからこれをする」「私はこれをしたい。だからこれをする」と。


こうして(子どもの中の私)と、(現実の私)を一致させます。これをアイデンティティの確立とい
います。


こうしてその子どもは、自分の進むべき道を、自分でさがし求めるようになります。


ただ一つ、誤解してはいけないのは、(したいこと)は、そのつど、変化するということです。たと
えば、幼児のことは、「ケーキ屋さんになりたい」と言っていた子どもが、小学生になると、「パン
屋さんになりたい」「お花屋さんになりたい」などと言うようになるかもしれません。


しかしそのときでも、(自分がやりたいことに向って努力する)という、思考プロセス(=思考回
路)は、頭の中に残ります。この思考プロセスこそが重要なのです。


中身は、そのつど、変わります。変わって当然なのです。


ここでは、「非行」をテーマに、この問題について考えてみます。子どもの非行というのは、子ど
も自身が、(やりたいこと)を見つけ出せなくなったとき、その代償的方法(あるいは自己防衛的
方法)として、始まります。


++++++++++++++++++++++


●非行のメカニズム


 子どもの非行。その非行に子どもが走るメカニズムは、意外に単純なもの。言いかえると、
子どもを非行から防ぐ方法も、簡単。


【第一期・遊離】


 (したいこと)と、(していること)が、遊離し始める。「ぼくは、サッカーをしたい。しかし塾へ行
かなければならない」など。「私はケーキ屋さんになりたいのに、親は、勉強をして、いい大学
へ入れと言う」など。


 (〜〜したい)と思っていることと、(現実にしていること)が、遊離し始める。つまり子ども中
で、アイデンティティ(自我の同一性)が、混乱し始める。


 アイデンティティが、混乱し始めると、子どもの心理状態は、不安定になる。怒りっぽくなった
り(プラス型)、反対にふさぎやすくなったりする(マイナス型)。


 この状態を、「同一性の危機」という。


 この段階の状態に対して、抵抗力のある子どもと、そうでない子どもがいる。幼少期から、甘
やかされて育った子どもほど、当然、抵抗力がない。遊離したとたん、一気に、つぎの(同一性
の崩壊)へと進む。


一方、幼少期から、家事の手伝いなどを日常的にしてきた子どもほど、抵抗力が強い。子ども
の世界では、(いやなことをする力)を、「忍耐力」という。その忍耐力がある。


 アイデンティティが混乱したからといって、すぐ、つぎの第二期に進行するわけではない。個
人差は、当然、ある。


【第二期・崩壊】


 (したいこと)と(していること)が、大きくズレてくると、子どもは、まず、自分を支えようとする。
がんばる。努力する。が、やがて臨界点にさしかかる。子ども自身の力では、それを支えきれ
なくなる。


「野球の選手をめざして、もっとがんばりたいのに、毎日、勉強に追われて、それもできない」
「勉強はおもしろくない」「成績が悪く、つまらない」と。


 こうして同一性は、一気に、崩壊へと向う。子ども自身が、「自分は何をしたいのか」「何をす
べきなのか」、それがわからなくなる。


【第三期・混乱】


 アイデンティティが崩壊すると、精神状態は、きわめて不安定になる。ささいなことで、激怒し
たり、突発的に暴れたりする(プラス型)。


 反対に落ち込んだり、家の奥にひきこもったりする(マイナス型)。外界との接触を断つことに
よって、不愉快な気分になるのを避けようとする。このとき、無気力になり、ボーッとした表情
で、一日を過ごすようになることもある。


【第四期・非行】


 アイデンティティが崩壊すると、子どもは、主につぎの5つのパターンの中から、自分の道を
模索する。


(1)攻撃型
(2)同情型
(3)依存型
(4)服従型
(5)逃避型


 このうち、攻撃型が、いわゆる非行ということになる。独特の目つきで、肩をいからせて歩く。
独特の服装に、独特の暴言などなど。暴力行為、暴力事件に発展することも珍しくない。


 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、君は、みなに、嫌われるんだよ」と説いても意
味はない。このタイプの子どもは、非行を通して、(自分の顔)をつくろうとする。顔のない自分
よりは、嫌われても、顔のある自分のほうが、よいというわけである。


 アイデンティティそのものが、崩壊しているため、ふつうの、合理的な論理は通用しない。ささ
いなどうでもよいことに、異常なこだわりを見せたりする。あるいは、それにこだわる。自己管
理能力も低下するため、自分をコントロールできなくなる。


 以上が、非行のメカニズムということになる。


 では、子どもを非行から守るためには、どうすればよいか。もうその答はおわかりかと思う。


 つねに(子どものしたいこと)と、(子どもがしていること)を、一致させるようにする。あるいは
その接点だけは、切らないようにする。


 仮に受験勉強をさせるにしても、「成績がさがったから、サッカーはダメ」式の乱暴な、指導は
しない。受験勉強をしながらも、サッカーはサッカーとして、別に楽しめるワクを用意する。


 言うまでもなく、(自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、精神的に、き
わめて安定している。どっしりしている。方向性がしっかりしているから、夢や希望も、もちやす
い。もちろん、目的もしっかりしている。


 また方向性がしっかりしているから、誘惑にも強い。悪の世界からの誘惑があっても、それを
はねかえすことができる。自己管理能力もしっかりいているから、してよいことと、悪いことの判
断も的確にできる。


 だから……。


 今までにも何度も書いてきたが、子どもが、「パン屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、す
てきね」「こんど、いっしょにパンを焼いてみましょう」などと、答えてやる。そういう子どもの夢や
希望には、ていねいに耳を傾けてやる。そういう思いやりが、結局は、自分の子どもを非行か
ら守る最善の方法ということになる。


(はやし浩司 非行 子どもの非行 子供の非行 非行から子供を守る方法 非行防止 アイ
デンティティ アイデンテティ 自我同一性の崩壊 顔のない子ども 子供 はやし浩司 非行
のメカニズム)


●スチューデント・アパシー


 無気力、無表情、無感動の状態を総称して、「アパシー」という。そのアパシーが、若者を中
心に、部分的に現れることがある。とくに、男子学生に多い。それを、「スチューデント・アパシ
ー」(ウォルターズ)という。


 このスチューデント・アパシーが、燃えつき症候群や、荷おろし症候群とちがう点は、ここにも
書いたように、学業なら学業だけというように、アパシーになる部分が、かぎられているという
点。学業面では、無気力でも、アルバイトや、交友、遊びは、人一倍、活発にする。


 が、大学の講義室に入ったとたん、別人のように、無気力状態になる。反応もなく、ただぼん
やりとしているだけ。眠ってしまうこともある。


 こうした症状も、(本人がやりたいこと)と、(現実にしていること)のギャップが、大きいことが
原因でそうなると考えると、わかりやすい。「大学へは入ってみたが……」という状態である。と
くに、目標もなく、ただ点数をあげるためだけの受験勉強をしてきたような子どもに、多く見られ
る。


 このタイプの学生は、まず本人自身が、何をしたいかを正確に知らなければならない。しかし
たいていのケースでは、それを知るという気力そのものすら、消えていることが多い。


 「君は、本当は、何をしたいのか?」
 「わからない」
 「でも、君にも、何か、やりたいことがあるだろ?」
 「ない……」
 「でも、今のままでいいとは、君だって、思っていないだろ?」
 「……」と。


 こうした症状は、早い子どもで、小学校の高学年児でも、見られるようになる。概して、従順
で、まじめな子どもほど、そうなりやすい。友だちと遊ぶときはそれなりに活発なのだが、教室
へ入り、机に向かってすわったとたん、無気力になってしまう。


 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、それに気づき、子どもの心を取りもど
す。よく誤解されるが、「いい高校に入りなさい」「いい大学に入りなさい」というのは、子どもに
とっては、(したいこと)ではない。一見、子どものためを思った言葉に聞こえるかもしれない
が、その実、子どもの心を破壊している。


 だから今、目的の高校や大学へ入ったとたん、燃え尽きてしまったりして、無気力になる子ど
もは、本当に多い。市内の進学高校でも、5〜10%が、そうでないかと言われている(教師
談)。大学生となると、もっと多い。
(はやし浩司 アパシー スチューデントアパシー 無気力な子ども 自我の崩壊 同一性の危
機 同一性の崩壊)


+++++++++++++++++++++


少し前、こんな相談がありました。再掲載します。


+++++++++++++++++++++ 


【E氏より】


甥(おい)っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこの
ところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。


とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がないくせに、
やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。


やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身が持っ
ている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 


【はやし浩司より】


●消去法で


 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。


バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる気が起きな
い、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)など。さらに回避
性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集団非行、非行)など。
自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害の前兆や、学校恐怖症の
初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。


 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を見せ
ることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。この時期だ
と、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハーハーあえぐ、など)。


 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうなのか。あ
るいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一日の中でも、
変動はあるのかないのか。


こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつう心配な
ケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うはずです。たとえ
ばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛もあります。行動面では、
たとえば収集癖や万引きなど。


さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすくなりま
す。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。


こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、これでは
ないか?」とです。


●教育と医療


 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したがって、ア
ドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが診断名をくだす
のは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書いたことを参考に、自分で
判断するしかありません。


 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方が違
うということです。


 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、幼児
期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、たいへん不安
定になります。


 「おとなに扱わないと怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というようにで
す。


 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、検査だ
けをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっていても、知
らないフリをして指導します。


 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。


 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。


 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある部分
(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生まれると説明
されます。


 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩慢動
作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象や回避性
障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進行していきま
す。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことということで、私も、少し気楽
に書いています。)


 ですから安易に考えないこと。


●二番底、三番底へ……


 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに最悪の
状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはしているようですが、
そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならないと思いがちですが……。
決して、そうではないということです。)


 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。そ
れが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。どこかに
心の変調があるとみてよいでしょう。


 では、なおすために、どうしたらよいか?


 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。


●家庭にあり方を疑う……


 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として機能し
ているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうどうと、ふてぶてし
く、体を休めているかどうかということです。


 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるようであ
れば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否があります。反省す
べきは、親のほうです。


 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」というの
は、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三番底へと、子ど
もを追いやってしまうから注意してください。


 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)の悪循
環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環を繰りかえ
し、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。
 

「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような行為と言っ
てもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、この年齢でも、半年
単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどということは、ありえません。


 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその子ど
もを見ていませんので、何とも判断しかねます。


 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということです。
子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離れます。


 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思いなお
し、大目にみます。


 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MGの多い食
生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり情緒が不安定
になっていることも、考えられます。)


 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えませ
ん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、意味がな
いばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に多いです。


 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。あまり
深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。

(はやし浩司 バーントアウト 燃え尽き あしたのジョー症候群 無気力症候群 自我の崩壊
 回避性障害 引きこもり はやし浩司 行為障害 買い物グセ 集団非行 非行 学校恐怖
症 初期症状 怠学 不登校の前兆症状)








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21
●親子の絆(きずな)


+++++++++++++++++++++


親子のきずなとは、何か?


このところ、「家族って、何だろう」と、ときどき考える。
「依存性の集合体」?
「種族保存のための結合体」?


+++++++++++++++++++++


●スズメの世界


今ごろの季節は、庭に来るスズメたちも単独行動を繰り返す。
それぞれがせわしく庭にまいた餌をついばんでは、そのままどこかへと
飛び去っていく。
どこかで子育てをしているのだろう。
やがてそのうち、親スズメが子スズメを連れてくるようになる。


そういうスズメたちを見ていると、「人間と同じ」というか、
「人間とどこもちがわない」と思ってしまう。
人間の世界は、スズメの世界より、ほんの少し複雑なだけ。


で、興味深いのは、子育てが終わってからのスズメたちである。
スズメどうしには、親子の(きずな)があるのだろうか。
それともないのだろうか。
たとえば半年とか1年とかたったあと、親スズメが子スズメに
会ったようなとき、もちろんその反対でもよいが、
たがいに、「お前エ!」とか、「お父さん!」とか、言いあうのだろうか。


が、私が見たところ、その(きずな)はないようだ。
スズメたちは子育てが終わると、また集団行動に戻っていく。
ザザーッと飛んできては、またどこかへ、ザザーッと飛んでいく。


●きずな


最近の研究によれば、人間にも、(刷り込み)というのがあるということが、
わかってきた。
ある種の鳥類(卵からかえって、すぐ二足歩行する鳥類)は、最初に目に
入ったものを親と思う。
最初に耳にした泣き声で、親と思うのもいるそうだ。
人間にも似たような刷り込みがある。
年齢的には、0歳から生後7か月くらいまでの間をいう。
この時期をとくに、「敏感期」と呼ぶ。


この時期に、親は親として、脳みその中に徹底的に刷り込まれる。


で、スズメの話。
ここで誤解してはいけないのは、「親」といっても、人間のように
上下意識のある「親」ではないということ。
私たちは「親」という言葉を当てはめることによって、人間社会における
親意識をそのまま連想してしまう。
「親スズメ」「子スズメ」という言葉にしても、そうだ。


正確には、(被依存関係)(依存関係)と言うべきではないか。
人間にしても、刷り込みをした人間は、それ以後、親に対して強力な依存性を
もつようになる。
しかもそれは本能に近い部分にまで刷り込まれるため、一度刷り込みが
なされると、それから脱却することは、容易なことではない。


それこそ、50歳になっても、60歳になっても、「♪おふくろんさんよ」
と空を見あげて、涙をこぼすようになる。


では、スズメの世界では、どうなのか。
「人間のように……」とまではいかなくても、サルや他のケモノのように、
上下関係はあるのだろうか。
そのつながりは、(きずな)として、いつまでも残っているものなのだろうか。


●親意識vs子意識


人間社会における(きずな)というのは、当初は(刷り込み)によってできあがる
ものだが、その後、その人の置かれた文化的背景によって、大きく変化する。


たとえば日本人の私たちが感じている(きずな)は、欧米人のそれとは、かなり
異っている。
が、先ほども書いたように、これは本能に近い部分にまで刷り込みがなされている。
そのため、刷り込まれているということそのものに、気づくことはむずかしい。
欧米人のそれが、どのように(ちがう)か、それを知るのもむずかしい。


たいていは、「私が感じている(きずな)のほうが正しい」とか、さらには、
「絶対的」と思ってしまう。
またそういう感覚でもって、「欧米人も同じだろう」と思ってしまう。
またそれで終わってしまう。


たとえば日本には、『親・絶対教』という、カルト教団がある。
親や、さらには先祖を、絶対視する宗教団体をいう。
そういう教団では、親孝行を第一の「徳行」ととらえ、「親に逆らうのは、
もってのほか」とか、信者に教えたりする。


そういうところで観察される(親意識)というのは、人間社会でデフォルメ
(=歪曲化)された、いわゆる(変形)と考えてよい。
もっともそれは極端なケースだが、親を絶対視する人は、少なくない。
それが親子の基本関係になっている家庭となると、それこそゴマンとある。


たとえばサルの世界にも、人間の世界に似た(親子関係)はあるようだが、
それはあくまでも、(力の優劣関係)に過ぎない。
ボスの座を奪うため、子ザルが、親ザルに、戦いをいどむというようなことは、
よくあるそうだ。


一方、親・絶対教などでは、「親は親だから」という『ダカラ論』だけで、
「親がまちがったことをしても、親に従え」などと教えたりする。


●家族自我群


家族というのは、良好な人間関係で成り立っている間は、それなりにうまく
機能する。
しかしひとたび歯車がどこかで狂うと、今度は、その人を押しつぶしてしまう。
それほどまでの魔力をもって、その人を呪縛する。
この呪縛感を、「幻惑」と呼ぶ。
また一連の呪縛性を、「家族自我群」と呼ぶ。


ふつうの呪縛感ではない。
いつ晴れるともわからない、悶々とした気分に襲われる。
ある男性は、母親の葬式に出なかったことだけを理由に、「親捨て」と呼ばれる
ようになった。
その地方では、一度、「親捨て」というレッテルを張られると、親類からは
もちろんのこと、近所の人たちからでさえ、(白い目)で見られるようになるという。
が、その男性には人には言えない事情があった。


その男性は、父親の子ではなかった。
祖父と母親の間にできた、いわゆる(不倫の子)だった。
そのため……というより、そのことから想像できるように、その男性の家族は、
メチャメチャだった。


で、その男性は、60歳を過ぎた今も、その呪縛感の中で、もがき苦しんでいる。


●「産んでやった」


私自身は、親・絶対教の世界で、生まれ育った。
母からも、「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れるな」という言葉を、
それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。


が、実際には、もう少し巧妙な言い方をする。
わざと私の聞こえるようなところで、親たちが、こう言う。


「○○さんところの息子さんは、立派なもんだ。
今度、親を温泉に連れていってやったそうだ」とか、
「○○さんところの息子さんは、たいしたもんだ。
今度、親のために、庭の端に離れを新築してやったそうだ」とか、など。
あたかも真綿で、首をジワジワと絞めるような言い方をする。


私はそういう環境で生まれ育った。
だからある日、たしか高校1年生か2年生のときだが、私はキレた。
キレて、母に食ってかかった。


「だれが、いつ、お前に産んでくれと頼んだア!」と。


それは同時に、「私」内部の、奥深くから始まった反抗だった。
私自身がもっている(本能)との闘いといっても、過言ではない。
そのため心を、真っ二つに切り裂くような衝撃をともなった。


恐らく母にしても、そうだったのだろう。
その時期を境にして、今にして思うと、母のほうから縁を切ったように思う。
もちろん母は、ああいう人だったから、それを口にすることはなかったが……。


「ああいう人」というのは、「ああいう人」のことをいう。


●恩の押し売り


そのこともあって、私は3人の息子たちを育てながら、(恩の押し売り)だけは、
しないと心に誓った。
事実、「産んでやった」「育ててやった」という言葉については、一度も使った
ことはない。
口から出そうになったことはあるが、しかし言わなかった。
「それを言ったら、おしまい」と。


そのため、(当然の帰結だが)、息子たちは、今の今でも、「親孝行」という
言葉から連想する世界とは、まったく無縁の世界に生きている。
が、これは脳のCPU(中央演算装置)に関する問題。
私には、息子たちの意識を理解することができるが、恐らく息子たちには、
私がもっている意識は、理解できないだろう。
が、このところ、ふと、「それでよかったのか?」と迷うときがある。


●社会の不備


50歳を越えるころから、そこにドンと老後があるのを知った。
60歳を越えると、それはもう予測でも、予想でもない。
私自身が老後に突入していた。
とたん、不安と心配の渦の中に、巻き込まれた。
「これから先、どうやって死ねばいいのだろう」と。


「どうやって生きるか」ではない。
「どうやって死ぬか」である。


こう書くからといって、息子たちを責めているのではない。
そのように育てた私が悪い(?)。
が、息子たちには、私たち夫婦の老後をみるという意識は、ゼロといってよいほど、ない。
「親孝行」という言葉すら、私の家では、死語になっている(?)。
息子たちの心の奥まではのぞけないが、私はそう感ずる。


が、ここで誤解しないでほしいのは、だからといって、親・絶対意識的な発想が
正しいと認めるわけではない。
私の家庭は家庭で、別の新しい親子関係が生まれつつある。


●新・家族主義


日本的な親・絶対意識が消えたからといって、家族がバラバラになるということではない。
もしそうなら、欧米の家族は、とっくの昔にバラバラになっているはず。
が、実際には、その(きずな)は、私たちが想像するよりもはるかに、強い。


10年ほど前の調査でも、「どんなことをしてでも、みる」と答えた日本の若者は、たっ
たの19%しかいなかった(平成9年度、総理府調査)。


この数字がいかに低い数字かは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さら
に東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(平成6年度)の数字より、4ポイントもさがっている。


では、どこがどうちがうのか?
おおざっぱにいえば、つぎのようなちがいがある。


(1)平等意識(親子の上下関係がない。命令、服従関係がない。)
(2)対等意識(親でも子どもでも、他人と同等に置く。)
(3)協働意識(たがいに力を合わせて、家族を守るという意識が強い。)
(4)独立意識(ある時期から、親も、私は私という生き方をする。)
(5)老後意識(「子どもの世話にはならない」という老後意識がある。)
(6)神の子意識(子どもといえども、神の子という考え方をする。)


日本も、アメリカも、対GDP比で、子どもにかける社会保障費が、極端に低い。
毎年、4〜5%前後で推移している。
(欧米では、6〜8%前後。ただしここにも書いたように、アメリカは低い。)

で、日本では教育費の負担は、親の責任ということになっている。
その負担感は相当なもので、子どもが大学生になるころ、それは頂点に達する。
で、昔は『子、育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子、大学生、親、貧乏盛り』という。


一方、アメリカでは、大学生でも、親のスネをかじって大学へ通っている学生は、
ほとんどいない。
何らかの奨学金を得ているか、自分でローンを組んで通っている。
つまり先にあげた(1〜(6)の(ちがい)が、こうした形で、結晶している。


その上での(きずな)ということになる。
称して、『新・家族主義』。
わかりやすく言えば、現在の状況が好ましくないからといって、(現在)の否定、
もしくは安易な復古主義に走るのは、正しくない。
(現在)を基盤にして、新しいものを創りあげていく。


では、どうなるか?
この問題だけは、日本の潮流を静かに観察するしかない。
日本人全体が、全体として、その方向性を決めていく。
その結果として、「新・家族主義」が、輪郭を明確にする。
現在は、その過渡期ということになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
新家族主義 家族主義 親子の絆 親子のきずな 家族の絆 家族のきずな はやし浩司
新・家族主義 家族自我群 幻惑 刷り込み インプリンティング 親子の縁)







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22
●何でも否定する子ども(拒否児)

++++++++++++++++++++++

私の近くに、何でも否定する子ども(小5女児)がいる。

「これはいい本だよ」と声をかけると、「そんな本、おもしろくない」と。
「今日はいい天気だね」と声をかけると、「寒いから、いい天気ではない」と。
「こんにちは!」と言って、肩でもポンと叩こうものなら、「このヘンタイ!」と叫んで、
足蹴りを入れてくる。

私が何をしても、おもしろくないらしい。
そこで私が、「そんなに何でも拒否しなくてもいいじゃないか」と声をかけると、
「私は何も拒否していない」「本当のことを言っているだけ」と言い返してくる。

私「逆らうな!」
女「逆らっていない!」
私「逆らっていないって言いながら、逆らっている」
女「じゃあ、どう言えばいいのヨ」と。

このタイプの子どもに一度からまれると、こちらのほうが気がへんになる。
が、当人には、その自覚はない。

類型的には、他責型人間ということになる。
心の奥深いところに、欲求不満が、海の底にたまったヘドロのように、
たまっている。

特徴としては、

(1)感情の発露が見られない。何を考えているかわからない。
教える側からすると、心が読めない。
(2)がまん強く、表面的には、おだやかな性格に見える。
いやなことがあっても、内へ内へとためこんでいく。
(3)表情と心の状態が一致していないことが多い。
うれしいはずなのに、笑みが浮かばない、など。
(4)自分の失敗でも、すかさず他人の責任にする。
自分でお茶をこぼしても、「あなたがそこへ置いておくから悪い」とやり返す。
(5)あとから理由(=こじつけ)が、うまい。
「先生が、いつも急げというから、お茶をこぼした」などと行為を正当化する。
(6)心が冷たい。豊かな感情表現が苦手。
みなが涙をポロポロ流すような映画を見ても、平然としている、など。

俗にいう、「ヒネクレ症状」が見られる。
あるいは、他人からは、「ヘソ曲り」と呼ばれる。
では、どうするか?

●自分に気づかせる

何よりも大切なのは、子ども自身に自分に気づかせること。
静かなカウンセリングが効果的だが、やり方をまちがえると、かえってかたくなになり、
自分の殻(カラ)に閉じこもってしまう。
つまりますますがんこになる。

原因は乳幼児期の不適切な育児姿勢、愛情飢餓、経済的貧困などがある。
そのため、「根」は深い。
叱ったりすれば逆効果。
また説得しても、効果は一時的。
意識的な行動というよりは、無意識下で起こる反応とみる。
よく観察すると、融通がきかず、臨機応変に行動ができないなどの特徴も見られる。
が、最大の問題は、心を開かないこと。
発達心理学的には、『基本的不信関係』ということになる。
先にも書いたように、乳幼児期における母子関係の不全が原因と考えてよい。

●印象

私はそういう子どもを見ると、同情のほうが、先にきてしまう。
「かわいそうな子どもだな」と思うと同時に、「これから先、たいへんだろうな」と。
思春期前夜の反抗期の反抗とちがうのは、反抗の向こうに、ポリシーを感じないこと。

思春期前夜の反抗には、そこに子どもらしいポリシー、つまり理由を感ずる。
「私はこうしたい」「ぼくはこうありたい」という目的性を感ずる。
しかしこのタイプの子どもには、それがない。
何もかもが、おもしろくない。
おもしろくないから、反抗するというよりは、あらゆるものを拒否する。

現実問題としては、一度、こうした否定的態度が身についてしまうと、よほどのことが
ないかぎり、そうした態度は一生、つづく。
「よほどのこと」というのは、結婚、出産、育児……などのような、一大事をいう。
しかしそれでも、「直る」ということは、まず、ないと考えてよい。
が、方法はないわけではない。

もしあなたが今、ここに私が書いているような、「拒否児」、あるいはその延長線上に
いると感ずるなら、静かに自分を反省してみること。
まず、自分に気づく。
すべてはそこから始まる。
あとは時間が解決してくれる。
10年単位の時間がかかるかもしれないが、時間に任す。

まずいのは、そういう自分であることに気づかず、いつまでも同じ失敗を繰り返すこと。
他人と衝突しやすい、夫婦げんかが絶えない、親子関係がしっくりしない、あるいは
反対に、他人と接すると疲れやすい、家庭でも落ち着かない、他人を信じられないなど。
そういう失敗を繰り返すこと。

「拒否児」の問題は、そういう問題である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
拒否児 拒否的態度 拒否的姿勢 ひねくれ ひねくれた子ども へそ曲がり ヒネクレ
ヒネクレ症状 はやし浩司 基本的不信関係 他責型人間)









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23
●認知的不協和から合理化へ(「私は夫を愛しています」)
Rationalization of the Mind

++++++++++++++++++++

会って話をするたびに、「私の夫はすばらしい人です」
「私は夫を愛しています」「今の夫と結婚できて幸福です」
などと、ことさら自慢げに口にする人がいる。

そういう話を聞くと、だれしも、そういう夫婦について、
「さぞかしすばらしい夫婦なんだなあ」と思うかもしれない。
うらやましいと思うかもしれない。

事実、私など、そういうことを言葉として、他人に言った
ことはない。
私のワイフについては、さらにない。

が、待ったア!
この話は、おかしい!

実際には、このタイプの夫婦ほど、実はあぶない。
自分の中の心の矛盾(=認知的不協和)を合理化する
ために、そう言う。
そういうケースのほうが、多い。
もっとわかりやすく言えば、日頃から、「いやだ、いやだ」と
思っているから、そういう言葉を口にする。
することによって、自分の心をごまかす。

++++++++++++++++++++

●反動形成

先日、1年ぶりに、Mさん(65歳)に会った。
見た目には、明るく朗らかな人である。
ケラケラとよくしゃべり、話題も豊富。
が、どこか不自然。
演技ぽい。
身についていない。

「無理をしているな」と、私は感じた。
私はその女性が、うつ病の薬を常用しているのを、
ワイフから聞いて知っていたこともある。

このタイプの人は、外の世界では、本来の自分とは正反対の
自分を演ずることが多い。
こういうのを、「反動形成」という。
子どもの世界でも、よく観察される。
たとえば弟や妹が憎くてたまらないはずなのに、親の前では、
よくできた、ものわかりのよい兄や姉を演ずる、など。

それがおとな、さらには老人期に入ると、反動形成そのものが、
その人の(人格?)として定着する。
古いキズの上にできたカサブタが、無数に固まり、分厚い皮となる。
つまりちょっとやそっとでは、ボロを出さない。
Mさんは、だれからも、明るく、朗らかな人と見られていた。

●認知的不協和

こんなことがあった。

よいと思って買ったパソコンだったが、使ってみると、あれこれと
不便なことが生じてきた。
実は最近買った、ミニパソコンのMがそうだ。

タッチパッドの感度がよすぎて、指を近づけただけで、勝手に反応
してしまう。
そのため、ワープロとして使っていると、突然、カーソルの位置が、
とんでもないところにジャンプしてしまう。
使いにくい。
それが頻繁につづくと、イライラする。

そこでショップの人に相談すると、タッチパッドに紙を張って使いなさい
とのこと。
しかしそれも不便……。

こういうとき、心の中で、認知的不協和という特殊な反応が起きる。
もっとわかりやすい例では、こんな例もある。

「すてきな女性」と思って結婚してみたが、結婚生活が始まると、あれこれ
不満だらけ……。
「こんなはずではなかった」というのが、それ。
私もミニパソコンのMを買って、「こんなはずではなかった」と思った。

●合理化

しかし人間の心は、こうした矛盾には、それほど耐えられない。
矛盾を感ずると、心は葛藤状態になり、つづいて緊張状態を強いられる。
この緊張状態に弱い。

そこで心は、自分を防衛するために、さまざまな反応を示す。
その一つが、合理化。
何かの理由をこじつけて、今のその状態を合理化する。
たとえば釣りをしていて、魚を取り逃がしたとする。
そういうとき、「どうせあの魚は、病気だった」とか、自分に言い聞かせることで、
取り逃がしたという悔しさを、解消しようとする。

こうした一連の心理的操作、つまり(認知的不協和)から(合理化)という
操作は、日常的に、私たち自身が、よく経験する。
冒頭にあげたMさんも、その1人。

Mさんにしてみれば、望まない結婚だった。
夫に対する不満もつづいた。
しかし世間体もあり、離婚することもできなかった。
そういう生活が、40年間もつづいた。
その結果が(今)ということになる。
Mさんは、ことあるごとに、こう言う。

「私は今の夫と結婚できたことを、喜んでいます」と。
しかしこうした言葉は、そのまま受け取ってはいけない。
裏から読む。
「今の結婚は、不満です」と。

しかしそれを認めることは、そのまま自己否定につながる。
人生も晩年になって、何がこわいかといって、「自分の人生は
まちがっていたかも?」という疑問をもつことほど、こわいものはない。
その自己否定がこわいから、ほとんどの人は、合理化することによって、
自分の心を防衛する。
「防衛すること」から、こうした心理操作を、心理学の世界では、「防衛機制」という。

●退職者の悲哀

こうした現象は、何も妻だけの問題ではない。
定年退職した男たちが、みな共通にもつ問題と言ってもよい。
とくに私たちの世代は、現役時代には、「企業戦士」と言っておだてられ、
一社懸命、一所懸命と、身を粉にして会社という企業のために尽くしてきた。

本当は自分のためにそうしたのだが、結果として、自分の夢や希望を犠牲にした。
家族を犠牲にした。

が、結末はあわれ。
本当にあわれ。
民間企業でそれなりの地位についた人も、50歳を回るころにはリストラされ、
関連会社や子会社へ。
あるいはリストラ→求職活動→再就職、と。

こうした人たちの落胆感には、ものすごいものがある。
しかしそれを認めることは、先に書いた「自己否定」につながる。
そこでこのタイプの人たちは、過去の経歴にしがみつく。
あるいはそれ以前の学歴にしがみつく。

言うなれば、これも「合理化」の変形ということになる。

●再び、Mさん

Mさんは、先にも書いたように、見た目には、明るく朗らかな人である。
私たちと話すときも、何かとよく気がつき、あれこれと仕事をしてくれる。
だから私たちも、その範囲で、Mさんと交際している。
問題はない。
一応、よき人間関係ということになる。

しかしどこかで違和感を覚えるのも、これまた事実。

私「お前さア、他人に、『浩司さんと結婚できて幸福』って、言ったことあるか?」
ワ「ないわねエ〜」
私「だろ……。本当に幸福なら、そんな言葉など使わないぞ」
ワ「そうねエ。夫婦なんて、空気のようなものだから……」

私「でも、Mさんは、ぼくにも、そう言った。お前にも、そう言った」
ワ「どうしてそんなことを言うのかしら?」
私「つまり、それだけ今の夫に不満があるからだよ。自分の心をごまかすために、
そう言う」
ワ「そうねエ……」と。

何も私たち夫婦が仲がよいというわけではない。
ないが、他人に夫婦の間のことを話すことは、めったにない。
話しても意味がない。
無駄。
言うとしても悪口のほうが、多い。
「ぼくのワイフは、頑固」「融通がきかない」「まじめすぎる」と。
いわんや、他人に、「ぼくはワイフを愛しています」などとは、言ったことがない。
最近の若い人たちのことは知らないが、私たちの世代には、「愛」という言葉には、
ある種の照れくささを覚える。

●晩年

しかし人生も晩年に近づくと、この合理化がふえてくる。
「ぼくの人生はこんなものだ」という、あきらめとも、居直りともわからない
複雑な気分が、身を包む。
それが合理化に拍車をかける。

私の人生を振り返っても、釣った魚よりも、釣り逃した魚の方が、はるかに多い。
「あのときの魚は、こうだった」「ああだった」と、自分をなぐさめる。
結婚生活にしても、また私のワイフにしても、そういう思いがどこかにないとは
言わない。
しかしそれこそ、(お互い様)。

私だって、欠陥だらけの人間。
とても人に誇れるような人間ではない。
そんな私に、40年も付き添ってくれた。
私がワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に離婚していただろう。
それが自分でもよくわかっているから、偉そうなことは言えない。

ただ幸いなことに、自己否定に陥ることは、死ぬまでないだろうということ。
私は、ささやかだが、自分なりに、自分の人生を歩むことができた。
どこの世界で、どのようにがんばったところで、私は今程度の人間でしか
なかっただろう。
やり残したと思うようなことも、ほとんどない。
だからあとは、このまま死ぬまで、突っ走るだけ。

そんな私だが、ワイフに、「愛している」と言われることくらい、うれしいことはない。
めったに言わないが……。

さて、この文章を読んでいるあなたは、どうか?
余計なお節介かもしれないが……。(失礼!)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
認知的不協和 防衛機制 合理化 自己正当化)








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24
【心の原点(心のメカニズム)】

++++++++++++++++

脳の活動は、「ニューロン」と呼ばれる
神経細胞が司っている。
それは常識だが、しかしでは、その
神経細胞が、「心」を司っているかというと、
そうではない。

最近では、心の原点は、脳内の化学物質、
つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
私たちの心は、常に、この脳内ホルモンに
よって、影響を受け、コントロールされて
いる。

その例としてわかりやすいのが、
フェニルエチルアミンというホルモン
ということになる。
そのフェニルエチルアミンについて書いた
原稿がつぎのものである。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というわけである。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態、つまり平常の状態
が保たれる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、
その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。(これらの年数は、私自身の経験によるもの。)

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる(?)。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?

(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恋のホルモン)

+++++++++++++++++++++

話を戻す。
ここで「フィードバック」について、もう一度、説明してみたい。

脳というのは、それ自体がいつもカラの状態を保とうとする。
たとえば驚いたようなとき、脳は直接、副腎に作用して、アドレナリンを分泌させる。
ドキドキしたり、ハラハラしたりするのは、そのためである。
発汗を促すこともある。

が、同時に脳の中では別の反応が起こる。
視床下部にある脳下垂体が、それを感知して、副腎に対して、副腎皮質刺激ホルモン
を分泌するようにと、言うなれば、指令ホルモンを分泌する。
このホルモンによって、副腎が刺激を受け、副腎は、副腎皮質ホルモンを分泌する。
わかりやすく言えば、脳内に分泌されたアドレナリンを、副腎皮質ホルモンが
今度は中和しようとする。

こうして脳内はいつもカラの状態、つまり平常な状態を保とうとする。
それをフィードバック(作用)という。

●生殖

(私が男性ということもあって)、私は、男性のことはよく知っている。
女性も、それほどちがわないと思うが、男女の行為の前と後とでは、異性の肉体の見方が、
まったくちがう。

男性のばあいは、180度、変化することも珍しくない。
あれほど狂おしく求めた相手でも、行為が終わったとたん、スーッと興味が
しぼんでいく。
消えていく。
それは満腹感ともちがう。
心そのものが、変化してしまう。
男性のばあい、それがおもしろいほど急激な変化となって現れる。

こうした現象をどう考えたらよいのか。

先に副腎の話を書いたが、脳からの指令を受けてホルモンを分泌する器官は、
ほかにもたとえば、甲状腺や生殖腺などがある。
さらにごく最近の研究によれば、胃や、大腿筋でも、ある種のホルモンが
分泌されることもわかってきた。
肉体、すべてがホルモンの分泌器官と考えてよい。

では、生殖腺でも、副腎と同じような化学変化が起きているとみてよいのか。
というのも、男女の(心)を説くとき、(行為の変化)ほど、顕著に現れる変化は、
ほかにそうはない。

(行為……最近、BLOGでは、使用禁止用語を設定しているところが多いので、
こういう言葉を使う。つまりSxxのことをいう。)

さらに言えば、「私は私」と思っているしている思いや行動といったものも、
実は、脳内ホルモンによってコントロールされているということになる。

その証拠に、先ほども書いたように、(男性のばあい)、行為の前と後とでは、
心の状態が、180度変わってしまう。

●知性と心

たとえばここに難解な数学の問題があるとする。
「1から5ずつふえていく数列がある。この数列の数を、5番目から、20番目まで
を合計すると、いくつになるか」と。

高校で習う公式を使えば、簡単に解ける。
公式を知らない人でも、電卓を片手に、足し算を繰り返せば解ける。
こうした作業を受け持つのは、大脳連合野の中でも、比較的外側にある、皮質部という
ことになる。

一方、(心)というのは、そういう知的な活動とは、異質のものである。
どこかモヤモヤとしていて、つかみどころがない。
ときに理性のコントロールからはずれるときがある。
つまりそれが脳内ホルモンの作用によるものということになる。

たとえば何かよいことをしたとする。
人助けでもよい。
そういうときそういう情報は、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)に信号として
送られる。
それに応じて、扁桃核は、モルヒネに似たホルモンである、エンケファリン系、
エンドロフィン系のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
それが(人助けをした)→(気持ちよい)という感覚へとつながっていく。

こうして考えていくと、(あくまでも私という素人の考えだが)、知的活動は、
ニューロンと呼ばれる神経細胞が司るとしても、心のほとんどは、脳内ホルモンの
作用によるものと考えてよいのではということになる。
またそういうふうに分けることによって、心のメカにズムが理解できる。
しかしこの考え方は、両刃の剣。

●「私は私」

心のメカニズムはそれで説明できる。
それはそれでよい。
が、心が脳内ホルモンによるもの、あるいは脳内ホルモンに大きく影響を受けるものと
すると、(1)「心なんて、ずいぶんといいかげなんなもの」と思う人が出てくる
かもしれない。
さらに(2)「では、私とは何か、それがわからなくなってしまう」と考える人も
出てくるかもしれない。

心をときめかすあの恋にしても、フェニルエチルアミン効果によるものということに
なれば、それにまつわる求愛、デートなどの行動のすべてが、結局は脳内ホルモンに
よって操られているということになってしまう。
(実際に、そうなのだが……。)

となると、つまり(心)を自分から取り除いてしまうと、では、いったい、私は何か
ということになってしまう。
さらにつきつめていくと、私という私がなくなってしまう。
その一例として、先に、男女の行為のあとの、あの変化をあげた。
そこに妻の(あるいは夫の)肉体を見ながら、「行為の前の私は何だったのか?」と。

が、男女の行為だけに終わらない。
実は人間が織りなす行為のほとんどが、またそのほとんどの部分において、こうした
脳内ホルモンの作用に影響を受けているということになる。
どの人も、「私は私」と思って、それぞれの行動をしている。
が、その「私」など、どこにもないということになる。
「私たちの心は、脳内ホルモンに操られているだけ」と。
しかもいいように操られているだけ、と。

……と書くのは、危険かもしれないが、反対に、「どこからどこまでが私で、どこから
先が私でないか」と考えてみると、それがわかる。

「私は私」と思っている部分など、きわめて少ないのがわかる。
さらに言いかえると、人間もそこらに遊ぶ動物と、どこもちがわないということ。
あるいは、そこらの動物と同じということ。
ちがわないというより、ちがいを見つけることのほうが、むずかしい。

●「私」論

たいへん悲観的というか、絶望的なことを書いてしまったが、自分を知るためには、
脳内ホルモンの問題は、避けては通れない。
たとえば今、私は空腹感を覚えている。
この4〜5日、ダイエットをつづけている。
胃袋が小さくなったような感じがする。
それでも空腹感を覚える。
ワイフがまな板をたたく音を聞いただけで、ググーッと、食欲がわいてくる。
条件反射反応が起きている。

恐らく脳内の視床下部にあるセンサーが、血糖値を感知し、ドーパミンンを
放出しているのだろう。
それが線条体にある受容体を刺激し始めている(?)。

その私は、「私は私」と思いながら、これからさまざまな行動を起こすはず。
庭へ出て、畑から、サラダ菜を採ってくる。
それにドレッシングをかける。
食卓に並べる……。

こうした一連の行為にしても、ドーパミンという脳間伝達物質に操られているだけ
ということになる。
もしそこに「私」がいるとするなら、空腹感を抑えながら、サラダ菜だけで、今朝の
食事をすますこと。
体重が適正体重に減るまで、それをつづけること。
つまり「私」というのは、ここでの結論を言えば、脳内ホルモンと闘うところに、ある。
けっして、脳内ホルモンに操られるまま、操られてはいけない。
その意思が、「私」ということになる。

(新しい思想、ゲット!)

……かなり乱暴な結論だが、今の私は、そう考える。

今朝(09年5月24日)も、こうして始まった。
今日はこのことをテーマに、自分の行動を静かに観察してみたい。
つづきは、また今夜!

みなさん、おはようございます!







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25

【退職後】

●退職後の「?」(When we retire the jobs)


+++++++++++++++++


今朝、古いラジオを戸棚から、取りだした。
久しぶりにラジオを聴いた。
俳句についての講座の番組だった。
その中の特選作……。


ひとつは、「給料運搬人……」なんとかというもの。
もうひとつは、「光陰矢の如し……」なんとかというもの。
ほかにもいろいろあった。


共通していたのは、どれも長い間のサラリーマン勤めを終えた
男たちや、それを迎える妻たちの、どこか悲哀感の漂う
俳句だったということ。


ぼんやりと聴きながら、「そういうものかなあ?」
「そういうものでもないような気がする」と、
頭の中で、いろいろな思いが交錯するのを感じた。


+++++++++++++++++


私は俳句については、まったくの素人。
自分で作ったことは、あまりない。
が、どれもすばらしい俳句だった。
それはよくわかった。


で、私が気になったのは、俳句のほうではない。
その批評のほう。
何と呼んだらよいのか。
「俳句の先生」、それとも「指導者」?
「コメンテイター」?
要するに、視聴者からの俳句を選定し、批評を
加える人(女性)。
その人(女性)が、そのつど、こう言っていた。


「これからは、ゆっくりとお休みください」
「長い間、お勤め、ごくろうさまでした」
「退職後は、思う存分、お遊びください」などなど。


その人(女性)は、「私もこの年齢になり、(退職する人たちの気持ちが)、
理解できるようになりました」というようなことも
言っていた(以上、記憶によるものなので、内容は、不正確)。


しかし退職者というと、若い人たちは、どうしてそんなふうに、
とらえるのか。
「退職者は、こう思っているはず」という『ハズ論』だけが
先行している?
私はそう感じた。


とくに気になったのは、「退職後は、思う存分、お遊びください」という言葉。
私はその言葉を聞いたとき、若い人たちが、私たちの
世代を、そのように見ているのかと、がっかりした。


言うまでもなく、私もその世代の人間の1人。
しかし「遊びたい」という気持ちなど、みじんもない。
「遊べ」と言われても、遊ぶ気持ちにはなれない。
……だからといって、その人(女性)を責めているのではない。
それが世間一般の常識的な意見ということは、私にもわかっている。
それに若いときには、私もそう考えていた。
「退職したら、あとは悠々自適の隠居生活」と。


が、今はちがう。
「遊ぶ」ということに、強いむなしさを覚える。
またそんなことで、残り少ない自分の人生を、無駄にしたくない。


もちろん人、それぞれ。
退職の仕方も、人、それぞれ。
退職後の考え方も、人、それぞれ。
もちろん過ごし方も、人、それぞれ。
100人いれば、100通りの考え方がある。
退職の仕方がある。
私の考え方が正しいというわけではない。
中には、「遊びたい」と考えている人がいるかもしれない。
いても、おかしくない。


それはわかる。
しかし……。
私たちが求めるのは、そしてほしいのは、(怠惰な時間)ではない。
遊ぶための時間ではない。
(退職後の生きがい)、それがほしい。
(仕事)でもよい。
が、遊ぶための時間ではない。
だいたい遊ぶといっても、お金がかかる。
それに(遊ぶ)ということには、答がない。
「だからどうなの?」という疑問に対する、答がない。


繰り返す。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。
遊べば遊ぶほど、空しさがつのるだけ。
休むといっても、病院のベッドの上で休むのは、ごめん。
さらに言えば、休んだあと、どうすればよいのか。


退職者の最大の問題。
それは何度も書いてきたように、「自我の統合性」。
その統合性を、いかに確立するか、だ。


(自分がすべきこと)を発見し、そのすべきことに、
(現実の自分)を一致させていく。
(自分がすべきこと)を、「自己概念」という。
(現実の自分)を、「現実自己」という。
この両者を一致させることを、「自我の統合性」、
もしくは「自己の統合性」という。


自我の統合性の確立した老人は、すばらしい。
晩年を生き生きと、前向きに過ごすことができる。
そうでなければ、そうでない。
仏壇の仏具を磨いたり、墓参りだけをして、日々を過ごすようになる。
私の知人の中には、満55歳で役所を定年退職したあと、
ほぼ30年近く、庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
年金は、月額にして、27〜8万円もあるという。
しかしそんな老後が、はたして理想的な老後と言えるのだろうか。


その知人は、1年を1日にして、生きているだけ(失礼!)。
10年を、1年にして、生きているだけ(失礼!)。


だから私はその人(女性)にこう反論したい。


「これからは、ゆっくりとお休みください」だと!
バカも休み休み、言え、バカヤロー!、と。
私たちの年齢をバカにするな!
(少し過激かな?)


そのあと、ワイフとこんな会話をした。


私「給料運搬人というのも、かわいそうだね。自分の仕事をそんなふうに
考えていたのだろうか」
ワ「そうよね。さみしいわね。仕事を通して生きがいというのは、なかったの
かしら」
私「ぼくも仕事をしてきたけど、自分が給料運搬人などというふうには、
考えたことはないよ」
ワ「そうねエ……」と。


給料運搬人とその人が、そう感ずるならなおさら、退職後は、そうでない仕事を
したらよい。
生きがいを求めたらよい。
「世のため、人のため」とまではいかないにしても、何かできるはず。
もしここで、その人(女性)が言うように、ゆっくりと休んでしまったら、それこそ
自分の人生は何だったのかということになってしまう。


残り少ない人生であるならなおさら、最後のところで、自分を燃焼させる。
できれば思い残すことがないよう、完全燃焼させる。
それが今まで、無事生きてきた私たちの務めではないのか。
若い人たちに、自分たちがしてきた経験や知恵を伝えていく。
若い人たちが、よりよい人生を歩むことができるよう、その手助けをしてやる。


まだ人生は終わったわけではない。
平均寿命を逆算しても、まだ25年もある。
「遊べ」だの、「休め」と言われても、私は断る。
私には、できない。



Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
 age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。







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戦陣訓(資料)

●戦陣訓 父が出征の時、携行したもの。台湾での激戦をくぐりぬけた貴重な資料です。 「生きて虜囚の辱を受けず」の言葉は、第19ページにあります。 必要な方に、お売りいたします。 img651 img652 img653 img654 img655 img656 img657 img658 img659 img660 img661 img662 img663 img664 img665 img666 img667 img668 img669 img670 img671 (父が出征の時、携行したもの。台湾での激戦をくぐりぬけた貴重な戦陣訓です。)