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●自尊感情

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『日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9.
4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思
いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な
回答をしていた』(以上、毎日新聞の記事より・08・11・26)。

数字をもう一度、整理してみる。

「私は自分に大体満足している」と答えたのは、

アメリカ……53.5%
中国  ……24.3%
日本  …… 9.4%

「自分には、よいところがあると思いますか」という質問に対して、否定的な回答を
したのは、

都内の小学6年生……29.4%、
中学3年生   ……39.6%

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東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てない子どもの自尊感情を高める指導方
法について研究を始める方針を固めたという(毎日新聞※)。

しかしどうして今ごろ?、というのが、私の率直な感想。
つまりどうして今ごろ、「研究を始めるのか?」と。
こんなことは発達心理学を少しでも勉強してことがある人なら、みな、知っている。
つまり常識。
「自己の同一性」(アイデンティティ)という言葉を知らない人は、ない。
自尊感情にしても、やる気にしても、すべてこの自己の同一性で、決まる。

その自己の同一性について、

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているいるということを、親自身が気がつい
ていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないと
きは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になる人さえいる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【私らしく生きるために……】

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実
際には、少ないのでは……。

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 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」とい
う。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像
とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信する
ことができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなけれ
ば、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。
心の状態も、きわめて不安定になる。

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 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、そ
の地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。
ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つ
まり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になっ
た。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくか
みあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適
応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささ
いなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進
学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していた
のだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならなな
かった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。
夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だっ
た。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の
三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。
「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばって
いるつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、
Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こう
なると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱
られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自
分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。
ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいと
は思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定す
るCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて
言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親です
ら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いか
えると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自
分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心を
バラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていく
ということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくてい
い」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

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 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければなら
ない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければな
らない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見
つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望に
そって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

この日本には、子どもたちに用意された道が、一本しかないということ。
すべての問題の根源はここにある。

一人の人間が、子どもからおとなになる過程において、子ども自身が選べる
道が、もっとたくさんあってもよいのではないか。

たとえばドイツやイタリアでは、中学生たちはたいてい午前中だけで授業を
終え、それぞれがみな、クラブに通っている。
その費用は、(チャイルド・マネー)として、国から支給されている(ドイツ)。

東京都教育委員会は、「脳科学の専門家と連携して」、その方法を探るという。
すごいことだと思うが、これは脳科学の問題ではない。
制度の問題である。

今の制度では、(ものを考えない、従順な子ども)のみが、受験競争を勝ち抜く
ことができる。
その異常さに、まずみなが先に気がついたらよい。

(注※)(以下、毎日新聞の記事より)東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てな
い子どもの自尊感情を高める指導方法について研究を始める方針を固めた。日本の子どもは
最近の学力テストや国際調査で自己肯定感が低いことが分かっている。いじめや不登校など
教育問題の根底にも子どもの自尊心が少ない点があるともみられ、向上策の開発に着手す
る。

 都教委の計画では、都教職員研修センター(文京区)と大学が共同研究を進める。脳科学な
どの専門家と連携し、子どもにどのような働きかけをすれば自尊感情が高まるかを探る。さら
に小学校1校を研究協力校に指定し、児童の意識調査を行い、指導方法を実証する。事業費
として400万円を要求している。

 日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9.
4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思
いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な
回答をしていた。

 都教委の担当者は「子どもに自信が育つ核心の部分をできるだけ解明し、いろいろな手立て
で働きかけられるようにしていきたい」と話している(以上、毎日新聞の記事より)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自尊感情 やる気)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【04年12月8日のニュースから……】

一つは、「児童虐待について内情を調査してみたら、保護者の6割に、
心身に問題があったとわかった」というもの。

もう一つは、BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」が、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望したというもの。

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●児童虐待466件 保護者の6割、心身に問題……道調査 /北海道

 北海道内8カ所の道立児童相談所が、03年度に取り扱った児童虐待466件で、子供を虐
待した保護者333人の約6割が、性格の偏りや精神障害など何らかの問題を心身に抱えてい
たことが、道保健福祉部の調査で分かった。

 調査は各相談所の児童福祉司らが、担当した個々のケースを分析し、(1)虐待した保護者
の心身の状況、(2)虐待につながったと思われる児童の状況、(3)同じく家庭の状況――に
ついて選択肢から複数回答した。

保護者の心身の状況は
▽「性格の偏り」が、128人(38%)で最も多く、
▽「精神病か、その疑い」46人(14%)
▽「人格障害」、26人(8%)
▽「アルコール依存症」17人(5%)
▽「薬物依存症」、7人(2%)。「特に問題なし」が81件(24%)、「不明」が49件(15%)だっ
た。

 家庭の状況(333世帯)では
▽「経済的困難」が、170件(51%)と過半数を占めた。ほかに
▽「ひとり親家庭」、136件(41%)
▽「親族・近隣、友人から孤立」、93件(28%)
▽「育児疲れ」、58件(17%)など。

 虐待された子供の側では、
▽「特に問題なし」が、170件(37%)。
▽窃盗、暴力などの「問題行動あり」が、94件(20%)、
▽「精神発達の遅れや障害」が、80件(17%)あった。
▽「望まれずに出生」したことが虐待につながったとみられるケースも、24件(5%)あった。

 道保健福祉部の担当者は「一つ一つの要素がすぐに虐待につながるわけではないが、要因
にはなり得る。問題は被害者の子供より親や家庭にあることが多い」とみている。(以上、ヤフ
ー・NEWS・04年12月8日)







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血液型問題

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いいかげんにしろ!

昨夜テレビを見ていたら、またまた血液型に
よる性格判断が話題になっていた。

4年前に書いた原稿があった。
それをそのまま!

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●BPOが「血液型を扱う番組」に要望 
 BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」は、放送各社に対し、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望した。

 青少年委員会では、血液型を扱う番組が増えていることについて、「科学的根拠が証明され
ていないにも関わらず、血液型で人を分類する考え方は、社会的差別に通じる危険がある」と
指摘している。また、「血液型実験」と称して、子供が駆り出されるケースは「人道的に問題が
ある」としている。
 
 その上で、放送各社が「番組基準を守り、血液型で人間の性格が規定されるという見方を助
長しないよう」要望、占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮
を強めるよう要請した。(04年・12月8日)(以上、TBS・i・news)

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 児童虐待については、親自身に、何らかの、経済的困苦や、家庭問題、それに心の病気が
あることが多いということは、以前より、指摘されている。たとえば、「貧しい」ということは、それ
自体が、社会的病理と考えてよい。が、しかし、それだけで、片づけてはいけない。

 私が知っている例でも、その両親(祖父母)のスネをかじり、借金まるけになりながらも、T社
の大型ランドクルーザーに乗っていた父親がいた。「貧しい」というのは、金銭的な貧しさではな
く、心の貧しさをいう。

 金銭的な貧しさは、得てして、心の貧しさを、引き起こしやすい。その結果として、そしてその
一部として、親は、子どもを虐待するようになる。

 もっとも今、経済的なゆとりをもって生活して人は、何%いるのか? いや、(ゆとり)というの
も、実は、その人の心構えによって決まるのでは……?

 正直に言うが、だれかに接待されたときは別として、私たち夫婦にしても、この10年以上、寿
司屋で寿司を食べたことがない。寿司と言えば、回転寿司。それもたいていは、一皿105円の
回転寿司である。

 しかし、食べたいときには、食べている。思い立ったときに、食べている。それが(ゆとり)とい
うものではないか。(いつも2人で、合計8〜9皿までと決めているが……。)

 ただこういうことは言える。いくら金銭的に貧しくても、心までは、貧しくしてはいけないというこ
と。ある女性(80歳くらい)は、息子夫婦に、行楽地へ連れていってもらうたびに、何かの(盗
み)をしてくるという。

 通りにある植木鉢や、置き物など。飲食店に寄っても、その店にそなえつけの、調味料入れ
や傘まで、もってくるという。そのため、息子夫婦は、目を離せないという。そういう女性を、心
の貧しい人という。

 子どもを虐待する親というのは、そういう意味で、心の貧しい人と考えてよいのでは……。よく
わからない部分もあるので、この先は、また別のところで、考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++

 血液型については、もう何度も書いてきた。その結論も、少し前に書いた。

 問題は、「占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強める
よう要請した」(BPO)という部分。

 大賛成!、である。

 昨夜もテレビのチャンネルをかえていたら、その種の番組が、目に入った。1人の太った女
性が、タレントたちの運勢を、占っていた。

 少し前には、霊媒師とか霊感師というのが、いた。さらに少し前には、どこかの寺の僧侶が、
心霊写真なるものを、さかんに紹介していた。が、最近は、占い!

 もう、やめようよ、みなさん! もう少し、賢く、利口になろうよ! こんなことを繰りかえしてい
て、いったい、どうするのか! どうなるのか! 「あんたのうしろには、ヘビがいる」「あんた
は、神を粗末にしている」などと言われて、ビクビクしたり、ギャーギャー騒いでいてよいのか!

 コメントする価値もないほど、バカげている。あまりにも、レベルが低すぎる。少なくとも、大の
テレビ局が、最新の映像機器を使って流すような番組ではない。

 ……というような話を、先日、中学2年生のRさんにすると、Rさんは、こう言った。

 「先生、占いは、ちゃんと当たります!」と。

 そこで私は、「具現理論」について、話してやった。

●具現理論

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことが
ある。これを私は、勝手に、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識
のうちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、
そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いてい
た。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろ
から自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、
無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自
身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私
が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろ
な例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは
控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピ
ザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かっ
た」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、
「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。

つまり彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守ら
なければ、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おか
しなこと」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。

つまり占いが当たったわけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

 あなたは私の具現理論をどう思うだろうか。
(はやし浩司 具現理論 予言実現 予告実現 占い 血液型 BPO 放送倫理)

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おまけに、昨年(03)書いた原稿を
添付しておきます。

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●「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載せ
た。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、まったく
のデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言というのもあっ
た。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこかのあたまの
おかしな人が、思いこみでするもの。

たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この信仰を
したものだけが、救われる」などと教えている。そこで調べてみると、こうした終末予言は、その
宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされていることがわかった。しかし、だ。一度だって、こう
した予言が、当たったためしがない。

 で、疑問は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った人が、な
ぜ一人もいないかということ。さらにその責任を追及した人もいない。それにさらなる疑問は、
そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)から離れ
た信者が、なぜいないかということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避しまし
た」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る5月15日(03年)に何かが起
こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの一人の言葉)と
のこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。

「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ〜」という
ことになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなかったからといって、ど
うということはない。

(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そうなったと考えるのが正し
い。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の7月」とい
うのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、あのノストラダムスの
予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位のお金を稼いだという。世の中
をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利益を、社会に還元すべきではな
いか……と考えるのは、はたして私だけなのだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。人々が不
安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうしたらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予言にな
る。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひとりが、自分を取り巻く運命
論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之介を、
私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率によって、決
まる。

百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私たち自身
にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。そういう視
点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト教系のカ
ルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、これからこの
ボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。「そうだ。君が、ボー
ルを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】

 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したことが
ある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に立
って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。

しかし、だ。この大宇宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の
数よりも多くの、星々があるという。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地
球は、その星にも数えられない、その太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る太陽
の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されているとしても、そ
の神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや一人ひとりの人
間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上の生物の中で、人間
だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そのま
た人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あなたの家の
中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。

……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、1000万
人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺されたユダヤ人の
中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。つまりそういうことを考え
ていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考えることの、おかしさが、あなたにも
わかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教にせ
よ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従ってする
ものではないということ。

運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ないものということになる。も
しそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まずインチキと疑ってかかっ
てよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるはずはな
い。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自由なる、意
思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。
(はやし浩司 運命 予言 運命論 予言論)







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【女児願望の男児(?)】

++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

++++++++++++++++++++

 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

+++++++++

【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、そ
れをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありました。強く否定
していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいいのでしょうか? どう
返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら病
院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知られてい
る。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、その結果として、
性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。また女
子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自己の変化そ
のものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあれ、ほ
とんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとなへの脱皮をは
かるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、自意識
が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネガティブ)な
世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、そのひとつであ
る。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱として
の「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させることができない「性
同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の身
体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の
性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容できず、更
にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状態を指して性同
一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」とい
う表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちであるた
め、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性が食い違っ
た状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの
場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致してい
るが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子
的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察され
る。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれかに
正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられな
い症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。ま
た、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケース
もある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障害者
は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形
態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、(代表的な症例
では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 というの
は、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して
多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまったくなかっ
たと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの
性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場で
は、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうところのニ
ューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、売春以外
観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、男性型の身体
より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去勢をし、十代後半
になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、それを防ぐための文
言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々を、
性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドラインの第2
版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明記された。

++++++++++++

●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりもしそう
であるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」というよりも、
個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たちにとっ
ては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということになる。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、かえって追い
つめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオーストラリアで学生生
活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもっていると考
えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかということさ
え、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うことさえ、許されなくな
る。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたのは、X君
が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあるのを
見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたように、ほかに気に
なることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んでしまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の母親は、
その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、わからなくな
ってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでないものを
見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうすることもでき
ませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方のないこと
と、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあって
いません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問題だけは、
なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なことは、息子が自分
で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3〜4年生
くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両手をすり
あわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、そうし
た冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでにY君
に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱりと言った。
「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてくると、Y
君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめかしいと
いうか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、ここに書いたY君で
ある。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校生と、
恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部の席で、手
をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、それで
終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性同一
性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性障害者ということに
はならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、「自分は女性」と思いこん
んでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」で
ある。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに添付す
る。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が生まれてく
る。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職に応じたものの
考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性をも
つ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、失敗
など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観に大き
な影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そういう方向で
勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を勧められ、文科系コ
ースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさからうなどということは、で
きなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにもこうに
も、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そのと
きですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自分の職業
を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えてよい。ほ
とんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そして、その性別に
ふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まったくの
「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなったということもあ
る。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因については、いろいろな説があ
るが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、いじめられて泣くのは、男児、
いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってしまっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」にな
りきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事をしなさ
い」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、自我そのものま
で軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代に押
しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだということになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなければならな
い。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞき、男女差
別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べる学校もふえて
いる。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線の運
転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そういう問題も、考
えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差別して
はならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、今後は、性に
よる差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日本を変えていく。意
識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなければならない。
(030622)

++++++++++++++

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書いてき
たことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。残念なが
ら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを見たこともない
し、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無だっ
た。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、そうした服装
を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、からかわれた時代
もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、子ど
もは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そういう部分で、
親として、できることはしなければならない。反対に、してならないことは、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、狩り
の仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要である。男児が
男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、考えられる。
(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化するケースもあ
る。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視点で、
一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもしれない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思われる。仮に
性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどない。いわんや病院へ
連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日本では、
たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、もがき苦しん
でいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、もがき苦しんでい
る人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。しかし現実
には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」を自覚することが
多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果として、「自
分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳をとってか
らの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、若いときに見
た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、女を意識
するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自身のことでよく
覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなってしま
った。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の下着を見
てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよくおぼえていない。
しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、私は、そのとき強烈な衝
撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致を起こ
したとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるなら、
問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出てくる
ようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だけで、こうし
た人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視点で、こうした人たち
を、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うことはでき
ない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的には、
自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしかに、自分の子
どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがある。しかしそれは、
(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけなが
ら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が同居して
いることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」というよ
うなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているようにも思う。もしあ
のとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、私を病院へつれていくと
言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。

 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あるいはど
んな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につい
て言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」という図式
が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそうし
た原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同一性障害を
問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいた
ので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう
答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もい
た。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。その
高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう書くと、軟
弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞台でギター独奏
したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞くと、「こわかった……」
と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのは
たいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も
一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、ウンチを教
室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられて
いることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の
子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手と
いうのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなに
も、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らし
くという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、
妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかし
い。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は
皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(98年、
浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐怖症
になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、今、新時代
の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加しなさい」と指導して
も、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次
大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく
女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとた
まりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 男児
の女児化 男性の女性化)







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●口愛期(口唇期)(Pornographic DVD)

++++++++++++++++

フロイトは、性的エネルギーの
発達段階を、口愛期→肛門期→
男根期→(潜伏期)→性器期の
4段階に分けた。

この世界では、英語のアルファベット
のように、だれでも知っている話
である。

その口愛期について、先日、
ポルノDVDを見ていて、
こんなことを考えた。

++++++++++++++++

ポルノDVDというか、ポルノDVDだが、俗にいう「素人ナンパもの」と呼ばれる、
ポルノDVDである。
「たまにはいいだろう」と思って、DVDショップで、一本を借りた。
(いつも見ているわけではない。どこか弁解がましいが……。)

そのDVDを見ていて、こんなことを考えた。

「素人ナンパもの」というDVDがどういうものであるか、健康な男性なら、
それを知らない人はいないと思う。
街角で男が若い女性を、「モデルになってください」とか、「水着を試着してみて
ください」とか言って、声をかける。
「下着調査です。アンケートに答えてくれるだけで、○万円払います」とか、など。
そう言って近づき、女性を誘惑する。

そのDVDの中で、やや中年風の男(30代)が、ふとこう言っていた。
「30人に声をかければ、1人はOK」と。
30人というが、つぎつぎと声をかけるので、時間にすれば、1時間あまりで
1人ということになる。

こうして男たちは、若い女性をホテルに連れ込む。
少しずつ、女性をその気にさせて、やがて衣服を脱がし始める。
私はそれを見ながら、年頃の娘をもつ親たちは、こういう現実を知ったら、
ショックを受けるだろうなと思った。

が、それは途中まで。
ある一線を超えると、今度は女性のほうが本気になってしまう。
立場が逆転する。
あれほどモジモジしていた女性が、今度は、自ら男性の体を求め始める。
(やらせ)とか(演技)によるものではない。
本気である。
全裸になり、顔を丸出しにし、最後は体内での射精まで許してしまう。
そしてその段階になると、今度は男性のアレを自ら求め、それを口に含む。
含むというよりは、むさぼるように、しゃぶる。
人間というよりは、動物。
女性というよりは、メス。
そんな感じになる。

……といっても、それが悪いことだとは、私は思わない。
人間がなぜ生きるかといえば、フロイトの言葉を借りるまでもなく、
(生存)のためである。
子孫を後世に残すためである。
「性的エネルギー」が人間の生きる力の根源になっているという理論も、
そこから生まれた。

で、男性は女性のアレを、女性は男性のアレを、むさぼるように、しゃぶりあう。
ともに恍惚状態。
が、それこそまさに、「口愛期(口唇期)」!
男も女も、性的行為をしながら、乳幼児期の発達段階を再現している!

フロイトの時代には、もちろんビデオもDVDもなかった。
だからついでにこうも考えた。
「フロイトという人は、ずいぶんとスケベな人だったんだな」と。

自分だけの体験なら、そこまで性的エネルギーなるものを、体系化などできなかったはず。
たとえば私も子どものころ、女性の胸を見ただけでドキドキしたのを覚えている。
いや、そのことよりも、そういうふうになる私が、おかしいのではないかと、
悩んだことがある。
だから、そういうことは人には話さなかった。

が、やがて友だちもみな、自分と同じように考えているのを知った。
しかし、そこまで。
今のように、ビデオもDVDもない時代である。
みなが、どの程度のことをしているかまでは、知らなかった。

が、フロイトはそうした男と女の営みを、実際に何10例も見ていたにちがいない。
そういう経験から、ここに書いたように、ひとつの体系を導いた。……導くことが
できた。
言いかえると、男性が女性のアレを、女性が男性のアレを、それぞれしゃぶりあう。
そういう光景を見ながら、「口愛期」を知った(?)。

現在、フロイトは、その世界では神格化されている。
あちこちの「フロイト・サイト」をのぞいてみたが、私のような不謹慎な意見を
書いているHPやBLOGは、どこにもなかった。

フロイトの写真にしても、そういうことをみじんも思わせないような雰囲気を
漂わせている。
まさに大研究家といった感じ。
だからこんなことを書くと、その世界の人たちに、袋叩きにあうかもしれない。

が、それはそれとして、そのDVDを見ながら、私は、もうひとつのことを発見した。
フロイトは、性的エネルギー(リビドー)が、人間の生きる力の根幹にあると説いた。
そしてそれを満足させる第一段階として、口愛期(口唇期)を説いた。
が、それだけではないのではないか。
それを説明するために、こんな話もある。

男性というのは、(これはあくまでも友人たちの話を総合してのことだが……)、
女性のどこに性的魅力を感ずるかは、みなちがう。
胸や腰が多いが、中には、大きな尻や、体臭に性的魅力を感ずる男性もいる。

で、これは私が1970年に、オーストラリアで、ベトナムから帰ってきた
兵士から、直接聞いた話である。

オーストラリア兵もベトナムで戦闘に参加していたが、前線からサイゴンに帰って
きた兵士たちは、みな、(女)を買いに町へ出たという。
女を買うといっても、セッXが目的ではない。
(BLOGの禁止コードにひかかるため、「セッX」と表記する。)
女の乳房を吸うためである。
みな、一晩中、女たちの胸を吸って、気を休めていた、と。

その姿は、まさに母親の乳房を吸って、心を休める乳幼児の姿であったにちがいない。
つまり口愛期には、2面性がある。

口唇に刺激を受けることで、フロイトが説くように、性的エネルギー(リビドー)を
満足させる部分と、それにもうひとつ。
安心感を覚える部分の2つである。
つまり男性は、(女性も基本的には同じと考えるが)、女性の乳房を吸うことによって、
性的エネルギーを満足させると同時に、安心感を覚える。
それは究極の安心感ともいえるものと考えてよい。
そのことは、DVDの中の男と女を見ればわかる。
その数時間前までは、まったく見知らぬ男であったにもかかわらず、女性のほうは、
体内での射精まで許してしまう!

そうした行為が何を意味するか、その瞬間にでも、女性にわからないはずはない。
が、理性や知性は、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。

フロイトは、性的エネルギーの発達段階を、口愛期→肛門期→男根期→(潜伏期)
→性器期の4段階に分けた。
分けながら、それを(満足させる)という観点だけで、考えた。
しかしこれら4つの段階には、もう一つ、重要な要素があるのではないか。
それが(安心感を覚える)という要素である。

で、このことも、実際の私たちの性生活にあてはめて考えてみるとわかる。
セッXにしても、それで満足感を覚えながらも、そのあと、愛しあう夫婦であれば、
たがいに安心感を覚える。
そのままの体位を維持しながら、眠ってしまうこともある。

ただこれは私がDVDを見た範囲で感じたことだが、男というのは、射精と同時に、
急速に、女性の体に興味を失う。
時間にすれば、1〜2分の間に、そうなる。
一方、女性というのは、そのあとも、まだしばらく余韻が残るというか、安心感を
求めて、恍惚の世界をさまよう。
DVDを見た感じでは、5〜10分は、それがつづくのでは?
つまりこの部分が、(安心感を覚える)という部分になる(?)。

天下のフロイト理論にケチをつけたようで、気がひける。
しかも出典(?)が、ポルノDVDとあっては、どうしようもない。
自分でも、それがよくわかっている。
あくまでも余興のひとつとして、このエッセーを読んでほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
口愛期 口唇期 フロイト リビドー リピドー 性的エネルギー)

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子どもが自慰をするとき

●ある母親からの質問

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。六
歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなっ
ているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつける
ように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、どう対処したらいいので
しょうか」(32歳母親)と。

●罪悪感をもたせないように

 フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろい
ろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に
興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心
をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレ
ス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為
をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自
慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)
となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐ
ず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そ
のため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもある
ので注意する。

●スキンシップは大切に

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自
分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情
緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないこ
とを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗する
そぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サ
ラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうし
ても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることが
ある。








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●子どもの気力

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最近の研究によれば、生命の根源、つまり(生きる
力)の根源は、どうやら脳の中枢部にある、視床下部
というところにあることがわかってきた(アメリカ・
サイエンス誌)。

そこから脳みそ全体に、強力なシグナルが発せられ、
それが脳みそ全体の活動の根源、しいては人間の
生命活動の根源になっている(?)。

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「強力なシグナル」と書いたが、当然、個人差がある。
シグナルの強い人もいれば、弱い人もいる。
そう考えてよいことは、特別養護老人ホームにいる
老人たちを見ればわかる。

先日も久しぶりに、母がいたホームを訪れてみたが、
その中に1人、こんな女性がいる。
年齢は今年95歳になるという。
母が1年半前に入居したときもそうだったが、そのときも、
大きな声で、看護士や介護士さんたちに向かって、こう言って
叫んでいた。
「飯(めし)は、まだかア!」
「わっち(私)は、何も食べておらんぞ!」と。

大半の女性たちは、(そこは女性専用のフロアなので)、
ぼんやりとした表情のまま、時間をつぶしている。
何割かの女性は、大きな車椅子に横になったまま、鼻からチューブを
通して、一日中、眠っている。
そういう中なので、よけいにその女性が目立つ。

恐らく視床下部からの指令を受けて、ドーパミンが大量に分泌され、
それが線条体という組織を刺激しているのだろう。
性欲、食欲など、人間の欲望は、こうして生まれる。

おなじ高齢者なのに、たとえば私の母もそうだったが、
自分の意思をはっきりと持っている人もいれば、そうでない人もいる。
このちがいこそが、シグナルの強弱ということになる。

私という素人が考えた仮説なので、あまりあてにはならないが、
しかしそう考えると、子どもの世界がよく理解できる。

たとえば親の過干渉、あるいは過関心などで精神活動そのものが、
萎縮してしまった子どもがいる。
「萎縮児」とも呼ばれる。
覇気(はき)がなく、おとなしく、静か。
自我の核形成も遅れ、つかみどころがない。
何を考え、何をしたいのかも、よくわからない。
一見、従順で、人なつっこい。
好奇心も弱く、遊びといっても、ごく限られた範囲で、
同じことしかしない。
一部が萎縮しているというよりは、人格全体が萎縮している。

あるいは何らかの原因で燃え尽きてしまった子どもや、
荷をおろしたように無気力になってしまった子どもでもよい。

そういった子どもを見ていると、脳の中枢部、つまり視床下部
あたりから出るシグナルが、弱いのではないかと考えてしまう。
このばあいは、親の過干渉、過関心などで、脳の機能そのものが、
変調したと考えられる。
(本当にそうであるかどうかは、わからないが……。)

つまり私たちが俗に言う、「気力」というのは、そういうものでは
ないか。
「やる気」と言い換えてもよい。

先の女性でいえば、95歳という高齢にもかかわらず、食欲だけは、
異常に旺盛。
それが好ましいことかどうかという判断は別にするとして、視床下部
あたりから出るシグナルが、人一倍強いことだけは、確か。
それがその女性の(生きる力)の根源になっている。
だからまわりの看護士や介護士さんたちは、みな、こう言う。
「こういう人は、100歳まで生きますよ」と。

実は私の母も、今年(08年)の2月ごろまでは、その女性に、
勝るとも劣らないほどの生命力をもっていた。
一個の茶菓子を取り合って、テーブルの向かい側に座っている
別の女性と、ものを投げ合って喧嘩までしていた。
が、2月ごろ、脳梗塞を起こした。
そのあと、別人のように、静かで穏やかになってしまった。
私が見たところ、生命力そのものが、その日を境に、しぼんで
しまったかのように感ずる。

こうしたことから、私たちがいうところの(気力)というのは、
脳の奥深くにある根源的な部分から生まれると考えてよい。
視床下部から発せられるシグナルならシグナルでもよい。
そのシグナルが、やがて(気力)につながっていく(?)。
(そうでないかもしれないが、ここでは、そうであるという
仮定の上で、話を進める。)
そのシグナルが強い人は、あらゆる面で旺盛な気力を示し、そうでない
人は、そうでない。

では、どうすればよいのか。

こと子どもに関していえば、子どもというのは、あるべき環境の
中で、あるべきように育てれば、自然とそういう力を発揮する。
DNAのレベルで、そのようにプログラムされている。

が、ここでいう気力にしても、それをつぶすのは、簡単。
ガミガミ、ガンガンと、子どもを叱りつづければよい。
ついでに親の気分で、罵声を浴びせたり、暴力を振るったりすればよい。
無視、冷淡、育児拒否などがあれば、さらに効果的。
子どもは、確実に萎縮する。
動作そのものが、緩慢になることもある。
(あるいは同じような家庭環境であるにもかかわらず、反対に粗放化する子どももいる。
親の過干渉、過関心に抑えられてしまった子どもが萎縮児、
それに反発し、やり返した子どもが粗放児と考えるとわかりやすい。
同じような環境であるにもかかわらず、兄が萎縮し、弟が粗放化する
というケースは、多い。)

わかりやすく言えば、(気力)を奪うのは、環境ということになる。
とくに親の接し方ということになる。
だから英語では、「教育」を、「education<educe(引き出す)」という。
つまり能力は、すべての子どもが平等にもっている。
あとはそれを(引き出すか、つぶすか)、そのちがいによって、
子どもは伸びたり、反対に萎縮したりする。
それが教育ということになる。

なおここで「脳の機能が変調した」という言葉を使った。
これは私が使い始めた言葉だが、ひとつの例として、夜尿症(おねしょ)
がある。
本来なら睡眠中は、脳の命令によって腎臓での尿の生産が抑制される。
が、脳の機能が変調すると、その抑制に乱れが生ずる。
最近では、それが夜尿症の原因と考えられている。
だから夜尿症にしても、ここに書いた子どもの気力にしても、
(しつけ)によって、どうこうなるような問題ではない。
いわんや叱ったり、説教したりして、なおるような問題ではない。
(心の問題)というより、(大脳生理学の問題)。
そういう前提で、こうした問題を考える。

ずいぶんと荒っぽい書き方をしてしまったが、大筋ではそれほど
まちがっていないと思う。
大切なことは、無理や強制などで、子どものやる気を奪ってしまわないこと。
一度幼児期に萎縮させてしまうと、その後遺症は一生つづくと言っても
過言ではない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
子どもの気力 子供の気力 子どものやる気 子供のやる気 視床下部 ドーパミン
ドーパミン効果 夜尿症 おねしょ 萎縮する子供 萎縮児 緩慢動作 緩慢行動)









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●裁判員制度

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「法意識」という言葉がある。
簡単に言えば、「法に対する意識」ということになる。
しかし日本人ほど、法意識の希薄な国民というのは、
そうはいない。
このことは、たとえば冠婚葬祭、ひとつみただけでも
わかる。
とくに葬儀。

すべてが、ナーナーというか、いいかげん。
安易な『ダカラ論』ばかりが、優先する。
「あなたは男だから」「私は女だから」とか、
「昔から、こうだから」「世間は、こうだから」とか、
そのときどきにおいて、自分の都合のよいように、
『ダカラ論』を並べる。
法というものが、日常生活にしみ込んでいない。
法を持ち出して、合理的に考えるという習慣が
身についていない。

「法は私たちが作った」という意識も希薄だが、
「法を守る」とか、「法に従って」という意識も希薄。
日常生活は、多くのばあい、「世俗」という、別の尺度で
動いている。
それが悪いというわけではないが、法律は法律。
学問としても体系化されている。
で、こういう国民が、裁判員になったら、どうなるか。

「被告は、親の葬儀にも顔を出さなかったような
悪人であります。
しかも長男のくせに、二男に親のめんどうをみさせて
いました。
人間のクズです。
したがって刑を、2倍にするのが妥当です」と。

そんな極端なことはないにしても、日本人に人を裁くほどの
法意識が育っているかということになると、それはどうか?
私は、疑問に思う。

++++++++++++++++++

2009年5月から、刑事裁判において、いよいよ裁判員制度による
裁判が始まる。
裁判員が参加するばあい、裁判長を含む裁判官3人と、裁判員6人、計9人で
審理を行う。
裁判官と裁判員は、立場は同等。
被告人が有罪であるか、無罪であるかを評議する。
有罪であるなら、どのような量刑にするかも評議する。
もし意見が一致しないときは、多数決で結論を出す。

ただしそのばあい、つまり被告人が有罪であると決めるときには、
その中に裁判官が1人以上、含まれていなければならない。
たとえば裁判員6人が有罪、裁判官が3人が無罪というときは、被告人は
無罪となる。

が、反対のばあいは、どうなるのか。

たとえば裁判員6人が無罪、裁判官3人が有罪というときである。
このばあいは、多数決で、無罪となる。
だったら、はじめから裁判員など、不要ということになってしまう。
そのことは、私やあなた自身が、被告人になったばあいを考えてみればわかる。
法の専門家に裁かれるなら、まだ安心感(?)がある。
しかしまったくの素人に裁かれるとなると、話は別。
たとえて言うなら、病院で、医師ではなく素人によって、診断名をつけられるようなもの。

そこでもう一度、原点に立ち返ってみる。
なぜ裁判員制度が、生まれたか?
そこには、こうある。

「判例主義(=前例主義)や硬直した法解釈だけの判決を避けるため」と。
よって「司法への理解と信頼を高めるため」と。

「そうかなア?」とも思ってみたりする。
「そうでもないのではないのかア?」とも思ってみたりする。

「そうかなア?」と思うのは、たしかにそういう部分はある。
裁判官が、どういう人たちかということについては、ここには書けない。
書けないが、しかしどういう人たちかは、司法当局の人たちなら、みな知っているはず。
そういう司法当局の人たちが、「これではまずい」と感じたのかもしれない。

「そうでもないのではないのかア?」と思うのは、判決に温度差が生まれたり、
地域差が生まれたりするのではないかということ。
そのためかえって司法に疑問をもったり、不信感をもつ人がふえるのではないか
ということ。

とくに日本の刑事訴訟法は、『罪刑法定主義』という、大原則を貫いてきた。
またそれがあったからこそ、日本人は、こと刑事裁判については、絶対的な
信頼感を寄せることができた。
「人は法によってのみ裁かれ、法以外のものによって裁かれない」というのが、
それである。
その罪刑法定主義すら、揺るぎかねない。

冒頭に書いたように、たしかに日本人の法意識は、世界の人たちと比べても低い。
それはわかるが、だからといって、「裁判所へ連れてくれば、法意識が高まる」と
考えるのは、あまりにも短絡的。
さらに言えば、「法意識が高まったからといって、それがどうなのか?」という
疑問も残る。

大半の人たちにとっては、法といっても、とくに刑法は無縁のもの。
この私にしても、一応法学士だが、社会へ出てから、一度も刑法の世話になった
ことはない。
それをいきなり、一般の庶民を裁判員に仕立て、判決に加担させるとは!
もう少し(段階)というものを経るべきではなかったのか?

たとえば刑事裁判というのは、

(1)冒頭手続き
(2)証拠調べ手続き
(3)弁論手続きという、プロセスを経る。

そういう各段階で、一般の人たちを参加させるという制度でもよかったのではないのか。
冒頭手続き……たとえば、被告人から直接話を聞いたり、起訴状について不満はないかと
聞いたりする。
証拠調べ手続き……たとえば検事から証拠の内容を聞き、それを吟味したりする。
弁論手続き……たとえば被告人といっしょに、法律面での問題点を考えたり、
アドバイスしたりする、などなど。
そしてそれがある一定限度まで熟成したとき、裁判員制度に切り替えるとか、など。

もっともまずいのは、「いろいろやってはみたが、やはり、裁判員制度は廃止する」
ということになること。
その間に判決が確定した刑事犯の人たちは、どうすればよいのか。
もう一度、判決文をすべて見直すということにでもなれば、それこそたいへんなことに
なる。

最終的には、日本の裁判制度を、アメリカのような陪審員制度にもっていこうとして
いるのかもしれない。
そうならそうで、ドイツ刑法から英米刑法へと、日本の刑法(+刑事訴訟法)の
基盤そのものを変えなければならない。
が、それは、どうするのだろう?

あまりケチをつけてばかりいてはいけないので、ここはしばらく様子見ということに
する。

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3年前に書いた原稿を紹介します。

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●行列のできる法律S談所

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法律が先か、それとも法律はあとか?

法律が先に立つ世界は、まさに闇。

『行列のできる法律S談所』という
番組には、そんな基本的な認識すら
ないのでは?

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 ときどき、『行列のできる法律S談所』という番組を見る。が、あの番組を見るたびに、「?」と
思ってしまう。法律の基本そのものが、わかっていない(?)。

 昨夜(3・5)の番組では、こんなテーマが取りあげられていた。

 結婚前は美しい女性だった。が、結婚後、ガラリと妻の様子が変わった。化粧はせず、だらし
ない生活。夫の返事にも、おならで答えるという。しかも新婚1月後で、である。こういう妻のば
あい、離婚はできるかどうか、と。

 いつもの番組である。で、弁護士たちが、「できる」「できない」と議論する。たしか4人の弁護
士のうち、3人は「できない」。1人は「できる」ではなかったか。

 が、この発想そのものが、基本的な部分でまちがっている。私も元、法科の学生。その立場
で、一言、意見を書いてみたい。

 法律があるから、それに人は従うのではない。とくに民法は、そうである。何かの紛争が起き
たとき、その紛争を解決手段として、法律がある。最初に法律ありきという姿勢は、本来の法
の精神に反する。仮に法律に反していても、たがいにそれで納得し、満足しているなら、法の
出る幕はない。

 しかしあの番組では、いつも先に、法律ありき……という姿勢が目立つ。その影響だろうが、
私の教室でも、私が何かをするたびに、「慰謝料請求するぞ」「行列のできる法律S談所に訴え
てやる」と言う子どもがふえてきた。

 たとえばその慰謝料にしても、「これこれこういうことをしたから、慰謝料が請求できる」という
のではない。「私は、精神的損害をこうむった。それをつぐなってもらうにはどうしたらいいか」と
考えたあと、法律が登場する。そこではじめて慰謝料を請求するという話になる。

 弁護士の世界のことは知らないが、こんなことは、法学の世界では、常識。どうしてそういうこ
とをきちんと言う学者が、あの番組には、なぜ出てこないのだろう? あの番組を見ていると、
かえってまちがった法律意識を、子どもたちに植えつけてしまうことになりかねない。

 で、夫の会話に、おならで答える妻についてだが、「おならで答えたから、離婚事由になる」
「ならない」という発想そのものが、ナンセンス。もっと基本的な部分はどうなのかというところま
で見て、はじめて、離婚の話になる。民法で定める離婚事由は、つぎのようになっている(民法
770条、法定離婚事由)。

++++++++++++++

夫婦の一方は、左の場合に限り、離婚の訴を提起することができる。

1、配偶者に不貞な行為があったとき。
2、配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3、配偶者の生死が3年以上明かでないとき。
4、配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。
5、その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

2 裁判所は、前項第1号乃至第4号の事由があるときでも、一切の事情を考慮して婚姻の継
続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

+++++++++++++

 つまり(妻のおなら)が、5の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に該当するか
どうかということ。これについては、たとえば裁判所でも、もろもろの状況を総合的に判断して、
結論を出す。おならだけを見て、判断するということはない。

 で、そのおならで返事をする妻についてだが、すでに夫婦関係が冷え切ってしまっているとい
うことが考えられる。その冷え切った理由が、妻側にあるとするなら、離婚は可能であろう。お
ならは、その一部にすぎない。

 が、冷え切った理由が、妻側に存在しないときは、どうか? 妻にしてみれば、ごくふつうの
人間として、ふつうの生活をしているつもりかもしれない。化粧をしないということでも、それ自
体は、何でもないこと。夫は、そのふつうの様子が理解できないだけということになる。で、この
ばあいは、離婚事由にはならない。むしろ夫のわがままということになる。

 どちらにせよ、ことの細部をとりあげて、「これは離婚できる」「これは離婚できない」と論ずる
のは、先にも書いたように、ナンセンス。こんな形で法が運用されたら、それこそ、この世界
は、闇。めちゃめちゃになってしまう。弁護士にもなった人たちだから、そんなことは、百も承知
のはずと、私は思うのだが……。

 ただ刑法のほうは、そうとばかり言えない面がある。しかし刑法においても、法は、あとに来
るべきではないのか?

 たとえばこんな事例で考えてみよう。

 一旦停止の4つ角がある。その角の少し入ったところで、2人の婦警たちが、ミニパトカーを
止めて、見張っている。そして一旦停止しないで、4つ角に進入してきた車のドライバーに対し
て、つぎつぎと違反キップを渡している。

 よく見かけるシーンである。

 このばあいでも、婦警たちは、まず法律ありきという姿勢で、違反者を見張っているのがわか
る。もし本当に、交通ルールをドライバーに守らせようと考えるなら、運転者がその前にわかる
ように、一旦停止線のところに立って、見張るべきである。

 では、なぜ、一旦停止で車は止まらなければならないのか。それはルールというより、ドライ
バー自身の安全のためである。相手の車に、迷惑をかけないためである。ルールは、それを
裏から、補強する。一旦停止の線が描いてなくても、一旦停止が必要と感ずれば、ドライバー
は、そこで一旦停止する。一旦停止の線がないからといって、本線に一旦停止しないで、飛び
出してよいというものではない。

で、仮にそのあたりで、何かの交通事故があったときはじめて、法律が登場する。「あなたは一
旦停止すべきだったのに、一旦停止しなかった。一旦停止して、左右の安全の確認をすべき
だった。が、それをしなかった。つまりあなたのほうに過失がある」と。

 ふつうの人が、ふつうの生活をしていれば、また、それができれば、本来、法などというもの
は、必要ないのである。仮に、法(民法)に反していても、それで当事者たちが、納得していれ
ば、これまた法などというものは、必要ないのである。「配偶者の生死が3年以上明かでないと
き、離婚事由になる」という項目についても、「3年たったら、だれしも離婚すべき」というのでは
ない。中には、夫の帰りを待ちながら、10年でも、20年でも、妻のまま待っている人だってい
るはず。本来、ユートピアというときの理想世界では、そういう世界をいう。

 しかしそこで何か紛争が起きる。争いが起きる。そのときはじめて、法が前に出てくる。それ
が法なのである。

 はじめに法ありきという発想が、どういうものか、これで理解してもらえただろうか。……という
ことで、あの番組には、私は以前から、少し疑問に思うところがあった。あなたも、一度、そうい
う視点から、あの番組を見てみるとよい。

【補足】

 法的正義とは何かといえば、それは人間が本来的にもつ良識をいう。良識ある人が、良識あ
る行動をしていれば、本来、法など、いらない。不要。が、人間の世界には、良識ある人ばかり
ではない。ときとして、その良識ある人が、何かのトラブルに巻き込まれることがある。そのと
き、その良識ある人を守るために、法が、前に出てくる。それが法律である。

 「〜〜したら、離婚できる」「〜〜したから、慰謝料が請求できる」というように、教条的に法を
運用するのは、本来の法のあり方ではない。「良識ある妻が、夫と別れられなくて困っていま
す。どうしたらいいでしょう」「良識ある人が、ひどいめにあって苦しんでいます。どうしたらいい
でしょう」という問題が提起されたとき、法的正義が発揮される。法律が前に出てくる。

 法は、決して、悪人の味方をしてはいけない。そういう意味でも、法律を、教条的に解釈する
のは、たいへん危険なことでもある。

 繰りかえすが、ああいう番組を見て、子どもたちが、法律というのはこういうものだと、まちが
った先入観をもつのは、たいへん危険なことである。「法に触れなければ、何をしてもよい」とい
うふうに、法を解釈するようになるかもしれない。あるいは法の抜け道をさがすようになるかも
しれない。もし法律が、そういう形で利用されるようになったら、この世の中は、どうなる。小ズ
ルイ悪人ばかりの世界になってしまう。それを、私は、「闇」という。

●良識ある善人を守るための法律が、良識ある善人を苦しめるための道具として機能すると
き、その世界は、闇となる。(はやし浩司)

(はやし浩司 離婚 離婚事由 離婚論 法的正義 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論
 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 裁判員制度 陪審員制度)

+++++++++++++++++

ついでにもう1作……

+++++++++++++++++

【Independent Thinker】 

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In 
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves no 
effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than his 
pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very 
exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. It 
causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that 
position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few 
who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a 
good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner in the young than 
in grown mean and women. Among children it is very common, and grows naturally out of 
the period of make-believe and fancy. It is rare in later life because everything is done to 
kill it during education... The wish to preserve the past rather than the hope of creating the 
future dominates the minds of those who control the teaching of the young. Education 
should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the 
world that our efforts are to create
教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対しては、
楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほとんど要しな
い。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。それ以上
に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒にとっては、教
師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生において、大
きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。そしてそれが
だれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを理解す
る子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育のよさが、
子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い人たちの
間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれたことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period of 
make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、すべてが
教育によって、これがつぶされてkillしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保全した
いとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせること
passive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向って、能動的
に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to create。

バートランド・ラッセル(1872〜1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞


++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そのと
きの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい自分を発
見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。それが
自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去の事実
を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって能動的に向わ
せることを目的としなければならない」(Education should not aim at passive awareness of 
dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create)と書
いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論の中で、
「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」ということにな
る。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということになる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せば、「ひ
とりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思うのは待って
ほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、そのつど、
いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。脳の表面に飛来
する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、頭をさすりながら、その
頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。しかしそ
の実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。それぞれ
が、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていない。が、その
実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、電車に
乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれないというこ
と。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、そのワクを踏み超
えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメというワ
クを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先に巣をつくらな
いで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)の条件と
いうことにもなる。

 恩師のT先生は、科学(化学)研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重
要性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バートラン
ド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、ありふ
れた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽なこと。しかしそ
のワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味がある。
私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰りかえして
いるだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たちも、若
いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言った。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事実は、
私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。やがて君も母親
になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。つまり繰りかえしているだ
けだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなければなら
ない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。私の家の
近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、自分の人生
を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前と同じ生活を繰りか
えしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとしたら、そのま
まつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むことで
ある。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いている。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろんその
女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心を
キズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ出す勇気
を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでいくとい
うのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そしてそのつど、さ
らにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そしてそのあ
と、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、Independent 
Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこに何か、目には見えな
い糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。

(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人))

++++++++++++++++++++

ところで京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。

「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++
 
はやし先生

先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。

大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。

詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、

(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
 として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。

(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、

(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。

大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。

そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。

「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。

かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。

基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。

いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。

素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。

++++++++++++++++++++++

【SE様へ】

 実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私もそうだ
ったのかなあ?」と、当時を思い出しています。

 とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、そもそも
独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そんな話ばかり
でしたから……。

 ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。

 しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と言われて
しました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をしていました。

 たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法学へ
の興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。

 もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ入った
だけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったというわけで
す。

 そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまったく、タ
イプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、「私はとても、M
教授のようには、なれない」と実感しました。

 で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話をT先生に
すると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていました。学部はちがっ
ても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。

 話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした傾向という
のは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。

 たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の80〜9
0%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学していきます。夢
や目標は、とうの昔に捨てているわけです。

 もちろん希望も、ない。

 だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりたいとい
う学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純粋法学をめ
ざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。

 このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。

 つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私のばあ
いは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、外国へ出ると
いうだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いますが……。)

 そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番目。
行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよかったか
ら、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインドの国費留学生試
験にも合格しました。

 (結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)

 まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活躍をした
時代だったと思います。

 が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になりたかっ
た。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですから、役割混
乱もいいところです。もうメチャメチャでした。

 ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、(1)の
タイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、まったくなかったと
思います。

 私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、結論
(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知のように、勝
手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)

テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい世界だっ
たんだなあ」と感心しているほどです。)

 ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふつうだ
ったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく覚えているの
は、こんな質問があったことです。

 「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振ってもよいそうだ
が、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。

 そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。ハハハと笑
っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。

 また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学の話
などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公害」とか、
そんな話ばかりしていたような気がします。

 日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、自分で
勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たちから講義を受
けていました。

 自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。

 以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生は、つぎ
のように書いています。

「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要なのだ
ろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもち
ろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなよ
うに教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出る
し、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。

 つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、複々線
化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できないのでしょうか。

このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の教育に
は、明日はないということではないでしょうか。

 返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、お許しく
ださい。

 今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。そのあと、
昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけでも、たいへんで
す。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。








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【過去の奴隷たち】

++++++++++++++++++++

全国あちこちに、「ゴミ屋敷」と呼ばれる
家がある。
家の内外、ゴミだらけ。
マスコミでも、ときどき話題になる。
が、ゴミの多い家は少なくない。
家の外には少なくても、家の中はゴミだらけ
という家もある。
あるいは部屋の中がゴミだらけという家もある。

要するに何をゴミにするかということ。
そのモノによって、家の外にもゴミがあふれる
ということにもなる。

たとえば衣服を中心に集める人は、家の中を
衣服でいっぱいにする。
古くて使えそうもないような衣服まで、
そこにある。
以前、破れたズボンまで、たたんでしまっている人もいた。

人それぞれだが、とにかくゴミはゴミ。

+++++++++++++++++++

●肛門期

乳幼児はいくつかの原始的な心理発達段階を経て、少年、少女期へと移行していく。
そのひとつが、「肛門期」。
便をためる快感、便を排出する快感、その2つの快感を同時に経験する(フロイト)。
その「ためる」「捨てる」部分が、未成熟のままおとなになると、
異常なケチになったり、冒頭に書いたように、「捨てられない人」になる。
あるいは時には、見境なく高価なモノを買って、安心したりする。

数年前だが、ある人の家に寄ったとき、私は心底驚いた。
かなり大きな家だったが、玄関先からモノがいっぱい。
1間幅(1・8メートル)の玄関だったが、体を横にしないと、中へは
入れなかった。
モノ、モノ、モノ……。
その向こうにも、モノ、モノ、モノ……。
天井からも、衣服類が、ところ狭しと、吊りさげられていた。

しばらく待っていると、中から人が出てきたが、その人自身も、モノと
モノの間に足を入れながら歩いてやってきた。
ふつうなら、(こういうケースのばあい、「ふつう」という言い方をするのは、
たいへん危険だが……)、使わないもの、価値のないもの、古いものは、
どんどんと捨てる。
が、このタイプの人は、それができない。
いろいろなケースがある。
私が実際見たケースを書いてみる。

(ケース1)
たんすや戸棚には、衣服がぎっしりと詰まっている。
亡くなった祖父母の着物類から、息子や娘が子ども時代に使っていた
衣服類まで。
その人(女性、60歳くらい)のばあいは、そういった衣服をきちんと
箱に入れて、しまっていた。
そして暇なときは、それを出したり、入れたり……。
それだけを毎日のように、繰り返していた。
ときに箱からつぎつぎと出し、足の踏み場もないほどになったりすることもある。

(ケース2)
そういう関係の仕事をしていたこともあり、不用品として出されたものの
中から、まだ使えそうなものを見つけると、片っ端から自分の家の中に
持ち込んでいた。
その人は男性(50歳くらい)で、独身だったが、女性の美容器具まで、
その中には含まれていた。
部屋という部屋には、モノがいっぱい。
そのため窓までモノでふさがってしまい、昼間でも、電気をつけなければ、
部屋から部屋へと歩けないような状態だった。

(ケース3)
自分の趣味のものを買い集めたりしていた。
中古でも、値段が安いと買い集めていた。
その男性(30歳くらい)は、同じものでも、自分が気に入ったものは、
つぎつぎと買い足していた。
部屋の中はモノであふれかえっていたが、部屋のある部分だけを使うため、
その部分の畳は擦り切れて、穴があいていた。
掃除などしたことがないといったふうだった。

ほかにもテレビなどにもよく紹介される人がいる。
たいていは家の外にまでモノがあふれ、ときに近隣の人たちに迷惑を
かける。
社会問題になる。

原因としては、フロイト学説に従えば、乳幼児期における「肛門期」に
問題があったということになる。
この時期に、何らかの原因があって、(たいていは、愛情問題と考えてよい)、
精神的に未発達のまま、おとになになったと考えられる。
たとえば異常にケチな人というのは、その時期に問題があったとみる。
よくあるケースは、下の子ども(弟や妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に置かれるなど。
生活態度そのものも、防衛的になる。

ただ驚くべきことに(ホント!)、冒頭にあげた玄関先にまでモノを置く人にしても、
(ケース1、2、3)の人たちにしても、みな、それぞれ、会って話してみると、
ごくふつうの人であったということ。

ふつうのサラリーマンであったり、通りであえば、こぎれいでサッパリと
した人たちであったりした。
そういう様子だけを見ていると、だれも家の中がそういう状態になっている
とは思わないだろう。
またそういう話をしても、だれも信じないだろう。
つまりはそういうタイプの人たちであった。

●捨てる美学

ガランと何もない部屋。
その居心地のよさは、それを知っている人は、知っている。
それを知っているから、モノを買わない。
不要になったら、すぐ処分する。
が、それができない人は、できない。
それこそ道路に捨ててあるゴミまで拾って、もってきたりする。
そのちがいは、どこからどう生まれるのか?

そこでよく観察してみると、捨てる人も、捨てられない人も、
まさに『チリも積もれば……』という状態で、そうなることがわかる。
ある日、突然、ゴミ屋敷になるわけではない。
仮に、古い衣服を、1週間に1着、部屋のどこかに吊りさげたとする。
1年では、それが50着になる。
10年では、500着になる。
20年では、1000着になる。
こうしていつの間にか、その部屋は衣服で埋まってしまう。
ゴミにしても、そうである。

一方、部屋の中がガランとしている人もそうである。
(ただし潔癖症の人は、別。)
いつも何かを、無意識のまま処分している。
その前に、モノをあまり買わない。

一般論で言えば、戦前から戦後に生まれた人たちは、モノに対して、
独特の執着心をもっている。
モノ=財産という考え方をする。
貧しい時代の遺物と考えてよい。
そのため(まだ使えそうなもの)、(いつか使うかもしれないという
可能性のあるもの)があったりすると、それを捨てることができない。
さらにそれが高じたりすると、同じものがあっても、捨てることができない。
そのため同じものが、いくつもになったりする。

そこで「捨てる美学」。

●捨てる美学

実は私は今年の秋、実兄と実母を、つづいて亡くした。
で、実家は、だれも住んでいない。
そのあと始末にときどき実家へ帰っているが、これが結構、たいへん。
「たいへん」というのは、小さなモノならまだしも、大きなたんすなどの
家具類の始末がたいへん。
母や兄が大切にしていたものだから、それなりに保存しておいてやりたい。
しかしそういったものを、私の家に持ち込むことはできない。
それこそ足の踏み場もなくなってしまう。
しかしそこは心を鬼にするしかない。

捨てるものは、思い切って捨てる。
それがここでいう『捨てる美学』ということになる。
これは私の息子たちに迷惑をかけないためでもある。
が、誤解しないでほしいのは、捨てるのが美学というのではない。
捨てることによって、身辺がスッキリする(=clearになる)。
結果として、気持ちよく家を使うことができる。
それが『美学』ということになる。

●心の病気

こうして考えてみると、モノを捨てられない、モノをためこむという人は、
心に何らかの病気があるとみてよいのではないか。
(もちろん当人たちは、否定し、それに猛反発するだろうが……。)
しかし常識で考えて、ある一線を超えている人は、そうであると考えてよいのでは?

素人の私がこう書くのは、たいへん危険なことは承知している。
しかしふつうの心理状態でないことだけは、確か。
だから今、モノをつぎつぎと買い込んだり、集めたりしている人は、一度、自分自身の
心の中をのぞいてみるとよい。

フロイト理論で考えるなら、年齢的には、2〜4歳前後に、心に影響を与える
ような何らかの大きな事件が、日常的につづいたということになる。
親の無視、冷淡、虐待、育児放棄など。
家庭騒動や離婚問題(離婚が問題と言っているのではない。離婚に至る
騒動が問題と言っている。誤解のないように!)、さらには赤ちゃん返りも
その中に含まれる。

そういう問題が、心をふさぎ、精神の発達を阻害した?
病気と言えるような病気ではなかったかもしれないが、それがおとなになっても、
尾を引いている?

もちろんこの日本では、他人に迷惑さえかけなければ、一応、何をしても
よいということになっている。
それがその人の家であれば、モノで足の踏み場がなくても、それはその人の
勝手。
その人がそれでよい、あるいは住み心地がよいと言うのであれば、それでよい。
他人である私がとやかく言う問題ではない。

というのも、私たち自身も、いろいろな形で、乳幼児期という(過去)を
引きずっている。
私も引きずっているし、あなたも引きずっている。
心の世界では、「正常」とか、「正常な人」という言葉は存在しない。
その定義すら、ない。
ただ大切なことは、いつかどこかで、自分でそれに気がつくということ。
そのために一度は、自分の心の中をのぞいてみるということ。

そういう意味でも、自分を知るということは、難しい。
本当に難しい。

たとえば私の知人の中には、異常なまでにケチな人がいる。
どうケチであるかを説明しても、説明しきれない。
たとえばコンドームでも、何度も洗って使っている。
そういうケチである。

そういう人でも、一度自分の過去をのぞいてみたら、もう少しは
自分の姿を客観的にとらえることができるようになるかもしれない。
そしてそれができれば、自分で自分をコントロールできるように
なるかもしれない。

まずいのは、そういう過去があることも知らず、(あるいは気づかず)、
いつまでもその過去に引きずり回されること。
しかしそれは同時に、自分であって自分でないものに支配されることを
意味する。
言うなれば(過去の奴隷)?
もしそうであるなら、いつまでたっても、真の自由を手にすることはできない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
はやし浩司 心の奴隷 ゴミ屋敷 ごみ屋敷 ゴミを捨てられない人)

(補記)

ときどき異常なほどまでに、小銭にケチな人がいる。
年齢には関係ない。
「ぼくにはお金がないから……」を、いつも口癖にする。
実際には、1円も払わない。
それでいて財産がないかというと、そうでもない。
結構な遺産を引き継いでいたり、あるいは、市からの補償金を
手に入れたりしている。

そういう人に共通する特徴をあげてみると、まず気がつくのは、
「損になることは、何もしない」という生活態度。
具体的にはボランティア活動のようなことは、いっさいしない。
(中にそれらしきする人もいるが、あくまでも他人の目を意識して、
そうするに過ぎない。)

そこで大切なのが、『損の美学』。
人は、損をすることで、成長する。
心を広くすることができる。
が、それだけではない。
モノ、マネーに対する執着心を消すことができる。
それはすがすがしく、この世を生きるための鉄則でもある。

ただし同じ(損)でも、欲得がからんだ損は、意味がない。
たとえば債券投資で損をしたとか、株の売買で損をしたとかなど。
他人にだまされた損も、含まれる。

ここでいう「損」とは、自己犠牲を伴う損をいう。
たとえばボランティア活動が、それに当たる。
が、欲得がからんだ「損」は、その人をますますケチにする。

無私、無益で損を重ねる。
それが損ともわからないほどまで、損を重ねる。
私がいう『損の美学』というのは、それをいう。

(参考)

ウィキペディア百科事典より、抜粋。

***********以下、ウィキペディア百科事典より*************

フロイトによれば、この時期の小児性欲の中心は肛門である。子供は排便を意識し、コントロ
ールの方法を教えられ、適切なときと場所でトイレに行くという「トイレットトレーニング(排泄訓
練)」が可能になる。時期については諸説あるがおおむね2歳から4歳頃までとされる。この時
期の子供には自己中心的、情動的な傾向が強い。そのため自分の欲求を即座に満たそうと
する場合がままある。排泄という肉体的反応を適切に行なえるようになることで、そうした情動
的な性格に対し何らかの影響があるとされる。

この時期の子供に対して親は規則正しく衛生的に排便するように励ますことが求められる。そ
うした親からの働きかけが社会的圧力となり、適切な排泄行為をしなければならない、という抑
圧とそれが達成できたときの達成感や充実感を得る。また排便のタイミングを自分で判断する
ことにより、自信と「ものをあきらめる能力」が発達し、子どもは自律のための重要な一歩を踏
み出す。ただし、子供をトイレに無理矢理いかせたり、過度にタイミングや清潔さに厳しすぎる
と、子供のパーソナリティにさまざまな問題を生じる可能性があるともされる(後述の肛門的固
着参照)。

+++++++++++++++

"肛門期的性格が固着すると、どんなものでも捨てるのを嫌がるようになることがある。そういう
ひとは、ためこみ屋でけち(典型的な肛門保持)になることがある。これはトイレを強要するだ
けではなく、適切な圧力をかけない放任でも起こることがあり、親と子供の性格や関係にもよっ
てまちまちである。 

"規則的にトイレに行くことばかりを強要すると、極度に時間に正確だったり、あるいは、常に
遅刻するようなタイプの人間になったりする。

"清潔さを強調しすぎると強迫観念的なパーソナリティになり、いつも掃除や整頓を気にする人
間になることがある。あるいは、反発していつもだらしない人間になることもある。 

**********以上、ウィキペディア百科事典より*************

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
肛門期 ためこみ屋 けち ごみ屋敷)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●「有能」vs「有用」?

+++++++++++++++++++

昨日朝早く、目覚まし時計についていた
ラジオにスイッチを入れた。
とたん、こんな声が聞こえてきた。
雰囲気からして、どこかの宗教団体提供の
番組だったかもしれない(?)。

こう言った。

「有能な人間より、有用な人間になれ」
「有用な人間こそが、出世できる……」と。

「有能」という言葉と、「有用」という言葉が
交互に、何度も出てきた。

私はこの説教(?)を聞いて、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感じた。

++++++++++++++++++++

●私は私

私は私、人は人。
私には私の考えがあり、人には人の考えがある。
大切なことは、それぞれの人の考えを尊重すること。
それぞれの人の考えを参考に、さらに自分の考えを
積み重ねること。
が、ときに人の話を聞いたとき、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感ずることもある。
昨日の朝もそうだった。

あるラジオ局が、こんな説法をしていた。
「有能な人間より、有用な人間であれ。
それが出世への道である……」と。
どこか無機質で、単調な言い方だった。
その言い方から、私はスポンサーは、どこかの
宗教団体でなかったか。
(確認はしていない。)

●有能と有用

有能と有用。
似たような言葉だが、どちらかを取れと言われれば、
私なら「有能」を取る。
「有用」という言葉を聞くと、そこにどうしても他人の目
を感じてしまう。
たしかに他人との協調性は大切だが、それは集団とか、
もしくは組織の中での話。
有用という言葉も、そういうところでは生きる。
しかし「有用」だけを考えていると、私が私でなくなってしまう。
私は、それを心配する。

具体的に考えてみよう。

●社会で役に立つ人間

少し前まで、「社会で役立つ人間づくり」が、教育の柱に
なっていた。
学校の卒業式などでも、この言葉がよく使われた。
しかしこの言葉は、戦前の「お国のために役立つ人間」に
ルーツを求めることができる。
「お国」が「社会」になった。
「お国のため」が、「社会のため」になった。
それに「役立つ」がくっついた。
こういう例は多い。
そしてこうした考え方の中から、日本独特のあの出世主義が生まれた。

●出世主義vs家族主義

この日本では、地位役職にある人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは言わない。
しかし英語には、「偉い人」にあたる単語すらない。
あえて言うなら、「respected man」という言葉がある。
日本語に訳すと「尊敬される人」ということになる。

しかし「尊敬される人」というときには、地位や役職は関係ない。
地位や役職がなくても、尊敬される人は尊敬される。
地位や役職があっても、尊敬されない人は尊敬されない。

とくに私たち団塊の世代は、子どものころからこの「出世」という
言葉に踊らされた。
「立派な人になってください」
「偉い人になってください」と。

しかしこうした出世主義は、1990年ごろから、急速に、しかも
音を出して崩れ始めた。
日本人の意識が急速に変化し始めた。
家族主義の台頭である。
このころから「仕事よりも家族が大切」と考える人が、急速にふえ始めた。
それを決定的にというか、強烈に印象づけたのが、あの山一證券の倒産劇で
ある。

山一證券が倒産したとき、社長ともあろう人物が、テレビカメラに向かって、
「みんな、私が悪いのです」と、泣きじゃくってみせた。
それは私たちに大きな衝撃を与えた。

●子どもの世界では

集団教育という場では、協調性は、必要不可欠。
それはわかる。
浜松市内にあるS小学校(ゆいいつ入試を実施している小学校)の入試説明会でも、
この言葉が、まず最初に、使われる。
「当校は、教育研修校であります。
いろいろな先生が研修にやってきます。
そのため協調性のある子どもを求めます」と。

しかしその一方で、集団が苦手という子どももいるのも事実。
原因はいろいろある。
理由もいろいろある。
子ども自身の心の問題がからんでいることもある。
それはそれとして、こうした傾向は幼稚園の年中児くらいになると、
はっきりとしてくる。

そういう子どもを無理に、集団に押し込めるのも、どうか。
その子どもにとっては、苦痛以外の何ものでもない。
多くの親たちは、「うちの子が集団になじめないのは、慣れていないから」と
考える。
しかしこれは(慣れ)の問題ではない。
無理をしても意味はない。
無理をすれば、かえって逆効果。
子どもはますます集団になじめなくなってしまう。
そういうこともあって、現にアメリカでは、学校へ行かないで、
自宅で教育を受けるホームスクーラーが、1990年の終わりに100万人を超えた。
その後もどんどんとふえて、現在、200万人を超えていると推定される。

●よき家庭人

一方、欧米では、『よき家庭人づくり』が、教育の柱になっている。
アメリカでもオーストラリアでも、「Good Family Man(よき家庭人)」という。
フランスでもドイツも、そう言う。

あるいはアメリカでもオーストラリアでは、どの学校へ行っても、
「Independent」という文字がよく目につく。
「独立した」という意味である。
恩師の田丸謙二先生も、論文の中で、よく「Independent Thinker」という
言葉をよく使う。
「独創的な思考力をもった人」と、私は解釈している。

むしろ集団に背を向けて生きることこそ、大切と。
あのマーク・トゥエインもこう書いている。

『他人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるべきとき』
(トム・ソーヤ)と。

もちろん弊害がないわけではない。
オーストラリアに住む友人は、こういった。
「オーストラリアでは、大企業が育たない。
その理由のひとつが、(Independent)という言葉にある」と。

「オーストラリアの若者たちは、高校を卒業したりすると、
車一台と電話一本で、仕事を始める。
それが今、問題になっている」と。

●協調性

だからといって、協調性がなくてもよいというわけではない。
他人とのかかわりの中では、協調性なくして、円滑な人間関係を結ぶことは
できない。
しかしそれより大切なのは、「共鳴性」(EQ論)である。
それについて書くのはここでの目的ではないので、省略する。

しかし「協調性」を問題にする国というのは、そうはない。
教育の世界でも、「子どもに合わせた教育」を考える国は多いが、
「集団(国)に合わせた教育」を考えるのは、独裁国家か、それに類する
国でしかない。

つまり「社会に役立つ人間」というところから、「有用」という言葉が生まれた。
(その逆でもよいが……。)

こういう背景を忘れて、一方的に「有用」という言葉を使うのは、
危険なことでもある。
戦前の日本を見れば、それがわかる。

●結論

生き方にもいろいろあり、職業にもいろいろある。
1人の個人を見たばあいでも、いろいろな場面がある。
「有用」という言葉が生きる場面もある。
「有能」という言葉が生きる場面もある。
一方、「有用」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。
「有能」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。

それに「有能」といっても、それが生かされない場面もある。
せっかく有能であっても、それを認める環境が整わないと、かえって
苦しむのは、その個人ということにもなる。

が、結論として、こういうことは言える。
「有能」は、一生かかっても、その人が追求すべきテーマとなりうる。
しかし「有用」ばかり気にしていると、かえってその人は自分を
見失ってしまう
少なくとも、一生かかって追求すべきテーマではない。
ほどほどに、ということになる。

が、あえて言うなら、私たちは、有能な人がもっと認められる社会を、
もっと目指さねばならない。
今の日本の社会は、「有用」ばかりが重んじられ、「有能」が、あまりにも
無視されすぎている。







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【学歴制度】

●5か条の御誓文

+++++++++++++++++++
1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

+++++++++++++++++++++

明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があ
り、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員
試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための
予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退
職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間
勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官
ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を
責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所
の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務
員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、
今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、
公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを
意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、
そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ども
が、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本
と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、そ
れがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけて
も、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そう
いう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現
状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今
は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強
するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥で
ある。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」
という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも
勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なの
に、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使っ
た。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったに
ちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書
や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や
華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約7
5〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣され
ていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身
が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そ
して国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本
人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづく
と、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑
う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が
見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、県令
(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度
ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、
末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学
校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の
学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけ
て、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の
生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということに
なる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時
点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦し
み、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今
も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あ
るいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさ
す。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年
長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教え
ることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって
重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれな
いもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしま
う。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 
幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会)









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●性自認

【女児願望の男児(?)】

++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

++++++++++++++++++++

 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

+++++++++

【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、
それをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありまし
た。強く否定していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいい
のでしょうか? どう返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら
病院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知
られている。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、そ
の結果として、性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。
また女子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自
己の変化そのものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあ
れ、ほとんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとな
への脱皮をはかるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を
見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、
自意識が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネ
ガティブ)な世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、
そのひとつである。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱
としての「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させること
ができない「性同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の
身体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の
身体の性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容
できず、更にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状
態を指して性同一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」
という表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちで
あるため、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性
が食い違った状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多
くの場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致
しているが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や
遺伝子的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観
察される。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれか
に正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考え
られない症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。
また、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づく
ケースもある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障
害者は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状
の一形態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、
(代表的な症例では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 という
のは、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決
して多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまった
くなかったと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者
が、何らかの性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウ
ンセリングの場では、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうとこ
ろのニューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、
売春以外観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、
男性型の身体より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去
勢をし、十代後半になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、
それを防ぐための文言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々
を、性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドライ
ンの第2版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明
記された。

++++++++++++

●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりも
しそうであるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」
というよりも、個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たち
にとっては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということにな
る。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、か
えって追いつめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオース
トラリアで学生生活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもって
いると考えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかという
ことさえ、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うこと
さえ、許されなくなる。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたの
は、X君が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあ
ったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあ
るのを見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたよう
に、ほかに気になることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んで
しまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の
母親は、その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、
わからなくなってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでない
ものを見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうす
ることもできませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方
のないことと、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあ
っていません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問
題だけは、なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なこ
とは、息子が自分で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3
〜4年生くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両
手をすりあわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、
そうした冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでに
Y君に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱ
りと言った。「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてく
ると、Y君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめ
かしいというか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、こ
こに書いたY君である。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校
生と、恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部
の席で、手をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、
それで終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性
同一性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性
障害者ということにはならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、
「自分は女性」と思いこんんでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と
思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」
である。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに
添付する。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が
生まれてくる。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職
に応じたものの考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性
をもつ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、
失敗など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混
乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観
に大きな影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そ
ういう方向で勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を
勧められ、文科系コースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさ
からうなどということは、できなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにも
こうにも、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そ
のときですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自
分の職業を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えて
よい。ほとんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そ
して、その性別にふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まっ
たくの「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなっ
たということもある。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因について
は、いろいろな説があるが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、
いじめられて泣くのは、男児、いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってし
まっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」
になりきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事を
しなさい」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、
自我そのものまで軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代
に押しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだというこ
とになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなけれ
ばならない。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞ
き、男女差別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べ
る学校もふえている。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線
の運転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そうい
う問題も、考えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差
別してはならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、
今後は、性による差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日
本を変えていく。意識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなけれ
ばならない。
(030622)

++++++++++++++

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書い
てきたことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。
残念ながら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを
見たこともないし、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無
だった。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、
そうした服装を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、
からかわれた時代もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思
う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、
子どもは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そ
ういう部分で、親として、できることはしなければならない。反対に、してならないこと
は、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、
狩りの仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要であ
る。男児が男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、
考えられる。(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化
するケースもある。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視
点で、一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもし
れない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思わ
れる。仮に性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどな
い。いわんや病院へ連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日
本では、たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、
もがき苦しんでいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、
もがき苦しんでいる人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
同性愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。
しかし現実には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」
を自覚することが多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果と
して、「自分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳を
とってからの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、
若いときに見た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、
女を意識するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自
身のことでよく覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなっ
てしまった。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の
下着を見てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよく
おぼえていない。しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、
私は、そのとき強烈な衝撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致
を起こしたとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるな
ら、問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出て
くるようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だ
けで、こうした人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視
点で、こうした人たちを、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うこと
はできない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的
には、自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしか
に、自分の子どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがあ
る。しかしそれは、(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけ
ながら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が
同居していることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」
というようなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているよ
うにも思う。もしあのとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、
私を病院へつれていくと言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。


 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あ
るいはどんな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につ
いて言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」と
いう図式が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそ
うした原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同
一性障害を問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生
がいたので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、
真顔でこう答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生
もいた。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。
その高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう
書くと、軟弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞
台でギター独奏したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞く
と、「こわかった……」と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣く
のはたいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがってい
る。先日も一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、
ウンチを教室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。
母親はいじめられていることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもら
し」と呼ばれたら、相手の子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決
するはずである。しかもその相手というのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポ
カリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はな
にも、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は
女子らしくという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいく
らがんばっても、妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべき
だというのは、おかしい。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教
師は皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(9
8年、浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐
怖症になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、
今、新時代の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加し
なさい」と指導しても、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう
日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランス
は第一次大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男
性は限りなく女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツ
の侵略には、ひとたまりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
男児の女児化 男性の女性化)






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【子どもとテレビ】(アメリカ。OHIO州、ARKON 子ども病院・HPより)

 アメリカの子どもたちは、平均して1日、4時間、テレビを見ている。この時間は、アメリカ小児
科医学会(AAP)が提唱している、最大時間の2時間の2倍である。平均的な子どもは、学校
で900時間を過ごすが、一方、テレビの前で、1023時間を過ごしている。
Most children plug into the world of television long before they enter school: 70% of child-
care centers use TV during a typical day. In a year, the average child spends 900 hours in 
school and nearly 1,023 hours in front of a TV.

AAPによれば、合衆国の子どもたちは、1日平均、4時間のテレビを見ている。AAPの示した
ガイドラインによれば、質のよいテレビ番組にしても、1〜2時間ということになっている。
According to the American Academy of Pediatrics (AAP), kids in the United States watch 
about 4 hours of TV a day - even though the AAP guidelines say children older than 2 
should watch no more than 1 to 2 hours a day of quality programming.

同じガイドラインによれば、2歳以下の子どもは、TV、DVD、ビデオ、コンピュータ、ビデオゲー
ムも含めて、「画面時間(Screen time)」をもつべきではないとなっている。最初の2年間という
のは、脳の発育に関して、たいへん重要な時期なのだが、テレビは、探索したり、学んだり、両
親と交流したり遊んだりすることにじゃまになる。こうしたことを通して、認識力や、体力、社会
性、情緒を発達させる。
And, according to the guidelines, children under age 2 should have no "screen time" (TV, 
DVDs or videotapes, computers, or video games) at all. During the first 2 years, a critical 
time for brain development, TV can get in the way of exploring, learning, and spending time 
interacting and playing with parents and others, which helps young children develop the skills 
they need to grow cognitively, physically, socially, and emotionally.

もちろんテレビは、適度であれば、よいものである。就学前の子どもたちは、公共のテレビを通
して、学ぶ助けを得る。あるいは就学後は、自然番組を通して、野生生活を学ぶことができ
る。あるいは親たちは、夕方のニュースで最近のできごとを知ることができる。テレビは、疑い
もなく、すばらしい教育者であり、娯楽者である。
Of course, television, in moderation, can be a good thing: Preschoolers can get help learning 
the alphabet on public television, grade schoolers can learn about wildlife on nature shows, 
and parents can keep up with current events on the evening news. No doubt about it - TV 
can be an excellent educator and entertainer.

これらの利点にもかかわらず、テレビの見過ぎは、有害である。
But despite its advantages, too much television can be detrimental:

●たとえば常に1日4時間以上テレビを見ている子どもは、肥満傾向が見られる。
●誘拐番組や殺人などの暴力番組を見ている子どもは、世界とは恐ろしいところであり、何か
悪いことが起きるのではないかと考える傾向が強くなる。
●テレビは、ジェンダー(性差別)や人種偏見を助長する。

"Research has shown that children who consistently spend more than 4 hours per day 
watching TV are more likely to be overweight. 
"Kids who view violent events, such as a kidnapping or murder, are also more likely to 
believe that the world is scary and that something bad will happen to them. 
"Research also indicates that TV consistently reinforces gender-role and racial 
stereotypes. 

こうした中、子どもの保護者たちは、解決策を求めて、二分される。もっと教育的な番組をふや
せと考える人がいる一方で、テレビがないのが、いちばんよいと考える人もいる。また両親が
テレビをコントロールして、子どもにテレビとは、娯楽のためのものであり、現実逃避のための
ものではないと教えるのがよいと言う人もいる。
Children's advocates are divided when it comes to solutions. Although many urge for more 
hours per week of educational programming, others assert that no TV is the best solution. 
And some say it's better for parents to control the use of TV and to teach children that it's 
for occasional entertainment, not for constant escapism.

それ故に、あなたが(親として)、子どもが見ているテレビ番組をモニターし、視聴時間を制限
し、そのことによって、ほかの子どもとの活動や遊び、運動や読書に過ごされるべき時間を、テ
レビを見ることによって過ごさせないようにすることが重要である。
That's why it's so important for you to monitor the content of TV programming and set 
viewing limits to ensure that your child doesn't spend time watching TV that should be spent 
on other activities, such as playing with friends, exercising, and reading.

Violence(暴力)

アメリカの子どもたちが、どれだけ暴力番組を見ているかについてだが、平均的なアメリカの
子どもたちは、18歳までに、テレビで、20万の暴力シーンを見るだろうということ。テレビの暴
力は、ときとして、子どもたちによって模倣される。なぜなら、そうしたシーンは、しばしば、おも
しろく、かつあなたがしたいことをするための効果的な方法として示されるからである。
To give you perspective on just how much violence kids see on TV, consider this: The 
average American child will witness 200,000 violent acts on television by age 18. TV violence 
sometimes begs for imitation because violence is often demonstrated and promoted as a 
fun and effective way to get what you want.

AAPが指摘するように、多くの暴力行為は、「善人」によって、なされるということ。そのため、
子どもはそれを競うように教えられる。いくら親が、他人を殴る権利はないと教えても、テレビ
は、あなたが善人なら、かみついたり、殴ったり、蹴ったりしてもOKと教える。「悪人」は、そうさ
れてもしかたないと教えられる。
And as the AAP points out, many violent acts are perpetrated by the "good guys," whom 
children have been taught to emulate. Even though children are taught by their parents 
that it's not right to hit, television says it's OK to bite, hit, or kick if you're the good guy. 
And even the "bad guys" on TV aren't always held responsible or punished for their actions.

子どもたちが吸収するイメージは、トラウマ化され、心のキズとなる。研究によれば、2〜7歳の
子どもは、グロテスクなこわく見えるものに対して、とくにおぼえるということがわかっている。こ
の年齢の子どもに、「これは作り物である」と教えても、なぐさめにはならない。なぜなら、この
時期の子どもは、(現実)と(ファンタジー)の区別がつかないからである。
The images children absorb can also leave them traumatized and vulnerable. According to 
research, children ages 2 to 7 are particularly frightened by scary-looking things like 
grotesque monsters. Simply telling children that those images aren't real won't console 
them, because they can't yet distinguish between fantasy and reality.

8〜12歳の子どもは、それがフィクションであれ、ニュースであれ、現実に起きたことであれ、
暴力、自然災害、子どもが犠牲になる事件によって、おびえる。この年齢の子どもには、理由
づけが大切である。つまり、子どもたちのおそれをやわらげるため、再検討してみたり、正直な
情報を与えることが大切である。が、あなたは、子どもたちがおびえるような番組を見るのを避
けたいと願っているかもしれない。
Kids ages 8 to 12 are frightened by the threat of violence, natural disasters, and the 
victimization of children, whether those images appear on fictional shows, the news, or reality
-based shows. Reasoning with children this age will help them, so it's important to provide 
reassuring and honest information to help ease your child's fears. However, you may want 
to avoid letting your child view programs that he or she may find frightening.

Risky Behaviors(危険な行為)

テレビには、セックスや薬物乱用などのような危険な行為を、楽しく、エキサイティングなものと
描写する番組やコマーシャルが満ちている。そしてアルコールを飲むことの結果、薬物やタバ
コを使用することの結果、あるいは婚前セックスの結果について、議論がなされない。
TV is chock full of programs and commercials that often depict risky behaviors such as sex 
and substance abuse as cool, fun, and exciting. And often, there's no discussion about the 
consequences of drinking alcohol, doing drugs, smoking cigarettes, and having premarital sex.

たとえば、性的な番組をたくさん見ている10代の子どもたちは、そうした番組を見ない子ども
たちよりも、性交を主導し、他の性的行為に参加する傾向が見られる。
For example, studies have shown that teens who watch lots of sexual content on TV are 
more likely to initiate intercourse or participate in other sexual activities earlier than peers 
who don't watch sexually explicit shows.

テレビでのアルコールの宣伝は、過去数年間、増えつづけ、未成年の子どもたちは、それらに
より、さらされている。the Center on Alcohol Marketing and Youth (CAMY=アルコール・マー
ケティングと若者センター・ジョージタウン大学)の調査によれば、10代の子どもたちが見る番
組の上位15の番組は、アルコールのコマーシャルを流していた(2003年)。
Alcohol ads on TV have actually increased over the last few years and more underage 
children are being exposed to them than ever. A recent study conducted by the Center on 
Alcohol Marketing and Youth (CAMY) at Georgetown University found that the top 15 teen-
oriented programs in 2003 had alcohol ads.

テレビでのタバコの宣伝は禁止されているが、子どもや10代の子どもたちは、テレビで流され
る映画番組の中で、たくさんの人たちがタバコを吸っているシーンを見ている。こうした番組を
見ることによって、子どもたちは、タバコを吸ったり、アルコールを飲むことは、許される行為だ
と知る。事実、1日に5時間以上テレビを見る子どもは、推奨される2時間以下しかテレビを見
ない子どもたちより、ずっとタバコを吸う傾向が強いことがわかっている。
And although they've banned cigarette ads on television, kids and teens can still see plenty 
of people smoking on programs and movies airing on TV. This kind of "product placement" 
makes behaviors like smoking and drinking alcohol seem acceptable. In fact, kids who watch 
5 or more hours of TV per day are far more likely to begin smoking cigarettes than those 
who watch less than the recommended 2 hours a day.

Obesity(肥満)

専門家たちは、テレビの見過ぎと肥満の関係を指摘している。これが今日、もっとも重要な健
康上の問題である。テレビを見ている間、子どもたちは不活発になり、その間、スナック類を食
べる。そしてその間、たとえばポテトチップスや、スナックを求めるようなソフトドリンクなどのよ
うな不健康な食品を食べるようにしむける、宣伝メッセージを爆弾のように見せられる。
Health experts have long linked excessive TV-watching to obesity - a significant health 
problem today. While watching TV, children are inactive and tend to snack. They're also 
bombarded with advertising messages that encourage them to eat unhealthy foods such as 
potato chips and empty-calorie soft drinks that often become preferred snack foods.

多くの教育的な番組ですら、子どもの健康に、間接的な影響を与える。1日に、質のよいテレビ
番組を4時間、見ている子どもにしても、その間、そういう子どもたちは、運動もせず、社会活
動もせず、かつ野外活動もしない。
Too much educational TV has the same indirect effect on children's health. Even if children 
are watching 4 hours of quality educational television, that still means they're not exercising, 
reading, socializing, or spending time outside.

研究によれば、テレビを見る時間を減らすことによって、体重を減らし、BMI値を低くすること
がわかっている。
But studies have shown that decreasing the amount of TV children watched led to less 
weight gain and lower body mass index (BMI - a measurement derived from someone's 
weight and height).

Commercials(コマーシャル)

AAPによれば、子どもたちは、1年間に4万ものコマーシャルを見ている。土曜日の朝のマン
ガの中の、ジャンクフードからおもちゃのコマーシャルにはじまって、小麦食品の宣伝まで、あ
らゆる年齢の子どもたちを、宣伝が子どもたちを水漬けにする。そして子どもたちにとっては、
それを食べなければならないかのようなものとして、そうしたものをとらえる。それらはすべて、
それが実際そうであるよりも、ずっと、魅力的なものであるというふうに、聞こえる。
According to the AAP, children in the United States see 40,000 commercials each year. 
From the junk food and toy advertisements during Saturday morning cartoons to the 
appealing promos on the backs of cereal boxes, marketing messages inundate kids of all 
ages. And to them, everything looks ideal - like something they simply have to have. It all 
sounds so appealing - often, so much better than it really is.

8歳以下の子どもにとっては、コマーシャルが、ものを売るための方法であるということが理解
できない。6歳以下の子どもたちは、番組と、コマーシャルの区別すらできない。とくに子どもた
ちが好きなキャラクターが、その製品の販売促進をしているようなときは、そうである。それ以
上の年齢の子どもにしても、宣伝の意味を教える必要がある。
Under the age of 8 years, most children don't understand that commercials are for selling a 
product. Children 6 years and under are unable to distinguish program content from 
commercials, especially if their favorite character is promoting the product. Even older 
children may need to be reminded of the purpose of advertising.

こうしたコマーシャルを、子どもの前から消すのは、不可能である。子どもがそれを見る間、テ
レビを消すことはできる。しかしチャンネルをかえるたびに、子どもたちは、それを見たり聞い
たりする。
Of course, it's nearly impossible to eliminate all exposure to marketing messages. You can 
certainly turn off the TV or at least limit kids' watching time, but they'll still see and hear 
advertisements for the latest gizmos and must-haves at every turn.

あなたができることは、子どもがテレビを見ている間、子どもたちがそれについてどう思い、考
えているかについて、教えることはできる。「あれをあなたはどう思うか」「あの宣伝ほど、あれ
はほんとうによいものだと思うか」「あれは健康によいものだと思うか」とかなど、考えることを
刺激することはできる。
But what you can do is teach your child to be a savvy consumer by talking about what he 
or she thinks about the products being advertised as you're watching TV together. Ask 
thought-provoking questions like, "What do you like about that?," "Do you think it's really as 
good as it looks in that ad?," and "Do you think that's a healthy choice?"

子どもがその宣伝されたものについて質問をしたときには、人々がかならずしも必要としないも
のをほしがらせるようにするものだということを、子どもに説明する。そしてこうしたコマーシャ
ルが、こうしたものが、私たちを幸福に思わせるように作られているということを説明する。現
実にはどうであるかを子どもたちに説明することは、子どもに、それがそういうものであることを
教えるのに役立つ。
Explain, when your child asks for products he or she sees advertised, that commercials and 
other ads are designed to make people want things they don't necessarily need. And these 
ads are often meant to make us think that these products will make us happier somehow. 
Talking to kids about what things are like in reality can help put things into perspective.

子どもたちの世界から、テレビコマーシャルを制限するため、AAPは、つぎのように推奨する。
To limit your child's exposure to TV commercials, the AAP recommends that you:

●子どもには、コマーシャルがほとんどない、公共放送を見せる。
●コマーシャルのない、テープ番組を見せる。
●子ども向けのビデオやDVDを見せる。
"Have your kids watch public television stations (some programs are sponsored - or "
brought to you" - by various companies, although the products they sell are rarely shown). 
"Tape programs - without the commercials. 
"Buy or rent children's videos or DVDs. 

Understanding TV Ratings and the V-Chip(テレビ評価と、V−チップス)

Two ways you can help monitor what your child watches are:

TV Parental Guidelines. (テレビのガイドライン)。Modeled after the movie rating system, this 
is an age-group rating system developed for TV programs. These ratings are listed in 
television guides, TV listings in your local newspaper, and on the screen in your cable 
program guide. They also appear in the upper left-hand corner of the screen during the first 
15 seconds of TV programs. But not all channels offer the rating system. For those that do, 
the ratings are:
"TV-Y: suitable for all children 
"TV-Y7: directed toward kids 7 years and older (children who are able to distinguish 
between make-believe and reality); may contain "mild fantasy violence or comedic violence
" that may scare younger kids 
"TV-Y7-FV: fantasy violence may be more intense in these programs than others in the TV
-Y7 rating 
"TVG: suitable for a general audience; not directed specifically toward children, but contains 
little to no violence, sexual dialogue or content, or strong language 
"TV-PG: parental guidance suggested; may contain an inappropriate theme for younger 
children and contains one or more of the following: moderate violence (V), some sexual 
situations (S), occasional strong language (L), and some suggestive dialogue (D) 
"TV-14: parents strongly cautioned - suitable for only children over the age of 14; contains 
one or more of the following: intense violence (V), intense sexual situations (S), strong 
language (L), and intensely suggestive dialogue 
"TV-MA: designed for adults and may be unsuitable for kids under 17; contains one or more 
of the following: graphic violence (V), strong sexual activity (S), and/and crude language (L) 

V-chip (V is for "violence"). This technology was designed to enable you to block television 
programs and movies you don't want your child to see. All new TV sets that have screens 
of 13" or more now have internal V-chips, but set-top boxes are available for TVs made 
before 2000. So how exactly does the V-chip work? It allows you to program your TV to 
display only the appropriately-rated shows - blocking out any other, more mature shows.
The Federal Communications Commission (FCC) requires that V-chips in new TVs 
recognize the TV Parental Guidelines and the age-group rating system and block those 
programs that don't adhere to these standards.
For many, the rating system and V-chip may be valuable tools. But there is some concern 
that the system may be worse than no system at all. For example, research shows that 
preteen and teen boys are more likely to want to see a program if it's rated MA (mature 
audience) than if it's PG (parental guidance suggested). And parents may rely too heavily on 
these tools and stop monitoring what their children are watching.
Also, broadcast news, sports, and commercials aren't rated, although they often present 
depictions of violence and sexuality. The rating system also doesn't satisfy some family 
advocates who complain that they fail to give enough information about a program's 
content to allow parents to make informed decisions about whether a show is appropriate 
for their child.
So even if you've used the V-chip to program your TV or a show features the age-group 
ratings, it's still important to preview shows to determine whether they're appropriate for 
your child and turn off the TV if the content becomes inappropriate for your child.

Teaching Your Child Good TV Habits(子どもに、よいテレビ習慣を教える)

家庭で応用できる、よいテレビの見せ方
Here are some practical ways you can make TV-viewing more productive in your home:

"Limit the number of TV-watching hours: (時間制限)

○テレビのある部屋に、テレビ以外のたくさんのものを置く。(本、子ども雑誌、おもちゃ、パズ
ル、ボードゲームなど。)テレビを見ること以外に、子どもができることを、多く用意する。

○子どものベッドルームからテレビを除く。

○食事中は、テレビを消す。

○宿題をしているときは、テレビを消す。

○テレビを見るのは、何かの作業をしたあとの特権であるというように扱う。たとえば、雑用や
宿題をしたあとにだけ見られるようにする。

oStock the room in which you have your TV with plenty of other non-screen entertainment 
(books, kids' magazines, toys, puzzles, board games, etc.) to encourage your child to do 
something other than watch the tube. 
oKeep TVs out of your child's bedroom. 
oTurn the TV off during meals. 
oDon't allow your child to watch TV while doing homework. 
oTreat TV as a privilege that your child needs to earn - not a right to which he or she is 
entitled. Tell your child that TV-viewing is allowed only after chores and homework are 
completed. 

"Try a weekday ban. (終日の禁止)Schoolwork, sports activities, and job responsibilities 
make it tough to find extra family time during the week. Record weekday shows or save TV 
time for weekends, and you'll have more family togetherness time to spend on meals, games, 
physical activity, and reading during the week. 

"Set a good example by limiting your own television viewing. 


"Check the TV listings and program reviews ahead of time(あらかじめ、テレビ番組をチェック
する)for programs your family can watch together (i.e., developmentally appropriate and 
nonviolent programs that reinforce your family's values). Choose shows, says the AAP, that 
foster interest and learning in hobbies and education (reading, science, etc.). 

"Preview programs (番組を前もって見る)before your child watches them. 


"Come up with a family TV schedule(見てよい番組を、あらかじめ選ぶ) that you all agree 
upon each week. Then, post the schedule in a visible area (i.e., on the refrigerator) 
somewhere around the house so that everyone knows which programs are OK to watch and 
when. And make sure to turn off the TV when the "scheduled" program is over, instead of 
channel surfing until something gets your or your child's interest. 

"Watch TV with your child. (子どもといっしょにテレビを見る)If you can't sit through the 
whole program, at least watch the first few minutes to assess the tone and appropriateness, 
then check in throughout the show. 


"Talk to your child about what he or she sees (子どもが見ている番組について、話しかける)
on TV and share your own beliefs and values. If something you don't approve of appears on 
the screen, you can turn off the TV, then use the opportunity to ask your child thought-
provoking questions such as, "Do you think it was OK when those men got in that fight? 
What else could they have done? What would you have done?" Or, "What do you think 
about how those teenagers were acting at that party? Do you think what they were doing 
was wrong?" If certain people or characters are mistreated or discriminated against, talk 
about why it's important to treat everyone equal, despite their differences. You can use TV 
to explain confusing situations and express your feelings about difficult topics (sex, love, 
drugs, alcohol, smoking, work, behavior, family life). Teach your child to question and learn 
from what he or she views on TV. 

"Talk to other parents, your child's doctor, and your child's teachers(子どもの医師や先生
に、話す)about their TV-watching policies and kid-friendly programs they'd recommend. 


"Offer fun alternatives to television.(テレビ以外の楽しみを提供する)If your child wants to 
watch TV, but you want him or her to turn off the tube, suggest that you and your child 
play a board game, start a game of hide and seek, play outside, read, work on crafts or 
hobbies, or listen and dance to music. The possibilities for fun without the tube are endless 
- so turn off the TV and enjoy the quality time you'll have to spend with your child. 


Hiroshi Hayashi++++++++JAN 08++++++++++はやし浩司

Although news gleaned from television, radio, or the Internet can be a positive educational 
experience for kids, problems can arise when the images presented are violent or news 
stories touch on disturbing topics. Recent news about Hurricane Katrina and the 
earthquake in South Asia could potentially make a child worry that a natural disaster is 
going to hit home, or be fearful of a part of daily life - like rain and thunderstorms - that he 
or she never even thought about before.
Reports on subjects such as natural disasters, child abductions, homicides, terrorist attacks, 
school violence, or a politician's sex life can teach kids to view the world as a confusing, 
threatening, or unfriendly place.
How can you deal with these disturbing stories and images? Talking to your child about what 
he or she watches or hears will help your child put frightening information into a more 
balanced and reasonable context.
How Kids Perceive the News(子どもは、ニュースをどうとらえるか)
Unlike movies or entertainment programs, news is real. But depending on your child's age or 
maturity level, he or she may not yet understand the distinctions between fact and fantasy. 
By the time a child reaches 7 or 8, however, what he or she watches on TV can seem all 
too real. For some youngsters, the vividness of a sensational news story can be internalized 
and transformed into something that might happen to them. A child watching a news story 
about a bombing on a bus or a subway might worry, "Could I be next? Could that happen to 
me?"
Natural disasters or stories of other types of devastation can be personalized in the same 
manner. A child in Massachusetts who sees a house being swallowed by floods from a 
hurricane in Louisiana may spend a sleepless night worrying about whether his home will be 
OK in a rainstorm. A child in Chicago, seeing news about an attack on subways in London, 
may get scared about using public transportation around town. TV has the effect of 
shrinking the world and bringing it into your own living room.
By concentrating on violent stories, television news can also promote a "mean-world" 
syndrome, which can give children a misrepresentation of what the world and society are 
actually like.

Talking About the News(ニュースについて話す)
To calm children's fears about the news, parents should be prepared to deliver what 
psychologists call "calm, unequivocal, but limited information." This means delivering the 
truth, but only as much truth as the child needs to know. The key is to be as truthful, yet 
as inexplicit as you can be. There's no need to go into more details than your child is 
interested in.
Although it's true that some things - like a natural disaster - can't be controlled, parents 
should still give children space to share their fears. Encourage your child to talk openly 
about what scares him or her.
Older children are less likely to accept an explanation at face value. Their budding 
skepticism about the news and how it's produced and sold might mask anxieties they have 
about the stories it covers. If an older child is bothered about a story, help him or her cope 
with these fears. An adult's willingness to listen will send a powerful message.
Teens also can be encouraged to consider why a frightening or disturbing story was on the 
air: Was it to increase the program's ratings because of its sensational value or because it 
was truly newsworthy? In this way, a scary story can be turned into a worthwhile discussion 
about the role and mission of the news.

Tips for Parents
Keeping an eye on your child's TV news habits can go a long way toward monitoring the 
content of what he or she hears and sees. Here are some additional tips:

"Recognize that news doesn't have to be driven by disturbing pictures. Public television 
programs, newspapers, or newsmagazines specifically designed for children can be less 
sensational - and less upsetting - ways of getting information to children. 
"Discuss current events with your child on a regular basis. It's important to help kids think 
through stories they hear about. Ask questions: What do you think about these events? How 
do you think these things happen? These questions can encourage conversation about non-
news topics as well. 
"Put news stories in proper context. Showing that certain events are isolated or explaining 
how one event relates to another helps a child make better sense of what he or she hears. 
Broaden the discussion from a disturbing news item to a larger conversation: Use the story 
of a natural disaster as an opportunity to talk about philanthropy, cooperation, and the 
ability of people to cope with overwhelming hardship. 
"Watch the news with your child to filter stories as he or she watches them. 
"Anticipate when guidance will be necessary and avoid shows that aren't appropriate for 
your child's age or level of development. 
"If you're uncomfortable with the content of the news or if it's inappropriate for your child's 
age, turn off the TV or radio. 
"Talk about what you can do to help. In the case of a news event like a natural disaster, 
your child may gain a sense of control, and feel more secure if you find out about donations 
you can make or other ways that you can help those who you have heard about are in 
need. 
Reviewed by: Mary L. Gavin, MD
Date reviewed: September 2005
Originally reviewed by: Steven Dowshen, MD, and Jennifer Shroff Pendley, PhD
はやし浩司,幼児教育,子育て論,育児論,教育評論,評論家,育児評論,育児評論家,子育て評論,
子育て問題,育児問題,子育て、子どもとテレビ、子供とテレビ テレビ テレビ番組)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN 08++++++++++はやし浩司

●子どもとテレビ

 アメリカの子どもたちは、平均して1日、4時間、テレビを見ているという。この時間は、アメリ
カ小児科医学会(AAP)が提唱している、最大時間の2時間の2倍である。平均的な子どもは、
学校で900時間を過ごすが、一方、テレビの前で、1023時間を過ごすという(以上、アメリカ・
OHIO・Arkon子ども病院HPより)。

 そのアメリカでは、主に3つの問題点が指摘されている。(1)子どもの肥満、(2)番組による
悪影響、それに(3)コマーシャルの影響である。

(1)肥満
 一日4時間以上、テレビを見ている子どもには、明らかに肥満傾向が見られるという。一方、
2時間以下に抑えたばあい、肥満は、改善する傾向が見られるという(AAP)。

(2)番組による悪影響
 テレビの悪影響として、第一に考えられるのが、暴力シーンである。平均的な子どもは、18
歳までに、20万もの、暴力シーンを見るという(Arkon子ども病院)。善人が暴力でもって悪人
を撃退するというシーンにしても、それによって、子どもは、暴力によってものごとを解決するの
も許されると考え方をもつようになることが指摘されている。

 この時期の子どもたちが吸収するイメージは、トラウマ化しやすい。たとえば2〜7歳の子ど
もは、(現実)と(ファンタジー)の区別がつかない。「これは作り物だ」と説明しても、意味はな
い。

また8〜12歳の子どもは、現実に起きたことではあっても、ニュース、自然災害、子どもが犠
牲になる事件を見聞きするだけで、自分の将来について、(おびえ)を覚えるようになる(AA
P)。

(3)コマーシャルの影響
 8歳以下の子どもは、コマーシャルが、ものを売るための方法であるということが理解できな
い。6歳以下の子どもは、番組とコマーシャルの区別さえできない。とくに子どもたちが好きな
キャラクターが、販売促進に手を貸しているようなばあいには、コマーシャルの意味を、ていね
いに教えてやる必要がある(Arkon)。

 でないと、スナック菓子など、不健康な食品を、食べるべきものとして理解するようになる。

 その解決策として、アメリカでは、子どもに見せる番組を制限する方法として、Vチップス(V
は、「バイオレンス」の意。特殊な部品をテレビに組み込んで、暴力番組を見せないようにする
方法))の導入や、番組のクラス分け(TV−Y……TV−MAまでの7段階)などを試みている。
しかしこうした試みは、ほとんど失敗しているとみてよい。

そこでAAPは、つぎのような方法を、具体的に提唱している。

●子どもには、コマーシャルがない公共放送を見せる。
●コマーシャルのない、テープ番組を見せる。
●子ども向けのビデオやDVDを見せる。
●見てもよい番組を、あらかじめ選択する。

 さらに家庭の中における視聴時間を制限するために、つぎの6つを提唱している。

●テレビのある部屋に、本や、子ども雑誌、おもちゃ、パズル、ボードゲームなどを、たくさん置
く。
●子ども部屋にはテレビを置かない。
●食事中はテレビを消す。
●学習中はテレビを消す。
●テレビを見るのは、特権と意識させる。たとえば雑事や宿題をしたあとに、ほうびとしてテレ
ビを見せる。

 アメリカの子どもたちは、平均して1日、4時間、テレビを見ているという。この時間は、アメリ
カ小児科医学会(AAP)が提唱している、最大時間の2時間の2倍である。平均的な子どもは、
学校で900時間を過ごすが、一方、テレビの前で、1023時間を過ごすという(以上、アメリカ・
OHIO・Arkon子ども病院HPより)。
 そのアメリカでは、主に3つの問題点が指摘されている。(1)子どもの肥満、(2)番組による
悪影響、それに(3)コマーシャルの影響である。

(1)肥満
 一日4時間以上、テレビを見ている子どもには、明らかに肥満傾向が見られるという。一方、
2時間以下に抑えたばあい、肥満は、改善する傾向が見られるという(AAP)。

(2)番組による悪影響
 テレビの悪影響として、第一に考えられるのが、暴力シーンである。平均的な子どもは、18
歳までに、20万もの、暴力シーンを見るという(Arkon子ども病院)。善人が暴力でもって悪人
を撃退するというシーンにしても、それによって、子どもは、暴力によってものごとを解決するの
も許されると考え方をもつようになることが指摘されている。

 この時期の子どもたちが吸収するイメージは、トラウマ化しやすい。たとえば2〜7歳の子ど
もは、(現実)と(ファンタジー)の区別がつかない。「これは作り物だ」と説明しても、意味はな
い。

また8〜12歳の子どもは、現実に起きたことではあっても、ニュース、自然災害、子どもが犠
牲になる事件を見聞きするだけで、自分の将来について、(おびえ)を覚えるようになる(AA
P)。

(3)コマーシャルの影響
 8歳以下の子どもは、コマーシャルが、ものを売るための方法であるということが理解できな
い。6歳以下の子どもは、番組とコマーシャルの区別さえできない。とくに子どもたちが好きな
キャラクターが、販売促進に手を貸しているようなばあいには、コマーシャルの意味を、ていね
いに教えてやる必要がある(Arkon)。
 でないと、スナック菓子など、不健康な食品を、食べるべきものとして理解するようになる。

 その解決策として、アメリカでは、子どもに見せる番組を制限する方法として、Vチップス(V
は、「バイオレンス」の意。特殊な部品をテレビに組み込んで、暴力番組を見せないようにする
方法))の導入や、番組のクラス分け(TV−Y……TV−MAまでの7段階)などを試みている。
しかしこうした試みは、ほとんど失敗しているとみてよい。

そこでAAPは、つぎのような方法を、具体的に提唱している。

●子どもには、コマーシャルがない公共放送を見せる。
●コマーシャルのない、テープ番組を見せる。
●子ども向けのビデオやDVDを見せる。

 さらに家庭の中における視聴時間を制限するために、つぎの6つを提唱している。
●テレビのある部屋に、本や、子ども雑誌、おもちゃ、パズル、ボードゲームなどを、たくさん置
く。
●子ども部屋にはテレビを置かない。
●食事中はテレビを消す。
●学習中はテレビを消す。
●テレビを見るのは、特権と意識させる。たとえば雑事や宿題をしたあとに、ほうびとしてテレ
ビを見せる。

 が、何よりも重要なのは、「問いかけ」である。子どもとテレビを見ながら、「こんなことは、あり
えないよな?」「お前はどう思う?」「ほかに解決方法はないのかな?」と。こうした問いかけが、
子どもの批判力を育て、その批判力が、子どもの心を守る。


(参考文献:Akron Children's Hospital, Ohio, USA 2005, the American Academy of Pediatrics 
(AAP))

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子どもとテレビ テレビの影響 
子供 テレビ 悪影響)








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11
【心を開く】

+++++++++++++++++++

xx日に、11〜12キロ、歩くことになっている。
「Y・歩こう会」の例会である。
7〜8キロくらいまでなら、何とか、歩ける。
しかし11〜12キロは、きびしい。
上級者コース。
途中、山道がつづけば、さらにきびしい。

……ということで、今日、ワイフと10キロ近くを歩いてみた。
「これなら何とかだいじょうぶ」と、ワイフは言った。

あとは天気しだい。
新聞の天気予報をみると、今度のxx日は、雨らしい。
だいじょうぶかな?
少し心配になってきた。

++++++++++++++++++++

●基本的信頼関係

基本的な信頼関係の構築に失敗すると、それ以後、その人は心の開けない人になる。
そういった状態を、基本的信頼関係に対して、基本的不信関係という。

何度も書くが、乳児は、絶対的な安心感の上に、基本的信頼関係を構築する。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
「絶対的な安心感」というのは、(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)を
をいう。

子どもの側からすれば、安心してすべてを、さらけ出すことができる。
親の側からすれば、何の迷いもなく、すべてを受け入れることができる。
その上で、基本的信頼関係が構築される。
この基本的信頼関係が、成長ともにワクを広げ、友人との信頼関係、先生との
信頼関係、結婚してからは、配偶者との信頼関係へと、発展していく。
先日、こんなシーンを道路で見かけた。

小さな女の子(小2くらい)が、通りで、父親を見つけた。
父親は、自転車に乗っていた。
ブラジル人の親子だと思う。
女の子は、パッと表情を変え、父親に向かって突進していった。
そのまま父親の腕の中に飛び込んでいった。
父親は、娘を力いっぱい抱くと、そのままゆっくりとうしろの荷台に、娘を乗せた。

ほほえましい光景だった。
と、同時に、彼らのもつ愛情表現の豊かさに感心した。
南米から来ている人たちは、そうした行為を、ごく自然な形でできる。
人目を気にせず、できる。
みながみなではないだろうが、日本人の私たちから見ると、オーバーというか、露骨。
親子だけではない。
若いカップルだと、あたりかまわず、抱き合って接吻している。
しかしそういう(さらけ出し)と、(受け入れ)が、自然にできるということだけでも、
すばらしい。

というのも、私たち日本人は、そうした行為を昔から、「はしたない行為」としてきた。
人前ではしてはいけない行為としてきた。
しかしそれは世界の……というより、人間が本来もつ常識ではない。

たった40年前のこと。
私はオーストラリアへ渡ったが、大学のキャンパスの中ですら、若い恋人同士が、
歩きながら接吻し合っていた。
私はそれを見て、心底、驚いた。
が、当時の日本人には、考えられない光景だった。

つまり私たちは、こと親子について言えば、もっと(さらけ出し)を、してよいと
いうこと。
日本の基準というより、世界の基準に合わせる。

私は一度、自転車でそのそばを通りすぎた。
が、すぐに親子の乗った自転車が、私を追い抜いていった。
どこまでも明るく、屈託のない、女の子の表情が美しかった。
父親のうれしそうな表情が、印象的だった。

●夫婦でも……

私たち夫婦は、今から思うと、おかしな夫婦だった。
夫婦でありながら、たがいにどこか遠慮しあっていた(?)。
私は、たとえば実家の恥(?)になるような話は、ワイフに言うべきではないと
考えていた。
ワイフはワイフで、実家にまつわるプライベートな話を、あまりしなかった。
私も聞かなかった。

が、おかしな夫婦といっても、そのときはわからなかった。
自分たちがそうでなくなって、はじめて、あのころの私たちはおかしかったと
感ずるようになった。

もし今でもあのときのままだったら、それに気づかなかっただろう。
30歳を過ぎるころから、私は努めて、ワイフの前でさらけ出しをするようにした。
つづいてワイフも、さらけ出しをするようになった。

それにはこんな事件があった。

ある文士たちが集まる会合に顔を出させてもらったことがある。
そのときのこと。
中央に座っている男性が、私に向かって、突然、こう言った。
「林君、君の奥さんは、君の前で、オナラをするかね?」と。
私はその質問に、一瞬ひるんだ。
が、こう答えた。
「うちのワイフは、そういうことはしません」と。

それに答えて、どっとまわりの男たちが言った。
「かわいそうに」「それは気の毒に」と。

夫の前で、おならが自由にできない妻は、かわいそうというのだ。

私のワイフは、私には、絶対的なさらけ出しをしていなかった。
私は私で、それを絶対的に受け入れてはいなかった。
みなにそう言われるまで、私はそれに気がつかなかった。

●二匹のヤマアラシ

二匹のヤマアラシについては、たびたび書いてきた。

『寒い夜、2匹のヤマアラシが、穴の中で、眠ることになった。しかしたがいに体を近づけると、
たがいの針が刺さり、痛い。しかし遠ざかれば、寒い。こうして2匹のヤマアラシは、一晩中、穴
の中で、離れたり、くっついたりを繰りかえした。

この「2匹のヤマアラシ論」は、本来は、人間関係をうまく結べない人が、孤独と、人と接触する
ことによって起こる苦痛の間を、行ったり来たりするのを説明したものである。

たがいに針を出しあって、たがいに孤独なのに、キズつけあっている。が、さりとて、別れること
もできない……』。

基本的信頼関係がうまく構築できなかった人は、いわゆる心の開けない人になる。
(他人に対して心が開けない)→(さみしい)→(他人の世界に入っていく)→
(神経疲れを起こす)→(他人から離れる)→(さみしい)→(他人の世界に
入っていく)→……、を繰り返す。

こういう状態を、ショーペンハウエルという学者は、「二匹のヤマアラシ」を例に
あげて説明した。
(ここでいうショーペンハウエルについて、私は哲学者のショーペンハウエルのこと
だと誤解していた。しかし心理学者のショーペンハウエルである。)

原因は、母子関係の不全。
子どもとの信頼関係の構築には、母親の育児姿勢が大きく影響する。

こうして基本的信頼関係の構築に失敗した人は、だれに対しても心が開けない分だけ、
孤独になる。
が、ここでいう「孤独」は、ただの「孤独」ではない。
仏教でいう「無間地獄」というにふさわしい孤独である。
人間の魂を押しつぶしてしまうほどの力がある。
が、自分だけならまだしも、そういう人はまわりの人たちをも、孤独にしてしまう。
心を開かない夫と結婚した妻は、どうなるか。
心を開かない妻と結婚した夫は、どうなるか。
さらに不幸はつづく。

心を開かない母親をもった子どもも、また心を開けなくなる。
こうして基本的不信関係は、世代から世代へと、連鎖していく。

●心を開けない人たち

心を他人に対して開けない人は、つねに孤独にさいなまれる。
他人の前では、いつも自分を作ってしまう。
そのため、他人と接すると、精神疲労を起こしやすい。
つぎのような症状があれば、心の開けない人、つまり基本的信頼関係の構築に
失敗した人とみてよい。

(1)集団行動より個別行動を好む。
(2)一見社交的(=仮面)で、他人には逆の評価を受けることが多い。
(3)他人を信頼できない。他人に仕事を任すと、不安。
(4)他人と接していると、神経疲労を起こしやすい。
(5)自分を実際よりよく見せようとすることが多い。
(6)世間体を気にしたり、虚勢を張ることが多い。
(7)「信じられるのは自分だけ」を口にすることが多い。
(8)友人関係は概して希薄で、友人の数も少ない。

が、本当の問題は、心を開けない人がいたとしても、それに自分で気がつくのが、
たいへんむずかしいということ。
ほとんどのばあい、ほとんどの人は、「私はちがう」と思い込んでいる。
というのも、心を開けないまま、それがその人の中で、定着してしまっているということ。
言うなれば、かさぶたの上にかさぶたが重なってしまっていて、元の傷の形すら、
わかりにくくなってしまっている。

まず、自分に気づく。
それがこの問題の最大の関門ということになる。

●心を開く

要するに、さらけ出す。
自分をさらけ出す。
ありのままの自分を、ありのままに表現する。
その第一歩として、言いたいことを言い、やりたいことをやる。
あなたが不完全で未熟であっても、恥じることはない。
あなたはあなた。
どこまでいっても、あなたはあなた。

自分を作ることはない。
自分を飾ることはない。
自分を偽ることはない。

……といっても、いきなり、それをするのはむずかしい。
そこでまず、あなたの妻なり、夫に対して、それをする。
が、それには条件がある。

(1)絶対的なさらけ出しをするということは、同時に、絶対的な
受け入れをしなければならない。
けっして一方的なものであってはいけない。

ただしこうした(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)をした
からといって、基本的信頼関係が構築できるというわけではない。
それこそ5年とか、10年とかいう単位の、長い年月が必要。
あとは努力、また努力ということになる。

この問題だけは、本脳に近い部分にまで刷り込まれているから、「正す」と
いっても、容易なことではない。

(そういう点では、『クレヨンしんちゃん』の中に出てくる、みさえ(母親)は、
参考になる。
心を開けない人は、みさえを参考に、心を開く練習をしてみてほしい。
コミック本のVOL1~11前後が、お勧め。
テレビのアニメのほうは、参考にならないので注意。)
  
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
基本的信頼関係 基本的不信関係 心を開く 心が開けない人)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【信頼関係vs不信関係】(Confidential Relationship between Parents and Children)

Can you open your heart to other people including your husband or wife? If not, please 
read this article and know yourself.

++++++++++++++

あなたは他人に対して、心を
開くことができるか?

もしそうでないとするなら、
一度、この原稿を読んでみて
ほしい。

さみしい思いをするのは、あなたの
勝手だとしても、あなたの周囲の
人たちまで、さみしい思いを
しているはず。

++++++++++++++

●乳児期に形成される信頼関係

乳児期においては、母子の関係は、絶対的なものである。
それもそのはず。
乳児は、母親の胎内から生まれ、その母親から乳を受ける。命を育(はぐく)む。
その絶対的な関係を通して、乳児は、母子との間で、信頼関係を結ぶ。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

こうしてできる太い絆(きずな)を、「ボンディング」と呼ぶ。

この信頼関係が基本となって、乳児はやがて、他人との信頼関係を結ぶことができるよう
になる。
成長するにつれて、その信頼関係を拡大する。
父親との関係、保育園や幼稚園での教師との関係、さらには、友人との関係など。

そういう意味で、この母子との間にできる信頼関係を、「基本的信頼関係」という。

その信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)があってはじめて成り
立つ。

乳児の側からすれば、「どんなことをしても許される」という、疑いすらもたない安心感と
いうことになる。

母親の側からすれば、「どんなことをしても受け入れる」という、疑いすらもたない包容力
ということになる。

が、この信頼関係の構築の失敗する例は、少なくない。
何らかの原因で、この絶対性がゆらぐ。
育児拒否、親の否定的な育児姿勢、無視、冷淡。
夫婦不和、家庭不和、家庭騒動などなど。

子どもの側からすれば、絶対的な安心感をもてなくなる。
母親の側からすれば、絶対的な包容力をもてなくなる。

こうして乳児は、母親に対して不信感をもつようになる。
ただの不信感ではない。
自分の母親ですら信ずることができない。
乳児は、そして子どもは、その不信感を常に抱くようになる。

こうした心理的な状態を、「基本的不信関係」という。
が、一度、その不信関係ができると、子どもは、いわゆる「心の開けない子ども」になる。
その可能性は、きわめて高くなる。

が、不幸は、それで終わるわけではない。

結婚してからも、配偶者にすら、心を開くことができない。
さらに自分の子どもにすら、心を開くことができない。
あなたはそれでよいとしても、あなたの周囲の人も、さみしい思いをする。

そしてそれがさらに世代連鎖して、その子ども自身も、心を開くことができなくなる可能
性も高くなる。

「基本的信頼関係」というのは、そういうもの。
決して、軽く考えてはいけない。

……ということで、今、ここで、もう一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。

あなたは、あなたの子どもや夫を、何の疑いもなく、信じているか?
あなたは、あなたの子どもや夫に、何の疑いもなく、心を開いているか?

反対に、こうも言える。

程度にもよるが、母子との間の基本的信頼関係の構築に失敗した人は、万事に、疑り深く、
猜疑心が強く、ついでに嫉妬心も強い。
もちろん他人に対して心を開けない分だけ、孤独。寂しがり屋。

そこで孤独であることを避けようと、人の中に入っていくが、心を許すことができない。
ありのままの自分をさらけ出すことができない。
自分をつくる。飾る。見栄を張る。虚勢を張る。世間体を気にする。
そのため、人と接触すると、精神疲労を起こしやすい。
人と会うのがおっくうで、会うたびに、ひどく疲れを覚える人というのは、このタイプの
人と、まず疑ってみる。

もしそうなら、まずあなた自身の心の中を静かにのぞいてみるとよい。

あなた自身の乳児期の様子がわかれば、さらによい。
あなたは両親の豊かな愛情に恵まれ、ここでいう基本的信頼関係を構築することができた
か?
あなたの両親は、そういう両親であったか?
先に述べた、ボンディングは、しっかりとできていたか。

もしそうでないとするなら、あなたはひょっとしたら、基本的信頼関係の構築に失敗して
いる可能性がある。
だとするなら、さらに今、あなたは自分の子どもとの関係において、基本的信頼関係の構
築に失敗している可能性がある。

しかしこの問題は、あなた自身の問題というよりは、今度は、あなたの子ども自身の問題
ということになる。

親から子へと世代連鎖していくものは多いが、その中でも、こうして生まれる基本的不信
関係は、深刻な問題のひとつと考えてよい。

たとえば、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護され
る価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11
月)を形成することもわかっている。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともある。最近の研究によれば、成人してから発症する、うつ病の(種)も、この時期に
形成されることもわかってきている。

わかりやすく言えば、その子どもの心の、あらゆる部分に大きな影響を与えていくという
こと。
だからこの問題は、けっしてあなた自身だけの問題に、とどまらないということ。

基本的信頼関係のできている人は、自然な形で、当たり前のように、心を開くことができ
る。
が、そうでない人は、そうでない。だれに対しても、心を開くことができない。

では、どうするか?

この問題だけは、(1)まず、自分がそういう人間であることに気づくこと。(2)つぎに
機会をとらえて、自分をさらけ出すことに努めること。(3)あとは時間を待つ。時間とい
っても、10年単位、20年単位の時間がかかる。

それについては、何度も書いてきたので、別の原稿を参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 基本的信頼関係 
ボンディング 母子関係 はやし浩司)

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この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。

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【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めて
きたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、
「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基
本です。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与える
という行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなく
ても育つということになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできませ
ん。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわ
る仕事といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、
女性が男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な
意味で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となり
ます。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることにな
ります。「結婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあ
るのは、やはりより優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、
こと出産に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、
子どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。
つまり「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」
と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人
だったかもしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまり
それだけ、父子関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。こ
の信頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だか
ら「基本的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自
分の住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、
分かれるということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな
人間関係を結ぶことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる
……。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間
関係を結ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」とい
う安心感が、子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、
赤ん坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、
母親は、赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さ
ない。あるいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展す
ることもあります。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、
依存型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自
分に集める)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な
方法として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となる
こともあります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタ
ベタしあうというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということで
す。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定
なものです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありませ
ん。あるいは、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。ど
んなにがんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。
そのちがいを乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、
父親の役割がないわけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教
育、です。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性か
ら、のがれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影
響を与えてしまうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、
ともすればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくという
のが、父親の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、
倫理、道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決ま
り」を教えていくのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えて
いきます。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁の
し方を教えるのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはで
きません。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きて
いくこともできません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと
言っているのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありま
せん。「たがいの立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、
言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割
にとってかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、
「平等」とは言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進
出も目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』
だけでものを考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたの
も事実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、
ありません。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解する
のと、そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えて
みました。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改め
てここに書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結
ぶことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今で
は、常識です。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原
因となることもあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりま
せん。穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、
子どもを叱ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関
係」の範囲内でします。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全
幅に心を開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反
省してみてください。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他
人に対して、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょ
うか。外の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信
頼関係」を疑ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過
去があったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失
敗をすることです。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これにつ
いては、また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包ま
れ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけま
せん。大切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少
し時間はかかりますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

特集【子どもの心】

++++++++++++++++++++++

わがままを言っては、親を困らせる。
このところ、学校へも行っていない。

そんな子どもで悩んでいる、NBさんという
方から、相談がありました。

++++++++++++++++++++++

【NBさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、お忙しいところ長文で失礼します。

万引きをしたあと、ぎくしゃくした息子(小学3年生)との関係のことで、相談したことのあるW市
(T県)のNBです。ブログにもご回答いただきました。ありがとうございました。今回はその後、
学校を休んでいる息子のことで、相談します。お時間がある時に、ご意見いただきたく思いま
す。

息子の現状についてどう考えればいいのでしょう。先生のおっしゃった通り、もう万引きはして
いません。お金の管理も厳重にしているので、盗まれるということもありません。

ただ、公園に友達と行くとウソをついて、前のお金の残りで、コンビニでカードを買ったりしたこ
とが2度ほどありました。5月23日から休み始め、9日ぶりに、今週の月曜に(授業はなく校外
学習でしたが)、行き、また今週いっぱい休む、というような状態です。

月曜の登校は本人が決めて行きました。いろいろ読ませていただき、学校恐怖症というのでは
なく怠学というのでしょうか、まあ呼び名よりも息子の心の中が問題なわけで。万引きやそれを
問いただした時の息子のパニック(泣き叫び万引きを認めずウソで終始)が、私達にとって大
変ショックでした。

そのため当初から、「行きたくなければいいよ」「行かなくてもいいよ」というような言い方で、対
応しています。担任の先生もゆっくり見守る姿勢を示して下さるので、夫も私も今は本当に見
守る気持ちでいます。

振り返れば、何年も前から問題行動が時折あり、それをきちんと気づいてあげられなかった私
たちに、原因があります。私への絶対的な安心感を得られないまま、外でも緊張状態のまま過
ごしていたのが、ここにきて万引きや不登校という形で爆発したと考えています。

今は学校が終わる時間までは、たいてい家にいて、(私の外出は、まだ認めてくれません)、ゲ
ームや読書で過ごし、ほとんどゲームばかりしています。家事を終えてから一緒に遊んだり、
時々、買い物に行ったりしています。皆が学校から帰ってくると、頻度は減ってきましたが、
(「どうして休んでるの?」と、聞かれる友達とは遊ばなくなりましたが)、友達に電話して、遊び
に行ったりしています。

「今はちょうど給食の時間だ」とか自分から言ったり、「来週からは学校へ行く」などと言うことも
あります。本人は、内心では、学校へは行かなければとは思っているようです。

宿題などには全く関心ないようです。新聞を取ってくるとか、金魚のえさをやるとかの手伝いも
全くやる気なしです。池で釣ったザリガニを持ち帰り、世話をせず、2匹とも死なせてしまいまし
た。平気な顔をしています。

それでも私と二人の時はそれなりに穏やかにすごしているのですが、(以前のように口やかま
しく言わないですが)、途方にくれてしまうのは、夫と三人でいる時です。延々と遊びたがるので
す。特に三人で遊びたがります。このひと月で、ますますこだわりが強くなったようです。

外で遊べば、とっぷり暗くなるまで帰らない、家では寝ないで遊びたがる。11時くらいまでは、
ゲームか他の遊びをすることになります。それも少しずつ、時間帯が遅くなってきました。

「帰ろう」「寝よう」と言うと、機嫌が悪くなり、時には怒り出します。せっかく楽しんでいたのに、
いつも、最後は怒るか泣くかで終わるわけです。夜は怒り出すと、その時、胸にある不満をぶ
ちまけ暴れることもあります。ソファをけったりクッションを投げたり壁をたたいたり。

今の最大の不満は、今週末、お父さんが土曜は仕事、日曜は結婚式で家にいない、ということ
です。前の日曜の夜はこのことを言い出して2時間以上もぐずり、収まったのは、夜中の2時を
過ぎていました。

そのような時はお父さんや私が抱きしめようとしても、「やめて」と言って、怒ります。以前はそう
ではなかったのですが。絶対に式になんか行くなとか、会社や、式をあげる人を罵るような言
葉も、次々に出てきたりします。それを聞いていると、私などは最初悲しく、だんだん腹がたっ
てきてしまいます。

夫には、怒るような口調で「うるさいなあ」と言って、目でたしなめられます。私は本当にこらえ
性がないです。夫は悲しげですが、でも冷静ですね。決してきつく言うことはない。興奮して泣
いている時は、夜中でも、子どもの面倒をみています。

自分の子であって自分の子でないような気分になってしまい、そう感じる自分にも嫌悪したりし
ます。「これでもか」「これでもか」と、息子に要求されているような感じです。夫もそう感じている
らしいですが、三人いるときほど、息子がきつくなるのはどういうことなんでしょう。

万引きをした時に夫が始めてお尻をたたいて、本当に初めて、大きな声で叱ったのが関係して
いるのでしょうか。夜は、ほおっておいて寝る、というわけにも行かず、寝不足の日々です。

寝るときはもちろん川の字で。

学校の先生は今の甘えている状態を、「(幼児期の)忘れ物を取りにいってるんですね」と表現
されました。9年間の忘れ物が1ヶ月やそこらで取り戻せるとは思ってはいませんし、数ヶ月単
位で様子を見なければならないんですね。

なのに、本当に今はこれでいいのだろうか?、どう推移するのだろうと、明るくゲームに興じて
いる様をみていると不安になります。

「お母さんはいつも太陽でいてください」と言われているのですが、実は人に会うのも少し、おっ
くうになってきた、今日、このごろです。


【はやし浩司より、NBさんへ】

 息子さんは、(絶対的な安心感)が得られず、いつも、不安な状態にあると考えてください。つ
まり心は、いつも緊張状態にあるとみます。絶対的な安心感というのは、「疑いすらもたない」と
いう意味です。心理学で言えば、あなたと息子さんの関係は、「基本的不信関係」ということに
なります。

 で、NBさんは、何とか、息子さんに安心感を与えようと努力していますが、残念ながら、息子
さんは、あなたの心の奥まで、読んでしまっています。あなた自身が、子育てをしながら、不安
でならない。つまり絶対的な安心感を覚えていないため、それを息子さんは、感じ取ってしまっ
ているわけです。

 つまりあなたは、「不安だ」「心配だ」と思っている。それがそのまま息子さんに伝わってしまっ
ているというわけです。

 こういうケースでは、『あきらめは、悟りの境地』という格言が、役にたつと思います。「うちの
息子は、こうなんだ」と、あきらめて、受け入れてしまうということです。「ほかの子とは、ちがう」
「このままでは、心配だ」「どうすればいいんだろう」と、悩んでいる間は、決して、安穏たる日々
はやってきません。息子さんにしても、そうです。

 もちろん原因は、息子さんが生まれたとき、息子さんを、全幅に受け入れなかったあなた自
身にあります。が、今さら、それをどうこう悩んでも、しかたのないことです。

 ただこうした子どもの心の問題には、二番底、さらには、三番底があります。形としては、つま
り、症状としては、(家庭内暴力)に似ています。息子さんが、まだ小さいため、NBさんの管理
下というか、コントロール下にありますが、息子さんが、小学校の高学年児、あるいは、中高校
生だとしたら、こうは、簡単には、片づかないはずです。

 私はドクターではないので、これ以上のことは書けませんが、もし今のようなはげしい不安状
態、混乱状態、さらには緊張状態がつづくようなら、一度、心療内科のドクターに相談なさって
みられたらよいでしょう。そのとき、NBさんが、私にくれたメールなどを、ドクターに読んでもらう
とよいでしょう。

 今では、すぐれた薬も開発されています。それによって、息子さんが見せている、一連の(こ
だわり)症状も、軽減するはずです。

 家庭では、(1)求めてきたときが、与え時と考えて、スキンシップなど、そのつど、子どもをす
かさず抱いてあげたりします。が、やりすぎてはいけません。そこで大切なことは、(2)暖かい
無視です。無視すべきところは、無視しながら、子ども自身の自由な時間には、干渉しないよう
にします。

 不登校については、学校恐怖症というよりは、怠学に近いと思われます。子どもの言葉に一
喜一憂したり、振りまわされたりしないように、注意してください。このタイプの子どもの(約束ご
と)には、意味がありません。意味がないというより、子ども自身、自分をコントロールできない
でいるのです。

 で、今度は、NBさん側の問題ですが、お気持ちはわかりますが、全体的に過関心かな…
…?、という印象をもっています。すべてが、子ども中心に動いてしまっている(?)。すべてが
子どもに集中しすぎているといった感じです。状況としては、しかたないのかもしれませんが、
そのため、NBさん自身が、育児ノイローゼの一歩手前にいるようにも思います。

 不登校については、今の状況では、すぐには改善しないと思います。NBさんが言っているよ
うに、どうか、数か月〜半年単位で、考えてみてください。この問題は、根が深いということ。コ
ツは、「なおそう」とは思わないこと。「今の状況をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処す
る」です。

 消極的な対処法にみえるかもしれませんが、無理をすれば、ここでいう二番底、さらには三
番底へと、子どもが、落ちていきます。今はまだ何とかなりますが、子どもの体が大きくなった
り、腕力がついてくると、そうはいかなくなるということです。

 たまたま別の方から、同じような相談が届いていますので、どうか、参考にしてみてください。
よろしくお願いします。

●掲示板への書きこみから

++++++++++++++++++++++

NBさんから、相談のメールをもらった同じ日、
掲示板にこんな書きこみがあった。

小学2年生の、Mさん(女児)についてのもの
だった。

++++++++++++++++++++++

【掲示板への相談より……】

教員ではありませんが、小学校で子どもと関わる仕事をしています。教員免許は持っていま
す。

お手伝い先生のような仕事です。大卒後、企業で8年間、勤務し、退職後、初めての職場。初
めての教育の現場です。詳しく書くことができなく、申し訳ありません。不適切なら削除してくだ
さい。

現在、ある小2女子児童の担当になっています。(Mさんとしておきます。)・・・と言っても、日替
わりで上から指示されるので、とても不安定です。

Mさんは両親が離婚したあと、4月中旬に転校してきました。前の学校では不登校。現在は毎
日来ていますが、徐々に完全に保健室登校になってきています。

毎朝お母さんが送ってきますが、子どもがお母さんから離れられません。お母さんは、Mさん
を、車からぽーんと出し、バン!と閉めて、そのまま帰ってしまいます。そこでMさんは、泣き叫
び後を追いかけます。

道路でMさんを出すのは危険なのでというような指導が、学校側からあったようです。それから
は、お母さんは、Mさんを、学校の中まで中まで送ってきます。が、送ってくると、Mさんは、抱
きついたままお母さんの髪をぎゅーっとつかんで離しません。

そのとき、お母さんの靴を隠す、持ち物を隠す、取り合いになったりすることもあります。転んだ
すきに、お母さんは逃げるように、振り返らず去っていきます。

そのあとも、切れ端(ゴミのようなもの)を握り締め、「ママ・・・」と、しくしく泣き、「それどうする
の?」と聞くと、「お守りだから・・・」と。それを聞くと、胸が張り裂けそうになります。

私にはこの子を抱きしめる事しかできません。背中をさすって、「そう、そう、つらかったんだ
ね」と、沢山聞いてあげる事しかできません。担任からはくわしく話を聞かせてもらうこともあり
ません。でも一応、Mさんの担当なのです。

学校の担任の先生は、「早く教室に入りなさい」と言うだけです。クラスの児童からは、常に、
「この学校は、○○なんだぞ!」とか、「○○ちゃんがきたから、席が替わったじゃない!」と言
われ、みなは、どこかMさんをじゃまにしているような雰囲気です。

私がMさんの担当になる前は、誰も付いていなかったので、たとえば教室前でもじもじしている
と、担任(女性)から腕をつかまれ、引きずられるように入れられていたそうです。

Mさんが、抵抗すると、担任は、お腹をつねっていたようです。そしてとうとう教室を見ただけで
吐き気が起こすようになったり、担任を見ると逃げたり、隠れたり、さらには、クラスの児童を見
ると、「恐い・・・」と消えそうな声で、つぶやくようになってしまいました。

「恐い」にしても、初めの段階では、「集団が恐い」と言っていました。が、最近ではクラスの児
童に限定されてきたようです。優しい子もふくめて、どの子も恐がっているようです。

時限ごとに、Mさんが、「教室へ行ってみる・・・でも無理だったら戻ってもいい?」と言うので、
一緒について行くと、やはり、「恐い・・・やっぱりダメ」という感じです。

また、学校の対応もバラバラです。「今日は1日、この部屋で2人でいていいですよ」というの
で、それなりにおたがいに楽しそうに、じゃあ、今、国語だから漢字ドリルしようか、というような
調子でやっていると、ガラっ!と、突然開いて、知らない先生が「次! 図工だよ! 行け
る!?」と、Mさんのランドセルを持って行ってしまうのです。

子どもは一気に緊張した顔で、条件反射的に、「はい」と答え、部屋を出る。が、やはり行けな
い。そこでその先生が、「はいって言ったじゃない、どうしていけないの?」となじったりしま
す・・・・。と、思ったらまた急に他の先生が入ってきて、保健室にいてもいいですよ。いつ来ても
いいですよー、と言う始末。

はやし先生。これでこの子はどうなってしまうのでしょう。「ママ、バイバイしないで行っちゃった
ー」と泣くことから1日が始まり、クルクルと周りの指導が変わり、(私も規則で12時までしかい
っしょに、いられません)、Mさんにしてみれば、親に裏切られ、先生に裏切られ、友達も・・・と
いうような状況ですよね。

お母さんの話をするときは、赤ちゃん言葉です。以前、過呼吸に近い状態になり驚きました。
最近、混乱してくると頭を、自分で、げんこつでボカボカと自分で殴ります。見ていて恐いくらい
です。

本人の話しによると、以前は、お父さんの実家で同居していたそうです。いとこ(中学生)たちも
いたようで、よく殴られたと言います。

そして現在、お母さんにはお友達がいて、私の話ををちっとも聞いてくれない。お友達は男性
で、毎日のように泊まっていくとのこと。

また、反対にMさんのお母さんからの話しでは、家ではまったく甘えない。そんなそぶりさえ見
せない。学校でこんなに離れないなんてウソみたい。帰ったら遊ぶ約束をしてやっているのに、
宿題が終わらないから泣いてばかりで、遊べない、ということです。
(高知県在住・KUより)

【KU先生へ、はやし浩司より】

 掲示板の記事を読んで、その内容が、最近経験した、Z君(中2男子)と、あまりにも酷似して
いるので、驚きました。

 Z君は、乳幼児のときから、母親の冷淡、無視、育児放棄を経験しています。母親は、「生ま
れつき、そうだ」と言いますが、Z君は、見るからに弱々しい感じがします。全体に、幼く見え、
言動も幼稚ぽく、その年齢にふさわしい人格の核(コア・アイデンティティ)の確立がみられませ
ん。

 はきがなく、追従的で、いつも他人の同情をかうような行動をします。かなり強烈なマイナス
のストロークが、働いているようで、何をしても、「ぼくはできない」「ぼくはだめな人間」と言いま
す。

 ほかの子どもたちのいじめの対象にもなっています。母親は、そういうZ君を「かわいい」「か
わいい」とでき愛していますが、その実、Z君を、外へ出したがりません。「外へ出すと、みなに
いじめられるから」を理由にしています。典型的な、代償的過保護ママです。

 特徴としては、つぎのようなことがあります。思い浮かんだまま、並べてみます。

(1)自己管理能力がない……薬箱のドリンク剤を一日で、全部(10本ほど)、飲んでしまう。そ
のため、ますます母親に強く叱られる。届け物に買ってきた、菓子などを、勝手に封をあけて、
食べてしまったこともある。

(2)特定のものに、強くこだわる……カードゲームのカードをたいへん大切にしている。それを
毎日、戸棚から出し、また並べなおしたりしている。下に、6歳離れた弟がいるが、弟がそのカ
ードに触れただけで、パニック状態(オドオドとして、混乱状態)になる。

(3)時刻にこだわる……片時も腕時計を身からはなさず、いつも、時計ばかり見ている。行動
も、数分単位で、正確。朝、目をさましても、その時刻(6時半)がくるまで、床の中でじっと待っ
ている。そのときも、時計ばかり、見ている。メガネをかけているが、寝るときでさえも、かけた
まま。

(4)衝動的な自傷行為……ときどき、壁に頭をうちつけたりする。あるいは、ものを、壁にぶつ
けて、壊してしまう。ラジカセが思うようにならなかったときも、かんしゃく発作を起こして、こわし
てしまったこともある。が、満足しているときは、借りてきた猫の子のようにおとなしく、おだやか
だが、ふとしたことで急変。二階へつづく階段から、大の字のまま、下へ飛び降りたこともあ
る。現在、前歯が2本、欠損しているが、自傷行為のために、そうなったと考えられる。

(5)異常なまでの依存性……独特の言い方をする。おなかがすいたときも、「〜〜を食べた
い」というような言い方をしない。「〜〜君は、何も食べなかったから、死んでしまった」「ぼくは、
10日くらいだったら、何も食べなくても、平気」などと言ったりする。自主的な行動ができず、他
人の同情をかいながら、全体に、何かをしてもらうといった生活態度が目につく。

(6)幼児がえり……しばらく話しあって、打ち解けあうと、とたんに、幼児言葉になる。年齢的に
は、4〜5歳くらいの話し方をする。「ママが、ぼくを、たたいた」「○○さん(Z君の叔母)が、ぼく
をバカにした」と。

 母親は、仮面型タイプの人間で、私のような他人の前では、きわめて穏やか。始終、やさしそ
うな笑みを浮かべて、さもZ君を心底、思いやっているというようなフリをします。私が会ったと
きも、母親は、Z君の背中を、さすりながら、「元気を出そうね」と言っていました。

 このZ君というより、Z君の母親について、問題点をあげたら、キリがありません。代償的過保
護のほか、代理ミュンヒハウゼン症候群、虐待、基本的不信関係、仮面型人間、ペルソナ…
…。

 これらの原稿については、このあとに添付しておきますので、どうか、参考にしてください。

 で、私もこうした事例に、よく出会います。そしてそのつど、(限界)というか、(無力感)を味わ
います。ここにあげたZ君にしても、最終的に、私が預かるという覚悟ができれば、話は別です
が、そうでなければ、結局は、母親に任すしかないということになります。

 またこういう母親にかぎって、私のようなものの話を聞きません。何かを説明しようとすると、
ここにも書いたように、「生まれつきそうだ」とか、「遺伝だ」とか、さらには、「父親(夫)が、ひど
いことをしたからだ」と、他人のせいにします。

 ものの考え方が、きわめて自己中心的なのが、特徴です。もっと言えば、自分の子どもを、モ
ノ、あるいは奴隷かペットのように考えています。ひとりの人間として、みていません。

 で、30代のころは、そういう子どもばかり預かって、四苦八苦したことがあります。夜中中、
車で、走り回ったこともあります。しかしその結果たどりついたのが、「10%のニヒリズム」とい
う考え方です。

 若いころ、どこかの教師が、何かの会議で教えてくれた言葉です。

 決して、全力投球はしない。90%は、その子どものために働いても、残りの10%は、自分の
ためにとっておくという考え方です。そうでないと、身も心も、ズタズタにされてしまいます。今の
KU先生、あなたが、そうかもしれません。

 が、ご心配なく。もっと複雑で、深刻なケースを、たくさんみてきましたが、子どもは子どもで、
ちゃんと、大きくなっていくものです。もちろん心に大きなキズを残しますが、そのキズをもった
まま、おとなになっていきます。が、やがて自分で、それを克服していきます。つまりそういう人
間が本来的にもつ(力)を信じて、やるべきことはやりながらも、子どもに任すところは、任す。

 あとは、時間が解決してくれます。

 で、Mさんは、明らかに、分離不安ですね。心はいつも緊張状態にあって、その緊張状態か
ら解放されないでいるとみます。家庭の中でも、心が休まることがないのでしょう。一応、母親
の前では、(いい子?)でいるのでしょうが、それは、本来のMさんの姿でないことは、確かなよ
うです。

 (いい子?)でいることで、母親の愛情を取り戻そうとしているのです。私がときどき書く、「悲
しいピエロ」タイプの子どもというのは、このタイプの子どもをいいます。

 が、肝心の母親は、それに気づいていない。つまりここにこの種の問題の悲劇性がありま
す。

 また閉ざされた子どもの心を開くことは、容易なことではありません。1年や2年は、かかるか
もしれません。ちょっとしたことで、また閉じてしまう。この繰りかえしです。しかしあきらめては
いけません。ただ、このタイプの子どもは、いろいろな方法で、あなたの心を試すような行動に
出てくることがあります。

 急にわがままを言ってみたり、乱暴な行動に出てみたりする、など。こちらの限界を見極めな
がら、ギリギリのことをしてくるのが、特徴です。で、そういうときは、まさに根競べ。とことん根
競べをします。子どもの方があきらめて手を引くまで、根競べをします。

 「私はどんなことがあっても、あなたを見放しませんからね」と。

 それに納得したとき、子どもははじめて、あなたに対して心を開きます。

 幸いなことに、Mさんは、あなたというすばらしい先生に、出会うことができました。何が大切
かといって、あなたの今の(思い)ほど、大切なものは、ありません。その(思い)が、あなたとM
さんの絆(きずな)、あるいはMさんの心を支えるゆいいつの柱になっていると思います。

 ところで私は、最近、はじめて、ADHD児の指導を断りました。今までは、むしろそういう子ど
もほど、求めて教えてきたようなところがあります。

 しかし体力の限界だけは、もうどうしようありません。1〜2時間、接しただけで、ものすごい
疲労感を覚えるようになりました。それで断りました。

 そのとき感じた、敗北感というか、虚脱感には、ものすごいものがありました。悶々とした気
持ちで、数日を過ごしました。

 しかしあなたは、まだ若いし、いくらでも、そういう仕事ができます。どうかあきらめないで、が
んばってください。

 繰りかえしますが、あなたのような先生に出会えたことは、Mさんにとっては、本当に幸いなこ
とです。Mさんにかわって、喜んでいます。どうか、どうか、がんばってください。応援します。







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12
●自己愛者( Narcissism person)

+++++++++++++++++

K国への重油支援は、どうやら停止される
方向で動き始めている。
当然である。
が、アメリカへ戻ったC・ヒルは、まだ
こんなことを言っている。
「重油をすべて提供すれば、K国はサンプル
採取に応じてくるはず」と。

いったいあの国務次官補は、どこまで
おめでたいのか?

口頭約束だけで、K国を、テロ支援国家
指定リストから、はずしてしまった。
それについて、ウォールストリート・
ジャーナルは12月16日、「ライスの
対北政策は失敗に終わった」と報じた(※1)。

これまた当然である。
が、それにしても理解に苦しむのが、K国。
常識をはずれた国というのは、ほかにもある。
あるが、あの国の常識は完全に、狂って
いる。

6か国協議決裂の責任を日本に押しつけ、
日本をさして、「招かざる客」(※2)と。

++++++++++++++++++

K国を非難してばかりいてはいけない。
問題は、どうしてこうまで常識をはずれているのか。
そのあたりまで踏み込んで考えないと、K国を理解することができない。

招くも招かないもない。
日本としては、K国など、もとから相手にしたくない。
6か国協議など、出たくもない。
出たくて、出ているわけではない。
つまりこの異常なまでの自己中心性こそが、K国の特徴ということになる。

言うまでもなく独裁国家ほど、独裁者の心理的状態が、そのまま外交政策となって、
表に出てくる。
K国の外交政策イコール、金xxの心理状態と考えてよい。
その上で、ほんの少しでも自分を冷静かつ客観的に見る目をもっていたら、自分に恥じて、
こんな言葉は出てこないはず。
世界中が見るに見かねて、援助を申し出ているのに、「エネルギー支援を留保している
日本は、厄介者」(同)とは!

ハア〜〜〜?

こうした異常なまでの自己中心性が肥大化した人を、心理学の世界では、自己愛者と
定義している。
「自己愛者」というと、どこか甘美な響きをもつが、けっして好ましい人物像ではない。
忌み嫌うべき人物像ということになる。
K国の金xx。
彼こそがまさにその自己愛者の典型ということになる。

自己愛者について書いた原稿を、さがしてみた。

++++++++++++++++++++++

●自己愛者( Narcissism person)
The more he or she is a self-centerness person, the lower his or her mental IQ is.
 
+++++++++++++++++++

自己中心性が極端なまでに肥大化した
状態の人を、自己愛者という。

+++++++++++++++++++

自己中心性(ジコチュー性)が、極端なまでに
肥大化した人を、「自己愛者」という。

自己中心性が強い分だけ、人格の完成度は、低い。

ほかに、たとえば異常なまでの完ぺき主義、
他人の批判を許さないなどの特徴がある。

その自己愛者については、たびたび書いてきたので、
ここでは、その先を書く。
私は、現在、こんな経験をしている。

私の身近にいる知人だが、このところ、認知症と
思われる症状が、急速に進んでいる。
アルツハイマー病の初期症状かもしれない。
ときどき、記憶の一部が、脳みそから欠けるように消えてしまう。

前の晩に何を食べたかを忘れるのは、よくあること。
が、その人のばあい、前の晩に食事をしたことそのものを、
忘れてしまう。

電話で話していても、一方的に、しゃべるだけ。
しゃべるだけならまだしも、しばらくすると、
また同じ話を繰りかえす。

そして私が何か、その人について批判めいたことを
口にすると、その瞬間、狂乱状態になってしまう。
「以前、その話はもう聞きました」と言っただけで、
ギャーッとなってしまう。
「私は、言っていない!」「どうして、そういうウソを言うの!」と。

言い忘れが、その知人というのは、今年、59歳になる。
女性である。
ワイフの長い友人で、いつしか家族ぐるみでつきあうようになった。
が、このところ、ワイフが言うには、「つきあいにくくなってきた」
「10年前には、ああではなかった」とのこと。

つまり、回りくどい言い方になってしまったが、認知症のはじまりには、
ものの考え方が、自己中心的になり、自己愛的な症状が出てくる。
言いかえると、自己中心性が出てきたら、あぶないということ。
(その人が、認知症というわけではない。あくまでも私が、
そう疑っているだけ。念のため。)

認知症になることによって、人格そのものが、崩壊してしまう人がいる。
そう考えれば、認知症の初期症状のひとつとして、ものの考え方が
自己中心的になったところで、何ら、おかしくはない。

+++++++++++++++

もう一作……。

+++++++++++++++

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)
だから「私のそばにいれば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。
そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!

(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気がついてい
れば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないとき
は、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になる人さえいる。

++++++++++++++++++

さて話を戻す。

K国というより、金xxが、常識を取り戻すためには、金xx自身が、一度、
金王朝というカプセルから出て、世界を見てみる必要がある。
あるいはひょっとしたら、金xxには、それなりの常識があるのかもしれない。
とすると、取り巻き連中が悪い(?)。
そういう連中が、一度、外国を渡り歩いてみたらよい。

そうすれば、自分たちの置かれた立場や、世界が自分たちをどう見ているかが、
少しはわかるはず。

……と言っても、これは簡単なことではない。
自己愛者にしても、自分でそれに気づくことは、まず、ない。
自分では正常と思っている。
その多くは、「他人のほうがおかしい」とか、「他人も同じ」と思っている。
加齢が進めばなおさらで、ますます自分の殻(カプセル)に閉じこもるようになる。

で、自己愛者の特徴の一つとして、批判されただけで、烈火のごとく怒りだす。
たとえば日本をさして、「厄介者」と、自分では言いたい放題のことを言っておきながら、
もし日本がK国をさして、「厄介者」と言ったら、どうなるか?
それを少しだけ、頭の中で想像してみたらとよい。

つまりまるで自分のことが、わかっていない。

……となると、あのC・ヒルは、いったいどういう人物かということになる。
私は、彼もまた、その自己愛者ではないのか。
「私がしていることは正しい」という、狂信的とも言える信念だけで、突っ走って
しまった。
だからK国の金xxを、盲目的に信じてしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(注※1)アメリカのウォールストリート・ジャーナルは16日、コンドリーザ・ライス国務長官がK国
の核廃棄よりも外交的進展という面を優先視したため、過去4年間の対北朝鮮政策は失敗に
終わったと批判した(朝鮮N報)。

(注※2)K国のK国労働党機関紙「労働新聞」は16日、6カ国協議に関する論評で、核施設
無能力化の見返りとなる経済・エネルギー支援を拉致問題を理由に留保している日本につい
て、「招かれざる客、厄介者であり、協議のテーブルに残る必要はない」と非難、あらためて
「日本排除論」を展開した。K国中央通信が伝えた。
 論評はまた「日本は6カ国協議を通じた朝鮮半島核問題解決を妨害し、核問題を理由に軍
事大国化を目指そうとしている」と主張した。(共同通信)








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13
【私を知る】

●ためこみ屋(ケチ)

+++++++++++++++++++++

数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。

一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。

もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。

とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。

そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。

が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。

++++++++++++++++++++

●私の知人

私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。

が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。

私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5〜6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)

もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。

が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。

そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。

これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。

●人は人

もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。

ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか? 
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。

その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。

しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。

その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。

言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。

●そこで(私)

もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。

あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。

そして……。

こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。

ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。

●スズメはスズメ

だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。

同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。

スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。

●ある生徒

たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。

ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。

私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。

さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。

つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。

●私を知る

ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。

まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。

だからますます「私」がわからなくなってしまう。

言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。

しかしそれは本当の(私)なのか?

ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。

●作られる(私)

で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。

私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。

専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。

そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。

●(私)を知るメリット

もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。

スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。

(私)を知るということは、そういうことをいう。

●再び、「ためこみ屋」

「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)

しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。

大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。

しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)








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14
●常識のない子ども

●教えていて、空しさを感ずるとき

+++++++++++++++++++++

私は子どもを教えるようになって、言いようのない
空しさを味わうことがある。
何度かある。
今、記憶にあるのは、3度。
うち2度は、私が進学塾で講師をしているとき、経験した。
そのたびに、「もう、こんな子どもは教えたくない」と
思った。
「こんな子どもに知恵をつけさせたくない」と思ったこともある。

+++++++++++++++++++++

●3度の事件

(1度目)

ある日授業を終えて、控え室へ行くと、そこに4、5人の中学生がいた。
私がいつも使っているコップが、テーブルの上にあった。
授業の前に注いだお茶が、そのままになっていた。

私は空いている席に座り、お茶をそのまま飲んだ。
が、どこかおかしな雰囲気。
中学生たちが、みな、私を見おろしながら、ニヤニヤと笑っているではないか。
とたん、気がついた。
「何をした!」と強く言うと、その中の1人がこう言った。
「先生、変な味、しない?」と。

もう一度「何をした!」と、強く聞くと、J君という中学生(中2)が、
ニヤニヤと笑ったまま、悪びれた様子もなく、こう言った。
「殺虫剤を入れておいた」と。
見ると片手に、市販のスプレー式の殺虫剤をもっていた。

私はJ君をにらみながら、「お前がしたのか!」と聞くと、「そうだ」と。
私は即刻、J君にこう叫んだ。
「お前はしていいことと、悪いことの区別もつかないのか」
「お前のようなヤツは、進学など、やめてしまえ」
「この塾へは、2度と来るな」
「あとで塾長に話しておく」と。

結局、J君はそのあとも、進学塾をやめなかった。
塾長が、反対に、私をたしなめた。

(2度目)

2度目も、その進学塾でのことだった。
ある日、2人の中学生の進学相談に応じていた。
1人はM君(中3男子)、もう1人はAさん(中3女子)。
そのとき私とM君は、ちょうどテーブルをはさんで、対峙する位置に座っていた。
それを横からAさんが、見ていた。
M君は、あれこれと勉強のことや、進学のこと、学校での成績などを私に話していた。
そのときは一方的な会話だったので、私は軽く目を閉じ、M君の言葉にうなずいていた。

その瞬間のこと。
あろうことか、あるいは何を思ったのか、M君が自分のもっていたシャープペンシルを、
さっと前に出し、私の顔とテーブルの間に立てた。
それを知らない私は、うなずくと同時に、パシンとシャープペンシルがメガネの
端のところではじけるのを感じた。
と、同時にシャープペンシルの先が私の眉の付け根に突き刺さった。

そこに細い動脈があった。
血しぶきが、顔面に散った。
「何てことするんだ!」と叫ぶ間もなく、M君はその場で土下座した。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」と。

今でもそのときの傷あとが、右目の付け根あたりに残っている。

(3度目)

これは最近、経験した。
インフルエンザが、あちこちで流行(はやり)始めている。
鳥インフルエンザも、うわさされている。
そこで私の教室では、その対策というか準備のため、咳をする子どもには、
徹底してマスクをつけさせるようにしている。

が、ときどき「どうしてエ?」と、反発してくる子どももいる。
そういうとき私は、「今から練習しておかないと、いざというときにできないだろ」と、
説明することにしている。

が、レッスンも終わりかけたころ、R君(小2)が、私のところへつかつかとやってきた。
何か用かなと思っていると、R君は突然マスクを下へさげると、同時に、大きな咳を
私にぶっかけた。
顔にR君の唾液が飛び散るのを、私は感じた。

「何てことをするんだ!」と、そのときも、そう叫んだ。

●共通する(常識はずれ)

こうした子どもに共通する症状としては、つぎのようなものがある。

(1)親の過干渉などにより、(あるいは口うるさい家庭環境などにより)、自分で
考えて判断するという習慣に欠けている。

(2)善悪のバランス感覚にうとく、日ごろから何かにつけて、突飛もないことを、
平気でする。

(3)叱られじょうずで、こちらが怒ったりすると、すかさずしおらしい様子をして
みせる。いかにも反省していますといった様子になる。

原因は、(1)にも書いたように、家庭環境にある。
日ごろから親が、(とくに母親が)、がみがみと、一方的に子どもにものを言う。
子どもに話しかけるというよりは、命令口調が多い。
子どもの気持ちを確かめるようなことをしていない。
子どもは子どもで、叱られじょうずというか、その場をうまく切り抜けようとする。

そういう家庭でのやり取りが、乳幼児期からつづいている。

ただJ君(1度目)のように、知的能力にやや問題があるケースもある。
善悪の正確な判断ができない。
突発的に、(とんでもないこと)をする。

これは幼稚園で経験したことだが、コンセントに粘土をつめていた子ども(年長
男児)や、絵の具を溶かして色水を作り、それを2階のベランダから下の子どもたちに
かけていた子ども(年長男児)もいた。
同じように、善悪の判断にうとい子どもとみる。

が、問題は、こうした子どもたちを、どう指導するか、だ。
中学生くらいになると、実際のところ、手遅れ。
幼稚園の年長児でもむずかしい。
というのも、これは指導の問題ではなく、家庭環境の問題。
もっと言えば、親の問題。

子どもを指導することはできても、親を指導するのはむずかしい。
実際には、不可能。
第一、親にその自覚がない。
第二、家庭教育に干渉すると、ときとして思わぬトラブルに巻き込まれる。
第三、親が自分のもつ子育て観を変えるのは、よほどのことがないかぎり不可能。
とくに私立幼稚園や進学塾では、子ども自身のもつ問題よりも、経営が優先する。
先に書いたJ君の事件にしても、私は「退塾させてください」とかけあったが、
塾長がそれに応じてくれなかった。

しかし……。
放置しておけば、このタイプの子どもは、さらに大きな事件を引き起こすようになる。
そういう事件を起こしてはじめて、親はそれに気がつく。
いや、気づく親は、まだよいほうかもしれない。

ある子ども(小6)は、学校で先生の車に石をぶつけて、ドアにキズをつけてしまった。保険会
社から補償金を得るため、先生は、すぐ警察を呼んで、調書をとってもらった。
が、これに親が猛反発。
「そんなことで警察を呼ぶなんて!」と。
それを見ていたほかの子どもたちは、みな、「あの子はわざと石を投げた」と証言した。
しかし親は、最後の最後まで自分の子どもの言い分だけを鵜呑みにし、「うちの子は、
足で蹴っただけ。その石が飛んでいってしまっただけ」と言い張っていた。

ある子ども(高1男子)は、郵便局前にキーをつけたまま放置してあったバイクを
盗むと、そのまま無免許運転で逃げてしまった。
そしてたまたま通りにいた別の友人をうしろに乗せると、郊外へ。
そこでバイクを山肌に激突させ、友人に大怪我をさせてしまった。

いろいろと、この種の事件は、多い。
少子化が進んで、一般的な傾向として、親はますます子どもに干渉するようになった。
その結果、勉強はそこそこにできるものの、常識はずれの子どもが多くなった。
日ごろから、(1)自分で考え、(2)自分で行動し、(3)自分で責任を取るという
習慣そのものがない。
それがわからなければ、一度、「はやし浩司の自由の三原則」を読んでみてほしい。
HPのどこかに収録してある。

ともかくも、こうした事件が起きるたびに、言いようのない空しさを覚える。
少し大げさに聞こえるかもしれないが、ときに、「教育とは何か」と、そこまで
考えてしまう。

●勉強より大切なもの

勉強より大切なものがある。
それが(常識)ということになる。
その常識をさておいて、勉強はない。
いくら勉強ができても、その常識がなければ、何にもならない。

ここでいう常識とは、善悪の判断が正確にできることをいう。
してよいことと、してはいけないことの判断が、正確にできる。
私は「善悪のバランス感覚」と呼んでいる。
それを教えずして、何が教育かということになる。

ついでに言えば、これは教育の問題ではない。
先にも書いたように、家庭教育の問題である。
さらに言えば、親の育児姿勢の問題である。
親自身が、日ごろからルールを破るだけ破っておいて、子どもに向かって、
「悪いことをしてはだめ」は、ない。
それこそ親の身勝手というもの。

この原稿を読んで、「そういえばうちの子も……」と感じたら、あなた自身の
育児姿勢を一度反省してみてほしい。
この問題だけは、親自身が自ら気づき、自ら反省するしか、解決方法はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自由の3原則 常識はずれ 常識はずれの子供 常識外れ 善悪のバランス感覚 
親の過干渉 過干渉児 はやし浩司 善悪の判断)






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15
【学歴制度】

●5か条の御誓文

+++++++++++++++++++
1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

+++++++++++++++++++++

明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があ
り、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員
試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための
予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退
職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間
勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官
ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を
責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所
の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務
員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、
今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、
公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを
意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、
そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ども
が、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本
と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、そ
れがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけて
も、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そう
いう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現
状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今
は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強
するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥で
ある。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」
という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも
勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なの
に、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使っ
た。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったに
ちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書
や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や
華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約7
5〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣され
ていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身
が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そ
して国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本
人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづく
と、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑
う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が
見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、県令
(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度
ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、
末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学
校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の
学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけ
て、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の
生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということに
なる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時
点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦し
み、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今
も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あ
るいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさ
す。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年
長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教え
ることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって
重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれな
いもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしま
う。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 
幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司※

(雑感)

●アメリカ人の子ども観

 国民性のちがいなのか? アメリカでは、「恥ずかしがり屋」の子どもを、問題児ととらえる。
英語では、「ナーバス(nervous)」「シャイ(shy)」という。

 「日本では、恥ずかしがるのは、美徳(virtue)だ」と話すと、そのアメリカ人の先生(小学校)
は、かなり驚いていた。国がちがうと、子どもの見方も、大きくちがうようだ。

 そのためか、アメリカでは、ワーワーと自己主張する子どもほど、(できのよい子ども)ととらえ
る。反対に、静かで、謙遜する子どもを、(できの悪い子ども)ととらえる。

 もちろん教育にも、大きな影響を与えている。

 アメリカでは、いつも先生が生徒に、「どう思う?」「それはすばらしい」と言って、授業を進め
る。日本では、「わかったか?」「ではつぎ!」と言って、授業を進める。

 「教育」と言っても、中身は、まるでちがう。そういうことも考えて、子どもの教育を考える。(も
ちろんそれぞれに、一長一短があるが……。)


●右は妹、左はぼく!

 母親は、男児の育児にとまどう?

 ある母親からだが、こんな相談があった。

 小学五年生の男の子だが、「いまだに、私のおっぱいに、さわりたがります」と。

 妹は、4歳。

 そこで母親は、「右が妹、左がお兄ちゃん」と決めているそうだ。私はその相談を受けたとき、
その母親の胸を、まじまじと見てしまった。

 「どうして?」と聞いたら、何を勘違いしたのか、その母親は、左の胸を前に突きだしながら、
こう言った。「左のほうが、ほら、少し大きいでしょう!」と。

 そのあたりの年齢になると、母親も、やや羞恥心をなくすようだ。胸の豊満な母親だったの
で、ハハハと笑いながら、内心では、その子ども(兄)が、うらやましく思った。そしてこう思っ
た。

 「私だって、男だぞ!」と。

 もうこの年齢になると、私を「男」と見てくれる母親はいない。自分でも、それがよくわかる。ま
あ、あきらめるか! 

私は56歳。ヤング・オールド・マンだ! 略して、YOM。(私がつくった、新語)

【YOMの特徴】

 老人にもなりきれず、しかし青春にも決別できない、中途半端な年代層。ときどき、老人にな
った自分を知り、ときどき、それに反抗してみる。

 ちょうど中間反抗期の子どもの心理的変化に似ている。ときどき、おとなぶってみたり、反対
に幼児がえりを起こしてみる。どっちつかずの不安定な年齢。

 YOMについては、あとで、もう少し、掘りさげて考えてみることにする。おもしろそうなテーマ
だ。


●改心

 ふと、今、思い出した。

 昔、子どものころ見た、チャンパラ映画の中で、「改心」という言葉がよく使われたのを、思い
出した。

 とんでもない極悪人が、あるとき、ふとしたことがきっかけで、心を入れかえ、それ以後は、別
人のように、善人になったりすることをいう。

 子どもながらに、「心というのは、そういうものかなあ」と思ったことがある。

 しかしそれからほぼ、半世紀。私は、そういうふうに、改心した人を見たことがない。人間の
心というのは、いわば体にしみついた「シミ」のようなもので、そう簡単には、変えられない。

何らかの方法で、ごまかすことはできても、それは化粧のようなもの。しかし、化粧は、化粧。
何らかのきっかけで、すぐボロが出る。もしそんなことが簡単にできるなら、精神科の医師など
いらないということになる。

 私だって、「心の質」は、それほど、よくない。もともと小ズルイ男で、小心者。(私とつきあう人
は、そういう意味で、用心したほうがよい。ホント!)

 そういう私が、かろうじて「私」なのは、私には、ドン底経験があるからだ。

 幼稚園講師になって、すべてをなくしたと感じたとき、私は死ぬことさえ、考えた。毎晩、「浩
司、死んではダメだ」と、自分に言って聞かせた。

 そのときのこと。私は、人間は、ドン底を経験すると、二種類に分かれることを学んだ。その
まま悪人になっていく人間と、善人になっていく人間である。私はあのドン底経験のあと、自分
でもおかしいと思うほど、まじめになった。

 タバコもやめたが、女遊びもやめた。ウソをつくのも、約束を破るのも、ごまかすのもやめ
た。何もかもやめた。やめて、ただひたすら、まじめ(?)に生きるようになった。

 そんな私だが、しかし、では、私の質が変ったかというと、そういうことはない。ただごまかして
いるだけ。自分でも、それがよくわかる。ふと油断すると、もともとの私が、すぐ顔を出す。

 今は、そういう私と戦っているだけ。押さえこんでいるだけ。だから、やはり、「改心」などとい
うことは、ないと思う。

チャンパラ映画の中では、よく使われたテーマだが、ああいうことは、ありえない。それが、この
半世紀を生きて私が知った、結論である。









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16
【疑惑症】

●子どもの潔癖症(疑惑症)

++++++++++++++++++

子どもの手洗いグセについての
相談が届いています。

掲載許可がいただけましたので、少し
改変して、お届けします。

++++++++++++++++++

初めて相談をさせていただきます。
よろしくお願いします。

幼稚園に通う長男のことです。
もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが、この8月頃ごろから
急に、よく手を洗う様になり、特に幼稚園から帰ると、1時間くらいの間に5〜6回、多い
時は10回くらい手を洗うようになりました。

本人に聞くと、手が汚いから・・とか、手が臭うから・・と言って洗っていました。誰か
に臭うと言われたのか聞くと、そうじゃないと言います。でも、元々気にしない子で、い
つもこちらから、洗いなさいと言わないと洗わない子でしたのに、やたらと気にする様に
なりました。しかも、しょっちゅう、手の匂いを嗅いで確認しています。

朝も幼稚園に行くのも嫌がり、ぐずったり、メソメソとすぐ泣くようになりました。先生
に聞くと、幼稚園でも同様のようです。それ以来、なるべく長男が手を洗うときはついて
行って、一緒に洗ってあげたり、匂いがないか確認をしたりするようにしました。

すると、手を異常に洗うことはなくなったのですが、今度は、手を全然洗いたがらなくな
り、手が汚れないために、なるべく手を使わず足を使ったり、お菓子などは、犬食いをし
たり、片手にウエットティッシュを持って、拭きながら食べたりするようになりました。

しかも、匂いは相変わらずしょっちゅう嗅いでいます。何か触ったり、物を食べたりした
時も・・・。

メソメソするのも相変わらずで、ちょっと怒られたり、嫌な事があると、泣き出します。
一度泣くと、こちらから傍に行って、抱きしめたりするまでずーっと泣き続けます。それ
以外の時は、愛想も今は以前の様によく、元気も良いです。先生のHPを見させていただ
いて、もしかして疑惑症というものではないかと、心配になり、またどのような対応をし
てあげれば良いのか、教えて頂きたく相談させて頂きました。

幼稚園の先生にも、相談してみたのですが、今までウチの子の様な行動をとる子がいなか
ったとかで、先生も頭を悩ませているようでした。9月までは、幼稚園でも、もの凄く元気
いっぱいでいつもニコニコしていたらしく、先生にもよく褒めて頂いたくらいなので、先
生も驚いているようです。

ぜひ、良い対応がありましたら、教えて頂きたいと思います。宜しくお願いします。
(滋賀県M町、IKより)

【はやし浩司より、IKさんへ】

「長男」とありますから、下にお子さんがいらっしゃるのでしょうか。
ひとつのきっかけとして、下のお子さんが生まれたことが原因で、神経症に
なった可能性があります。

子どもの神経症による症状は、千差万別です。
定型がありません。

検索エンジンを使って、「はやし浩司 神経症」もしくは、「はやし浩司 手洗いグセ」を
検索してみてください。
あわせて、「はやし浩司 赤ちゃん返り」も参考にしてみてください。

また様子からみると、幼稚園の指導、もしくは友人関係に何らかの問題があるようにも
感じます。
先生が神経質であるとか、友だちとの間にトラブルがあるとか、など。

もう一つ気になるのは、「もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが……」という部分です。

子どもは人見知りするのが当たり前。
また見知らぬ人に対して、愛想が悪いのが当たり前。
そういう前提で考えてください。

愛情飢餓状態の中で子どもが育つと、一見、このように、人見知りしない、
愛想のよい子どもになることがあります。
どこかで親の愛情に不安を感じていないか、一度、観察してみてください。
またその「根」は、深いと思ってください。

(注:「子どもの疑惑症」については、私のHPの「子育て・あいうえお(3)」に
詳しく書いておきました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの手洗いグセ 疑惑症 潔癖症 神経症 手洗い癖 はやし浩司)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

こんにちは。
以前、疑惑症の事で、先生に相談させていただいた者です。
5歳の長男の事で相談をさせていただきました。
メールを何処に送ってよいのかわからず、、相談コーナーのこちらに送らせていただきました。
先生、ありがとうございました。
お陰様で、5歳の長男ですが、以前の元気が良く、活発な子に、戻りました。
先生がおっしゃっていましたように、スキンシップを濃厚にしたり、食事を気をつけたりしました
ら、本当に2ヶ月ほどで、よくなりました。
幼稚園も楽しいらしく、先日ありました発表会では、元気いっぱい演技もしていました。
あれほど心配しました、手洗い癖も殆どなくなり、
時々匂いを気にする事もありますが、こちらがほっておくと、すぐ気にならなくなるようですし、
手を汚したくないからと、犬食いをすることもなくなりました。幼稚園でも同様のようで、以前の
息子に戻ったと幼稚園の先生にも、言われています。
先日は、仲の良い友達をうちに連れてきたりもしていました。本当にありがとうございました。
メルマガもいつも読ませていただいています。
これからも、参考にさせていただきたいと思います。








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17
【代理ミュンヒハウゼン症候群】(Personality Disorder)

++++++++++++++

献身的な介護者を装いながら、
その裏で、被介護者を虐待する。
相手は夫であったり、祖父母で
あったりする。
兄弟のこともある。
自分の子どもであることも多い。

++++++++++++++

12月24日に、こんなニュースがヤフー・ニュースサイトに載っていた。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

病気で入院している五女(1歳10カ月)の点滴に異物を混入し殺害しようとしたとして、K府警
捜査1課と川端署は24日、岐阜県S市の無職の女(35)を、殺人未遂容疑で逮捕した。女は
「子供の病気が悪化すれば付き添ってやれると思った」と供述し、殺意を否認しているという。

(中略)

 23日午後5時半ごろ、女が点滴の管を触ったり、ポケットから何かを取り出したりする仕草
がビデオに映ったことから、警察官が職務質問し、所持品から注射器を発見。24日になって、
腐りやすいようスポーツドリンクを混ぜた水を7〜10日放置し、混入したことを認めたという。

 府警によると、逮捕された女は、人の注意を引きつけるために病気の症状をまねる精神疾
患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。この疾患では、子供を病人に仕立
て、献身的な介護者を演じることもあると報告されているという。(ヤフーニュース081224)

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

このニュースの中で注目すべき点は、終わりあたりに書いてある、「人の注意を引きつけるた
めに、病気の症状をまねる精神疾患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。こ
の疾患では、子供を病人に仕立て、献身的な介護者を演じることもあると報告されているとい
う」という部分。

典型的な「代理ミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる、精神疾患のひとつである。
近年、虚偽性人格障害(演技性人格障害)※の一種として位置づけられ、治療の対象に
もなっている。

●フリをする母親

昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーとい
う学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。
ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた男爵の名に由来する。
ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ連
れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。
そういう母親を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(以上、参考、「心理学用語辞典」かんき
出版)。

このタイプの母親というか、女性は、多い。

自分に対して(演技する)のが、ミュンヒハウゼン症候群。
子どもなど、だれかを代理させて(演技する)のが、代理ミュンヒハウゼン症候群。
しかし代理になる対象は、けっして(子ども)だけではない。
実の親、兄弟ということもある。
また(病院)だけが舞台とはかぎらない。
家庭や介護センターなどでも、ある。

「ミュンヒハウゼン症候群」と私の立場では断言できないが、私の知っている女性(当時
50歳くらい)に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的
に仕える、(よい嫁)を演じていた人がいた。

その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。
しかしたった一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談していた人がいた。
それがその姑の実の長女(当時50歳くらい)だった。

そのため、その女性は、姑と長女が話しあうのを、何よりも、警戒した。
当然のことながら、その長女を、嫌った。

さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせていた女
性(当時60歳くらい)もいた。

虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」というようなことを、一方
で言いながら、子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さ
すって見せるなど。

「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。
仮面をかぶっているというより、人格そのものが、バラバラ。
何を考えているか、それがつかめない。
どこか不気味。
そんな印象をもつ。

もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。
たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮してしまっている。
母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える気力もない。
あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。

●私の知っている例

ヤフー・ニュースにもあるように、このタイプの女性は、(圧倒的に女性が多い)、
(1)他人の注意をひくため
(2)他人の同情をかうため
(3)他人から自分を、高く評価してもらうために、そうする。

今回の事件は、母親が実の子どもに対してした事件である。
点滴の中に、腐った水を注入していたという。
しかし殺すのが目的ではない。
(殺すなら、そんな回りくどい方法は、とらない。
またその度胸もない。
元来、気の小さい人とみる。)
このタイプの女性は、献身的な介護ぶりを演じ、それでもって自分をよく見せる
のが、目的である。

私が知っているケースに、実の弟に対して、それを繰り返していた女性(当時、
60歳くらい)がいた。
私が見舞いに行ったりすると、私たちが見ている前で、大げさに背中をさすって
みせたり、かいがいしく看病している様子をみせたりした。
が、それがどこか演技ぽい(?)。
あるいはその周辺から聞こえてくるうわさと、どうも一致しない(?)。

(たとえば献身的なボランティア活動をしていると本人は言うのだが、その一方で、100円、20
0円単位のお金のことで、ケチケチするなど。)

で、しばらく連絡を取らないでいたりすると、その女性のほうから電話がかかってきて、
看病で苦労しているというような話を、長々とする。
ささいなことでも、大げさに言う。
たとえば「歯ブラシがなくなってしまったので、冬の寒い日だったが、あちこちの店
を回って、買ってきた」とか、など。
そういうことをこと細かく話す。
ついでに「実の息子が東京にいるのだが、何もしない」とこぼしたりする。

そこで「それはたいへんですね」「あなたは偉い」と私が言っている間は、どこか機嫌がよい。
しかし批判めいたことを言ったりすると、そのままパニック状態になってしまう。
そのときも、「今では歯ブラシなど、コンビニでも売っていますよ」と私が言うと、
急に理由にもならない理由をつけて、怒りだしてしまった。

で、その弟氏は、10年ほど前にある病気で亡くなったが、葬儀場から出棺というとき、
その女性は、気が狂ったように大泣きしてみせた。
サメザメと泣くというよりは、ギャーギャーと泣きわめくといったふうだった。
が、そのあと、初七日の法事も同日の夕刻にしたのだが、逆に躁状態になってしまった。
喪主は、その弟氏の息子が一応、務めていたが、無視。
自分が葬儀の喪主であるかのように、はしゃいでいた。

●ごくふつうの人

これは代理ミュンヒハウゼン症候群の人に共通することと言ってもよいかもしれないが、
どの人も、一対一で会って話すと、ごくふつうの人という印象を受ける。
どこか「?」という印象をもつこともあるが、会っているときには、わからない。
「おしゃべりな人」「よく気がつく人」という印象をもつことが多い。
こちらが代理ミュンヒハウゼン症候群ではないかと疑いながら観察してみたとき、
はじめてそれがわかる。
もちろん代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉すら知らない人も多い。

(ただし人前では献身的な介護者を演ずるため、まわりの人たちは、「やさしい人」「できた人」
「人格者」という評価をくだすことが多い。)

共通する特徴を列挙してみる。

(1)人格のつかみどころがない(どういう人なのか、よくわからない。)
(2)わざとらしい介護、看病を繰り返す(人が見ているときだけ、それをする。)
(3)自己中心性が強く、一貫性がない(いつも目立った言動を繰り返す。)
(4)世間体、見栄、体裁にこだわる(いつも他人の目を気にしている。)
(5)口がうまく、依存性が強い(相手にへつらう、相手の機嫌をとる。)
(6)自分への批判を許さない(批判されたとき、パニック状態になる。)

が、何よりも最大の特徴は、(5)「私は私」という生きざま、あるいは哲学が
ないということ。
そういったものをもつだけの、知的能力もない。
が、ここでも誤解してはいけないことは、情報量が多いとか、頭の回転が速いとか、
そういうのは、ここでいう知的能力ではない。

たとえばその病気については、医者も驚くほどの知識をもっていたりする。

ここでいう知的能力というのは、深い思考性、深い洞察力、他人との共鳴性に
裏づけられた、哲学的な一貫性をいう。
わかりやすく言えば、その人らしい生きざまをいう。
またそれがないから、結果として、代理ミュンヒハウゼン症候群としての症状を
示すことになる。

……と書くと、このタイプの人は、全面的に加害者かというと、そうでもない。
同時に、このタイプの人自身も、何らかのトラウマをかかえていると考えてよい。
過去における心のキズが遠因となって、代理ミュンヒハウゼン症候群的な症状を
引き起こすようになったと考える。

なおウィキペディア百科事典によれば、演技性人格障害※については、つぎのような
特徴をあげている。

(1)他人から美化され注目されることを望む
(2)自分は他人に対して関心を払わない。
(3)他人を尊敬することもしない。
(4)他人の心身の痛みを理解できない、とある。

(注※:以下、ウィキペディア百科事典より抜粋)

●虚偽性人格障害

この障害の持ち主は、自分の病気の遍歴を劇的に語るが、詳細に問われるとその中身が急
に曖昧で、一貫性が無くなる。また、病気に関してきわめて聞き手の興味を持たせる話をする
ことが多い。

一般的に医学用語や病院に関する知識が豊富であり、これらの用語を駆使して嘘の病状を訴
える空想虚言癖を持つ事が多い。最初に訴えた症状が陰性だと分かると新たな訴えを始め、
虚偽症状を作り出す。また病院によって、症状を否定・虚偽だと通告されると、即座に退院し、
別の病院へ放浪したりすることもある。

この症状をもつ人の根本的な動機は、被虐嗜好や幼児期の満たされなかった愛情を満たすこ
とであり、そのため、一般の人が避ける手術などを、世話をしてもらえるという理由で、積極的
に受けたがる。

しかし、嘘はいつまでも通用せず、矛盾した検査結果などで作為的な身体症状である事が暴
露される。反応は、多くの場合逃げ出す事で、他の病院で新たな身体症状を作り上げて入院
するといったことを繰り返す。医者は、治療の努力を裏切られた事から怒りをもつ事が多い。
身体症状領域だけでなく、精神病領域でも約0.7%の虚偽性障害の人がいる。

この障害では、本人だけでなく子供などを利用する場合があり、そのときも騙すための手口は
同じである。騙すための手段や、不必要な手術を経ることによって、実際に子供がダメージを
負う事が多く、死に至る場合もある。母親と引き離すことによって"病状"は回復する。これは
『代理ミュンヒハウゼン症候群』と呼ばれる。

●演技性人格障害

演技性人格障害(えんぎせいじんかくしょうがい)は、日常生活の中において役者の演技のよう
な行動をし、その結果自分が注目の的とならなければ大きなストレスを受けるため、自己破壊
的な行動や、或いは自己破壊的なまでに挑発的な性行動を取ったりする精神疾患である。

もともと人は、ウィリアム・シェイクスピアが「物みな舞台、人みな役者」(『お気に召すまま』)と
表現したように、職業人として、家庭人として、友人として、或いは行きずりの他人としてのペル
ソナを場合によって被り分けるものである。だが本症に於いては、こうしたペルソナの使い分け
ができず、ある一つのペルソナにこだわる事によって社会生活に支障を来たす。

9割が女性であるが、これに対し反社会性人格障害では生涯罹患率が、それぞれの文化圏で
本症と同程度であり、こちらは9割が男性である(他に、いずれの疾患も「他人から美化され注
目されることを望むが、自分は他人に対して関心を払わず、他人を尊敬することもしない」、
「他人の心身の痛みを理解できない」などの病像が似ている)ことから、同じ疾患が性差として
現れた物であるという解釈もあり、その原因となる神経伝達物質や遺伝子の探索が行われて
いる。

演技性人格障害と関連する精神疾患にプソイドロギア・ファンタスティカ、いわゆる病的虚言症
がある。自分を実際以上に見せるために、あらゆる妄想虚言を吐く、一群の病者である。有名
人や権力者と知り合いであるかのように、会話中にはネーム・ドロッピングを行う。高い知性を
伴えば、スタンドプレイの好きな、権力志向の人物と言う評価内に納まる事もあるが、多くは周
囲との利害を調整できず、詐欺などの犯罪を犯すこともある(以上、ウィキペディア百科事典よ
り抜粋)。

+++++++++++++++++

同じ代理ミュンヒハウゼン症候群でも、相手が子どものばあいは、まだ対処もしやすい。
しかし相手が祖父母や両親、さらには兄弟のばあいは、介入そのものが、むずかしい。
家庭の事情が複雑にからんでいることが多い。
またそれ以外に介護者(看護者)がいないというケースもある。
子どものように強制的に保護施設に収容するということができない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
代理ミュンヒハウゼン症候群 虚偽性人格障害 演技性人格障害 虐待)


【代理ミュンヒハウゼン症候群】(追記、090115)

+++++++++++++++++

私は、代理ミュンヒハウゼン症候群について、
すでに4、5年前から、書いてきた。
そのこともあって、このところBLOGへの
アクセスが急増している。
たとえば「はてなBLOG」のばあい、
どういう検索ワードを使って、そのBLOGへ
アクセスしてきたかが、一覧表になって示される。
その中でも、とくにここ1か月ほど多いのが、
「代理ミュンヒハウゼン症候群」。

その代理ミュンヒハウゼン症候群については、
すでにたびたび書いてきたので、ここでは
省略する。
ここでは、その先というか、中身を考えて
みたい。

+++++++++++++++++++

●殺意の認定

刑法上、代理ミュンヒハウゼン症候群が問題になるのは、(1)殺意の認定、(2)それにつづく
実行行為、そして(3)結果として、何らかの結果(殺人、傷害)などの結果が起きたばあいであ
る。

殺意だけでは、殺人罪の構成要件には該当しない。
よく知られた例に、「わら人形」がある。
いくらその人が、だれかを憎み、毎晩わら人形を神社の柱に打ちつけたとしても、殺人罪で起
訴することはできない。

が、何らかの実行行為が伴ったとき、たとえば刃物を買って、そのだれかに襲いかかったよう
なケース。
今度は、その時点で相手に何ら危害がなくても、殺人未遂罪が適応される。
が、こういうケースもある。

殺意はあいまいだが、しかし実行行為があり、結果として致傷、あるいは殺人につながるよう
なケースである。
こうしたケースでは、「未必(みひつ)の故意」が適応される。
「相手に危害を及ぼうそうという積極的な意思はなかったが、しかしその可能性は予見してい
た」というようなケースである。
それに対して、まったくその意思がないばあいは、過失致傷罪、過失致死罪が適応される。

●代理ミュンヒハウゼン症候群

岐阜県関市の1人の母親が、今、代理ミュンヒハウゼン症候群による行為障害者ではないか
と疑われている(08年12月〜)。
実の娘の点滴の中に、腐った水などを混入し、よってその娘の病気を長引かせたという。
(ほかの娘たちを死に至らしめたという疑いもかけられているようだが……)。

この事件で注意しなければならないのは、動機が何であれ、もちろん代理ミュンヒハウゼン症
候群によるものであるかどうかも含めて、それ自体は、刑法上は、問題とされないということ。
仮に虐待によるものであるとしても、「虐待罪」で問われることはない。
「虐待罪」そのものが、存在しない。
同じように、「代理ミュンヒハウゼン症候群罪」という罰則が、刑法上にあるわけではない。

しかも、代理ミュンヒハウゼン症候群といっても、その多くは目立った虐待を伴わない。
たまたま病弱な子どもがいて、その世話を、かいがいしくして見せながら、「いい母親」「すばら
しい母親」を演ずることもある。

つまり代理ミュンヒハウゼン症候群というときは、第三者に向かって、「私はすばらしい人間で
ある」ということを印象づけるのを目的とする。
みなに、「あなたはよくできた人だ」「すばらしい人だ」と、同情される。
同情されることによって、自分の立場を作りあげる。

そのため代理ミュンヒハウゼン症候群といっても、対象となる被害者は、子どもとはかぎらな
い。
親や兄弟、ということもある。
また舞台は、何も病院とはかぎらない。
家庭や施設などでもある。
またこうした行為は、秘密裡になされることが多い。
今回、岐阜県関市で起きた事件についても、その女性の夫は、妻をかばっている(?)。
「信じられない。精神的に混乱していたのではないか」(中日新聞)と。
さらに「(警察に)誘導されてしまったのではないか」(同)と、むしろ警察の捜査に不信感を表明
している。

(新相はこれから明らかになるだろうが……。)

それほどまでに、その女性の行為が巧みだったのか、それとも、夫が無知無学なのかはわか
らない。
あるいは夫が弁明しているように、事件そのものが、警察によるでっちあげなのかもしれない。
しかし一般論として、代理ミュンヒハウゼン症候群かどうかは、きわめてその身近にいて、また
その知識がないと、わからない。

●ある女性のケース

ある女性(当時60歳くらい)は、明らかに実の父親を虐待していた。
その数年前、父親は脳梗塞を起こし、体の運動もままならなくなっていた。
いちばん近くに住んでいた娘の家に、引き取られることになった。

食事をこぼす。
便をもらす。
ものを不注意で壊す、など。
そのつどその女性は、父親をはげしく叱った。
ふつうの叱り方ではない。
ヒステリックな金きり声をあげて、叱った。

こんなこともあった。
家で遊ばせておくのは、もったいない(?)ということで、父親に内職をさせたこともある。
簡単な仕事だったが、半身不随の父親には、できるはずもない仕事だった。
が、その父親は、その女性(実娘)が命ずるまま、その仕事をこなした。
が、ある日、何があったのかは知らないが、父親は、その仕事(電気部品)を、家の前を流れ
る小川に投げ捨ててしまった。
その女性は、激怒した。
それ以後、食事は、ほぼ3食、ごはんと味噌汁だけ。
ときにごはんと、魚を焼いたようなものだけ。
ベッドを汚すからという理由で、父親は紙おむつをあてがわれていたが、その紙おむつを取り
替えないということも、つづいた。

……という話なら、今では、どこにでもある。
珍しくない。
またこれだけなら代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉は出てこない。

代理ミュンヒハウゼン症候群といわれるためには、つぎの行動、つまりそれを利用して、ことさ
ら自分の立場をつくるという行為が必要である。
他人から、「あなたはよくやっている」「すばらしい人だ」と思われることで、自分の立場をつく
る。

こうして内々では、父親を虐待しながら、外部に向かっては、自分はすばらしい女性であること
を、演技した。
たとえば親類、あるいは実の妹や弟がその父親を見舞いにやってきたりすると、やさしくて思
いやりのある娘を演じて見せたりした。
ベッドに横たわる父親の横に、片時も離れず、ずっといた。
(実際には、自分の虐待を、父親が話すのを恐れて、離れることができなかったのではない
か?)
そしてそのつど、父親の背中をやさしくさすってみたり、口に飲み物を含ませたりしていた。
そして見舞う人に対しては、長々と、そしてくどくどと、その苦労話を言って聞かせたりした。
もちろん(?)、そのときだけは、父親に、洗濯のゆきとどいた、清潔な服を着せたりしていた。
弟や妹が何もしないことを、それとなく訴えた。
(実際には、弟と妹は、それぞれ毎月5万円ずつ出しあって、その女性を助けていたのだが…
…。)
で、見舞いに行った人は、みな、こう言った。
「あのXさん(=女性の名)は、すばらしい女性だ」「仏様のような人だ」と。

●代理ミュンヒハウゼン症候群

さらに注意しなければならないのは、程度の問題もあるということ。
浜松市内の病院に勤務する精神科のドクターが、最近、こう教えてくれた。

「代理ミュンヒハウゼン症候群で、精神科へやってくるような患者は、明らかに様子がちがうか
ら、それとわかる」と。
つまり様子からして、ふつうではない、と。
また今回の事件のように、明白に、殺意が感じられる行為があったばあいのみを、代理ミュン
ヒハウゼン症候群としているとのこと。
またそれがないばあいには、代理ミュンヒハウゼン症候群としては扱わない、とも。

そこで私が、「しかし治療法など、ないでしょう? どうするのですか?」と聞くと、そのドクター
は、あっさりとそれを認めた。
「ないから、10年単位のカウンセリングということになります」と。

で、岐阜県関市の女性が起こした事件が、代理ミュンヒハウゼン症候群と決めつけてよいかど
うかは、今のところ不明である。

新聞の報道などでも、「専門家の中には、代理ミュンヒハウゼン症候群によるものではないか
と疑う人もいる」というような書き方をしている。
それもそのはず。
刑法上にも、代理ミュンヒハウゼン症候群罪という罪があるわけではない。
刑法上では、あくまでも未必の故意、もし殺意の認定がされれば、殺人罪、もしくは殺人未遂
罪で、当の女性を訴追するしかない。

また精神医学の分野でも、人格障害、もしくは行為障害として、治療に当たるしかない。
代理ミュンヒハウゼン症候群というのは、あくまでもその中の類型のひとつにすぎない。
(繰り返すが、「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのは、診断名ではない。
あくまでも類型名でしかない。)

●刑法上の罪vs精神医学上の診断名

わかりやすく言えば、他人の同情を買い、それでもって自分の立場をつくり、そのために必要と
あれば、虐待をともなう一連の行為を繰り返すことを、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という。

今回は対象となった相手が、実の子どもであった。
点滴の中に、腐った水を混入させた(?)。
しかし殺す目的があったというよりは、(よくできた、すばらしい母親)を演ずるために、そうした
(?)……、という点で、「代理ミュンヒハウゼン症候群」が疑われている。

報道されている事実だけからすると、先にも書いたように、刑法上では、未必の故意による殺
人未遂罪が適応される可能性が高い。
が、そこまで。

繰り返すが、「代理ミュンヒハウゼン症候群罪」というのは存在しない。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのは、また病名ではない。
診断名として確立しているわけでもない。
診断名として確立するためには、診断基準が示されなければならない。
さらに言えば、治療法が確立されているわけではない。

が、つぎのことだけは、覚えておくとよい。

●新しい虐待

教育の世界で、代理ミュンヒハウゼン症候群が問題になり始めたのは、ここ4、5年のことと考
えてよい。
「どうもおかしい?」というケースが、児童相談所の相談員の間から、聞こえ始めたのも、その
ころである。
それに並行して、「新しいタイプの虐待」、もしくは「新しい虐待」という言葉も使われるようにな
った。

うわべでは、たいへんよい母親に見えるのだが、子どもに虐待された痕跡が見られる。
怪我や病気を繰り返す。
子どもの病院通いがつづく。
が、母親に会って面談すると、おだやかで、やさしい。
が、どこか一貫性がない。
つかみどころがない。
そのつど質問すると、母親はペラペラと、言い訳したり、とりつくろったりする。
子どもの世話について、苦労話を、あれこれする、などなど。

「一貫性がない」というのは、行動や言動が、ちぐはぐなことをいう。
一方で献身的で、自己犠牲的な母親を演じながら、それでいて、学校でのボランティア活動な
どには参加しない。
子どもの病気については、涙をこぼしながら話すにもかかわらず、治療費を滞納する。
教師が病院へ行くと、やさしい母親を演じて見せるが、近所の子どもの話では、毎晩その母親
の怒鳴り声が聞こえる、など。

さらに言うことが、そのつど変化する。
たとえば「治療費がたいへん」とこぼすから、学校側が、児童保険の適用を申請する。
が、つぎの相談では、今度は、勉強の遅れを問題にする、など。
「そのつど、話の内容がころころと変わるからたいへんでした」と、それを話してくれた
教師は、そう言った。

●見かけにだまされない

代理ミュンヒハウゼン症候群にかぎらず、母親というのは、見かけだけで判断してはいけない。
天才的に、演技がうまい母親(女性)も多い。
うまいというより、ふつうの人なら、まず、だまされる。
岐阜県関市で起きた事件にしても、先にも書いたように、そばにいる夫は、まったくそれに気づ
いていなかったようだ。

私も最近、それらしいケースに遭遇したことがある。
そこでそれとなくその夫(=子どもの父親)に、打診してみたが、その夫は、私の話の一部さえ
聞こうとしなかった。
そのまま激怒してしまった。

またこれはあくまでも私の印象だが、当の女性ですら、自分のしている行為が何であるかもわ
かっていないのではないかということ。
もちろん虐待しているという意識はない。
つまり病気でいえば、「病識」そのものがない。
「私は正しいことをしている」「私はすばらしい母親(娘、嫁)である」と、自らをそう信じ込ませて
いる。

したがって一連の自分の行為についても、罪の意識はまるでない。
(どこかに罪の意識が残っていれば、まだ話もできるのだが……。)
そういう点で、先に、精神科のドクターが言ったように、「明らかに、おかしい」という状態にな
る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代理
ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン 虐待 子供の虐待 行動障害 行為障害 人
格障害)

【付記】(1)

良好な人間関係の構築ができない人は、(1)攻撃型、(2)服従型、(3)依存型、(4)同情型の
いずれかのパターンをともなった、行動に出る。
代理ミュンヒハウゼン症候群は、この中の、(4)同情型ということになる。
他人に同情してもらうことにより、自分の立場を確立する。

よくあるケースが、人に会うたびに、自分が病気であり、体が弱いことを訴えるもの。
弱々しく、今にも死にそうな声で、相手に訴えかけることもある。
話すことといえば、自分の病気のことばかり。
さらにそれが進むと、自傷行為をともなうこともある。
わざと壁に頭をぶつける、わざと高いところから飛び降りる、わざと道路でころんでみせる、な
ど。
そういう行為をすることで、他人の同情を引き寄せる。

私は「同情」をつぎの3つのパターンに分類する。

(1)自己同情型(弱々しい自分を演ずるという意識がないまま、演ずる。)
(2)代理ミュンヒハウゼン症候群
(3)自傷型(本能的な部分で、衝動的に行動するので、自己管理能力が機能しない。)

どうであるにせよ、意図的な行為というよりは、無意識下の行為であるため、本人に客観的に
それを自覚させることは、たいへん難しい。

先にあげた父親を虐待しながら、その一方で、すばらしい娘を演じている女性にしても、当の
本人は、演じているという意識もないのではないか。
ごく自然な行為(?)として、それをしている。
またそれを指摘すると、(実際には指摘できないが)、たいていこのタイプの女性は、烈火のご
とく怒り出す。
「私がこんなに苦労しているのに!」と。
実際には、結局はその人が世話や介護をするしかないという状況があり、ある一定の範囲に
ある間は、代理ミュンヒハウゼン症候群が疑われても、黙認する。

一般的には、代理ミュンヒハウゼン症候群というと、女性の問題と考えてよい。
圧倒的に、女性によるケースが多い。
ミュンヒハウゼン氏というのは、男性だったが……。

【付記】(2)

こうした代理ミュンヒハウゼン症候群と自ら闘うためには、自己の文化性を日ごろから高める。
音楽を聴いたり、本を読んだりする。
より高度な人と接し、より高度な情報を吸収する。
そういう行為を繰り返して、自己の文化性を高める。
もちろん良好な人間関係の構築に努める。
小さな殻(から)の中に閉じこもり、そこで自分の(ゆがみ)を極端化させるのは、たいへん危険
なことと考えてよい。








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18
●ネームドロッピング

++++++++++++++++++

それとなく会話の中に、有名人の名前を
混ぜ、それでもって、「自分は有名人と
親交がある」「……あった」と相手に思わせる
ことを、「ネームドロッピング」というらしい。

私はこの言葉を、今日、はじめて知った。

……と書くと、「何だ、林浩司は、
そんな言葉すら知らなかったのか」と
思われそうだが、事実は事実。

虚偽性人格障害者と呼ばれる人が、この手法を
よく用いるそうである。
そしてそれが犯罪に結びつくと、詐欺師と
いうことになる。

+++++++++++++++++++

しかし私には、その反対の経験がある。
名前を出したくても、出せなかった。
出したところで、だれも本気にはしなかっただろう。
今でこそ、「ネームドロッピング」という言葉もあるが、ネームドロッピングそのもの。
だれしもみな、そう思ったことだろう。

私はSH氏に後見人(身元引受人)になってもらい、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことである。
SH氏というのは、現在の皇后陛下の父君である。
そのSH氏は、そういう関係もあって、留学する前も、そしてそのあとも、電話一本で、
気軽に会ってくれた。
会うといつも、東京商工会議所の横の路地にあるそば屋へ、私を連れていってくれた。
そばのたいへん好きな人だった。

が、そのSH氏の名前をこうして書くようになったのは、私が47歳も過ぎてからのこと。
そのころから猛烈に本を書き始めた。
それまでは、名前を口にするだけでも、畏(おそ)れ多かった。
その状況は、今でも変わらない。

先日も友人と電話で話しているとき、何かの話のついでに、SH氏が話題になった。
そのときもつい、口がすべりそうになった。
しかし言えば言ったで、まさにネームドロッピング。
その友人は、そう思っただろう。
だから言わなかった。

で、詐欺師といっても、いろいろある。
相手を意図的に騙そうとする詐欺師もいれば、その意識もないまま騙そうとする
詐欺師もいる。
前者はまだ救われるが、後者は、人格障害の一つで、虚偽性人格障害とも呼ばれる。
もちろん軽重はある。
軽い人は、「境界性〜」という名前がつく。
「パーソナル障害」と呼ぶときもある。

このタイプの人は、頭の中で虚構の世界を作りあげ、虚構が虚構であることさえ、
わからなくなってしまう。
「私の父親は、SH氏」「だから私も皇族」と。
本人自身が本気でそう信じているから、相手も騙されやすい。
(?をついているという)スキがない。

しかし世の中には、ネームドロッピングの、(ネーム)そのものの人もいる。
そういう人が詐欺を働くときもある。
アメリカで起きた、元Nダック会長による詐欺事件である。
被害額は数兆円にのぼるとされる。
数兆円である。
仮に2兆円として、1万円札が100枚で1センチの高さになるとして計算
してみると、何と、その高さは、20キロメートル!
それもそうだろう。
「元Nダック会長」と言えば、だれだって信用してしまう。
そんな人がまさか詐欺を働くとは、だれも思わない。

話はそれたが、虚偽性人格障害と位置づけられる人は、このネームドロッピングという
手法をよく用いるそうである。
有名人の名前を、会話の中に織り込むのは、ほどほどに!、ということになる。
かえってあなたの人格を疑われることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ネームドロッピング 虚偽性人格障害 パーソナル障害 ペルソナ人格障害)







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19
【教育改革】

●この現実を、知っているか?

++++++++++++++++++++

日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

+++++++++++++++++++

時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。
株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに
見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上場の外国企
業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

++++++++++++++++++

●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で616円安。
それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れてい
ることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあるこ
とを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、20
02年になっている。

+++++++++++++++

【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125 
enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The 
number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for 
translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and 
liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my 
article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数は
ピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスの
ネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今
どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしま
つ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績
は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正
解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析
方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250
人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへん
お粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日
(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業で
した」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。日本では
大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり
何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊す
る。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査で
も、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よ
りも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねば
ならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以
上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にある、ほとんどの
グラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の
中から、1科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピ
ュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護
の科目もある。

もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つ
とのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減して
いるという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。
「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあ
ります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任
す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。
日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさ
に世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育
観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本
語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ム
ダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、
外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのは
ムダ」と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日
本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。たとえばルイサ・
E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子どもを預かり、コ
ンピュータの授業をしている。

近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれ
た。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育
の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の
席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学
校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必
要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だから
だ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわい
そうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自
分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかり
にこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入学時に
は、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、
「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営
む上で必要な基礎学力だ」と。もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なの
か」、それを説明してほしい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶの
か。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式
に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調
査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こ
ういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教え
たい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから
学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要
はないという人もいる。

大切なことは、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる
気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押し
つけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子
どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もい
た。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができ
る環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で
考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は
学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が
徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとし
ばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかにつ
いては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れては
いけない。

+++++++++++++++

 6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。しかし、それでは
不十分。

 同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実に表
している。







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20
【疑わしきは、罰する】

●心が壊れる子ども(無関心、無表情は要注意)(精神的に不安定な環境が原因?)

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、ヘビをつか
まえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、
ヘビにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう一五年近くも前のことだが、一人の園児(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、よく見ると、それは
虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチをかませる。かんだと
ころで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。
小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。
「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏ん
で、殺してしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(何でも親が決めてしまう)、過関心(息が抜けない)など。威圧的(ガミガミ)な家
庭環境や、権威主義的(問答無用の押しつけ)な子育てが、原因となることもある。要するに、
子どもの側から見て、「精神的に不安定な家庭環境」が、その背景にあるとみる。不平や不
満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊する。言いかえると、愛情
豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心
もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、ヘビに驚いたのではない。ヘビを飼っていることに驚いたのでもない。
A先生は、生きているバッタをエサにしたことに驚いた。A先生はこう言った。「そういう残酷なこ
とが、平気でできるということが信じられません」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)、無感動(他
人の苦しみや悲しみに鈍感)。情意(喜怒哀楽の情)の動きも平坦になる。よく誤解されるが、
このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。非行
に対して、抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入って
しまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結果
的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争。さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。子どもの場合、「好きな絵を描いてごらん」と言って紙と鉛筆を渡す
と、心の中が読める。心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵を描く。た
だし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへんむずかしい。子どもの
心をつくるのは、四、五歳くらいまでが勝負だ。


●疑わしきは、罰する(流産率、10階以上で39%)(紫外線対策を早急に)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳に
なっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしま
う。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の
紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後
の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布オムツは、一度排
尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排便
感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌九八年)。「根
拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。根拠が
あるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙オム
ツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないとい
うようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定にな
りやすい……? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結
果がある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二四%、一〇階以上では、三九%(一
〜五階は五〜七%)。流・死産率でも六階以上では、二一%(全体八%)(東海大学医学部逢
坂文夫氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、
一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの
影響を受ける。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。私の周辺でも、何らかの対策をこ講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚
がんの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアで
は、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふ
えている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、その季節になる
と、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけてい
る。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策を講じていな
い? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%(日本上空
で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。害が具体的に出るようにな
ってからでは、手遅れ。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防
止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。


●疑わしきは、罰する(ふえる排尿異常)(紫外線対策を早急に)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳に
なっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしま
う。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の
紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後
の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布のオムツは、一度
排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排
便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌九八年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。根
拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙
オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。わかってはいるが、はっきりとは言えな
いというようなことである。その一つが住環境。子どもには、高層住宅よりも、土のにおいのす
る一戸建ての家のほうが好ましいことは、言うまでもない。実際、高層住宅が人間の心理に与
える影響は無視できない。こんなデータがある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二
四%(一〜五階は六〜七%)、帝王切開などの異常分娩率は、二七%(一戸建ての居住者は
一五%)、妊娠関連うつ病(マタニティブルー)になる女性は、一戸建ての居住者の四倍(国立
精神神経センター、北村俊則氏)など。子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境から
心理的な影響を受ける。が、もっと深刻な話もある。

 日本では昔から、真っ黒に日焼けした顔は、健康のシンボルとされてきた。今でも子どもの
日焼けについて、何らかの対策をこうじている学校は、ほとんどない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが、一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚
がんの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアで
は、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふ
えている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、その季節になる
と、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけてい
る。が、この日本では野放し。

オーストラリアの友人は、こう言った。「何もしていないだって? 日本も早急に、対策をこうず
るべきだ」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%も減少している(NHK
「地球法廷」)。

 そこでどうだろう。私たちの住む地域だけでも、子どもたちに紫外線防止用の帽子とか、サン
グラスの着用を試してみたら。害が具体的に出始めてからでは、手遅れ。法律の世界では、
「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰する」。子どもの世界
は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。


●高層住宅の問題点(「疑わしきは罰する(2)」)(ストレスの発散をじょうずに)

 以前このコラムで、「疑わしきは罰する」を書いた。その中で、「高層住宅の一〇階以上に住
む妊婦の流産率は、三九%」「(マンションなど高層住宅に住む人で)、マタニティブルー(妊娠
関連うつ病)になる人は、一戸建ての家に住む人の四倍」などと書いた。このコラムは大きな
反響を呼んだ。と同時に、多くの人に不安を与えてしまった。しかしそこに書いたことに、まちが
いはない。私はそのコラムを書くにあたって、前もってそれぞれの研究者と手紙で連絡を取り、
元となる論文を入手した。しかもある程度の反響は予測できたので、中日新聞東海本社の報
道部のI氏に、論文のコピーを渡しておいた。

 ただし流産の原因については、高層住宅とそのまま結びつけることはできない。高層住宅の
もつ問題点を知り、対応策を考えれば、流産は防げる。逢坂氏も流産率が高いことについて、
「居住階の上昇に伴い、外に出る頻度(高さによる心理的、生理的、物理的影響)が減少する」
(「保健の科学」第36巻1994別冊783)と述べている。高層階に住んでいると、どうしても外
出する機会がへる。人との接触もへる。それが心理的なストレスを増大させる。胎児の発育に
も悪い影響を与える。そういういろいろな要因が重なって、それが流産につながる、と。

このことを言い換えると、高層階に住んでいても、できるだけ外出し、人との交流を深めるな
ど、心理的な風通しをよくすれば、流産は防げるということになる。事実、高層階になればなる
ほど、心理的なストレスが大きくなることは、ほかの多くの研究者も指摘している。たとえば平
均死亡年齢についても、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造住宅の住人の
平均死亡年齢は六六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている(島根大学中尾哲
也氏・「日本木材学会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そのものがもつ問題点を指
摘する研究者もいる。マウスの実験だが、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二
〇日後の生存率は、八五・一%。しかしコンクリート製ゲージのばあいは、たったの六・九%。
ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生殖器がより軽い、成長が遅いなどということ
も指摘されている(静岡大学農学部水野秀夫氏ほか)。さらに高層住宅にいる幼児は、体温そ
のものが低く、三六度以下の子どもが多い(「子どもの健康と生活環境」VOL41、小児科別
冊)など。こういう事実をふまえて、私は、「子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境か
ら心理的な影響を受ける」と書いた。

 こうした事実があるにもかかわらず、日本の政府は、ほとんど対策をとっていない。一人、
「そうは言っても、都会で一戸建てを求めるのは難しいです」「日本の住宅事情を考えると、高
層住宅を否定することもできません」と言った人もいた。あるいは「こんなことを書いて、建設会
社からクレームがきませんでしたか」と心配してくれた人もいた。しかしここから先は、参考にす
る、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。ただこういうことは言える。あなた
や子どもの健康を守るのは、あなた自身であって、国ではないということ。こうした建設がらみ
の問題では、国は、まったくあてにならない。


●すさまじい反響

 月※日、「子どもの世界」で、「疑わしきは罰する」を書いた。その中で、私は東海大学地域保
健学の逢坂文夫氏の論文を引用して、「妊婦の流産率は、六階以上では二四%。一〇階以上
では、三九%(一〜五階では、五〜七%)。流・死産率は、六階以上では、二一%(全体では
八%)」などと書いた。わかりやすく言うと、高層住宅の六階以上に住む妊婦のうち、四人に一
人が流産し、五人に一人が流・死産しているということになる。

さらに一〇階以上では、約二人に一人が、流産していることになる。驚くべき調査結果といって
よい。これについて、それまで経験したことがないほど、読者からすさまじい反響があった。「事
実か?」という問い合わせが多かったが、中には「いいかげんなことを書いてもらっては困る」
というのもあった。私の記事が、かえって高層住宅、日本でいう高層マンションに住む人たちの
不安をかきたてるというのだ。

原稿を書いた経緯

 そこで今回、「疑わしきを罰する」を書くに至った、経緯をここに説明する。まず高層住宅のも
つ危険性については、すでに三〇年以上も前から、欧米では広く議論されていることである。
私がメルボルンにいたときすでに、メルボルンでは高層住宅が問題になっていた。これはあい
まいな記憶によるものだが、高層住宅の住人ほど自殺者が多いというのもあった。一方、この
日本でも散発的にではあるが、そのつど指摘されている。そこで私はインターネットを使って、
「高層住宅→心理的影響」という名目で検索してみた。

結果、無数の情報を手に入れることができた。その中でも特に目を引いたのは、A社の情報コ
ーナーであった。しかしこのA社は、どこか宗教団体的な雰囲気がしたので、私はその中に出
ている「事実」と「出典先」だけを取りだし、独自の立場で調べた。結果、今回、その原稿を書く
にあたって、次の四人の研究者、教授、元教授と連絡を直接とることに成功した。連絡は手紙
によるものであり、うち三人(北村、逢坂、中尾氏)は直接、手紙で返事をくれた。それには元と
なる論文も同封されていた。一人(水野氏)は、電話で連絡をとった。

 国立精神神経センター、北村俊則氏
 東海大学医学部地域保健学、逢坂文夫氏
 鳥取大学総合理工学部教授、中尾哲也
 静岡大学名誉教授、水野秀夫氏の四氏である。

 私はこの「子どもの世界」を書くにあたって、実名を使うときは、その人物と事前に連絡をと
り、実名の使用について許可を得るようにしている。そして許可を得たときだけ、実名を使い、
そうでないときは、必要に応じて、アルファベットによるイニシャルを使うようにしている。こうし
た研究者から論文を直接手に入れた後、数値を自分で確認し、なおかつ、私の元原稿のコピ
ーをこれらの研究者に送った。そのあと、「疑わしきは罰する」を新聞紙上で発表した。

危険な高層住宅?

 逢坂文夫氏は、横浜市の三保健所管内における四か月健診を受けた母親(第一子のみを
出生した母親)、1615人(回収率、54%)について調査した。結果は次のようなものであった
という。

 流産割合(全体) …… 7.7%
     一戸建て …… 8.2%
     集合住宅(1〜2階) …… 6.9%
     集合住宅(3〜5階) …… 5.6%
     集合住宅(6〜9階) ……18.8% 
     集合住宅(10階以上)……38.9%

 これらの調査結果でわかることは、集合住宅といっても、1〜5階では、一戸建てに住む妊婦
よりも、流産率は低いことがわかる。しかし6階以上になると、流産率は極端に高くなる。また
帝王切開術を必要とするような異常分娩についても、ほぼ同じような結果が出ている。一戸建
て、14.9%に対して、六階以上では、27%など。

これについて、逢坂氏は次のようにコメントしている。「(高層階に住む妊婦ほど)妊婦の運動
不足に伴い、出生体重値の増加がみられ、その結果が異常分娩に関与するものと推察され
る」と。ただし「流産」といっても、その内容はさまざまであり、また高層住宅の住人といっても、
居住年数、妊娠経験(初産か否か)、居住空間の広さなど、その居住形態はさまざまである。
その居住形態によっても、影響は違う。逢坂氏はこの点についても、詳細な調査を行っている
が、ここでは割愛する。興味のある方は、「保健の科学」第36巻1994別冊781頁以下をご
覧になってほしい。

子どもの心理との関連性

 「子どもの世界」の中で、私は、「母親ですらこれだけの影響を受けるのだから、いわんや子
どもをや」と書いた。もちろん集合住宅であることから子どもが直接影響を受けることも考えら
れるが、母親が影響を受け、その副次的影響として、子どもが影響を受けることも考えられ
る。どちらにせよ、あくまでも「考えられる」という範囲で、私は「疑わしきは罰する」と書いた。逢
坂氏の論文で、私が着目したのはこの点である。逢坂氏は、流・死産の原因の一つとして、
「母親の神経症的傾向割合」をあげ、それについても調査している。

 神経症的傾向割合 全体     …… 7.5%
     一戸建て        …… 5.3%
     集合住宅(1〜2階) …… 10.2%
     集合住宅(3〜5階) ……  8.8%
     集合住宅(6階以上) …… 13.2%

 この結果から、神経症による症状が、高層住宅の6階以上では、一戸建て住宅に住む母親
より、約2.6倍。平均より約2倍多いことがわかる。この事実を補足する調査結果として、逢坂
氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。たとえば一戸建
て女性の喫煙率、9.0%。集合住宅の1〜2階、11.4%。3〜5階、10.9%。6階以上、1
7.6%。

 つまりこれらの調査結果を総合すると、高層住宅の高層階(特に6階以上)に住む母親は、
より神経症による症状を訴え、その症状をまぎらわすため、より喫煙に頼る傾向が強いという
ことになる。母親ですらそうなのだから、「いわんや子どもをや」ということになる。

好ましい木造住宅?

 住環境と人間の心理の関係については、多くの研究者が、その調査結果を発表している。コ
ンクリート住宅と木造住宅について、静岡大学の水野名誉教授は、マウスを使って興味深い実
験をしている。水野氏の調査によれば、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二〇
日の生存率は、85.1%。しかしコンクリートゲージで育てたばあいは、たったの6.9%という
ことだそうだ。水野氏は、気温条件など、さまざまな環境下で実験を繰り返したということだが、
「あいにくとその論文は手元にはない」とのことだった。

 ただこの調査結果をもって、コンクリート住宅が、人間の住環境としてふさわしくないとは断言
できない。マウスと人間とでは、生活習慣そのものが違う。電話で私が、「マウスはものをかじ
るという習性があるが、ものをかじれないという強度のストレスが、生存率に影響しているので
はないか」と言うと、水野氏は、「それについては知らない」と言った。また私の原稿について、
水野氏は、「私はコンクリート住宅と木造住宅の住環境については調査はしたが、だからとい
って高層住宅が危険だとまでは言っていない」と言った。水野氏の言うとおりである。

中尾哲也氏の研究から

 住環境について、鳥取大学の中尾哲也教授は詳しい調査をしている。 
   

●疑わしきは、罰する(2)(高層住宅は危険?)(国はまったくあてならない)

 前々回、『疑わしきは、罰する』で、高層住宅について書いた。私はこの中で、東海大学医学
部地域保健学教室の逢坂文夫氏の研究論文を引用した。そして「妊婦の流産率は、一〇階以
上では、三九%(一〜五階では五〜七%)」などと書いた。このコラムは大きな反響を呼んだ。
「事実か?」という問い合わせも、いくつかあった。が、前々回のコラムを発表するにあたって、
情報の一部を入手したあと、私は逢坂氏、北村両氏に直接手紙を書いて、内容を確認してい
る。両氏は、わざわざ論文(「保健の科学」94−36別刷)を送り届けてくれた。その上で、前々
回のコラムを発表した。一人、「いいかげんなことを書いてもらっては困る」と言ってきた読者も
いるが、私は決していいかげんなことを書いていない!

 高層住宅が危険な住宅であるという資料は、山のようにある。たとえば平均死亡年齢につい
ても、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造住宅の住人の平均死亡年齢は六
六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている(島根大学中尾哲也氏・「日本木材学
会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そのものがもつ問題点を指摘する研究者もい
る。マウスの実験だが、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二〇日後の生存率
は、八五・一%。しかしコンクリート製ゲージのばあいは、たったの六・九%(静岡大学農学部
水野秀夫氏ほか)。ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生殖器がより軽い、成長が
遅いなどということも指摘されている。さらに高層住宅にいる幼児は、体温が三六度以下の子
どもが多いなど。こうした事実があるにもかかわらず、国は誰に遠慮しているのか、まったく対
策をとろうとしない。「環境」ということを考えても、高層住宅は、決して好ましい建築物とは言え
ない。オーストラリアのメルボルンでは、すでに三〇年も前に、大きな社会問題になっていた。

 私は『疑わしきは、罰する』と言っているのである。そしてそれが子どもたちの世界を守る、一
つの方法だと言っているのである。こんな話も紹介しよう。私は二八歳のとき、国際産婦人科
学会の通訳として、南米のアルゼンチンへ行ったことがある。そこでのこと。ある夜、日本を代
表する産婦人科のドクターがこんなことを話してくれた。「新生児の奇形がふえている。原因は
タバコだ。しかし証明できない」(京都大N教授)と。動物実験では確認できても、人間では人体
実験することができない。だから最後の一歩のところで、確証がとれない、と。当時、日本で
は、上も下も、「タバコ無害キャンペーン」を展開していた。全国の主要な駅前では、専売公社
の職員たちがパネルを並べて、「タバコには害はありません」と叫んでいた。今から思うと、何
と、おぞましいキャンペーンであったことか!
 
 ここから先は、参考にする、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。それでも
見晴らしがよい高層階のほうがよいと思えば、それはそれで、その人の勝手だ。私がとやかく
言う問題ではない。ただ一言。私が書いたことが気に入らないからといって、私を個人攻撃をし
ても、意味はない。いくら私の口にフタをしようとしても、それはできない。ただこういうことは言
える。あなたや子どもの健康を守るのは、あなた自身であって、国ではないということ。こういう
問題では、国は、まったくあてにならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
高層住宅 高層マンション 流産率 神経症 発症率 はやし浩司 高層住宅と子供
子供の情緒 高層マンション)








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21
●愛他的自己愛者(偽善者)

+++++++++++++++++

私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。

「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。

私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。

さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!

私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。

しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。

+++++++++++++++++++

その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。

そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。

しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。

そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。

その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。

この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ〜、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。

つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。

「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。

つまり一貫性がない。

そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。

たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。

そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。

で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。

「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。
楽しい。
そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。
しかしそういう人が、本当に他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろう」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。
自分をよく見せるために、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。
しかしフリは、フリ。
中身がない。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。
無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエゴイズ
ムがある。
表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。
その人の心を、裏から操る。
そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちである。しか
しそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべきものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。どこ
までも自分勝手でわがまま。
「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なのは、私だけ。あとは、野とな
れ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰りかえ
しになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしていた。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たまたま知りあ
いだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。
町の中で、クラブ制の窯(かま)をもっていた。
教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、あれ
よと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家として、全国に、
名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏なまま
のはず」「私が才能をみつけてやった」と。
そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には1円もく
れない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。
が、その親切は、ある意味で、計算されたものだった。
本当に親切であったから、Xさんは、その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それ
に一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身
の才能と努力によるものだった。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。
Xさんが、「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界で
は、末那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題
にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、偽
善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。介護士の
資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いていた。
もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分のもの
にした。
そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。
またYさんを、非難しているわけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励ま
された人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見える。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。
またそれを生きがいにしていたわけでもない。
Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えながら、介護の指導員として活動して
いた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほど、心地
よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんが、実父の介護をするようになったのである。

実父は、元気な人だったが、脳梗塞(こうそく)を起こしてしまった。
トイレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態になってしま
った。
年齢は、73歳(当時)。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうちに、今度
は、実父を虐待するようになった。
風呂の中で、実父が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、実父に、バスタブを自分で洗わせた。
実父に対する、執拗な虐待が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。
同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日になりかけていたが、窓を、開けさせない。
風呂に入らせない。
実父が腹痛や、頭痛を訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をかぶってい
たことがわかったという。
ケアマネの人は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかないから
ね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、しかし
そこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉である。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。
子どもを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」として
みる。
またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活をする
のは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んでも墓の
中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。
私たちは、ともすれば、「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。
しかしこうした(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。
しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も……」「この人も……」というほど、多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。愛情が
基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分の
支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。
しかし大きくちがう点は、代償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道
具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に狂奔
する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。人格さえ
認めていないことが多い。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、子ども
の姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。
子どもに対する偽善といってもよい。
勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくるわよ。S
S中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いているのよ。わか
っているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。
偽善だらけといってもよい。
教育システムそのものが、そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育という原
点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。
教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。
教育イコール、進学。
進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。今
でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。
数年前も、関東地方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その
進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心的であ
るから、そうしているのではない。
毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。
どの私立中高校も、進学のための特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不公平
感である。
それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかくも、偽善だら
け。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考えてよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。
文明という、つまりそれまでの人間が経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そうさせた
とも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。
スズメたちの世界は、実に単純、わかりやすい。礼節も文化もない。
スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言っているの
ではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方で、
(人間らしさ)を追求してきた。
偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間がそれをもつようになったの
は、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。
「私は私であるか」と問うてみるのもよい。
「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うなら、「本当
に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、つい
で、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。
悪もある。その悪が、ゴミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるの
も、文明人の心構えの一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末が悪
い。









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22
●運命vs智力

+++++++++++++++++++++

私には、(自分で気がついている部分)と、
(自分で気がついていない部分)がある。
一般的には、自己中心性の強い人ほど、
(自分で気がついている部分)が小さく、
(自分で気がついていない部分)が大きい。

問題は、その(自分で気がついていない部分)。
この部分が、その人をして、その人の望まない
方向に操ってしまう。

人にねたまれる。
人にうとまれる。
人に嫌われる。
それが重なっている間に、気がついてみると、
自分がとんでもない立場にいるのを知る。

それを避けるためには、どうしたらよいのか。
その方法は、あるのか。

+++++++++++++++++++++

●運命

1人の人には、無数の(糸)がからんでいる。
生い立ち、過去、経験の糸。
家族、親類、社会、国の糸。
家庭環境、文化、伝統の糸。
性格、性質という糸もある。
性差(男女)という糸、
さらには肉体、健康という糸もある。

そういう無数の糸がからんで、時として、その人の進むべき方向を決めてしまう。
自分の意思で何とかなるばあいもあるが、そうでないときのほうが、多い。
私は、それを「運命」と呼んでいる。
どこかの頭のおかしいオバチャンが説く、あの運命論とは、中身がちがう。

たとえばいくら「私は自由だ」と叫んだところで、そこには限界がある。
仕事もしなければならない。
家族のめんどうもみなければならない。
その(限界)が無数に積み重なって、ここでいう(運命)となることもある。
今の(私)にしても、あくまでもその結果でしかない。

で、ここではさらに話を先に、一歩進める。

そういう無数の(糸)の中に、(自分で気がついていない部分)もある。
自分では気がつかないうちに、原因は自分の中にあるにもかかわらず、自分の意図した
方向とは別の方向に、自分が進んでしまうことがある。

●愛人がいない?!

こんなことがあった。
あるとき、あるところで、40年ぶりくらいに、ある男性に出会った。
で、しばらく話していると、その男性が、自分の失敗談をあれこれと話してくれた。
その中のひとつに、愛人の話があった。

「いやあ、愛人ができてしまってね。別れるのに、苦労したよ」と。

で、驚いたことに、そのあとその男性が、こう言った。
「なあ、林君、君にも、愛人の1人や2人はいるだろう」と。
まるでたたみかけるような、言い方だった。

そこで私が「いない……」と答えると、その男性は、私が驚いた以上に驚いた表情を
見せながら、「いないだってエ?!」と。

男「いない? そんなはずはないだろ! お前にいないはずが、ないだろ!」
私「いないよ」
男「バカ言え。信じられない!」と。

そこで私はその男性と会っていたころのことを思い浮かべた。
結婚する前のことで、そのころの私は、遊びまくっていた。
ガールフレンドも、つねに3、4人はいた。
その男性と、あちこちへいっしょに遊びに行ったこともある。
スケベな話もよくした。
その男性には、私がよほどのプレイボーイに見えたらしい。

が、そんな私が大きく変わったのは、ある事件があってからのことである。
それについて書くのは、ここで目的ではないので、また別の機会にするが、
ともかくも、そのころ、その男性は、私への印象を決めてしまったようだ。

●原因はその女性自身に

逆に、こんな例もある。
少し前、親類のある女性から、ひんぱんに電話がかかってきた。
話を聞くと、兄弟どうし、たがいにはげしく、いがみあっているという。
一方的な話だったが、その女性は、「私は悪くない」「兄弟たちが悪い」というような
ことを訴えた。

しかしその女性が、兄弟たちと仲が悪いのは、その女性に原因があった。
自分勝手で、わがまま。
他人との協調性が、まったくなかった。
話といっても、ここにも書いたように一方的。
ギャーギャーと騒ぐといったふうで、こちらが何かを答えようとする間もなく、
話題がどんどんと変化していった。

が、その女性は、けっして自分に原因があるとは思っていなかった。
自分が、他人から見て、どんな人間に見られているか、それにすら気づいていなかった。

●自分勝手な相談

もうひとつ、わかりやすい例で説明しよう。

もう20年近くも前のことだが、こんなこともあった。
そのときも、ある女性(当時70歳くらい)から電話がかかってきた。
内容は、「息子が離婚することになったが、どうしたらいいか」というものだった。

が、会話がどうもかみあわない。
その女性は、「離婚しても、構わない」と言いつつ、「(嫁と子どもたちが)、
家から出て行かないから困っている」と。
だから「どうすれば、追い出せるか」と。

で、よくよく話を聞くと、結局は、嫁と子どもたちに財産を取られたくない。
そのためには、どうしたらよいかという相談であることがわかった。

しかし常識で考えても、そんな道理は通らない。
当時、子どもたち(=その女性の孫)は、中学生と小学生だった。
慰謝料と養育費の支払いは、当然のことである。
嫁はそれまで働いていて、生活費を、その家に入れていた。
いくら離婚でも、裸で嫁と子どもたちを追い出すわけにはいかない。
そのこともあるから、嫁と子どもたちは、家を出ず、がんばっていた。
そこで私が、あいまいな返事をしていると、その女性は、怒ってそのまま電話を
切ってしまった。

あとで、(5、6年もたってからのことだが)、人づてにその後のことを聞くと、
その女性が、私の悪口を言っているのを知った。

「あの林は、私が相談したのに、親身になってくれなかった」と。

●都合のよい部分vs悪い部分

「私は、こういう人間だ」。
「私は、こういう性格だ」。
「だから、他人にはこう見られている」。
「他人は、私のことをこう思っている」。

……これが(自分で気がついている部分)ということになる。
しかし(私)というのは、それだけがすべてではない。
むしろ(自分で気がついていない部分)のほうが、大きい。

さらにわかりやすくするために、もうひとつの例をあげてみよう。

以前、(してやった部分)と、(してもらった部分)には、大きな差があるという
内容のエッセーを書いたことがある。

人というのは、(自分が他人にしてやった部分)については、過大評価する傾向がある。
一方、(他人からしてもらった部分)については、過小評価する傾向がある。
だから「私は、あの人のめんどうをよくみてやったのに、あの人は何もしてくれない」
と、なる。

つまり自分で自分を評価するとき、人というのは、自分にとって都合のよい部分に
ついては、拡大視する傾向がある。
一方、自分にとって都合の悪い部分については、反対に目を閉じてしまう傾向が
ある。

こういう作業を長い時間繰り返しながら、その人は、自分の中に自分像を作り
あげてしまう。
そしてそれが結果として、(自分で気がついていない部分)を増大させてしまう。

●自己認識能力

そこで(自分で気がついていない部分)を知るには、どうしたらいいかということに
なる。

そこで登場するのが、自己認識能力ということになる。
発達心理学の用語だが、その一例をあげる。

AD・HD児だった男子(当時、中3)がいた。
たいへんなAD・HD児で、幼稚園の先生も、小学校の先生も、そして私も苦労をした。
が、AD・HD児でも、小学3、4年生くらいから、急速に落ち着いてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。
この時期を過ぎると、持ち前のバイタリィティがよいほうに作用し、学習面やスポーツ
面で飛躍的に伸びることがある。
その中学生もそうだった。
そのとき浜松市内でも、いちばんという進学校に合格していた。

そこである日、その中学生に、私はこう聞いた。
「君は子どものころ、みんなにめいわくをかけたが、覚えているか?」と。
すると、その子どもは、平然とこう言ってのけた。

「ぼくは、何も悪いことはしていない。
みんなが、ぼくを目の敵(かたき)にして、いじめた」と。

何度か確かめてみたが、彼には、みなに迷惑をかけたという意識は、まったくなかった。
つまり、(自分を知る)ということは、それほどまでに、むずかしい。

●帰宅拒否児

私にことを書く。
私が、子どものころ、帰宅拒否児であったということは、この世界に入って
はじめて知った。

私は小学生のころ、学校からまっすぐ家に帰ったということは、ほとんどなかった。
道草を食うなどということは、当たり前。
それがそのまま、日課になっていた。

だからある日、年長女児をもつ母親から、道草の相談を受けたときには、正直言って、
少し面食らった。
「そんなこと、どうでもいいではないですか」と言いかけたが、それは言わなかった。
で、話を聞いていくと、どうやら家庭に原因のある、帰宅拒否児ということがわかった。
不登校児、あるいは学校恐怖症の子どもの反対側にいる子どもと理解するとわかりやすい。

で、そのとき気がついた。
私自身も、実は、帰宅拒否児だった、と。
それは私にとっては、大きなショックだった。
私は意識しないまま、毎日、自分の行動を決めていた。
(家へ帰るのがいや)という思いがどこかにあって、それが道草に
つながっていた。

●自分を知るために

そこで心理学の世界では、いろいろな方法を使って、(自分で気がついて
いない部分)を、さぐろうとする。
面談方式とか、対話方式というのも、考えられている。
が、いちばん手っ取り早い方法は、親しい友人に、自分のことを語ってもらう
というのがある。
そういう意味では、多くの友人をもつということは、大切なことでもある。
友人が多ければ多いほど、自分の姿が、その中から浮かびあがってくる。
「お前なア、お前のここんとこ、おかしいよ」と言ってくれる友だちがいれば、
すばらしい。
妻でも、子どもでもよい。

が、もうひとつの方法は、心理学の本を読みながら、自己分析していくというもの。
私自身も、自分が、うつ気質であるのを知るのに、ずいぶんと時間がかかった。
それには、こんなエピソードがある。

そのとき私は、不眠に悩んでいた。
朝早く目が覚めてしまい、それが重なって睡眠不足状態になっていた。
仕事にしても、1週間ほど前から気になってしかたなかった。
そこである医院(内科)へ行き、あれこれ相談すると、その医師が、
ズバズバと私の症状を言い当ててくれた。

「さすが、ドクター!」と感心していると、そのドクターはこう言った。
「いや、林さん、実は私もそうなのですよ」と。

●ためこみ屋

(自分で気がついていない部分)といっても、もちろん2種類ある。
(好ましい部分)と、(好ましくない部分)である。

そこでひとつのケースを考えてみたい。

最近、私はある知人(65歳くらい)の男性の家を訪れてみて、たいへん
驚いた。
玄関先から、モノ、モノ、モノであふれかえっていた。
出入りも、そのモノをさけて、しなければならなかった。
天井からも無数の衣服が、つりさげられていた。

いわゆる「ためこみ屋症候群」と呼ばれる、行為障害のひとつである。
このタイプの人は、ひどくなると、ゴミですら、捨てられなくなる。

そこでもしあなたがその場にいたとしたら、あるいはその人の友人で
あるとしたら、あなたはどうやって、その人にその(好ましくない部分)を、
知らせることができるだろうか。
自分で気がつかせるだろうか。

さあ、どうするだろうか?

……といっても、その方法はむずかしい。
実際、私はその知人には、何も言えなかった。
「あなたは、おかしいですよ」などとは、ぜったいに、言えない。
その人は、その人。
だれかに迷惑をかけているわけではない。
その知人は、自分の家の中で、そうしていた。
で、私はそのまま黙って、家に帰った。

が、もしその知人が、ほんの少しでも、自分で本を読む能力と機会が
あったら、どうだろうか。
私のHP、もしくはBLOGでもよい。
どこかで「ためこみ屋」という言葉を見つけるかもしれない。
そしてそれをきっかけに、自分のことを知るかもしれない。

●智力との闘い

こうして考えていくと、(自分で気づかない部分)を知るための最大の武器は、
「智力」ということになる。
知恵、知性でもよい。
そしてその知力は、東洋医学では、つぎのようにして生まれる。
(はやし浩司著、「目で見る漢方診断」より。)

(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と。

なお東洋医学では、精神活動も、肉体活動と密接不可分のものとして
考える。
霊的な、いわゆるスピリチュアルな(精神)というものは、認めていない。
わかりやすく言えば、肉体も病むように、精神もまた病むということ。
(詳しくは、「はやし浩司のHP」より、「目で見る漢方診断」へ。)

そしてその智力が、その人の運命を変えていく。
また運命を変える、武器となりえる。

言いかえると、私たちが日夜肉体の健康を維持するように、精神の健康を
維持する努力を怠ってはいけないということになる。
運命というのがそこにあるとしても、健全な精神があってこそ、私たちは、
それと闘うことができる。

けっして、運命に翻弄(ほんろう)されてはいけない。

……とまあ、大上段な書き方をしてしまったが、大筋ではまちがって
いないと思う。
ともかくも、(自分で気がついていない部分)を知るということは、大切なこと。

そのためのひとつの方法として、精神の健康を保ち、智力をみがく。
結局は、それが運命と闘う、もっとも効果的な方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
運命論 運命 自分を知る 精神の健康 智力 自己認識能力)









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23
【団塊世代】

【団塊世代(1947〜49年生まれ)】

●約677万人!

『……団塊の世代と言われる1947〜49年生まれの人は、06年10月現在、約677万人。人
口の約5・3%を占める大きな集団だ。青春時代に学生運動を経験した彼らは、それまでの日
本人とは違う意識を持っていると言われる。会社から離れた後の自由な活動が期待されてい
た。しかし、どうやら期待はずれ。

(中略)

 総務省労働力調査によると、08年11月現在、60〜64歳男性の就業率は73・6%。老齢
厚生年金の支給開始年齢が段階的に引き上げられることもあり、07年以降も会社で働いて
いるのだ』(読売新聞・1・9)

++++++++++++++++++++

団塊世代……約677万人
人口の5・3%
60〜64歳の就業率……73・6%

++++++++++++++++++++

●1947年生まれ

++++++++++++++++

団塊の世代は、総じてみれば、たくましい。
家の中では、ほったらかし。
学校では、イワシの缶詰。
「1クラス55人」と言っても、今の若い人たちには、ピンとこないだろう。
私が受験した、金沢大学法学科にしても、入試倍率は、8・9倍。
たくましさの(原点)そのものがちがう。

++++++++++++++++

誤解があるといけないので書いておくが、「学生運動」イコール「共産活動」ではない。
当時を振り返ってみて、ごく一部のリーダーを除いて、主義主張があって学生運動に
参加した者など、ほとんどいない。
「お祭り騒ぎ」とまでは言わないにしても、私たちはみな、それまでの呪縛感からの
解放をめざした。
何かわからなかったが、体中をがんじがらめにしている無数のクサリをはずしたかった。
それが学生運動だった。

だからおかしなことに聞こえるかもしれないが、私の同窓生にしても、そのあと、
共産党員(社会党員でもよいが)になった仲間は、一人もいない。
みな、就職先として、銀行や証券会社、役所や大企業を選んでいった。
またそれぞれの世界で、企業戦士ともてはやされ、その後の高度経済成長を、裏から
支えた。

たしかに私たちの意識はちがう。
どうちがうかは、説明のしようがないが、反対に、今の若い人たちを見ていると、
情けないほど、ひ弱に見える。
だらしなく、頼りなく見える。
こんな状態で、たとえばK国からミサイルでも飛んできたら、どうするのかとさえ
心配になる。
だいたい、今の若い人たちは、天下国家を論じない。
小さな世界で、こぢんまりと生きている。

が、その一方で、私たち団塊の世代には、どくとくの悲劇性がある。
「上に取られ、下に取られ、今は貧乏盛り」。
わかるか?

上、つまり親に金を取られ、下、つまり子どもに金を取られ、貯金など、ほとんどない。
だから働くしかない。
それが冒頭にあげた、「60〜64歳の就業率……73・6%」という数字である。
つまり私たちは、働くしかない。
むしろ「遊ぶ」ということに、罪悪感すら覚える。
いわんや悠々自適の老後生活など、どう考えたら、頭の中に浮かんでくるのか。

ところで少し前、(2007年問題)が、話題になった。
団塊の世代が大量に退職し始める2007年は、危機的な年になる、と。
しかし現実には、それは起きなかった。
そこで今度は、(2007+5=2012年問題)が話題になりつつある。
しかし私の印象では、2012年問題も、起きないだろう。
本当に問題になるのは、私たちが70歳になったとき。
いくら働きたくても、体そのものがもたない。
だから本当の問題は、2017年にやってくる。

が、悲劇はここから。
そのころになると、満65歳以上の高齢者が、人口の約3分の1になる。
そうなったとき、今度は、容赦なく、ジジ捨て、ババ捨てが始まる。
団塊の世代は、日本のゴミと化し、容赦なく(殺される)。
すでに今、その年齢になると、「天命ですから……」「高齢ですから……」「寿命ですから
……」と、病院でも治療を拒否されるケースがふえている。
数日前も、こんな話を聞いた。

その人の母親(現在、85歳)が、慢性の膀胱炎で苦しんでいる。
排尿のたびに、激痛と闘っている。
そこでその人が病院のドクターとかけあうと、そのドクターはこう言ったという。

「ご高齢ですから……」と。

高齢で慢性化しているから、それを治療する薬もない、と。
これから先、そうした年齢が引き下げられることはあっても、引き上げられることは
ぜったいにない。

だから……。
自分の体は、自分で守る。
健康は、自分で維持する。
少しでも働けるようなら、働く。
死ぬまで働く。

つまりこうした(たくましさ)こそが、私たち団塊の世代の特徴ということになる。
以前書いた、「団塊ブルース」を、紹介する。

++++++++++++++++

●団塊ブルース(Young Old men's Blues)

We, those who were born just after the War are now retiring from our jobs. We have been 
the people who worked for the companies or organizations, in most cases sacrificing 
ourselves. Before the War young people were educated to be obedient soldiers but after the 
War we were educated to be also obedient workers who work for the companies and 
organizations.

Meanwhile we could experience this dynamic change of our country, from the bottom of 
poverty to one of the countries of highest standard. But at the same time we have many 
thing that we have lost. Some people say that "What was my life?", when they are fired and 
retire from the companies.

This is the story about this;

++++++++++++++++

戦前の「国のため」が、戦後は、「会社のため」となった。
それもそのはず。敗戦で日本は大きく変わったが、
ときの文部省だけは、変わらなかった。敗戦と
同時に、クビになった官僚は、ひとりもいない。
制度も、そっくりそのまま残された。

私たちは、戦前とそれほどちがわない教育を、そのまま
受けた。もっと言えば、明治以来の、富国強兵をめざした、
あの教育をそのまま受けた。

結果として、私たちは、当時の私たちになった。
私たち団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちは、
何らためらうことなく、企業戦士となっていった。

それは恐ろしいほどの忠誠心であった。
たとえば私が勤めたことがある、M物産という
会社では、当時は、6か月以内の海外出張は、
「短期出張」と呼ばれ、単身赴任が原則だった。

今のようにリッチな時代ではなかった。一度海外に
赴任すれば、最低でも、6か月は、日本に帰って
来られなかった。

が、その単身赴任には、単身赴任のハシゴというの
があった。任地先から、さらに別のところに単身赴任
するということも珍しくなった。中には、こうした
単身赴任のハシゴで、2年近くも、日本を離れて
いた人もいた。私の直接の上司だった、K氏もそうである。

その団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちが、
今、つぎつぎと職場を離れている。民間会社だと、
50歳を過ぎるころから、肩たたきが始まる。子会社へ
移動できる人は、まだラッキーなほう。たいていは、
そのまま会社の外へ、放り出された。

で、そのとき、ほとんどの人は、こう気がつく。
「今までの私の人生は、何だったのか?」と。

会社人間の悲しさ。会社を離れれば、存在価値
そのものがない。その世界ではエキスパート
だったかもしれないが、それは社会全体からみると、
小さな、どこまでも小さな特殊分野でしかない。

つぶしがきくとか、応用がきくということは、
まず、ない。

それまで頭をさげていた人まで、顔をそむけるように
なる。それもそのはず。まわりの人たちは、その人
に、頭をさげていたのではない。その人が
もつ肩書き、あるいはその背後にある会社という
組織に頭をさげていた。

退職と同時に、それに気がつく。と、同時に、深い後悔と、
反省の念に包まれる。

「これからオレは、何をすればいいのか?」と。

+++++++++++++++++++++++

●1クラス、55人

 私たちの時代には、1クラス55人が、当たり前だった(中学時代)。「すし詰め教育」とよく呼
ばれた。が、すしでも、あそこまでは詰めない。しかしそうした教育に疑問をいだく子どもは、い
なかった。疑問をいだく親も、いなかった。

 で、あの時代を振り返ってみて、そうした過密教育の弊害は何だったのかと問われると、そ
れがよくわからない。私は私であり、私たちは、私たちであった。しかしたしかに弊害はあっ
た。あったはずである。その結果が、今である。

 私たちは社会人になると、何も疑わず、サラリーマンの道を選んだ。今でこそ、「ベンチャー
企業」などという言葉があるが、当時、ベンチャー企業のようなものを考える学生は、まずいな
かった。サラリーマンになること。それが第一。しかも都会の大企業ほど、「出世組」と考えられ
ていた。

●作られた意識

 つまり弊害の第一は、ここにある。こうした意識こそが、あの時代の、あの流れの中でつくら
れた意識でしかなかった。しかしそれは「今」という、あとになってわかったこと。当時の私たち
の中で、それに気づいていた人は、いったい、どれだけいただろうか。

 そして結果として、私たちは、会社に貢献し、日本という国の繁栄に貢献した。「貢献した」と
いう意識は、ほとんどないかもしれないが、今に見るこの繁栄は、その結果であることには、ま
ちがいない。

 もちろん悪い面ばかりではない。日本のみならず、世界の歴史の中でも、生涯にわたって戦
争を経験しなかった世代というのは、そうはない。日本だけを見ても、明治以来、日本は、常に
他国との戦争を繰り返してきた。

 それに戦後直後はともかくも、私たちの世代ほど、ダイナミックな変化を経験した世代もな
い。日本は、どん底の貧乏国にから、世界でもトップクラスの先進国へと躍り出た。そんな日本
を直接、経験することができた。

●一(社)懸命

 が、同時に、失ったものも多い。「私の人生」というときの、「私」を失った。たいした冒険もせ
ず、たいした夢も果たせず、たいした結果も出せず、家と会社を往復した。「仕事のため」と、
家族を犠牲にした人も多い。犠牲にしているという意識もないまま、犠牲にした。家庭を預かる
妻にしても、自分が犠牲になっているなどとは思わなかった。

 M物産に話にもどるが、夫が単身赴任で外地へ赴くとき、家族は、みな、あの伊丹空港(大
阪)で夫を見送った。私も、数度、そういう現場に立たされたことがある。そのときのこと。「がん
ばってくるからなあ。あとのことは頼むぞ」と言って夫は、飛行機に乗り込んだ。「がんばってき
てね。うちのことは、心配しないでね」と言って、妻はそれに手を振った。中に、「お国のため」と
いう言葉を使った人もいたように思う。「会社のため」という言葉だったかもしれない。

 その姿は、まさに、戦前のあの様子を想像させるものだった。戦地におもむく夫。それを送る
妻。「国」と「会社」のちがいこそあったが、中身は、そのまま。つまり私たちの意識は、何も変
わらなかった。

 それがあの時代の、「弊害」だったということになる。

 が、これについても、それに気づいた人は、少ない。私たちは、それがあるべき道と信じて、
その流れに従った。

 しかし、だ。改めて、問う。私たちの人生は、何だったのか、と。

●自由に生きる

 実際、こんな人がいる。私の友人のT氏・・・「T氏」と書いたのでは、ウソと思われる。だから、
実名を書く。高橋Y氏である。その高橋Y氏の義兄(妻の兄)は、50歳前後で退職。そのあと単
身、マレーシアに渡り、そこでヨットを購入。そのヨットで世界を数周した。

 以前、その男性について、「今ごろは、フランス人の女性と、インド洋を航海中」と書いた。高
橋Y氏から聞いた話を、そのまま書いた。

 で、今は、タイに向かっているという。タイには、以前買った土地があるそうだ。そこにそのま
ま永住するつもりらしい。この話は、つい先日の、07年12月9日に聞いた話である。興味があ
る人がいたら、その男性を紹介してもよい。

 つまり世の中には、そういう人生を、あたかも自由に空を舞う鳥のように送っている人がい
る。そういう人生と比べると、「私の人生は、何だったのか」となる。「まじめ」と言えば、聞こえ
はよいが、中身は、ただの「歯車」。
 
 そういう「歯車」に仕立てられながら、仕立てられたという意識すら、ない。ないから、その弊
害に気づくこともない。カルトにハマっている信者が、自分をおかしいと思わないのと同じ理由
で、そういう自分がおかしいとは、思わない。

●「これからは自分のしたいことをするよ」

 先日も、学生時代からの友人のZ君は、こう言った。つい先月、定年で、会社を退職した。い
わく、「これからは自分のしたいことをするよ」と。

 その言葉の中に、私たち団塊の世代、そしてそれにつづく戦後生まれの人たちの悲しみ、わ
びしさ、むなしさが、集約されている。心理学的に言えば、(自己概念)と(現実自己)を一致さ
せることもできず、悶々とした気持ちで、一生を終えた。自己の同一性の確立さえままならなか
った。

 その不完全燃焼感には、相当なものがある。割と自由に生きてきた私ですら、その不完全燃
焼感とは、無縁ではない。「何かができたはず」「何かやりのこした」「何かをしたかった」と、ふ
と我にかえったとき、そう思う。

 が、「これでいいのか?」と叫んだところで、この話は、おしまい。いまさら、どうしようもない。
いくら後悔しても、また反省しても、人生は、もどってこない。ただこれからは、ちがう。これから
は、そうであってはいけない。残りの人生がそこにあるなら、それに自分をかける。燃やせるも
のがあれば、それを燃やす。

 ・・・しかし、実のところ、私たちは、そのキバさえ抜かれてしまっている。あのすし詰め教育の
中で、もの言わぬ従順な民に、育てられてしまっている。いまさらキバをむけと言われても、そ
のむきかたすら、わからない。結局は、死ぬまで、まじめ(?)に生きていくしかないのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 団塊世代ブルース ブルース 
団塊世代 2007年問題 2012年問題 金沢大学法文学部 法学科 学生運動
団塊ブルース)

+++++++++++++++++

ところで読売新聞は、こんなことも書いている。
何でも退職した団塊の世代に、ボランティア活動を期待していたというが、それが不発に
終わったという。

『「2007年問題」と騒がれた団塊の世代の定年退職。自由になる男たちに、NPOはボランテ
ィアとしての活躍を期待し、過疎に悩む自治体は田舎暮らしを呼びかけた。だが、今、「期待は
ずれ」の声もあがっている。彼らは今、どこに?

 東京・世田谷区と地元町会などで作る団体「せたがや生涯現役ネットワーク」は、団塊の世
代の地域回帰を促そうと07年に発足した。だが、「予想より反応は少ない」と頭を悩ませる。
地元NPOや町会などの活動が体験できる「地域デビュー」の講座は、年々参加者が減少。60
歳代後半から70歳代が多く、団塊の世代は少ないという』(同、読売新聞)。

バカめ!
私たち団塊の世代をバカにするにも、ほどがある。
何がボランティア活動だ!
バカヤロー!

これについても、以前、つぎのような記事を書いたことがある。
書いた日付は、2007年の1月。
ちょうど2007年問題が話題になっていたころである。

+++++++++++++++++

●団塊世代よ、ボランティアへ!、だってエ!!

++++++++++++++++++++++

今度、浜松市の社会福祉協議会が、団塊の世代を
対象にした、『ボランティア登録制度』を創設した。

しかし、最初に、一言!

何がボランティアだア!

バカにするな!

ボランティアと言えば、聞こえはよいが、
中身は、「ただ働き」。要するに、「団塊世代よ、
ヒマがあったら、ただ働きせよ!」ということ!

私たちが求めているのは、職場だ。きちんと給料の
もらえる職場だ。

バカにするにも、ほどがある。どうせ公務員の若造
たちが創設した制度なのだろう。
が、創設すべきは、職場だ。わかるか? 
職場だ!

自分たちは、満額の退職金と、年金、それに天下り先を
しっかりと確保しておきながら、私たちに向かっては、
「ただで働け!」と。

久々に、私は怒ったぞ!

++++++++++++++++++++++

 新聞記事には、「団塊世代よ、ボランティアへ!」という見出しのあと、こうある(中日新聞)。

 「団塊の世代、待っています。2007年度から、大幅に定年退職を迎える団塊世代。彼らの
能力や技術を生かしてもらおうと、浜松市社会福祉協議会(市社協)は、シニア世代に的をし
ぼった、ボランティア登録制度を開設した。

 福祉施設や特定非営利法人(NPO法人)などの需要を掘り起こし、登録者としての橋渡しを
する。

(中略)

 登録時には各自の得意分野を記録する。市社協の担当者は、『たとえばおもちゃの修理や
福祉施設の庭木手入れ、NPO法人の事務などに、これまでのスキルを生かしてほしい』とい
う。障害者の手がける農場の手伝いなど、活躍の場は豊富にあると考える。

 市民活動を支援している県西部地域交流プラザPは、『パソコン関連から、会計、労務、運転
手、介助、お年寄りの話し相手まで、NPO法人などの活動を手伝う人材は、慢性的に不足し
ている』と話す」と。

 何が、おもちゃの修理だ!
 何が、福祉施設の庭木の手入れだ!
 何が、農場の手伝いだ!
 何が、お年寄りの話し相手だ!

 バカにするにも、ほどがある。

 もしすべきことがあるとするなら、自分たちが独占している天下り先を、民間に平等に分配す
べきだ。わかるか? たとえば図書館の館長なら館長でもよい。そういう人材は、公募で、みな
で決めればよい。

 団塊の世代だから、ただで働けだと! いいか、私の周辺にも、元公務員という人たちが、た
くさん住んでいる。中には、地域の活動のために、忙しく働いている人もいる。しかしそういう人
は、少数。

 たいはんは、道路わきのゴミひとつ拾ったことがない。高額な年金を手にして、悠々自適な老
後生活。もし「ただで働け」というのなら、まず、そういう人たちが、率先して、見本を見せてくれ
たらよい。

 団塊の世代、とくに私のように、国民年金しかアテにできない人間は、死ぬまで働くしかな
い。ボランティア活動などという優雅な道楽をしているヒマはない。もし市の役人が用意してくれ
るというのなら、職場だ。きちんとした給料のもらえる職場だ。

 わかるか?

 わからないだろうな?

 30代、40代の若造から見れば、60歳の人間は、どうせ役立たずのジジイに見えるかもしれ
ない。が、それはまちがい。かつてあのバーナード・ショーは、こう言った。『若者から老人をみ
ると、老人はみな、バカに見えるかもしれない。しかし老人から若者をみると、若者はみな、バ
カにみえる』と。

 どうせ公務員の若造たちが、額をこすりあわせて創設した制度なのだろうが、これほど、人を
バカにした話もない。久々に、私は、怒ったぞ!

 私は、昭和22年生まれ。団塊の世代、第1号だ!

 わかったかア!


【付記】

 この記事に対して、Bさんという方より、反論のコメントが届いた。それをそのまま紹介する。

++++++++++++++++++++++++

【Bさんより、はやし浩司へ】

先生、こんばんは♪

きょう、団塊世代にボランティアを と言う記事が載っていたという日記を見て、
メールしています。

話の争点が違うところに行ってしまうかと思いますが、
いくつか私のボランティアの経験をお話させてください。

もとをただせば ボランティアをしたいと思い始めたきっかけは、
私が学生時代に、ブリスベンのあるお宅にホームステイしていたことから始まります。
んもうぅっ…ほんっとうに素敵なご夫婦で、
私の人生観は21歳にして 衝撃的な変化を遂げました。(おおげさかな?ちょっと。)

とにかく彼らのホスピタリティーと言えば、
何を持ってお返しができるのか 全く想像がつかぬほど、
私を娘として 今も愛し続けてくれています。

私はいつか 自分もホストマザーになりたいと思うようになりました。
けれど今はまだ時期が早い。提供できるお部屋もご用意できない。
何か別の手段で この感謝の気持ちを pay forward したかったのです。

ずっとそんな思いを抱き続けていた頃 新聞に静岡県主催の語学ボランティアの
募集の記事を見つけ、思い切って面接を受け、合格し、無事登録の運びとなりました。
当時の私は IT関連の仕事をしていたので 英語を話す行為から少し遠ざかっていたこともあ
り、

私でお役に立てるのであれば ぜひ 私のホストペアレンツへの お礼の気持ちの形として、
何かできることからスタートしたかった。

そして外国人学生のための浜松市内の観光地ガイドの翻訳や、
市内で開かれる外国人の集まる大規模な会議などのアテンド、
静岡市で開かれるお茶に関する資料の翻訳 など、
ときには締め切りに追われながら、それでも受けたことは責任をもってと、
真面目に取り組んできたつもりです。

日本でのボランティアは 無給という考え方がごく一般的で、
でも私は お金をもらうかどうかということよりも、
そんなイベントにほんの少しでも関わって、
私の訳した文章を読んでくださり理解を深めてくださった方、
私のご案内で楽しい時間を過ごしていただいた方、
勿論その場に応じて日本人の方にも対応はしますが、
いずれにせよ、自分のできることが社会で微々なれども役に立っていることの
充実感で、満たされていました。

それに ボランティアスタッフとして出会った方々との交流も
とても楽しく、もう10年近くのお付き合いをさせていただいて
本当に感謝でいっぱいの気持ちです

5年前に行われたエコパスタジアムでの日韓共催FIFAワールドカップ2002の
ボランティアスタッフとしても活動することできました。

県の語学ボランティアの募集のターゲットとして、
ワールドカップへの人材確保ということも大きく取り上げられてはいました。
しかし私は お恥ずかしながら、サッカーに関する知識は非常に乏しく、
国内リーグの選手の方のお名前も数名しか知らないほどでした。

それがサッカーであれ、オペラであれ、緑茶に関する討論会であれ、
私のできることが 海外から日本:浜松に来てくださる方への御礼になれば
それでいいという ただそれだけの気持ちです。

ワールドカップでは これまた予想外にもVIPシートのお客様の通訳、ご案内を
担当することになりました。日本人でよくテレビに映ってるスポーツ選手、解説員など
わずかな方々なら、名前とお顔が一致はしましたが、
国外の王室の方々や、選手のご家族や、国内リーグの監督や、まったくわからない。

失礼なことかもしれませんが、VIPにどんなお客様がみえるかという詳しい情報は、
私たちボランティアには知らされていませんでした。仮に教えていただいたとして、
私にはわからない...。 どの方も皆さん 海外から日本へ訪問してくれた方たち。
楽しいひと時のお手伝いができればそれでいいという気持ちで取り組んでいました。

実際活動はとても楽しかったです。

この活動も他に漏れず無給の活動でした。

でも この活動で出会った仲間たちとはいまでも
静岡スタジアムエコパで催される様々なイベントでボランティアをしよう、という
団体を作っていて 私も時間が許されれば参加しています。
年齢は様々。 私のような主婦層はちょうど真ん中くらいで
大学生もいれば 私の父(65)ほどの年齢の方、
この方々を団塊の世代と言うのでしょうか?
そういう方も、大勢いらっしゃいます。

ボランティアで必ずしも英語が役に立つ場面ばかりとは言えません。
でもまれに、「誰か英語の話せる方〜〜」と呼ばれて、お役に立てたとき、
その外国人の方の安心したお顔、Thanks a lot のお言葉と握手。
それだけで私は じゅうぶん幸福な気持ちを味わうことができます。

いうまでもありませんが 勿論日本人のお客様のお手伝いができたときも
嬉しく思っています。

無給で働かされて...というpoint of view では 味わうことのできない、
かけがえのない感謝の気持ちを味わうことができます。

もし私のしていることを、たとえば仕事としてやってください
という依頼がきたとしても
それはとてもありがたいことですが、今までのような純粋に恩返しをしていきたいという
気持ちとは 少し離れてしまうように思います。

先生もご存知の通り、残念ながら、私の家庭は決して裕福ではありません。
けれど一つ一つの活動やworkを終えた後の達成感は、仕事で味わうものとは、
全く異なるものだと思います。

確かに仕事内容を把握できていない職員の方から、いい加減な説明をされたときは
私も厳しく追及して、ボランティアだからと言っていい加減な応対をするつもりはないと
はっきりお伝えして、活動自体を辞退したこともありました。

主催者側が、「応対しているのはボランティアなのです。無給なのです。」といえば、
ちょっとした美談と責任逃れをすることができるのも否定できないことかもしれません。

けれど私はボランティアを続けます。
私が受ける心の恩恵と充実感があまりにも大きいからです。
ただそれだけのことです。

いつか私がホストマザーになったとき、私のホストペアレンツへ報告したら
きっときっと喜んでくれるに違いありません。
息子(年長児)も ちょっと違った体験ができて いいことなんじゃないかな? と
思っています。

いつもながら長文失礼いたしました
このような駄文でも ご参考になることがあれば掲載していただくことがあれば勿論かまいませ
ん。


【Bさんへ、はやし浩司より】

こんばんは!

うむむむ……。

なるほどっていう感じです。

でも、私はボランティア活動を否定しているのでは
ありません。

団塊の世代=無料で利用できる世代という発想に
反発しているのです。

どうか、どうか、誤解のないように!!!

人は無給で働いてこそ、つまり損得の計算を忘れて
働いてこそ、仕事の醍醐味を味わうことができます。

よくわかっています。

それと、この問題は、別ですね。

誤解のないように!

日本では、役人たちが、日本をリードしていると
思い上がっています。それが気に入らないのです。

官僚制度そのものに腹がたつのです。どういうわけか……。

メール、ありがとうございました。

プライベートな部分を割愛させていただき、
マガジンに掲載させてください。

字句は、マガジン用に統一させていただきますが、それは
お許しくださいね。

では、

おやすみなさい!

はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ボランティア活動 ボランティア登録 ボランティア活動登録制度)






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【われ、考える。故にわれ、あり】(I think, therefore I am.)

+++++++++++++++++

思考力を失ったとき、人類はほんとうに
滅亡する。

思考するから人間は人間である。
もし思考をしなければ、人間は、
ただのサルになってしまう。

+++++++++++++++++

●科学と哲学

科学が進歩したからといって、哲学が進歩するとはかぎらない。
科学の進歩と、哲学の進歩は、まったく別のもの。
しかし影響がないとは、言えない。
科学的な見方が、哲学に影響を与えるということは、ある。
たとえば最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
人間の(心の作用)まで、科学的に説明しようとしている。

では、哲学そのものは、どうだろうか?
たとえば紀元前5世紀ごろ、中国に2人の思想家がいた。
まっ先に思いついたのが、老子(紀元前5世紀)と、荘子(370〜286頃BC)
である。

無為自然(むいしぜん)を説いた老子、安心立命(あんじんりつめい)を
説いた荘子。
いわば現在の自然主義の先駆け的な思想家ということになるが、では、
その後の科学の進歩ほどに、私たちが、彼らの思想を受け継ぎ、進化
させたかというと、それは疑わしい。
2500年もたった今ですら、老子や荘子の思想は、斬新で先駆性がある。
その先駆性があること自体、思想が進歩していないことを示す。

一方、科学はどうか。
科学は確かに進歩しているが、そのつど感動は、一時的なものにすぎない。
ひとつの科学が進歩するたびに、私たちは驚く。
しかししばらくすると、それが当たり前になってしまう。
あとはこの繰り返し。
つまり科学の進歩には、常にループ性がともなう。
進歩を繰り返しながら、同じところをグルグル回る。

こんな経験がある。

●絶え間ないループ状態

私は中学生のとき、はじめてカラーテレビなるものを、見た。
今から思えば、白黒テレビに、原色がついただけのカラーテレビだったが、
驚いたというよりも、あのとき受けた衝撃は、今でも忘れない。

さらに20代の中ごろ、私ははじめてパソコンなるものを、見た。
簡単なプログラムを組むと、それは画面上に、ポツポツと二次曲線を描いてみせた。
そのときは驚いたというよりも、うれしかった。

私は中学生のとき、夏休みの工作に、二次曲線自動描画器というものを考えた。
縦軸と横軸に張った糸を、プーリー(回転コマ)で動かす。
両方の糸が交わったところが、ひとつの点になる。
その点が、二次曲線を描くようにした。
で、私はその交わったところに、小さなボールを取り付けた。
ボールに縦穴と、横穴をあけ、そこに糸を通した。
手でハンドルを回すと、縦軸と横軸に張った糸が、ある一定の割合で移動し、その
ボールが動くはずだった。
しかしそのボールは、うまく動かなかった。
……というより、まったく動かなかったように記憶している。
縦軸の糸と横軸の糸が、相互にからんでしまった。

が、パソコンは、そのときの夢を実現してみせてくれた。
私はパソコンがポツポツと点を画面に描いていくのを、いつまでもじっと見つめていた。

そして今、中学生のときのカラーテレビや、20代のころのパソコンが、
インターネットに置き換わった。

このインターネットのおかげで、私は地方の都市に住むというハンディを克服する
ことができた。
そればかりか、情報を、瞬時に、世界に向けて発信することができるようになった。
しかし……。
これも科学の進歩というなら、まさに(同じこと)の繰り返し。
そのうちインターネットも、テレビのように当たり前になる。
そこで人間はさらなるモノを見つけて、それに感動するにちがいない。
またそうでないと感動しない。

つまりそれがここでいうループ性、ということになる。

●思考と情報

なぜ、こういう現象が起きるのか。
進歩しているようで、実は同じところをぐるぐる回っている。
私たちの身の回りの生活は、たしかに進化している。
豊かになっている。
たとえば写真ひとつとっても、今では瞬時、瞬時に、それを見ることができる。
見ることができばかりか、瞬時に、それを世界中に配信することができる。
携帯電話にしても、そうだ。
今では歩きながらでも、好きなところに電話をかけることができる。

その結果、私たちは、その分だけ、思考が深くなったかといえば、それはない。
その理由にひとつに、思考と情報の混同がある。

●思考と情報

思考と情報は、まったく別のものである。
幼稚園児が掛け算の九九をソラで言ったとしても、その子どもに算数の力(=
考える力)があるとは、だれも思わない。
思考には、つねにある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときの状態を、想像してみればよい。

一方、情報というのは、せんべいを食べながらでも、吸収することができる。
夜のテレビのバラエティ番組を見れば、それがわかる。
いや、番組を見ろというのではない。
そういう番組を見ている、あなた自身を見ろと言っている。

昨夜も、創作料理と称して、何人かのタレントが、珍奇な手料理を披露してみせて
いた。
ギョーザ風のオムレツ、オムレツ風のギョーザ。
そんなような料理だった。
そうした情報を吸収するのには、たいした努力はいらない。
テレビの前で寝転びながら、いっしょにゲラゲラと笑っているだけでよい。

言うなれば、現代社会というのは、まさに情報の洪水。
情報また情報が、怒涛のごとく、日々の生活の中に押し寄せてくる。
と、同時に、私たちは(考える)という習慣を放棄してしまった。
その時間さえない。
あるいは情報の多いこと、イコール、思考と錯覚してしまった。
その結果として、考える力、つまり新しい思想を生み出すということが
むずかしくなってしまった。

●モノ社会への幻想

さらにもうひとつ大きな誤解がある。
物質社会、つまりモノ社会が豊かになればなるほど、心もまた豊かになるという
誤解である。
明確に否定しておきたい。

物質、つまりモノは、人間の心をけっして豊かにはしない。
モノがあれば、便利にはなるが、それは人間の心の豊かさとは、まったくの
別物である。

たとえば旅行をするにも、今ではカーナビを頼りに、迷わず目的地に行く
ことができる。
しかしその分だけ、旅を楽しむ心が豊かになったかといえば、それはない。
大型の高級車に乗っている人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
高級マンションに住んでいる人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
つい先日、こんな経験をした。

●モノ社会

このあたりでは、第一と第三水曜日が、危険物の収集日ということになっている。
そのこともあって、昨日、私は、居間の横の部屋にあるガラクタを、ほとんど捨てた。
それはかなり勇気のいる作業だった。
2つの勇気が必要だった。
というのも、その中には、長い間、私が趣味としてきた、ラジコン飛行機も、5、6
機あったからである。

購入価格にしても、それぞれにプロポ(送信機)や、サーボ(動作用モータ)が
ついているので、1機あたり、10万円はくだらない。
そういうものを容赦なく、バリバリと破壊し、袋につめた。
これが勇気(1)。

もうひとつは、「2度とラジコン飛行機を飛ばすことはないだろう」という、
つまりは趣味との決別。
残りの人生が10年あるとしても、その10年は、別のことに使いたい。
そういう思いもあって、ラジコン飛行機と周辺機器をすべて捨てた。
これが勇気(2)。

しかしラジコン飛行機だけではない。
私の家にも、モノがあふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……。

これだけモノがあふれているのに、ではその分だけ、私は幸福になったかというと、
それはない。
そのつど満足感は味わったかもしれないが、満足感と幸福感は別。
しかもその両方とも、一時的。
せつな的。
その場だけのもの。
わかりきったことだが、モノでは、人間は幸福になれない。
つまりここに、モノ文明、つまり物質文明の限界がある。

●考えるから人間

人間は、考えるからこそ、人間である。
「I think, therefore I am.(我、考える。それ故に、我、あり。)」という言葉もある。
「考えなければ、人間ではない」とさえ断言してもよい。
が、考えなければ、どうなるか。
そこはまさに、「ケータイをもったサル」という世界になる。
少し前だが、こんなことがあった。

角のコンビニを自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、猛スピードでそこへ突っ込んできて、私の真横で急ブレーキを
かけて止まった。
私はあやうく、その車にはねられるところだった。
見ると実にそれらしい2人の若い男女だった。
視線が合ったとき、男のほうは、私に向って、「バ〜カ」と言った。
声は聞こえなかったが、口の動きで、それがわかった。
女のほうは外に視線をはずして、ニヤニヤと笑っていた。

言うなれば、「クルマに乗ったサル」ということか。
そこには一片の知性も理性も感じなかった。
考えない人間というのは、そういう人間をいう。

●では、どうすればよいのか?

それは簡単な自問から始まる。
「おいしいものを食べた」……「だから、それがどうしたの?」
「大きな家を買った」……「だから、それがどうしたの?」
「600万円もする車を買った」……「だから、それがどうしたの?」と。

こうした自問を繰り返していると、ちょうどタマネギの皮が外からはがれて
いくように、自分の心がどんどんと細くなっていくのを感ずる。
「だから、それがどうしたの?」につづく、答の部分がない。
あるいはいくら考えても、その答がつづかない。

が、さらに自問を繰り返す。
「だから、それがどうしたの?」と。

するとあなたは、最後のところで、「私」が浮かびあがってくるのがわかる。
恐ろしく素朴で、恐ろしく小さい、「私」である。
その「私」から見ると、世の中のすべてのモノがつまらなく、取るに足りない
ものであることがわかってくる。

が、ここが原点。
そのあとのことはわからない。
それぞれの人が、それぞれの分野で、自分の道を見だす。
哲学者は、真理を。
宗教家は、善を。
芸術家は、美を。
ただ大切なのは、自問を繰り返すこと。
「だから、それがどうしたの?」と。

あえて言うなら、その悩み、苦しむ過程こそが大切。
その過程を通して、いろいろなドラマが生まれ、それが人間の世界を、
豊かなものにする。

大切なことは、自分で考えること。
結局は、そこへ行き着く。

●荘子の思想

ついでながら、荘子の思想について……。

すべての欲望、さらには自分を束縛するすべての「知」から、自らを解放し、
自然の世界(道)で、自然に溶け込む※。
荘子が説いた「安心立命」を一言で説明すれば、そういうことになる。

が、皮肉なことに、現代文明は、自然を容赦なく破壊する。
自然に溶け込むどころか、自然に背を向けている。
すでに2500年前に、その重要性を説いた人がいたにもかかわらず、
それを今に生かすことさえできないでいる。

……となると、思想とはいったい何かということにもなってしまう。
科学というのは、絶え間なく、その前の科学に積み重ねられていく。
一方、思考というのは、絶え間なく、上書きされていく。
科学のような積み重ねがしにくい。
が、もし今、2500年前の老子や荘子の思想を進化させていたら、
地球温暖化の問題も起きなかったはず。
一方、科学だけが進歩し、自動車がひしめき、飛行機が飛び交うように
なったからこそ、地球の温暖化は進んでしまった。

が、このままもし人間が、「だから、それがどうしたの?」という部分を
置き去りにしたまま、科学の進化だけを独走させてしまったら……?

そのときは、本当に人類は滅亡の危機を迎えることになる。
思考力があれば、人類は生き残ることができる。
思考力を失えば、人類は滅亡する。
飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、思考力だけが、人類の滅亡を救う、
ゆいいつの方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
科学 哲学 老子 荘子 無為自然 安心立命 思考力 思考のループ)








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25
【老人心理】

+++++++++++++++++++++++

昨夜、こんな話を聞いた。
その家には、84歳になる女性がいるのだが、
他人の前では、弱々しく、やさしく思いやりの
ある人間を演ずるという。
そのため近所の人たちの間では、「仏様」と評されて
いるという。

たとえば孫(26歳)が、嫁(27歳)とひ孫(4歳)を
連れて正月に遊びに来たとする。
いつもならパクパクと夕食をすませるのに、そういうとき
にかぎって、遠慮深く、穏やかな表情でこう言うという。

「私はいらないから、H(=ひ孫)にやってくれ。
私は、食べたくない……」と。

いかにも病人、もしくは今にも死にそうな声で、そう言うという。
そのためその女性を直接世話(=介護)をしている女性(=娘、
64歳)は、こう言う。

「いやになっちゃう……。私が何も食べさせていないような
印象を、みなに与えてしまう」と。

++++++++++++++++++++++++

●4つのタイプ

他人と良好な人間関係が結べなくなると、独特の症状を
示すようになる。

(1)攻撃的に出るタイプ、(2)服従的になるタイプ、(3)依存的になるタイプ、
それに(4)同情を求めるタイプに分かれる。
それが老人になると、顕著に現れるようになる。
夜中じゅう、大声を出して暴れていた老人(男性、75歳くらい)もいた。
妻もいたが、介護に疲れて、二男の家に身を寄せてしまっていた。
しかたないので、長男の嫁にあたる女性(40歳くらい)が、介護をしていたが、
気苦労が重なったのだろう。
1、2年余りで、これ以上やせることはないと思われるほど、やせてしまった。
この老人のばあいは、(1)の攻撃的に出るタイプということになる。

が、この老人のばあいもそうだが、他人に対しては、まるで別人のように振舞って
いた。
つまり攻撃タイプであっても、他人に対しては、服従タイプになったり、依存タイプ
になったりする。
冒頭に書いた84歳の女性のばあいもそうである。

●部屋中、神札だらけ

それほど裕福な家庭ではない。
その女性の介護に当たっているのは、64歳の女性(娘)だが、夫とは死別。
現在は、会計事務所の事務員として生計を立てている。
が、その84歳の女性は美容院へ行くたびに、1万円のチップをはずんでいるという。

もちろん家計は火の車。
そこでその女性は、あちこちから、神札をもらってきては、部屋中にそれを
張りつけているという。
そこで64歳の女性(娘)が、そんなことをしても無意味と言うのだが、それを
言うと、84歳の女性(母親)は、烈火のごとく怒り出すという。

暴言を吐くなどということは、当たり前。
ときに「お前なんか、地獄へ落ちて死んでしまえ!」とさえ言うそうである。

●弱々しい老人(?)

似たような話は、いくらでもある。
こんな話も聞いたことがある。

あるときある女性(娘)のところへ電話がかかってきた。
受話器を取ると、電話口の向こうで、その女性の母親(75歳)が、やはり
今にも死にそうな声で、「助けてくれ」「歩けない」「何も食べていない」と言った
という。

が、その日は、何かの用事があって、その女性は実家(母の住むところ)には
行けなかった。
で、翌日、行ってみると、びっくり。
何とその母親が、スタスタと駅の構内を、友人といっしょに歩いているではないか。
その女性が、我が目を疑ったという。
で、母親に、「お母さん……」と声をかけると、その母親は一瞬、
「しまった!」というような表情をしてみせたという。

●ゆがんだ心理

残念ながらこの日本では、こうした老人心理の研究は、ほとんど進んでいない。
冒頭にあげた4つのタイプにしても、もとはといえば、発達心理学で使われている
分類法である。

しかし高齢になればなるほど、心はゆがむ。
思いつくまま、特徴をいくつかあげてみる。

(1)極端化…その人の性格や性質が極端化する。
(2)愚鈍化…脳の機能が衰え、言動が愚鈍かする。
(3)硬直化…融通性が消え、全般に頑固になる。
(4)悲観化…ものごとを悲観的に考えるようになる。
(5)貪欲化…食欲、性欲、物欲が増大する。
(6)依存化…強度な依存性が現れるようになる。

こうした全般的な症状にあわせて、精神的な病気や、認知症などの障害が
起これば、症状は、さらに複雑になる。

●対処段階論

こうした老人と接するとき、注意しなければならないことがある。
これは私自身の経験でもあるが、その第一は、まともに接しては
いけないということ。

息子や娘の立場で、段階的に考えてみよう。

(1)幻想期…「親である」という幻想を抱きつづける時期。親をことさら美化する。
(2)葛藤期…「そんなはずはない」と親に対する疑問と葛藤する時期。親の失敗を認め
ない。
(3)受諾期…葛藤することに疲れ、現実を受け入れるようになる時期。親を一人の人間
としてみるようになる。
(4)寛容期…1人の老人として認め、親に対して寛容になる時期。現実を受け入れ、老
人介護が、淡々とできるようになる。

たとえばある女性(当時60歳くらい)は、母親が車の中で失禁をしただけで、
パニック状態になってしまった。
自分の母親が、失禁するということ自体、受け入れがたかった。
それまでは「親は絶対」と考え、だれかがその母親を批判しただけで、それに
たいしてムキになって反論していた。

が、こうした葛藤を1、2年繰り返したあと、その女性は、ここでいう受諾期へと
入っていった。

●こわい反面教師

ここで「まともに接してはいけない」というのには理由がある。
まともに接すれば接するほど、その親の性格、性質を引きついでしまうということ。
そのときは反面教師として親を見るが、その親が亡くなったあと、今度はその
人自身が、親そっくりの人間になってしまう。

つまり反面教師にするならするで、それとは別のところで、別の人格を形成する。
その努力を怠ると、反面教師が目の前から消えたとたん、その反面教師そっくりの
人間になる。
そういう例は多い。

たとえばBさん(女性、当時60歳くらい)は、いつも母親の愚痴を言っていた。
母親は軽い脳こうそくを何度か経験したこともあって、善悪の判断ができなくなっていた。
それについて、Bさんは、母親のことを、「ずるい」「うそつき」「約束を守らない」と。

が、母親が15年近く前に亡くなった。
で、今度はBさん自身が、当時の母親の年齢に近づいてきた。
が、年齢とともに、ますます母親に似てきた。
今はBさんの息子や娘たちに、「お母さんはずるい」「うそつき」「約束を守らない」と
言われている。

老後の親は、接する側が、一歩退く。
「どうせ相手は老人」と思うことで、相手をのんでしまう。
あるいは幼児と同列に置く。
そしてあなたはあなたで、高邁な人格をみがく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
老人心理 老人の心理 老齢心理 依存性 老人の依存性)








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26
【子どもの社会適応性】

子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは
ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに
なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度 はやし浩司 
金権教)








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27
●主夫願望

++++++++++++++++++

このほど家事検定実行委員会が行った
アンケート調査によれば、何と、「専業主夫に
なってもよい」と答えた男性が、30%弱
もいることがわかった。

驚くというよりも、日本も、20〜30年遅れで、
欧米人の意識を追いかけているのが、この
数字でもわかる。

++++++++++++++++++

++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++

「主夫願望」が最も強いのは東京の男性……。家事の能力をめぐり、家事検定実行委員会
(東京)が行ったアンケート「家事力調査」から、こんな結果が分かった。一方、「好きな家事は
ない」と答えた女性は、大阪がトップとなった。

 調査は平成20年(2008)11月、東京、大阪、愛知、北海道、福岡の5都道府県に住む20
〜50代の既婚男女2080人を対象に、インターネットを通じて実施した。

 それによると、「専業主夫になってもよいと思うか」という質問に対し、全体の29・5%の男性
が「思う」と回答。地域別では、東京が31・2%で唯一、3割台にのった。

 男性の一日平均家事時間は地域別では、(1)北海道54・0分(2)大阪49・7分(3)東京4
8・4分(4)福岡47・5分(5)愛知45・9分−の順。これを年代別でみると、東京の40代が6
9・8分と断トツだった。調査では、東京は、女性の有職率が最も高くなっており、共働き世帯が
多いことがうかがえ、働き盛りの男性には家事も重要な仕事となっているようだ。

 ちなみに、「男性が家事をするのはかっこいいと思う」と答えた20代女性は72・7%。若い独
身男性の"婚活"に家事力は必須となりそうだ。

 食器洗浄機と洗濯乾燥機の所有率では、大阪がそれぞれ43・5%、35・6%(平均32・
4%、30・2%)と、いずれも1位だった。大阪の家庭は、家事の効率化に有効な家電をうまく
使っていることがうかがえる。

 ただ、「部屋掃除が嫌い」と答えた女性も大阪が35・1%でトップ。「好きな家事はない」という
女性も大阪が22・1%で最も多く、実行委員会では「便利な家電で家事を効率化している大阪
人ですが、基本的に面倒なことが多い家事はあまり好きではないのかもしれません」と分析し
ている。

++++++++++++以上、ヤフー・ニュースより++++++++++

数字を整理してみる。

「専業主夫になってもよいと思うか」……29・5%
(この数値は、都会ほど、やや高い。)
「男性が家事をするのは、かっこいいと思う(20代の女性)」……72・7%

『男は仕事、女は家事』という、日本の伝統的な男女観が、今、大きく崩れつつある。

●家事をまったくしない世代

少し前だが、どこかの調査で、家事をまったくしない男性が、話題になった。
(話題にしたのは、私だけかもしれないが……。)
それによれば、約50%の男性が、家事をまったくしないということがわかった。

一方、10年ほど前、浜松市内の若い夫婦(20〜30代)について調べたところ、
約35%の男性が、積極的に家事を手伝っていることがわかった。
(まったくしない男性も、35%、いた。)

こうした数字を並べてみると、「若い夫ほど、家事を手伝っている」ということに
なるが、その一方で、家事をまったくしない男性も多いということがわかった。
とくに私たちの世代は、そうである。
私も、オーストラリアへ渡ったころ(1970年)、向こうでは、夫が料理をしたり、
食事のあと、洗い物をしているのを見て、驚いたことがある。
しかしそれが今では、当たり前の光景になりつつある……と思っていたら、さらに
一歩進んで、「主夫業」!

●家事をしない世代

恐らく団塊の世代以上の世代の人たちには、主夫業などというものは、考えられない
だろう。
家事を手伝う、家事をするということすら、考えられないだろう。
何か特別な経験をした人なら、そうでないかもしれないが、私たちの世代は、
何もしないと考えてよい。

先日も実家の法事で、私がみなにお茶を出していたら、みなに、「あなたは喪主だから……」
とか、「あなたは男だから……」とか言われて、それを止められてしまった。
夕食の配膳のときも、そうだった。
「浩司さんは、座っていてください」と。

しかしそれこそ、世界の非常識。
この日本では、いまだにそういう非常識が、大手を振って、まかり通っている。

で、その一方で、こんなこともある。

自分の山荘をもったころのこと。
私はうれしくて、あちこちから客人を招いた。
一時は、本気で、民宿の経営者になりたいと思ったこともある。
旅館の売り物をさがしたこともある。
しかし、である。
1、2年もすると、それが苦痛になってきた。
とくに、同じ世代の男性諸君(失礼!)は、苦痛になってきた。

山荘へ来てくれるのはよいのだが、まったく、何もしない。
何も手伝ってくれない。
来たときから、帰るときまで、デンと座っているだけ。
本来なら、客が来てうれしいはずなのだが、そのたびに、疲労こんぱい。
「男は何もしなくていい」と。
今、そういう男性観が、急速に崩れつつある!

●息子も主夫

ということで、今、私の息子も、主夫業をしている。
妻が、日本でいう司法試験に合格し、今、大学のロースクールに通っている。
その少し前には、グーグル社への入社も考えていたが、妻の職業を優先した。
で、ラッキーなことに、息子は、同じ大学で、コンピュータ技師として採用された。

勤務時間はあってないようなもの、とか。
それで2人の子どもの世話と、家事一般は、息子の仕事ということになった。
私は、当初、そういう話があったときから、「いいことだ」と思った。
息子が主夫になることについて、まったく抵抗がなかった。
むしろ息子の妻(=嫁)の偉業に驚いた。
大学の法学部を出たわけではない。
しかも受験のための勉強を、半年あまりでやりこなしたという。
「みなは、1年以上かけて勉強するが、私は半年でした」と。

私は、家庭に入った母親でも、そういうことができるという、アメリカの
しくみに感動した。
日本では、まず考えられないことである。
つまり私たちがいう(主夫業)というのは、それを認める社会的背景があり、
また社会的必要性があって、成り立つ。

●変わる日本

もうこの(流れ)は止めることはできない。
今、この日本は、その大きな(流れ)の中にある。

こう書くと、兄弟の悪口にとらえる人もいるかもしれない。
しかしそれは、いまだに、日本の非常識でもある。
だからあえて書くが、昨年末に、実兄と実母をつづいて亡くした。
が、そのときほど、日本の社会に居座る、封建主義の亡霊を感じたことはない。

何かあるたびに、「あなたは本家(ほんや)だから……」「あなたは男だから
……」「あなたが跡取りだから……」という言葉が飛び交った。

結局、2人の葬儀で、x00万円以上の出費を強いられたが、(これでも
安いほうだそうだが……)、加えて仏壇の購入もあった。
そうした費用の分担については、親類はだれも助けてくれなかった。
実姉にしても、「私は女だから……」とか、「私は林家を出た身分だから」
とか言って、それで終わってしまった。

加えて家父長意識も強く、わずか数歳、年上というだけで、年長風を吹かしたり
する。
叔父風、叔母風というのもある。

(「終わってしまった」という表現は、適切でないかもしれないが、私はそう感じた。
また姉を責めているわけではない。
それがあのあたりの常識である。
姉は姉で、そういった常識に従っただけ。
さらにだからといって、私が不愉快に思っているわけではない。
ああした世界では、『長いものには、巻かれろ』式の生き方こそが、正しい。
いらぬ波風をたてることこそ、禁物。
お金も大切だが、それ以上に、人間関係のほうが大切。)

●みんなで変えよう

これから先、この(流れ)をみんなで加速させよう。
けっして後退させてはいけない。
頭の固い復古主義者たちは、たとえば武士道なるものを取り上げ、「武士道こそ、
日本が世界に誇る、精神的バックボーンである」(某、教師団体)などと説く。

それはそれだが、しかし武士道がもつ負の遺産に目を閉じたまま、一方的に
礼賛(らいさん)するのも、どうか?
危険なことでもある。
事実、「武士は……」がゆがめられ、戦時中は、それが戦時訓になっている。
「生きて虜囚の……」という、あれである。

今、「男だから……」「女だから……」という、『ダカラ論』は、(私は、そう呼んでいる
が……)、音をたてて崩れ始めている。
人間に男も、女もない。
日本人もやっとそれに気づき始めている。
すばらしいことだと思う。
私は、今回の調査で、そう感じた。

が、一言。
調査を、インターネットで行ったというところが、少し気になる。
インターネット世代、あるいはインターネットを積極的に活用している世代、
あるいは人は、まだ限られている。
50代、60代以上で、インターネットを日常的にしている人は、まだ少ない。
だからその点、この調査には、やや信頼性が欠けるのではないかと思う。
ケチをつけて、ごめん!

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
主夫 主夫業 男は仕事 だから論 ダカラ論 封建時代 負の遺産 武士道)